八重山歴史年表  更新 2014.03.29 

 
 同じ沖縄県であっても、八重山には沖縄本島とは違った歴史があり、しかも中学校・高校で学ぶ日本史の教科書には載らない歴史があります。
 ここでは、八重山の歴史について、石垣島・名蔵にある「石垣やいま村(旧八重山民俗園)」内に掲示されている「八重山歴史年表」を一部参考にし、表してみました。

 ところで、その昔、八重山の人達がいったいどこから移り住んだかについては、波照間島・下田原貝塚から出土した陶器や石器類が台湾の貝塚から出てくるものと酷似していることや、ニライカナイ伝説、アカマター・クロマター、南波照間(パイパティローマ)伝説、南与那国(ハイドナン)伝説などから考えれば、八重山には黒潮に乗って南方から北上してきた人々が移り住んだものと考えられます。
 なお、八重山で、人々が最初に集落を作り住み着いたのは、恐らく西表島の祖内や古見などではないかと考えられています。

「石垣やいま村」内の
八重山歴史年表

 【八重山歴史年表】

西暦 中国暦 和 暦 内    容
-1000万年前 南西諸島と中国大陸南部が陸続きとなり生物が移り住む
-100万年前 活発な地殻変動で大陸と離れ八重山諸島の原形ができる
-3500年前 土器の使用始まる(仲間第一貝塚)
714 奈良 大和朝廷との交流の記述あり(信覚:しがき=石垣) *1
1185 鎌倉 平家の落武者が石垣島を来島
1390
(1368〜1644)
室町
(1336〜1573)


安土・桃山

(1573〜1603)
琉球王朝時代 八重山が琉球(中山)王府の統治下となる
1437 三味線、南洋の踊り伝来
1500 オヤケ赤蜂の乱、中山軍に討伐鎮定される*2
1522 与那国島が琉球王府の統治下となる(一説には1510年)*3
1524 竹富島に蔵元創設する
1609 江戸
(1603〜1868)
薩摩の琉球攻略
1611 薩摩による八重山検地
1614 桃林寺、権現堂創建
1622 キリスト教伝来
1628 行政及び税制の改革 (行政区を宮良・石垣・大浜の三間切とする)
1634 綿布の製法伝来
1637 人頭税制度の創設 (琉球政府の課した最も過酷な租税制度)*4
1647 八重山の人口、5,482人と記録にある
1648 波照間島平田村の百姓男女4-50人ほどが南波照間へ欠落*5
1665 甘藷、初めて八重山に伝来
1681
(1644〜1912)
間引(赤子埋殺)の悪習始まる
1694 石垣島にサツマイモ伝来
1718 唐船、石垣島へ漂着
1730 八重山島日記編集される
1732 唐紙製紙法伝来
1749 芭蕉布の製法伝来
1771 明和大津波 (死者9,313人、八重山の人口1/3となる)*6
1819 宮良殿内建立
1839 疫病大流行
1843 英国船サラマン号入港する
1852 英国商船唐人を大量斬殺(唐人墓)*7
1872 明治
(1868〜1911)
5 琉球王国、琉球藩となる
1879 12 廃藩置県、沖縄県となる [琉球処分]*8
1880 13 日本政府、宮古・八重山を清国へ割譲の条約調印
1882 15 郵便局設置
1887 20 マラリア調査始まる  サトウキビ栽培が本格的開始
1890 23 貨幣通用の始まり
1894 27 八重山養蚕業始まる
1895 28 断髪騒動 (八重山高等小学校生徒、竹富島修学旅行先にて一斉に断髪さる)
1896 29 郡制施行で尖閣諸島も含め八重山郡に編入
1903 36 人頭税廃止される
1905 38 宮古久松五勇士、バルチック艦隊状況を八重山に急報する
1908 41 一郡一村の八重山村誕生
1914 中華民国
(1912〜1948)
大正 3 川平で御木本真珠養殖始まる
1916 5 石垣町制施行
1927 昭和 2 電灯ともる
1938 13 八重山上布工業組合創立
1944 19 台湾へ集団疎開実施
1945 20 6月、沖縄戦終わる。米国軍政となる軍政府は沖縄民政府を作り知事を任命。
八重山は八重山庁として、独自の行政機関をもつこととなった。
マラリア大流行3,647人死亡*9
1947 22 石垣町が市に昇格
1948 23 沖縄各地から、石垣島と西表島へ開拓民の移住が始まる
1955 中華人民
共和国
(1949〜)
30 石垣島一周道路完成
1959 34 八重山電力株式会社設立
1960 35 マラリア撲滅
1964 39 石垣市に大浜町が編入され石垣島1島1市になる
1967 42 南西航空機就航
テレビ開局
イリオモテヤマネコ発見 (20世紀最大の生物学的発見)
1968 43 石垣島全島電化
1972 47 沖縄返還(行政主席→県知事となる)
通貨交換(ドル→円)、交換レート1ドル305円
1975 50 黒島海底送水完成
1976 51 NHKテレビ同時放映
石垣島より竹富島への海底送水なる
1977 52 西表島北岸道路・白浜南風見線開通
1978 53 沖縄県の交通方法変更(7月30日) 車両、左側通行となる*10
1979 54 ジェット機就航
小浜島海底送水完成
1980 55 石垣島一周道路完成・全面舗装化
鳩間島海底送水完成
1983 58 鳩間島海底送電ケーブル完成
1985 60 西表・舟浮海底送電完成
1987 62 沖縄一長い於茂登トンネル開通(全長1,174m)
竹富島が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定される
1988 63 新城島海底送電工事竣工、竹富町全町電化なる
1989 平成 波照間島簡易水道淡水化施設完成
新空港の白保海上案が自然保護の声で撤回
1993 5 八重山群島ウリミバエ根絶宣言
2000 12 新石垣空港建設位置が「カラ岳陸上案」に決定
2006 13 新石垣空港建設着工(10月)
2007 19 石垣港新離島ターミナル供用開始
与那国空港 2,000m滑走路供用開始
2013 25 3月7日に新石垣空港(南ぬ島 石垣空港)開港  2,000m滑走路供用開始

【参考】

*1 日本書紀の記載
 八重山に関する最も古い文献としては、「続日本紀」の714年(和銅7)の記録として、『十二月戊午。少初位下太朝臣遠建治等、率南嶋奄美・信覚及球美等嶋人五十二人。至自南嶋。』つまり、『12月5日 少初位下(臣下の位階を示す)の太朝臣遠建治(おおのあそんおけじ)等が、南嶋の奄美(あまみ)、信覚(しがき) および球美(くみ)等の嶋人52人を南嶋より(太宰府に)連れて来た。』と記されています。このうち信覚とは石垣島、球美は久米島または西表島の古見(こみ)のことではないかと言われています。

*2 オヤケアカハチの乱
 波照間島で生まれ、15世紀後半に石垣島の大浜村に移り住み、石垣村の豪族である長田大主の妹と結婚した豪族で、八重山諸島で勢力を広げていました。八重山をオヤケアカハチ、宮古を仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)が支配していて、どちらも琉球王府とは敵対関係にあるとともに、また両者も対立していました。当時、琉球王府の勢力は絶大であったため、服属して琉球王国の一部になるか、敵対して自分の領地の権益を死守するかの選択を迫られていました。
 仲宗根豊見親は王府に服従して家臣となる前者の道を選び、オヤケアカハチは後者を選びました。その直後の1500年に、琉球王府の尚真(しょうしん)王はオヤケアカハチを反逆者に仕立て上げ、征討軍を編成し、当時、宮古の豪族であった仲宗根豊見親を先鋒として石垣島に上陸し、オケヤアカハチはこの戦い(オケヤアカハチの乱)に敗れ、討ち取られました。反逆者とされた理由は貢納を拒んだためとされていますがあまり明確ではなく、この戦いの原因は、この他にも八重山の伝わる古来からの神への信仰を琉球王府に禁止されたからとか、宮古の仲宗根豊見親との勢力争いに琉球王府が介入したなどの諸説があります。しかしながら、琉球王朝からすれば宮古と八重山を一気に配下に治める好機と捉えて、両者を戦わせたと考えられています。この争いによって八重山は琉球王府の支配下に入ったとされています。以降、宮古・八重山地域の有力な役職や神女になる家柄がこの事件をきっかけに始まったとされ、この事件が琉球の歴史上で非常に大きな出来事であったことを示しています。

石垣市長浜にある
オヤケアカハチの像


波照間島の
オヤケアカハチ生誕の碑

*3 サンアイイソバ
 八重山でも石垣と離れている与那国島では、サンアイイソバといわれる女性の首長が支配を続けていたといわれています。しかしながら与那国島も1522年(一説には1510年)には、これも琉球王府の支配下におかれて、名実共に八重山諸島全域が琉球王府に組み入れられました。なお、「サンアイイソバ」は太った怪力無双の大女であったといわれています。
サンアイイソバ活躍の舞台
与那国島のティンダハナタ

*4 人頭税
 1609年に九州の薩摩藩が琉球に侵入し支配を始めた後、1637年に琉球王朝が人頭税(にんとうぜい:じんとうぜい)を導入しました。 (尤も、最近では人頭税の起源はもっと古く、古琉球の時代までさかのぼるという説が有力のようですが・・・) 世界の税制史上においても稀に見る悪税といわれた過酷な「人頭税」は、宮古で「廃止運動」が起こる明治20年代から長い道のりを経て1903年(明治36年)まで、実に266年間にわたり、宮古・八重山の人々はこの重税に苦しめられました。人頭税とは、田畑の面積とは関係なく、頭割りに税を課すもので、15歳から50歳までの老いも若きも、貧民・病人にも均等に男女一人一人一律に課す悪税、悲痛な税制であったといわれています。特に女性にも税を課した(女性は布で納めた)のは当時としては極めて珍しい例とされています。
 税率そのものは、沖縄本島や本土と大差ないという解釈もあるようですが、役人が百姓などに不当な扱いをし、その特権によって、より税の多く徴収していたことが島民を苦しめていたのではないかとされています。特に与那国島では、トゥング田(人舛田)やクブラバリなど、人頭税対策のために人減らしをしたという悲惨な歴史の場所が、今も残っています。トゥング田(元は約1町歩の天水田だったと言われていますが、その後分割され、現在は約3反歩のさとうきび畑になっています)は、予告なしに男子を突然召集し、遅れて田に入れなかった不具疾病者等を惨殺した場所として、また、クブラバリ(長さ15m、幅は広い所で約3.5m、狭い所で約1m、深さ約7mほどの岩の割れ目)は、人減らしのために妊婦に岩の割れ目を飛ばせた場所として、伝えられています。いずれも、過酷な人頭税に対応するために、弱者が合法的に間引かれていたのです。
 なお、石垣島や宮古島内には「人頭税石」と称される150cmほどの細長い石灰岩の立石がありますが、これはその石の頂点と特定の星、例えば「すばるむや「オリオン」などの星とを一直線に結び仰角を測定して、米、粟の播種の日取りを決めたものと考えられ、人頭税とは無関係のものと思われます。

与那国島のクブラバリ


与那国島のトゥング田

*5 パイパティローマ伝説
 波照間島の冨嘉集落の南西側にあった「ヤグ村(“モンパの木”の近くで今では森に覆われている)」の「アカマリ」という男が、重い人頭税に耐えかね人々を救うため、村人約40〜50名を引き連れ、現在のハマシタン群落のある浜の辺りから「パイパティローマ=南波照間島(波照間島のさらに南にあるとされた伝説上の島)」に向け脱出したと言う伝説です。このことは、琉球王府時代の古文書「八重山島年来記」順治五戊子の条に、人頭税制度が1637年に導入された11年後の1648年、「波照間村之内平田村百姓男女四五拾人程大波照間与申南之島江欠落仕候」という記述があり、その内容は、『波照間村の平田村の百姓男女4、50人ほどが大波照間という南の島へ欠落した』というものです。脱出にあたっては王府の上納船が税を取り立てに寄港した機会を利用し、役人を酒で酔いつぶれさせ、粟や米の年貢を積み込んだばかりの上納船を夜間こっそり奪って脱出したということで、かなり計画的な脱出として伝えられています。 なお、脱出した村人が、その後、目指す島に着くことができたのか否かは、明治以降調査がされたものの今なお不明です。なお、与那国島でも、重い人頭税から逃れるため、比川集落の人々がさらなる南の「南与那国(ハイドナン)」を目指して島脱けしたという伝説が残されています。
南波照間島に向け村人が
脱出したと伝えられる
ハマシタン群落近くの浜

*6 明和大津波
 1771年4月24日午前8時頃、石垣島・白保崎の南南東約40km(東経124.3度、北緯24.0度と推定される)の海底で、マグニチュード7.4の地震が起きました。地震の揺れによる直接的な被害はほとんどなかったとされていますが、この地震により大津波(石垣島東部で85mとも言われています)が発生し、八重山諸島全域では、全人口(28,992人)の約1/3の9,313人が亡くなりました。津波の後の人口は2万人ほどに減り、それから明治に至るまで人口は減少し続け、明治時代の初期には、1万人(大津波の前の1/3)程度まで人口が減ってしまいます。これは、津波によって八重山の田畑が冠水し、土地が疲弊したため、飢饉や疫病等により多くの人が亡くなったためではないかといわれています。
明和大津波の詳細については、
明和の大津波のページを参照してください。

石垣市大浜の
「津波大石」

*7 唐人墓:ロバートバウン号事件
 1852年2月、厦門(あもい)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行・虐待に堪えかね、ついに蜂起して船長ら7人を打ち殺しました。船はその後台湾に向かいましたが石垣島沖で座礁したため、380人が島に上陸しました。石垣の人々は仮小屋を建て彼らを収容し、世話をしました。 しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸して厳しく捜索を行いました。 中国人達は山中に逃亡しましたが、銃撃、逮捕され、自殺者、病没者も続出したそうです。 琉球王府と蔵元は人道的に対応、その後事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還しました。 ここで亡くなられた中国人を弔ったのが石垣島・富崎(観音崎)にある唐人墓です。なぜ中国人労働者が米国に送られようとしていたのかについては、19世紀半ば、アメリカ合衆国西海岸でゴールドラッシュが起こり、北米大陸横断鉄道の建設工事にも伴った労働力不足の解消のためだったとされています。当時、アフリカ大陸からの奴隷は大西洋を横断する移送時に死亡例が多く、歩留まりが悪いばかりか、東海岸からカリフォルニアに移送するのが容易ではなかったからだそうです。
富崎(観音崎)の
「唐人墓」

*8 琉球処分
 琉球処分とは、明治政府のもとに琉球が日本の近代国家のなかに組み込まれた一連の過程を言います。その期間は、沖縄が1872年(明治5)の琉球藩として設置され、1879年(明治12)に廃藩置県となり、その翌年に分島問題が起こるまで、前後9年間にまたがります。
 1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきました。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣しましたが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだしました。いわゆる琉球藩の設置です。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになりました。続いて政府は台湾での宮古島島民遭難事件に対する報復処置として台湾出兵を実行、それを機に1875年(明治8)、松田道之処分官は琉球藩に対し、
 (1)清国に対する朝貢使・慶賀使派遣の禁止、および清国から冊封を受けることを今後禁止すること、
 (2)明治の年号を使用すること、
 (3)謝恩使として藩王(尚泰)みずから上京すること、
などの政府の命令を伝えました。琉球藩はこれらの命令を拒否し、嘆願を繰返しましたが、松田は1879年(明治12)3月27日、警官・軍隊の武力のもと、廃藩置県を行なうことを通達。ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となりました。
 明治政府の処分に不服を唱える琉球の士族たちの一部(脱清人)は、清国に頼って、事態を打開するように画策しました。その後、日清両国のあいだで、分島問題がおこりました。沖縄を2分割または3分割する領土問題です。分島案は結局まとまらず、琉球諸島に対する日本の領有権が事実上確定しました。

沖縄2分割は、宮古・八重山の先島諸島を清国に、沖縄本島を含めたそれ以北を日本に分割する案で、3分割は宮古・八重山の先島諸島を清国に、沖縄本島より北側を日本に分割し、沖縄本島を独立させる案でした。
  [本文は琉球大学附属図書館資料より引用し、一部補足しました。]

*9 戦争マラリア
 太平洋戦争時には台湾へ疎開する人もいましたが、残った人々は島内の山地へ疎開しました。その結果マラリアを媒介するハマダラ蚊の被害で2500名以上の死者が出たそうです。特に、波照間島から西表島に疎開した人達についてはマラリアで島民の1/3近くが亡くなられました。
 波照間島の悲惨な戦争マラリアについては、「戦争マラリア」
のページを参照してください。

波照間島の
学童慰霊碑

西表島
南風見田の浜にある
忘勿石(わすれないし)


「戦争マラリア」の実相を
後世に伝える
八重山平和祈念館

*10 730記念碑
 離島桟橋近くの交差点の角には「730記念碑」が建っています。この碑は、沖縄復帰後の1978年7月30日にアメリカ式の右側通行から日本式の左側通行に変更されたことを記念し、その日付から付けられたものです。
 今の記念碑は30周年を記念して2008年に建て替えられたもので、両側にシーサーが追加されています。なお、ここは「石垣島シーシーパーク」と呼ばれています。(シーシーとはシーサーのことです。)

石垣島シーシーパーク

730交差点
  

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