明和の大津波  更新 2014.11.08

1.明和の大津波とは

 明和の大津波は、明和8年(1771年)4月24日(旧暦3月10日)の午前8時頃、八重山・宮古諸島(先島諸島)を襲った大津波で、日本近海で歴史上最大級の津波災害をもたらせたと言われています。
 地震の震源地は、石垣島・白保崎の南南東約40km(東経124.3度、北緯24.0度と推定される)の海底で、地震の規模はマグニチュード7.4(参考:関東大震災はM7.8)とされています。
 地震の直接的な揺れ(八重山での震度は4程度)による被害(震害)はほとんどなかったとされていますが、地震の規模に比して大津波が発生したため、多くの溺死者が出たのが特徴です。

 一般にこの程度の規模の地震で想定される津波の高さは、せいぜい2m〜3m程度と考えられますが、この明和の大津波における最大の高さは、現在の石垣島・宮良台地(88.7m)の牧中において28丈2尺(標高約85.4m)と推定されています。
 このことから明和の大津波は、大きな地殻変動が通常の地震よりも長い時間をかけ発生した「津波地震」か、長い間に海底に堆積した堆積物が、地震の振動をきっかけにして海溝などの更に深い場所に落下して生じた「海底地滑りによる津波」ではないかと考えられています。

 当時の様子が、蔵元(行政庁)より琉球王府に提出された「大浪之時各村之形行書(おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ)」に、次のように記録されています。
 

【大波揚候次第(おおなみあがりそうろうしだい)より抜粋訳】
  『八重山には男女28,992人がいた。
 乾隆36辛卯年(1771年)3月10日(新暦4月24日)五ツ時分(午前8時頃)に大地震があり、この地震がやんですぐに東の方が雷のように轟いた。
 間もなく外の瀬(リーフ)まで潮が引き、所々で波が立ち、その潮が一つになり、特に東北・東南の方に大波が黒雲のように躍り上がって立ち、一時に村々へ三度も寄せ揚がった。
 潮の揚がった所の高さは、或いは28丈(84.8m)、或いは20丈(60.6m)、或いは25、6丈(75.7〜78.7m)、或いは2、3丈(6から9m)で、沖の石を陸へ寄せ揚げ、陸の石や大木を根こそぎ引き流した。石垣・登野城・大川・新川の四カ村は宮鳥御嶽前の坂下の東西の線までが引き流され、蔵元、各役所、各仮屋、桃林寺、権現宮や多くの御嶽が引き崩された。 ・・・ 』

 

 津波は、石垣島においては、宮良村海岸より上陸し、宮良川や磯辺川、轟川などに沿って一挙に島の深部までに浸入し、島の中央部から南側にかけての田畑、家屋、人畜を飲み込みながら、名蔵湾方面へと通り抜けました。 またこの津波により、島を取り巻く海岸の岩の塊が陸上に押し上げられました。 同時期に黒島、新城島などの各離島では、津波の余波が島全体を洗い流しました。

 明和の大津波による被害状況は、八重山では全人口(28,992人)のうち9,313人が死亡し、群島人口の32.1%を失いました。(宮古は2,548人が死亡)
 壊滅した部落は、真栄里、大浜、宮良、白保、仲与銘、伊原間、安良、屋良部の8部落で、半壊部落は、新川、石垣、登野城、平得、黒島、新城の7部落でした。 なかでも石垣島の白保村は激甚災害地で、人口(1,574人)の98%が溺死しました。
 竹富島は、平坦な島であるにもかかわらず、被害にあった人は、当日石垣島へ行っていた27名のみでした。 島の一部は冠水したものの、家屋等の被害も無かったそうです。これは島の東側にある大きな珊瑚礁がバリアになって被害が最小限にとどまったと言われています。

 家屋の流失は、2,176戸、浸水家屋1,003戸、海水に洗われた総面積は石垣島総面積の40%に達したと言われています。
 また、津波の後に引き続いて起こった飢饉(耕作地の流亡・冠水による田畑の疲弊から生じた食料減産)、家畜等の死骸からの疫痢発生やマラリアなどの伝染病の流行、天災等により多くの人命が失われました。

 このため壊滅した部落には、各離島の人口の多い部落から強制移住が行われ、流失部落の再建、復興が行われました。
 そしてその結果、約100年後の明治には、八重山の人口は僅か1万人程度(大津波の前の1/3程度)にまで減少したと言われています。 なお、この原因には島津藩の琉球王府支配による重税(人頭税)も影響していると言われています。

 

(参考情報)
1. 詳細な資料が残っているのは、当時琉球では人頭税が課せられており、住民の数が厳密に記録されていたためです。
2. 古記録は、津波襲来直後の被害を克明に調査して琉球王府に報告した写本であることから、信憑性は極めて高いとされています。
3. 津波の起こった旧暦の3月10日は、年貢の搬入期にあたり、周辺の集落及び島々から、島の南部に多くの人が集まっていました。このため周辺の島自体の直接的な被害は少なくても、石垣島に出向き被害にあった人も少なくありません。
4. 津波で多くの船が使えなくなったため、首里にある琉球王府への情報伝達が遅れ、八重山へ役人が派遣されたのは津波発生から約2ヵ月後でした。
5. 津波の来襲を、人魚が事前に知らせたという民話がいくつもあります。

2.明和大津波遭難者慰霊之塔

 石垣島・宮良地区のタフナー原にある、明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文には、津波の様子が次のように克明に記されています。
 
 碑文
 八重山の古記録「大波之時各村之形行書(おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ)」によれば、乾隆36年(日本年号明和8年)3月10日(1771年4月24日)午前8時ごろ大地震があり、それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき、間もなく外の瀬まで潮が干き、東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち、たちまち島島村村を襲った。波は三度もくりかえした。
 史上有名な八重山の明和大津波である。

 
津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ、全半潰あわせて13村、ほかに黒島、新城2村が半壊し、遭難死亡者は9313人に達した。
 こうして群島の政治、経済、文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ、加えてその後の凶作、飢饉、伝染病などによる餓死者、病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり、人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし、その影響はまことに計り難いものがあった。
 この天災から212年、狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき、いまなお断腸の念を禁ずることができない。
 このたび有志相謀り、群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り、あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し、島内外各面の浄財と、石垣市、竹富町、与那国町並びに諸機関、団体の御協力を仰いで、ここにこの塔を建立した。
 1983年(昭和58)4月24日  明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

 また、この明和大津波遭難者慰霊之塔の側には、災害記録に関する碑文があり、その内容を以下に記します。
 (一部、読みやすい表現にしています。)

  明和大津波災害関係諸記録抜粋
地震の規模と位置(東京天文台編理科年表による)
 M(マグニチュード)7.4
 震源地 東経124.3度 北緯24度 「八重山地震津波」と記録 (石垣島白保崎南南東40キロメートルと測定される)
津波の状況(大波之時各村之形行書による)
 石垣島で 「潮揚高貮拾8丈(84.8メートル)或貮拾丈(60.6メートル) 或貮拾五 六丈(75.7〜78.7メートル)或貮 参文(6〜9メートル) 沖ノ石陸へ寄揚 陸ノ石並大木根乍被引流」 とある
災害の状況(大波之時各村之形行書 御手形写御間合控等による)
 全壊した村 石垣島の真栄里・大浜・宮良・白保・仲与銘・伊原間・安良・屋良部の計8村
 半壊した村 石垣島の大川・石垣・新川・登野城・平得、離島の黒島、新城の計7村
 遭難死亡者 総計9,313人(群島人口の32.22%に当る)
内 石垣島8815人(94.7% 在番 頭職等の公職者88人及び蔵元の公用で離島からきて遭難死亡した376人を含む) 
    黒島293人(3.1%)
    新城島205人(2.2%)
 住家の全潰 総計2176戸、浸水1003戸
 田畑の流出 総計1642町4反5畝12歩
 作物被害 田畑総計1795町2反6畝10歩
 その他の流潰流出 蔵元庁舎、村番所13棟、会所4棟、御嶽14棟、橋梁6座、桃林寺及び同寺の仁王像二体、権現宮、貢納米等

3.明和大津波遭難者慰霊之塔の地図
 


 

4.明和大津波遭難者慰霊之塔の写真

タフナー原の明和大津波遭難者慰霊之塔に向かう道です。正面にはANAホテルが見えます。ここを左に曲がります。 左に曲がると大きな岩のごろごろした場所があります。この左手奥に慰霊之塔はあります。
 
これが明和大津波遭難者慰霊之塔のある広場です。手前には碑文があります。 慰霊之塔への門を正面から見たところです。
 
門の拡大写真です。 門の奥にある、これが慰霊塔です。
 
明和大津波遭難者慰霊之塔前の広場です。この写真の撮影は4月29日ですが、5日前の4月24日に慰霊の行事が執り行なわれたこともあり、綺麗に清掃されています。 写真の右側は明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文、左側は明和大津波災害関係諸記録抜粋の碑文です。
  
明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文です。 明和大津波災害関係諸記録抜粋の碑文です。

 ※犠牲者を悼んで、毎年、4月24日には一般市民・関係者が参列して、慰霊の行事が行なわれます。

5.明和の大津波の痕跡

 石垣島の津波石については、こちらを参照下さい。

石垣島の権現堂は国指定(昭和56年6月)の重要文化財です。薩摩藩が尚寧王に寺社の建立を進言したことから1614年(慶長19)桃林寺と同時に創建されました。八重山における寺社建立のはじめで貴重な文化遺産です。1771年(明和8)の大津波により潰滅しましたが1786年(天明6)に再建されました。 石垣島の白保海岸です。石垣島の宮良湾から白保海岸にかけては津波で打ち上げられた岩をたくさん見ることができます。
 
石垣島の大浜集落から宮良集落の方向を眺めたものです。ここも津波で打ち上げられた多くの石が点在しています。 波照間島の高那崎周辺の岩も津波で打ち上げられたものと言われています。
 

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