津波は、石垣島においては、宮良村海岸より上陸し、宮良川や磯辺川、轟川などに沿って一挙に島の深部までに浸入し、島の中央部から南側にかけての田畑、家屋、人畜を飲み込みながら、名蔵湾方面へと通り抜けました。 またこの津波により、島を取り巻く海岸の岩の塊が陸上に押し上げられました。 同時期に黒島、新城島などの各離島では、津波の余波が島全体を洗い流しました。
明和の大津波による被害状況は、八重山では全人口(28,992人)のうち9,313人が死亡し、群島人口の32.1%を失いました。(宮古は2,548人が死亡)
壊滅した部落は、真栄里、大浜、宮良、白保、仲与銘、伊原間、安良、屋良部の8部落で、半壊部落は、新川、石垣、登野城、平得、黒島、新城の7部落でした。 なかでも石垣島の白保村は激甚災害地で、人口(1,574人)の98%が溺死しました。
竹富島は、平坦な島であるにもかかわらず、被害にあった人は、当日石垣島へ行っていた27名のみでした。 島の一部は冠水したものの、家屋等の被害も無かったそうです。これは島の東側にある大きな珊瑚礁がバリアになって被害が最小限にとどまったと言われています。
家屋の流失は、2,176戸、浸水家屋1,003戸、海水に洗われた総面積は石垣島総面積の40%に達したと言われています。
また、津波の後に引き続いて起こった飢饉(耕作地の流亡・冠水による田畑の疲弊から生じた食料減産)、家畜等の死骸からの疫痢発生やマラリアなどの伝染病の流行、天災等により多くの人命が失われました。
このため壊滅した部落には、各離島の人口の多い部落から強制移住が行われ、流失部落の再建、復興が行われました。
そしてその結果、約100年後の明治には、八重山の人口は僅か1万人程度(大津波の前の1/3程度)にまで減少したと言われています。 なお、この原因には島津藩の琉球王府支配による重税(人頭税)も影響していると言われています。
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