小浜島の御嶽  更新 2019.09.07

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。

※今回は、No.7の追加を行いました。

 小浜島の主要御嶽の紹介

 小浜島には、主要な御嶽がいくつかあります。
 なかでも集落に最も近いところに位置する嘉保根御獄では、国の重要無形民俗文化財に指定されている結願祭が行なわれます。この結願祭は、その年の豊作を感謝し翌年の五穀豊穣を祈願するもので、一連の祈願を締めくくる行事となっています。
 ここでは小浜島の主要な御嶽を紹介します。一部調査不足で詳細の不明なものもありますがご了承願います。
 
No. 名 称 備 考
1. 嘉保根御嶽(カブニワン)*  
2. 西山御嶽 [川田御嶽(コーキワン)・照後御嶽(ティダクシワン)]  
3. 中山御嶽 [佐久伊御嶽(サクイワン)・仲山御嶽(ナカヤマワン)]  
4. コーキワン  
5. 竜宮神社 (東むてぃ御嶽:アールムティワン)*  
6. 川田御嶽(カータワン)  
7. なかんど御嶽(ナカンドゥワン)

地図 (小浜島)



  
1.嘉保根御嶽(カブニワン)
 
小浜島のほぼ中央部、集落の最も近くにある御嶽で、その年の豊作の感謝と翌年の五穀豊穣を願う、小浜島最大の祭りである「結願祭(国の重要無形民俗文化財に指定)」が行なわれる御嶽です。
かつて東海岸近くにあったとされ、のちに現在地に移転したと伝えられています。「東山(アーリヤマ)」とも呼ばれます。王府上納品を運ぶ兄の航海安全を妹が祈り、その願いがかなったことで御嶽を建立したそうです。竜宮の神を祀っており、御嶽では前述の「結願祭」のほか、島の主要神事が行われます。
御嶽の鳥居の横にはカンドゥラ石が置かれています。この石はその昔、雷鳴とともに空から落ちてきて大雨を降らせたと伝えられてします。島の人はそれを神の仕業と信じ、日照りが続くとこの石を担いだり投げたりして雨乞いをしたそうです。大きい石は重さ約60kg程度、小さい石でも重さ約30kg程度あり、隕石という説もあるそうです。

なお、御嶽の拝殿には、同島出身で戦後八重山群島知事となった吉野高善氏が奉納した額も掲げられています。
 
鳥居と拝殿 カンドゥラ石
 
 
2.西山御嶽 [川田御嶽(コーキワン)・照後御嶽(ティダクシワン)]
 
大岳の南西に位置する御嶽です。元は島の最北端ユンドレスクの照後御嶽がウステク山、コッキを経てこの地に遷座し西山御嶽になったと伝えられています。
西山の柱は、向かって左が川田御嶽、右が照後御嶽と2柱の神となっています(合祀されています)。

川田御嶽については、No.6の項を参照願います。

照後御嶽は島の最北端の海岸断崖上にあります。
古見の神司(女司)が初めて石垣島に兄と共に渡る[*]途中、この地に寄航し宿泊しました。当時は帆船の航海で、依頼、上国の時も寄航し、この地は舟泊まりの場となりました。そして常に航海は安全でした。ある日(カンピュール:神の日:神の霊示があるとされる日)、不思議な火が現れたので人々はそこを神の霊地として信仰するようになりました。
その後、同御嶽が集落から遠方で祭祀に不便という理由で、西山御嶽の境内に遷座されました。
明和の大津波後、小浜からの強制移住によって宮良部落で建てられた小浜御嶽(クモーオン)は、この照後御嶽の神を分神勧請したとのことです。
[*]昔から八重山各地の御嶽の神司は必ず一度は石垣島のオールザ参りをすることが儀礼とされていました。

 
鳥居と拝殿 拝殿と奥のイビ
拝殿左側には「川田」のプレート   拝殿右側には「照後」のプレート
 
 
 
3.中山御嶽 [佐久伊御嶽(サクイワン)・仲山御嶽(ナカヤマワン)]
 
中山御嶽は小浜部落の北西、大岳の南西に位置しています。また、西山御嶽の隣、南側に位置しています。この御嶽は佐久伊御嶽と仲山御嶽とが合祀されています。
道路から杜に少し入るとコンクリート製の鳥居(「昭和9年12月17日」と記されています)があり、鳥居と御嶽(拝所)との間は谷状になっていて下を川が流れています。そして拝殿と門のある石垣・イビと参道とは直交した造りとなっています。

佐久伊御嶽は、嘉弥真島の嘉弥真御嶽を招聘したといわれる古い歴史を有する御嶽です。〔約250年前〕 (嘉弥真御嶽が佐久伊御嶽として仲山御嶽と同じ地に祀られたようです。) 4年に1回、神事(カンドゥシイ)にカヤマ島に渡って祭祀を執り行い、その際、小浜島の石を1個奉納し、帰りにカヤマ島の石1個を持ち帰って佐久伊御嶽に奉納するのが慣例となっているそうです。
また、佐久伊御嶽には次のような伝承があります。
元黒島(船道家)の神司は、その神司の人となりが賢明すぎ、時の役人から煙たがれていました。島から追放される運命となり、オールザ参りにかこつけて乗船させられ、また目の悪いことを幸いに、途中カヤマ島に降ろされました。その後、島の東海岸辺りに御嶽を創設して自らこの神司となりました。当時カヤマ島には5戸の小部落が創られていましたが生活が苦しく、小浜島へ戻ることとなり共に離島しました。船崎寄りのナイマンツに渡り、目の不自由ななか山道野道を通り部落に入り、カイマメーカ(地名)で休憩し、ここに腰を据えて祈願を行いました。後に仲山の聖地に神と祀られるようになりました。その理由は、遺言が「黒島の人には塩水をのませ、小浜の人びとには真水を与え給え」というものだったからそうです。

一方、仲山御嶽は伝承によれば、元々水の神として建てられた御嶽で、石垣島・御茂登の水をいただき現在の場所を聖地にふさわしい最適の地として神を祀ったといわれています。(オオタキヌ神という男の神と伝承されています。)
 
鳥居 鳥居の先の小川
拝殿外観   拝殿と奥のイビ。
拝殿内の左は「仲山」、右は「佐久伊」のプレート
 
 
 
4.コーキワン
 
大岳の北側に位置する御嶽です。
元は小浜島の最北端ユンドレスクにあった照後御嶽が一時ここに遷座され、こうき御嶽と呼ばれていました。しかしその後、御嶽は更に大岳の南地域に遷座されて西山御嶽と呼ばれるようになったと伝えらています。
鳥居はありますが、拝殿はありません。豊年祭の時だけ祭祀が執り行われているようです。
 
鳥居 鳥居とイビ門
イビ門 御嶽の杜
 
 
5.竜宮神社 (東むてぃ御嶽:アールムティワン)
 
トゥマールビーチの南東端にある旧海軍洞穴のすぐそばに、海に向かって鳥居と祭壇らしきものが建てられています。白い鳥居が印象的な竜宮神社です。別名、東むてぃ御嶽(アールムティワン)です。

創建の由来は次のようです。
兄は西表島のユツンに渡り平田原に開田し稲作を行っていました。ある時、妹は御用布を機織っていると夕立(夏アモリ)があって、庭先に刈りたての稲束を日干しにしていたことを忘れ専念していた矢先、たまたま帰宅する兄の目にとまりました。兄は「命にも換えられない1年の功を無にするとは何事か」と妹をなぐりました。びっくりした妹は申し訳ない気のまま悲しくなり、足の向くまま消え失せました。この後は次々と不幸が生じました。やがてずぶ濡れ姿の彼女の霊魂姿がアールムティの海岸にあらわれました。島の人びとはこの女はただの人ではないと悟り、この場所を聖地として上訴し許され祈るようになりました。最初は兄が、後に妹の娘が司になりました。

また、伝承では御用布を王府に納めるため、首里に向かった兄の航海安全を祈った妹に神の霊験が示された場所とも言われます。兄は無事に帰島し、以来竜宮の神を祀って航海安全を祈る御嶽とされました。
戦前は軍隊への入営や出征の際、住民がここに集まり、武運長久を祈願しました。しかし集落から離れて交通が不便であったことから、御嶽を遷座して嘉保根御嶽と呼ばれるようになったと言われます。
 
海側からの遠景 鳥居正面からの光景
イビ門? 香炉が置かれています。

 
 
6.川田御嶽(カータワン)
 
南海岸線に近いハイバナの草地の南に鎮座する御嶽です。
昔、フンナーという農夫が南海岸カータというところで耕作をしていました。畑小屋で寝泊りして毎夜いざりに出掛けていました。ある日の夕刻、ダーシィと呼ぶ所で不思議な火を見ました。その後、たびたび出現するので神のみしるしと信じ、一人信仰していました。その後、不思議にも農作物がよく実り、豊穣が続いて村人の注視するところとなり、次々と信仰に参加する人が増え、火の現れた場所に御嶽を建てました。その後、同御嶽が集落から遠方で祭祀に不便という理由で、西山御嶽の境内に遷座されました。西山御嶽の向かって左側の香炉が川田御嶽の神を祀るものとされています。
 
鳥居正面からの光景
(なかなか分かりづらい場所で探すのに苦労しました。)
イビ門
イビ門の奥に香炉が置かれています。
 
 
7.なかんど御嶽ナカンドゥワン)
 

小浜部落の西方、スンダという地にあリます。小浜島出身の「ツカサバア」と尊崇される大阿母南風川田於那利(ウフアムパイカーダウナリ)の墓が御嶽として崇敬されたものです。彼女は絶世の美女として生まれ育ち、琉球尚灝王(1804-1827)から再度にわたり侍女として召出され奉任させられました。
於那利は解任帰島に当り大阿母神職を授けられて「ツカサパア」と尊崇されました。下人(召使)40人も賜った生活のために「スマンダー垣」という海垣(インガキ:魚垣のこと)を築造してもらいました。(この海垣は現存しています。)

その後、この島で終生を過ごした於那利の墓は御嶽となり、首里から赴任した八重山蔵元駐在の高官達はここを訪れて参詣するならわしだったそうです。於那利が身につけていた衣装や茶器の工芸品は竹富町指定文化財となっています

 
なかんど御嶽 鳥居からの眺め
大阿母南風川田於那利の墓 スンダの「御嶽の杜」の遠景

 

  


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