戦争マラリア  作成 2015.07.04

 
 マラリアとは、単細胞生物のマラリア原虫を持つハマダラカという蚊に刺されることによって感染する病気のことです。マラリアにかかると、突然の高熱、悪寒、頭痛、寝汗、関節痛、筋肉痛、吐き気、下痢といった症状が出て、重症化すると黄疸、尿が出なくなる、意識障害、呼吸困難にもなります。

 「戦争マラリア」というのは、第二次世界大戦中に、八重山諸島の一般住民が、日本軍の命令により、マラリア有病地帯であった石垣島の市街地以北や西表島などへ強制疎開(移住)させられ、そのために多くの人々がマラリアに集団罹患し、当時の八重山の人口3万1,671人のうち、実に53.3%の人が発症し、11.5%に当たる3,647人が亡くなった出来事のことを言います。つまり、戦争中に大流行したマラリアを戦前のマラリアと区別して「戦争マラリア」と呼んでいるわけです。死者は、主に10歳以下の幼児と61歳以上の高齢者に多く、また、石垣島の日本軍もキニーネなどの抗マラリア薬の欠乏で、680人の将兵が戦わずしてマラリアによる病死をしています。
 

 マラリアは現在では一掃されていますが(1962年(昭和37)年に完全に撲滅)、八重山諸島の石垣島や西表島などでは、古くからマラリアが発生する地域がいくつかありました。(マラリアは大航海時代にオランダ船によって持ち込まれたという説があります。) 琉球王国時代から、八重山のこれらの地域に強制移住が行われるたびに全員が亡くなってしまう、ということが繰り返されてきました。そして、明治時代からは八重山の風土病としてもよく知られてもいました。
 第二次世界大戦時にも、まだまだ発生する地域が多くあり、日本軍は1944年に八重山郡島各地でマラリアなどの病気の調査を終え、有病地帯がどこかについても把握していました。そして八重山におけるマラリアの戦前の罹患率は10%に満たないものだったそうです。

 
 第二次世界大戦時には、沖縄本島周辺において激しい戦闘が行われましたが、八重山諸島では幸いにも米軍の上陸作戦(地上戦)は行われませんでした。しかし、空襲や艦砲射撃による攻撃は、本島周辺と同様に避けることはできませんでした。
 そうした状況下の戦争末期、石垣島の八重山守備軍は八重山の住民に強制疎開命令を出しました。
 その理由としては、
  「戦闘時、住民が邪魔である」
  「住民が米軍に捕えられたら日本軍の情報を漏らすかもしれない」
  「住民から食糧(特に牛馬などの家畜)や住居などを徴発する」
等があげられます。


 この八重山守備軍の軍命により、無病地の島民がマラリア有病地へと疎開させられることにもなりました。石垣島南部一帯の住民は中部(名蔵奥地の白水地区など)や北部の有病地へ、竹富、波照間、黒島、新城島の住民は西表島の海岸地帯へと疎開させられました。(西表島については疎開先によって、マラリアの発病と死亡率に大きな違いがあったようです。) そして、マラリア有病地に強制避難させられたことで、人口の半数が苦しみ、多くの犠牲者を出すことになりました。

 なお、各島の牛馬や豚、ヤギなどの家畜は屠殺を命じられ、保存肉は日本軍の食糧になったといわれています。
南風見田の浜へ下りる小道

この周囲が疎開地でした。
すぐ傍に蚊の発生した小川があります。
  
 ところで、この強制疎開の中で被害の最も酷かったのが波照間島ですが、軍命(強要)で指定された西表島南部の南風見に島民1590人全員が疎開しました。波照間島での疎開は1945年4月頃に始まり、間もなく雨期に入る頃には疎開先での食糧が欠乏し始め抵抗力が落ち始めるようになりました。(石垣島住民の疎開は6月に入って始まりました。)
 それに合わせるように発病が始まりましたが、発病しても当時は、キニーネのような抗マラリア薬は手に入らないため、発病患者が次々に病死し始めました。しかし、本当のマラリア地獄は疎開が解除された7月(沖縄における組織的な戦闘は6月23日に終了しました)以降、疎開以前のそれぞれの島に帰還してからでした。自宅に戻っても食糧も薬もないために、ほとんどの住民が発病し生死を彷徨うことになりました。
 結果的に大半の人達がマラリアに感染し、学童(66人)も含めて島民の3分の1の488名が亡くなりました。
南風見田の浜
 
 波照間島の被害が他の島と比較し極端に酷かったのは、昭和20年2月初めに島に赴任した波照間青年学校指導員・「山下虎雄」という人物によるものです。彼は陸軍中野学校の軍曹(離島残置諜者)で、山下は偽名です(「山下虎雄」とか「酒井喜代輔」とかいう名もありますが、本名は「酒井清」という人物だそうです)。当初、彼は島民と親しく付き合い島民からも信頼されていたそうですが、この間、島の地形の把握や、家畜がどこでどのくらいの頭数が飼われているのか、住民が隠れられような場所はどこなのかなどを調べ上げ、3月に入り住民に対し突然、西表島の南風見田への疎開命令を出しました。
 波照間島民の中には、南風見田村がかつてマラリアで全滅し、廃村となった悲惨な歴史を知っている者もいたため、そこへの疎開を拒んだのですが、酒井は拒む者には軍刀を抜いて「天皇陛下の命令を聞かぬ奴は、叩き斬る」と脅し、強制疎開が執行されました。
 波照間島では疎開に家畜の同伴は許可されず、住民が疎開した後、残された家畜(牛と山羊とで900頭とも言われています)は日本軍が潰して軍用食糧(乾燥肉)として徴発したそうです。
 住民の大半は西表島の中でもマラリアの多い南風見に疎開しました。そこでも山下は暴君として振る舞い、彼の暴力で死亡する島民もいました。酒井自身はマラリアの無い由布島に移住しましたが、南風見の疎開民の間にはマラリアが蔓延しました。

 6月下旬、連合軍の八重山の島々への上陸は遂に行われず、沖縄戦が終結しました。島民達は、生まれ育った島で死にたいと西表島を引き揚げ、波照間島に帰る決断をします。マラリアで全滅の危機に瀕した島民は、7月に石垣の旅団司令部に代表を送り、要望が認められて8月に波照間島に戻ることができました。マラリアで亡くなった人々は生まれ故郷を望む南風見田の地に埋葬されました。
 しかし本当の地獄は帰島後からでした。疎開先でマラリアに感染していた人々が波照間島に戻ってから一斉に発病したのです。家や畑は荒れ果てており、家畜がいないなかで農地を耕さなければならず、重労働が待っていました。食糧不足が栄養失調を招き、劣悪な住環境に加え、医療不足もあり、実に477人が帰郷した島で亡くなりました。

 そして結果的には前述のような多くの住民が亡くなることとなりました。
忘勿石のすぐ近くの砂浜

南風見田の浜から陸地側の眺め

1.八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑の碑文

 八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑は、バンナ公園入口(南口)に建てられています。
 太平洋戦争において、八重山最大の悲劇となった戦争マラリア犠牲者の慰霊祭が、沖縄で組織的戦闘が終結した6月23日(慰霊の日)に、毎年、この碑の前で執り行なわれます。
 
 
八重山戦争マラリア犠牲者  慰霊之碑 遠景
八重山戦争マラリア犠牲者 慰霊之碑
 太平洋戦争の末期、沖縄県八重山地域においては軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ、過酷な生活の中で相次いでマラリアに罹患し、三千余名が終戦前後に無念の死を遂げるに至った。
 国は、終戦から五十年を経た平成八年度に、これら犠牲者の御霊を慰めるため、沖縄県へ「八重山地域マラリア死没者慰霊事業」の助成を行った。
 この碑は同事業の一環として遺族等からなる「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」の協力を得て建立されたものであり、遺族がその思いを込めて御霊の名を小石に記し碑の中に納めてある。
 この碑が八重山の戦争マラリア犠牲者の御霊を慰め、その悲惨さを後世に永く伝え、世界の恒久平和創造への礎となることを祈る。
平成九年三月二十九日
沖縄県知事 大田昌秀
協力 沖縄県強制疎開マラリア犠牲者援護会
     会長 篠原 武夫              
 (以下略)
 
八重山戦争マラリア犠牲者
 慰霊之碑 碑文


アカキナノキ


 右の花は八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑の裏手にあるアカキナノキの花です。八重山では、多くの人達が 「 戦争マラリア 」 で亡くなりましたが、もしマラリアの特効薬であるキニーネの原料アカキナノキが八重山にあったならば、多くの犠牲者を出さずに救えたかもしれません。そうした哀悼の念を込めて2001年に植樹が行われました。

2.八重山平和祈念館

八重山平和祈念館
 八重山平和祈念館は、沖縄本島・糸満市にある平和祈念資料館の分館として設立されました。

 八重山平和祈念館建設に向けた動きは、戦争マラリア犠牲者の遺族らが、1989年5月28日に「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成し、国家補償を求めて活動を開始したことに始まります。その後1995年、国庫予算において事務次官折衝の中でマラリア慰藉事業費として総額3億円が認められ、祈念館や慰霊碑の建立などが進められ、1999年5月28日の開館に至りました。

 「戦争マラリア」死没者を悼み、その実相を後世に正しく伝えるとともに、人間の尊厳が保障される社会の構築と、八重山地域から世界に向けて恒久平和の実現を訴える「平和の発信拠点」の形成を目指したものです。
 祈念館はマラリア死没者の遺品等の資料を展示するとともに、地域住民の利用に供するものとされています。
 
 祈念館では、マラリア罹患と犠牲者に関する島々の実相や有病地への避難が軍命であったことを記す資料、マラリアで亡くなった人を運ぶために使われたアダン葉のムシロやハエたたきの複製品、さらにはコガタハマダラカの幼虫、成虫の標本も展示されています。この他にも、戦後のマラリア撲滅までの道筋が、写真や資料、ビデオなどにより説明・展示されています。

 また、3,674人の顔写真が飾られていますが、これはマラリアで亡くなった人の数を表したものですが、その数のあまりの多さに驚かされます。平和であることの大切さについて改めて考えさせられます。

八重山平和祈念館
沖縄県石垣市 新栄町 79-3
TEL: 0980-88-6161
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日祭日・振替休日の場合は開館)、
     年末年始(12月29日〜1月3日)
入館料:大人100円、大学生以下50円

(注意)展示室内では撮影禁止です。 このため館内の様子を撮影した写真はありません。

3.忘勿石

忘勿石
 西表島南東部の「南風見田(ハイミダ)の浜」の、海岸の自然石に 「忘勿石 ハテルマ シキナ」 と刻まれた文字(意味は「波照間島の住民よ、この石を忘るることなかれ 波照間 識名」)があります。文字は浸食が激しく、あまりはっきりとはしていません。

 波照間国民学校の識名信升(しきなしんしょう)校長は、マラリア蚊の少ない海岸を選んで青空教室の授業を行いました。爆撃機が来ればあわてて物陰に隠れるような授業だったそうです。
 そして疎開後間もなく、恐れていたマラリアに村人が次々に罹患し、高熱に冒され、倒れていくようになります。疎開先では、弱い人間からマラリアに罹患し、次々と倒れていきました。学校関係では、男児一人の死を始めとして、全学童323名中、66人がマラリアで亡くなりました。

 識名校長は強い責任を感じ、西表島の疎開先を去る時、向いに波照間島の見える南風見田の浜の石に、前述の言葉を刻みました。かつてここは波照間島の学童が疎開中において入学式が行われた場所でもあったそうです。
 狭い海岸の奥まった岩場の陰に刻まれた痛恨の思いは、70年もの歳月にも崩れることなく今日まで残っています。

(補足)
 これまで沖縄本島では、地上戦の惨禍や戦後の基地問題が語られてきましたが、波照間島での悲劇が世間に知られるようになったのは、ごく最近のことです。
 識名校長は、「忘勿石」に関して生涯殆ど口にすることはなかったそうですが、1982年の調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えたそうです。
 それから10年後の1992年8月15日、この地に「忘勿石之碑」が建立されました。
 
 忘勿石之碑」の詳細については、「西表島の石碑・説明看板」のページを参照して頂きたいのですが、ここではその一部を紹介することとします。
 
 忘勿石の碑
 この一帯は歴史的な戦争マラリアの悲劇の霊境である 一九四五年四月 波照間の住民が軍命によってこの地に強制疎開をせられ多くの人々が熱帯マラリアに罹患して 古里の島影を求めながら亡くなった
 その人々の苦悩はまことに筆舌に尽しがたいものがある 学童とともに疎開し その学童たちの死を見守りながら 浜辺の岩に「忘勿石」と刻んだ識名信升先生の心情は察するに余りあり
 この碑が歴史を語り継ぎ 病没した人々の霊を慰め 平和創造への礎となることを祈り願う
     一九九二年八月
     琉球大学名誉教授
           高良鉄夫

4.学童慰霊碑

学童慰霊碑 表面
同 裏面
波照間島の港近くの祖平花道の途中にある学童慰霊碑には、次の碑文が記されています。
この学童慰霊碑は、エメラルドグリーンの美しい石西礁湖を挟み、西表島・南風見田の浜にある「忘勿石の碑」と対峙し建てられています。

[表面]
学童慰霊碑

[裏面]
太平洋戦末期一九四五年四月八日 西表島字南風見へ強制疎開させられ全学童三二三名はマラリアの猖獗により全員罹患 中六六名を死に至らしめた
 かつてあった山下軍曹(偽名)の行為は
ゆるしはしようが然し忘れはしない
 本校創立九〇周年を記念し、はるか疎開地に刻まれた「忘勿石」を望む場所に その霊を慰め、あわせて恒久平和をねがい碑を建立する
 一九八四年七月一六日
 波照間小学校創立九〇周年記念事業期成会

5.星になった子どもたち 歌詞

 「星になった子どもたち」とは、1993年(平成5年)に波照間小学校(現在は、波照間小中学校に統合)の全児童で制作された、太平洋戦末期に西表島・南風見の浜で戦争マラリアで犠牲になった子どもたちへの鎮魂歌です。壁画は94年の卒業制作です(途中、何度か補修の手が加えられていますが…)。この壁画は、波照間小中学校正門に向かって右手側にあります。
 
「星になった子どもたち」の壁画

星になった子どもたち

作詞
波照間小学校全児童

1.南十字星 波照間恋しいと  星になった みたまたち
  ガタガタふるえた マラリヤで  一人二人と 星になる
  苦しいよ さむいよ お母さん  帰りたい 帰りたい 波照間へ

2.南風見の海岸に きざまれている  忘れな石という 言葉
  戦争がなければ こどもたち  楽しくみんな あそんでた
  さびしいよ いたいよ お父さん  帰りたい 帰りたい 波照間へ

3.みんなでたましいを なぐさめようよ  みんなでなかよく くらそうよ
  六十六名しらない世界へ  いってしまったこと 忘れない
  しずかに やすらかに ねてください  平和な 平和な 波照間に
  しずかに やすらかに ねてください  平和な 平和な 波照間に
  

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