石垣島の御嶽(郊外)  更新 2017.07.22

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。

※今回は、No.20の追加とNo.2の内容追記を行いました。

 石垣島は古くから八重山地域の中心地であり、また多くの歴史を有する地でもあったことから数多くの御嶽があります。 特に古くからある集落(村)には著名な御嶽があります。

 各御嶽の紹介 (御願所も併せて記載しています。)

No. 名 称 場 所
1. 名蔵御嶽(ナグラオン)* 名蔵
3. 崎枝御嶽(サキダオン)* 崎枝
5. 旧オーセの火の神 川平
7. 赤イロ目宮鳥御嶽(アカイロメミヤトリオン)* 川平
9. 山川御嶽(ヤマオン) 川平
11. 底地御嶽(スクジオン)* 川平
13. 崎原御嶽(サキバルオン)* 大浜
15. 大石御嶽(ウイヌオン)* 大浜
17. 潤水御嶽(ミズオン)* 大浜
19. 船着御嶽(フナツキィオン)* 大浜
21.  
23. 小濱御嶽(クモーオン)* 宮良
25. 宮良村オーセ* 宮良
27. 仲嵩御嶽(ウイヌオン)* 宮良
29. 飾場御嶽(カツァリバオン)* 白保
31. クシヌオン 白保
33. 多原御嶽(ターバルオン)* 白保
35. 真謝御嶽(マジャオン) 白保
37. 旧盛山村跡の御嶽 白保・盛山
39. 星野 御願所 星野
41. 半嵩御嶽(ハンダキオン)* 伊原間
43. ムトゥムラ御嶽 平久保
No. 名 称 場 所
2. 於茂登御主神 (大本嶽)* 名蔵
4. 御神崎 御願所 崎枝
6. 川平観音堂* 川平
8. 群星御嶽(ンニブシオン)* 川平
10. 浜崎御嶽(キファオン) 川平
12. 高間御嶽* 富野
14. 火の神御嶽(ピィナカンオン)* 大浜
16. 黒石御嶽(クルセオン)* 大浜
18. 大城御嶽(ウフスクオン)* 大浜
20. 東崎浜(カースンヤー浜)の願所 大浜
22. 東・西嘉和良嶽(アン・インナーラオン)* 宮良
24. 外本御嶽(ナカヌオン)* 宮良
26. 山崎御嶽(ハマシキオン)* 宮良
28. 牛の御嶽(ウシィヌオン)* 白保
30. 嘉手刈御嶽(カチガラオン)* 白保
32. オーセ 白保
34. 波照間御嶽(アスクオン* 白保
36. トイの御嶽 白保
38.  
40. 伊野田御願所* 伊野田
42. 伊原間水神拝所 伊原間
 

地図

 

1.名蔵御嶽(ナグラオン)

「名蔵御嶽」
「名蔵御嶽」は名蔵集落のはずれ、キビ畑の端にあります。御嶽の後方には、沖縄県で最も高い於茂登岳を見ることができます。この「名蔵御嶽」は、於茂登岳をイビとして祀っていると伝えられる御嶽です。
名蔵集落に多い台湾出身者達により、他集落の結願祭にあたる「土地公祭」が毎年旧暦8月中旬頃に開催されます。


御嶽の伝承によれば名蔵に3人の兄弟がいました。兄の発金は腕力の強い乱暴者で、神を敬う心がありませんでした。ある日、妹のオモトオナリのもとへ女神が現れますが、発金はお告げを信じないばかりか神を挑発、霊物の大猪・大ザメを退治します。このためオモト大主神は発金の全身にシラミをわかせます。噛まれて半死状態になった発金は怒って妹を殺害し、数日後に息絶えます。妹は神によって丁重に葬られ、弟の玉皿は神威に感激して礼拝所を建て、神をあがめたそうです。
「名蔵御嶽」拝殿

2.於茂登御主神 (大本嶽)

「於茂登御主神」

「大本嶽」

名蔵ダムの北側の於茂登山の中腹で、2方向から流れる沢の傍に御嶽があります。
かつてダムが今日のように整備される前は、石垣島の農業は旱魃に苦しめられる年が多く、日照りが続くと各村で雨乞い祈願をし、それでも雨が降らなければバンナ岳、最後に於茂登御主神に頼ったそうです。
石垣島における最上級の水の神で、1983年に仲間政子さんらの神司が御嶽(拝殿)を建てたそうです。
近くは自然に囲まれていて、散歩などもできとても気持ちの良い場所です。
また入口には展望台東屋やトイレなども設置されています。
[水源1]

[水源2]

3.崎枝御嶽(サキダオン)

「崎枝御嶽」
大阿母ら神司が琉球王府船の航海安全を祈願した市内「七嶽」(美崎・宮鳥・長崎・天川・糸数・名蔵・崎枝)の一つです。航海と五穀の神を祀っています。1897年、崎枝御嶽の蔵元廃止と共に古村・崎枝御嶽も衰退、1914年に村は廃村となりました。このため御嶽も荒廃しました。戦後、自由移民で入植が行なわれ、村を再建した人々が香炉などを掘り起こし、鳥居や拝殿を再建しました。以来、再び集落の信仰の地となっています。 「崎枝御嶽」遠景

4.御神崎 御願所

「御神崎 御願所」
崎枝半島にある御神崎灯台の下(海側)にある御願所で、芝生の中を海に向かって歩いて行きます。岩の先端部には香炉などが置かれています。
反対側には「フチブイ岩」と呼ばれる小さな岩の乗っている岩があります。
御願所の由来など詳細については不明です。
「御神崎 御願所」遠景

5.旧オーセの火の神

「旧オーセの火の神」
川平保育所敷地の東側に小さな祠がありますが、これが「旧オーセの火の神」です。川平のオーセは、現在の川平公園駐車場にありましたが、そこから移転したとのことです。
(オーセの井戸は、現在も川平公園駐車場に残されています。)
「旧オーセの火の神」遠景

6.川平観音堂

[川平観音堂]
川平湾はその昔、琉球王府への貢納物を集積する三大港の一つで、川平公園内の観音堂は17世紀半ばに創建されたと伝えられています。伝承によると、風待ちで湾内に停泊していたマーラン船から小僧が順風になるまでと川平村に上陸したそうです。暫くして戻ってみると船はすでに出航していました。小僧は驚き、嘆きながら船が川平湾に戻るように一生懸命に祈りました。その願いが通じて、北風が吹き船が戻り、小僧は乗船することができたそうです。数年後、小僧は和尚となって帰島し、祈願した地に観音堂を建てたそうです。 [川平観音堂]説明書

7.赤イロ目宮鳥御嶽(アカイロメミヤトリオン)

「赤イロ目宮鳥御嶽」


「赤イロ目宮鳥御嶽」
の説明書き

「赤イロ目宮鳥御嶽」の説明書きより一部抜粋

 この御嶽は、別名アーラオンとも呼ばれ、群星御嶽・山川御嶽・浜崎御嶽と並んで川平四嶽の一つに数えられています。川平村の年中行事は、この四嶽を中心に行われ、中でも川平村の雨乞いはここで行われます。またこの御嶽の豊年祭では、境内の一角に祀られているピッチュル(カーラ石)と呼ばれる俵形の石を担いで境内を廻る儀式が行われます。
 「八重山島由来記(御嶽々名并由来記)によれば、御嶽の神名は御嶽名と同じで、御イベ名は「まかお大あるじ」と記述されています。また、川平村では、「牛馬による農作物の被害を避けるため、農作物保護役の野夫佐や馬夫佐へ監視させ、その結果を神司が毎月石垣村の宮鳥御嶽に行き、同御嶽の神司を通じて神に報告する習わしであった。当時の神司がその煩雑さに同情し、宮鳥御嶽への御通しとしてこの御嶽は作られた」と伝えられています。
 この御嶽は鳥居・拝殿・イビ門・イビを東西に直線的に配置し、神庭はイビ門前の広場・拝殿のある広場・下段の広場と高低差によって三段になっています。
 現在の拝殿は、昭和12年(1937年)に建てられたもので、間口が2間半(5m)、奥行き2間(4m)、赤瓦葺寄棟の屋根をおく木造平屋の建物です。拝殿には右側に祭壇が設けられ、「沐陰」の扁額が掛けられています。イビ門は長さ11m、幅80cm、高さは中央部で1.8m、両端で1mと中央部から両端に向かって低くなっています。入口は幅85cm、高さ1.8mで、暑さ15cmの平たい板状の石が乗せられています。イビは半月状で奥には高さ45cmの石積みがあり、香炉が置かれています。
 この御嶽は、川平村の年中行事には欠かせない御嶽で、八重山の民間信仰を知る上で重要なものです。また、拝殿は、御嶽の施設や伝統的な木造建築の変遷を知る上で重要なものです。

「赤イロ目宮鳥御嶽」遠景

 赤イロ目宮鳥御嶽は、川平集落の消防分団のロータリー前にあります。
昔、宮鳥御嶽へ通っていた氏子が分家して、川平のこの地に赤イロ目宮鳥御嶽をつくり、以降、四箇字の宮鳥御嶽の分家として存在しています。
なお、この赤イロ目宮鳥御嶽は、豊年祭や結願祭の会場となっている御嶽です。

8.群星御嶽(ンニブシオン)

「群星御嶽」
川平集落から底地ビーチ方面に少し行った所にある「川平貝塚」の案内板の前の道を右折し、少し坂を上った左手にあるのが「群星御嶽(ンニブシオン)」です。
群星御嶽は、川平村の発祥に深い関係があると考えられており、結願祭など村の重要な祭場となっています。

伝承によれば、村の宗家として住民から尊敬されていた南風野家の娘が、ある日、夜中に目を覚まして外に出ると、不思議なことに群星(スバル)が天中にさしかかった時、霊火と群生が地上を昇降していました。その後も同じ現象が起き、その場所を調べたところ、白米の粉で丸く印されていました。このため神が降りた場所として御嶽を建て、村人の信仰の中心となったと伝えられています。
「群星御嶽」遠景

9.山川御嶽(ヤマオン)

「山川御嶽」

「川平貝塚」の案内板の向かい側(底地ビーチに向かって道路左手側)にあるのが、山川御嶽(ヤマオン)です。
山川御嶽は、この御嶽の後ろにある小高い山の神を祈る場所だったと考えられています。

「山川御嶽」遠景

 手前道路の右手側が底地ビーチ方向となります。

10.浜崎御嶽(キファオン)

「浜崎御嶽」
航海の安全を祈願する拝所として、「川平観音堂」とともに、今も多くの人びとの信仰の場となっています。
「浜崎御嶽」は、「赤イロ目宮鳥御嶽」、「群星御嶽」、「山川御嶽」と並んで川平四御嶽の一つで、地区の3大行事である豊年祭・結願祭・節祭が行なわれます。
「浜崎御嶽」遠景

 浜崎御嶽は、川平の観光船乗場のそば(海辺)にあります。

11.底地御嶽(スクジオン)

「底地御嶽」
底地御嶽は、川平地区の御嶽の中で唯一拝殿がありません。また、現在は御嶽に神司はおられません。
伝承によると仲間村時代、大和(本土)から来た男性と村の娘が恋仲となり、帰国の時に娘が航海の安全を祈った場所とされています。
古村の川平には底地湾にも船が寄港したようで、大和の男性は近くの仲底家に身を寄せ、娘との間に男の子が生まれ、後にその子は保嘉真山戸となり活躍したそうです。
「底地御嶽」遠景
 底地御嶽は、川平の底地ビーチの北側、シーサイドホテルの南側の浜辺にあります。

12.高間御嶽

「高間御嶽」
富野公民館の北隣(県道側)の畑の中にあります。鳥居も拝殿もなく、自然石を巡らしたとても簡素な御嶽です。
この御嶽は、戦後、この地区に移住した人々によって再建されました。その理由は、同地区に移住したものの、原因不明の火災が連続しました。このためユタに問い合わせると「200年前の御嶽を再建せよ」とのお告げがありました。付近を調べたところ古い香炉が見つかり、それに従って再建されました。近年は神司の高齢化のため祭祀は中断してしるそうです。
「高間御嶽」遠景

13.崎原御嶽(サキバルオン)

「崎原御嶽」
大浜地区で最も海岸に近い所にあるのが崎原御嶽です。
元々は、崎原村にありましたが、1679年に大浜村に移転し、明和の大津波で一旦フルスト原に移転し、その後、村の再建に伴い現在地に戻されました。

この崎原御嶽には、昼捲伊(ひるまきい)・幸地玉金(こうちたまがね)という兄弟が鋤・鍬・鎌などの農具を手に入れるため船出し、坊之津(鹿児島県)でそれを手に入れた後に故郷に戻る際、白髪の老人から帰路を導くヒツ(箱)をもらったという伝説が残されています。崎原港に無事辿りついた後、兄弟は伯母姉妹とヒツを開け、降臨した神を拝むようになったそうです。
八重山で唯一の鉄器伝来の伝説をもつ御嶽です。
「崎原御嶽」遠景

14.火の神御嶽(ピィナカンオン)

「火の神御嶽」
「崎原御嶽」の西側(海岸側から数えて2番目)にある御嶽です。オーセー(琉球王府時代の村番所)の火の神を御嶽にしたものと言われています。1956年に現在地に移転されました。

火の神(ヒヌカン)というのは、台所に祀られる神で、はじめは竈そのものを拝んでいましたが、やがて竈をかたどった3個の石を拝むようになりました。家庭を守る神で、その家の主婦が祀り、家庭に吉凶があるときは火の神を拝んだそうです。もともと家庭で拝まれた火の神はのちに、八重山などではオーセー(琉球王府時代の村番所)でも拝まれるようになりました。
大浜村の元番所は元公民館の敷地にあり村役人が常駐していました。1903年の番所廃止に伴い、大浜村は番所敷地内に小屋を建て、番所の火の神を移して村の守護神として仰ぎ、祭祀を行ったそうです。

15.大石御嶽(ウイヌオン)

「大石御嶽」
「火の神御嶽」の西側(海岸側から数えて3番目)にある御嶽です。
1771年八重山を襲った明和大津波後に、壊滅状態にあった石垣島・大浜集落を復興させるため、波照間島・「長石村」(*)の住民の大半が強制移住させられました。
その中の稲福・大浜・田盛3兄弟が波照間の大石御嶽(ブイシ)の神を分神してフルスト原の聖地に祀りました。この「大石御嶽」は、その移住させられた村人が、故郷・波照間島の「大石御嶽」に因んで名付けた御嶽とされています。一門の氏神としたというのが由来で、フルスト原にあったため、ウイヌオン(上の御嶽)とよばれています。
1956年に現在地に移転しました。
(*) 「長石村」は、住民の大半が強制移住させられたかわりに前集落やシムス村などからの移住により、現在の「名石集落」として再興したと伝えられています。
「大石御嶽」遠景

16.黒石御嶽(クルセオン)

「黒石御嶽」
「大石御嶽」の西側(海岸側から数えて4番目:最も西側)にある御嶽です。
大浜の「黒石御嶽」は、黒石村の御嶽として祀られたものとされています。
黒石村は、おおはま幼稚園附近一帯にあり、「グルシムリイ」と呼ばれる森林地帯で、村はかなりの力を持っていたと伝えられています。明和の大津波後にフルスト原に移されますが、大浜村再建で再び旧跡に建てられました。御嶽名の「クルセ:コルセ」はクルイシクルシーをクルセと記したところからのようです。神名は「大クルセ」とされます。
「黒石御嶽」遠景

17.潤水御嶽(ミズオン)

「潤水御嶽」
潤水御嶽は、明和の大津波でフルスト原に移されますが、大浜村復興に際して波照間島から強制移住がなされた時、村の水元の神として磯辺近くの現御嶽に再建し、神体を移して信仰したとされます。しかしながら一方で、ミズオンと呼ばれているものの、水元としての意味ではないという説もあります。
明和の大津波でよく知られる「大波之時各村形行書」には宇野道御嶽と記され、潤水は方言を文字化する際に誤って書かれ、あるいは当て字化された可能性があります。神名は「大ヲノミチ中の原」とされます。
「潤水御嶽」拝殿

18.大城御嶽(ウフスクオン)

「大城御嶽」
大城御嶽は大浜地区の潤水御嶽(ミズオン)のすぐ西、フルスト原遺跡のふもとに位置する御嶽です。
元は大浜村周辺にあった大城村の村人が信仰していたものの、1681年の洪水被害に遭い、大浜村と合併したとされます。大浜親雲上が崎原御嶽から豊年の神をご神体(分神)として迎え入れました。御嶽は一時、平久保半島の安良村に移転したことがありますが、その際、氏子は崎原御嶽に合流しました。しかし大城御嶽の跡地に神が現れたことから、元の地に再び戻したそうです。神名は「大城神根付」です。
「大城御嶽」遠景

19.船着御嶽(フナツキィオン)

「船着御嶽」
市内から国道370号線を北上し大浜集落を過ぎた所で、海側に鮮やかな朱色をした鳥居が目に入りますが、これが船着御嶽です(舟御嶽(フナオン)とも呼ばれます)。かつての「舟着村」の御嶽という見方もあります。

この御嶽は、潤水御嶽(ミズオン)より分神して祀ったとも伝えられています。ここはもとは船着場で、航海の安全を祈願した所のようです。
くり舟を新造すると、御嶽に供え、海カズラをそのへさきに巻き付けて神司が命名し、「舟のタマシツィキ」(入魂進水)を行って安全を祈願したそうです。これは昭和初期まで行われていたそうです。
「船着御嶽」拝殿

20.東崎浜(カースンヤー浜)の願所

「東崎浜の願所」
大浜の崎原公園の東側、道路を下って浜に下りたところにある願所(ニンガイジュ)です。海に向かって5つの石が横に並んで設置されています。大石、大城、ヲノミチ、コルセ、崎原の集落内五御嶽の願所です。以前は波打ち際にあったのですが、台風で動いたり砂に埋まったりするため、1954年に現在の位置に移転建立されました。願所は、昔大浜に住んでいた兄弟が大和の国に鉄の道具を買うため船を造り、東崎浜から出航し、ここで家族や親戚が航海の無事を祈ったという伝承があります。
大浜豊年祭(ムラプール)では、神司達はこの祈願石の前に集まり、東の海の彼方から神々を呼び寄せ、五穀のみのりに感謝し来夏の豊作と安全を願う「カースンヤー願い」が行われます。
「東崎浜の願所」遠景

21.欠

22.東・西嘉和良嶽(アン・インナーラオン)

東・西嘉和良嶽


東・西嘉和良嶽の碑
宮良公民館敷地の一角に、1988(昭和63)年に建立された、兄・西嘉和良(インナーラ)と弟・東嘉和良(アンナーラ)を祀る御嶽があります。
兄を中心とする宮良、弟を中心とする白保の二村ができた後、兄弟は農作物を猪などの害獣から守るために、それぞれの村の端から石垣を築きました。そして、二人の積み上げてきた石垣がぶつかった場所を村の境界としました。(現在、その石垣は残っていないものの、その地をビラカメオンと呼び兄弟を祀る御嶽となっているそうです。)
兄弟は実在したそうで、今日でも、兄村にあたる宮良が豊年祭を終えてから、弟村の白保が豊年祭を行うという慣習が残っています。歴史と礼節が重んじられていることがよく分かります。しかしながら一方で、明和の大津波後の移住者の出身地のせいか、白保と宮良はあまり仲がよくないようにも言われています。

[以下は嶽内の碑文より一部引用]

昔、八重山に二人の兄弟がいた。兄を西嘉和良(いんなーら)、弟を東嘉和良(あんなーら)といった。兄弟共に性質温好で仲が良く、住民とむつまじく暮らしていた。兄弟は初め水嵩に住んでいたが、のち普太良間に移り、その後さらに兄は宮良に、弟は白保に移り住んだ。
その頃の住人は、まだ居所が定まらず、各地に点在して相争い略奪し合っていたが、西嘉和良兄弟だけはそれぞれ家を構え、安らかに楽しく暮らしていた。まもなく近辺の住民がその徳を慕い続々と集まってきたので遂に二つの村が生れた。そこで兄弟は共に相はかり、猪や牛馬が農作物を食い荒すのを防ぐ為垣を築くことにした。村人も協力して白保東の川下から宮良西の高山に至るまで、初めて石垣を築いた。高さ五尺、長さ2里余の長大な猪垣である。それ以後、猪害をこうむることはなく、五穀は稔り、民は安らかに暮らすことができた。
宮良公民館

手前の嶽のすぐ隣には宮良公民館が建っています。

23.小濱御嶽(クモーオン)

「小濱御嶽」
国道370号線沿いの、「赤馬公園(馬見坂)」の道路を隔てた向かい側にある御嶽です。鬱蒼とした森の中にあります。
こちらも明和の大津波で、元の御嶽は流出したため、その後再建されたそうです。
宮良村は小浜島からの強制移住で再興しましたが、その中に照後御嶽(小浜)の司を予定されていた仲宗根ヒタという女性がいて、同御嶽の神を分祀創建したとされています。宮良村に移住した人々は、村内の3御嶽に等分に分けられ信仰していました。
しかし、ヒタは他の御嶽を信仰する気にならず、兄と二人で現在地に拝所を設けたところ、移住者が次々と信仰するようになったそうです。
「小濱御嶽」遠景

24.外本御嶽(ナカヌオン)

「外本御嶽」
国道370号線沿いの宮良集落から海側(東側)に下ったところにある御嶽です。
すぐ傍には、「アダドゥーナー(安多手井)」と呼ばれる下り井戸があります。

御嶽は村の創建当初から現在地にありましたが、明和の大津波で、元の御嶽は流出しました。このため、1773年に宮嶺(タコーラサ石北方の台地)に移設し、のちに旧跡(現在地)で再建されました。
外本御嶽は神村民の幸福繁栄と村落の平和祈願が主体と言われています。
「外本御嶽」の碑

25.宮良村オーセ

「オーセ」
オーセとは村番所跡のことです。宮良村オーセは、宮良集落のほぼ中心部の国道沿い(西側)にあります。
八重山は1628年、宮良、石垣、大浜の3間切に区画され、それぞれの村にオーセを置いて行政執行されました。役人は王府からの官命を含む約20人があたり、人頭税の取り立てが主な仕事でした。
宮良村オーセは低地のシィムヌ村にありましたが、1771年の明和の大津波で被害に遭い、その後、漢田や元敷地に移りました。
しかし台風の塩害で1874(明治7)年に現在の国道沿いに移設されました。人頭税廃止で公売されましたが、地主の無償提供を経て拝殿が建立されました。

ここは旧暦8月から10月に開催される結願祭が執り行なわれる場所となっています。
結願祭は、唄や踊りを通じて、神様に村人の幸福、繁栄、豊穣、疫病災害の排除、息災祈願、旅祈願などを願う祭事です。

26.山崎御嶽(ハマシキオン)

「山崎御嶽」
宮良川下流のムニンヤーの浜(石垣島リゾートの東側)にある御嶽で、南の海からの慈雨を請う水元の御嶽です。元は山崎山林の中央に建立されていましたが、敷地が狭く、また周囲が岩石のために出入りが不自由だったため、集落に近い浜瓦に移転したとされています。
明和の大津波で壊滅しましたが、村の再建に伴い、御嶽も生存者によって復元されたそうです。その際には津波前に植えられていたヤラブ(テリハボク)を目印にし神域の位置を確認したそうです。
水元の御嶽であるため、2014年11月の干ばつ(9日間断水)時には、ここで2〜30年ぶりという雨乞い(アミングイ)祈願が宮良公民館主催で行われました。
拝殿

27.仲嵩御嶽(ウイヌオン)

「仲嵩御嶽」
仲嵩御嶽は、宮良集落(宮良小学校)の北方約1.5kmの小高い山の森の奥にあり、周囲はサトウキビ畑などに囲まれています。五穀豊穣の祈願が信仰の主体です。宮良仲嵩御嶽とも呼ばれます。
集落に甚大な被害をもたらした「明和の大津波」ですが、この御嶽には被害は及びませんでした。伝承ではこの御嶽は500mほど離れた森林(カクチンマ)にあり、祭祀には近くの洞穴の湧き水を使っていたそうです。その後、タブノキ・フクギなど高木のある(御嶽林の発達した)現在地に移転したとされています。
昔、平得村の星見は、仲嵩御嶽からのぼるムリファブシ(群星)を観測していたと伝えられています。
拝殿

28.牛の御嶽(ウシィヌオン)

「牛の御嶽」

 
牛の御嶽は、白保小学校の北方役200mのウナタ原というサトウキビ畑の中にあります。
樹木に囲まれた中、馬蹄形の野面積み石垣の境内には3つの香炉(子・丑の神、申・酉の神、寅・卯の神の香炉)が置かれています。
ここでは牛馬の健康・繁栄や集落の発展を祈願するウナタニンゲイが、牛馬がいる牧場の方に向かって行われます。このニンゲイは長い間実施されていなかったそうですが復活され、今では毎年実施されています。
遠景

白保公民館指定文化財
指定プレート

29.飾場御嶽(カツァリバオン)

「飾場御嶽」
白保の嘉手苅御嶽境内の北西の隅にある御嶽です。
しかし元々は、嘉手苅御嶽が飾場御嶽の敷地内に同居させてもらっているのだそうです。このことから、白保の豊年祭の開催場所は、飾場御嶽でなされていることになります。

この御嶽は、元は琉球王府から派遣され、明和の大津波(1771年)で埋まった真謝井戸(マジャンガー)を再掘したと言われている「馬真謝」の墓が信仰されていたとのことです。彼は死後、「水元の神」として崇拝されました。

祭壇の右側には「飾場御嶽拝所」、左側には「一九七一年十一月二日建立」と記されています。

30.嘉手刈御嶽(カチガラオン)

「嘉手刈御嶽」

同 遠景

白保集落のほぼ中心に位置し、真謝井戸の前にある御嶽です。
石垣島の中でも農業の盛んな白保ですが、豊作を祈る「豊年祭(プーリィ)[*]」が行われる場所の一つとして有名な御嶽です。この豊年祭でのムラプールは嘉手苅御獄を中心に行われ、中でも白保独自の伝統行事「稲の一生」では、稲作における過程が毎年異なった演出で演じられます。

「嘉手刈御嶽」は、元々は村の北方の嘉手刈原にありましたが、1771年の明和の大津波で流壊しました。津波被害後、村人は高台の上野地(ウイマキ)に移り、波照間島からの強制移住者418人を加えて村を再建しました。嘉手刈御嶽も同地に再建立されました。しかし集落は再び平地に戻り、御嶽が遠くなったため、現在の地に1953年に移設されました。
白保にムラが移動した際に、故地を忘れないように故地に因んだ名称がつけられた御嶽です。

なお、嘉手刈御嶽内には飾場御嶽、真謝井戸を採掘したと言われる真謝翁の墓があり、3者が同居する形になっています。

[*] 豊年祭(プーリィ)は「オンプール」と「ムラプール」に分かれています。
一般に初日には神司(カンツカサ)が取り仕切る「オンプール」が行われ、海や山で捕れた自然の恵みや田畑で収穫した作物を供え、その年の収穫に感謝を捧げます。
2日目には村人総出で「ムラプール」が行われ、来年の五穀豊穣を祈願する神事が取り行われます。旗頭の奉納、奉納舞踊、ミルク(豊作神)行列、綱引きなどの様々な奉納が行なわれます。
「真謝井戸」の碑

「真謝井戸」

31.クシヌオン

「クシヌオン」
白保集落の北側にあるオースクマの神事を行う「クシヌオン」という拝所です。
「オースクマ」とは、青い稲穂を意味し、稔り始めた稲穂を田から持ち寄り、各御嶽の神司が無事収穫できるように祈願するものだそうです。
そして、この神事より前の収穫は禁止されていたそうです。
また、その時の稲穂の膨らみ具合により、豊年祭の日取りが決められたそうです。


「クシヌオン」は白保集落の北側に位置しています。
「クシヌオン」遠景

32.オーセ

「オーセ」
「オーセ」は、「白保サンゴ村」の北側、道をはさんだ向かい側にあります。
「オーセ」とは、かつて琉球王府の時代、人頭税を徴収するための役所(番所)が置かれていた場所です。その後、火の神などの神々を祭る場所となり、現在も白保村の様々な行事で人々が集る場所になっています。
その一つとして、稲の苗が無事に育つことを祈願する「種子取祭(たねどりさい)」があります。この祭りでは、国道390号(白保郵便局前)からオーセ前に抜ける「ンマガミチ」と呼ばれる道で邪気払いの意を込めた競馬「カタバリ」が行われます。

33.多原御嶽(ターバルオン)

「多原御嶽」
白保集落の1番外れ(集落の北側)にある「多原御嶽」は、白保にある4つの御嶽の中では、最も規模は小さいものの白保で一番歴史のある御嶽です。波照間御嶽のすぐ横、東側、サコダ浜沿いにあります。
白保集落の豊年祭・オン(御嶽)プールの行なわれる4ケ所の御嶽の一つで、五穀豊穣への感謝と来夏世の豊作を祈願します。

御嶽は明和の大津波で流壊し、高台の上野地に移設され、大津波から22年後の1793年に現在地で再建されたとみられます。
「多原御嶽」遠景

34.波照間御嶽(アスクオン)

「波照間御嶽」
「波照間御嶽」は、1771年に起きた「明和の大津波」で壊滅した白保集落に、琉球王府の命令により波照間島から強制移住させられた島民が、郷里・冨嘉集落の阿底御嶽の神を分けて祀ったものとして伝えられています。白保集落の豊年祭・オン(御嶽)プールの行なわれる4ケ所の御嶽の一つです。

明和の大津波前に、白保村には約1600人の村人がいましたが生存者は僅か28人だけで、このため波照間島から418人が強制移住させられ、村を再建しました。のちにも波照間島から300人の強制移住が行われたそうです。
「波照間御嶽」遠景

35.真謝御嶽(マジャオン)

「真謝御嶽」
「真謝御嶽」は、白保集落の豊年祭・オン(御嶽)プールの行なわれる4ケ所の御嶽の一つです。

「真謝御嶽」は、明和の津波のあと白保に赴任した馬真謝(真謝井戸を掘らせた人)が祀られているという言い伝えがあります。しかしながら、古文書によると真謝御嶽や真謝井戸は、明和の大津波よりもずっと以前からあるとのことで、この説はどうも間違いのようです。
「真謝御嶽」

36.トイの御嶽

「トイの御嶽」
「トイの御嶽」は「オーセ」の北側にある御嶽ですが、由来については調査不足で不明です。
この「トイの御嶽」には、拝所の前に通常ある鳥居は設けられていません。
「トイの御嶽」のイビ

37.旧盛山村跡の御嶽

「旧盛山村跡の御嶽」

同 説明標柱
旧盛山村跡の御嶽」の説明標柱より一部抜粋し引用

 盛山村は1771年に八重山諸島を襲った明和大津波の後、竹富島から石垣島南西端の富崎に移住して出来た富崎村の人々が、1785年に桃里村の属地であった盛山に再移住して創建された村である。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、盛山村の人々が信仰した御嶽は、出身地である竹富島の御嶽の神を勧請したとされる。
 盛山村創建時の人口記録はないが、風土病やマラリヤや伝染病などにより、明治6(1873)年には戸数9戸、人口17人にまで減少している。明治10(1877)年には、白保・宮良・大浜の3村から23人を補充し、村の維持を図ったが人口減少は止まず、大正6(1917)年には集落が廃された。
 この御嶽は、かつてこの地にあった盛山村の歴史を物語る貴重な史跡である。

The residents of the Fusaki village, who had originally migrated from Taketomi Island to the southwest Fusaki of Ishigaki, moved to Moriyama and created the Moriyama village in 1785 after the Giant Tsunami of Meiwa struck in 1771. It is said that the enshrined god of Moriyama village's On (sacred praying site) is a God from Taketomi
Island. The population of the Moriyama village gradually decreased due to a local malaria epidemic, and the village was abandoned in 1917.
「旧盛山村跡の御嶽」

この御嶽は空港の駐車場から出てすぐのところにあります。

38.欠

39.星野 御願所

星野御願所
星野集落の共同売店横、入植記念碑の後ろ側にある御願所で、祠には香炉などが置かれています。
御願所の創設経緯など詳細については調査不足で不明です。
星野御願所

40.伊野田御願所

伊野田御願所
伊野田集落センターに隣接する御願所です。鳥居を上った正面には、1951(昭和26)年10月31日入植・1960(昭和35)年10月28日建立の「入植記念碑」が建っています。
この記念碑の下には山の神・龍宮の神・水の神を祀る小さな祠があり、旧暦9月9日には祭祀が行なわれています。また同御願所は、古生代の石灰岩が大規模に露出した森の中にあり、集落の人々が切り開いた手造りの岩石公園になっています。記念碑の左右から園内を巡る遊歩道も整備されています。
伊野田御願所

41.半嵩御嶽(ハンダキオン)

「半嵩御嶽」
「半嵩御嶽」は、伊原間公民館の北側にある御嶽です。
18世紀はじめに桴海村から別れた人々が金武岳北の半嵩と呼ばれた場所に、「半嵩村」を作ったところがルーツとしてあるようです。
元々伊原間にはウフオンの半嵩御嶽とそのバギオン2ケ所、集落北のウイヌオン、中央のナカヌオン、南のタキオンの6御嶽がありました。しかし神司の死去や転居により村の祭祀が難しくなり、1973年に住民の集まりやすい公民館隣のナカヌオンに御嶽を新設し、合祀したそうです。字民の少ない人数を分散して信仰するよりも、一カ所で合同で拝む方が字民の団結にも繋がるとの考えから、そのようにしたそうです。
「半嵩御嶽」遠景

42.伊原間水神拝所

「伊原間水神拝所」
「伊原間水神拝所」は、伊原間集落の南部、金武岳の麓にある拝所です。
由来等については、調査不足で不明です。
「伊原間水神拝所」
遠景

43.ムトゥムラ御嶽

「ムトゥムラ御嶽」
「ムトゥムラ御嶽」は、平久保集落(平久保小学校)の北側、ヤエヤマシタンの碑(標柱)の西にある御嶽です。
由来等については、調査不足で不明です。
「ムトゥムラ御嶽」拝殿
 

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