石垣島の御嶽(郊外2:西部&北部地域)  更新 2019.06.01

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。

※今回は郊外を「東部」・「西部&北部地域」に2分割し、ここではNo.7・16・17の追加を行いました。併せて地図の修正をしました。

 石垣島は古くから八重山地域の中心地であり、また多くの歴史を有する地でもあったことから数多くの御嶽があります。 特に古くからある集落(村)には著名な御嶽があります。

 各御嶽の紹介 (御願所も併せて記載しています。)

No. 名 称 場 所
1. 名蔵御嶽(ナグラオン・ノーラオン)* 名蔵
3. 白石御嶽(ティラスオン・シィサスオン) 名蔵
5. 崎枝御嶽(サキダオン)* 崎枝
7. 屋良部岳山頂拝所  崎枝
9. 旧オーセの火の神 川平
11. 赤イロ目宮鳥御嶽(アカイロメミヤトリオン)* 川平
13. 山川御嶽(ヤマオン) 川平
15. 底地御嶽(スクジオン)* 川平
17. 根原御嶽(ニーバルオン) 吉原 
19.  
21. 高間御嶽* 富野
23. 半嵩御嶽(ハンダキオン)* 伊原間
25. 上ヌ御嶽 伊原間
27. ムトゥムラ御嶽 平久保
No. 名 称 場 所
2. 水瀬御嶽(ミズシオン・ミジイシオン 名蔵
4. 於茂登御主神 (大本嶽)* 名蔵
6. 御神崎 御願所 崎枝
8.  
10. 川平観音堂* 川平
12. 群星御嶽(ンニブシオン)* 川平
14. 浜崎御嶽(キファオン) 川平
16. 与那真御嶽 吉原 
18.  
20. 桴海御嶽 桴海
22. 野底御嶽(ヌスクオン)* 野底
24. 伊原間水神拝所 伊原間
26. 大浦川の大主* 伊原間
 

地図1. (名蔵地区) 


1.名蔵御嶽(ナグラオン・ノーラオン)

「名蔵御嶽」は名蔵集落のはずれ、キビ畑の端にあります。御嶽の後方には、沖縄県で最も高い於茂登岳を見ることができます。この「名蔵御嶽」は、於茂登岳をイビとして祀っていると伝えられる御嶽です。
名蔵集落に多い台湾出身者達により、他集落の結願祭にあたる「土地公祭」が毎年旧暦8月中旬頃に開催されます。


御嶽の伝承によれば名蔵に3人の兄弟がいました。兄の発金は腕力の強い乱暴者で、神を敬う心がありませんでした。ある日、妹のオモトオナリのもとへ女神が現れますが、発金はお告げを信じないばかりか神を挑発、霊物の大猪・大ザメを退治します。このためオモト大主神は発金の全身にシラミをわかせます。噛まれて半死状態になった発金は怒って妹を殺害し、数日後に息絶えます。妹は神によって丁重に葬られ、弟の玉皿は神威に感激して礼拝所を建て、神をあがめたそうです。
 
「名蔵御嶽」遠景 「名蔵御嶽」拝殿

2.水瀬御嶽(ミズシオン・ミジイシオン)

「水瀬御嶽」は名蔵御嶽の西側に位置し、水元の神として信仰されています。この御嶽のイビをなしている大石の上には香炉が3つ置かれていて、これをナカダンと呼びます。
雨乞いの時には御茂登の下のナルンガーラを拝みその後ここでミズシの願いが行われました。

※御茂登岳は本来は大本岳といいます。島の大本をなす神岳として崇敬され、古来より八重山群島民信仰の中心をなしてきました。
 
「水瀬御嶽」遠景 「水瀬御嶽」香炉

3.白石御嶽(ティラスオン・シィサスオン)

「白石御嶽」は名蔵小中学校の北方130mのキビ畑に隣接(名蔵御嶽の南側に位置)する御嶽で、その神は天照らすの神で、毎年旧暦1月1日、天降りされる祈願を行うならわしとなっていました。
名蔵御嶽・水瀬御嶽・白石御嶽の3御嶽は、同一の由来だそうです。白石御嶽には拝殿はありませんが、祠が建立されています。祠の背後には巨岩があります。
 
「白石御嶽」 「白石御嶽」遠景

4.於茂登御主神 (大本嶽)

名蔵ダムの北側の於茂登岳の中腹で、2方向から流れる沢の傍に御嶽があります。
かつてダムが今日のように整備される前は、石垣島の農業は旱魃に苦しめられる年が多く、日照りが続くと各村で雨乞い祈願をし、それでも雨が降らなければバンナ岳、最後に於茂登御主神に頼ったそうです。
石垣島における最上級の水の神で、1983年に仲間政子さんらの神司が御嶽(拝殿)を建てたそうです。
近くは自然に囲まれていて、散歩などもできとても気持ちの良い場所です。
また入口には展望台東屋やトイレなども設置されています。
 
「於茂登御主神」 「大本嶽」石碑
[水源1] [水源2]

地図2. (崎枝地区)


5.崎枝御嶽(サキダオン)

大阿母ら神司が琉球王府船の航海安全を祈願した市内「七嶽」(美崎・宮鳥・長崎・天川・糸数・名蔵・崎枝)の一つです。航海と五穀の神を祀っています。1897年、崎枝御嶽の蔵元廃止と共に古村・崎枝御嶽も衰退、1914年に村は廃村となりました。このため御嶽も荒廃しました。戦後、自由移民で入植が行なわれ、村を再建した人々が香炉などを掘り起こし、鳥居や拝殿を再建しました。以来、再び集落の信仰の地となっています。
 
「崎枝御嶽」 「崎枝御嶽」遠景
「崎枝御嶽」拝殿 「崎枝御嶽」の森 遠景

6.御神崎 御願所

崎枝半島にある御神崎灯台の下(海側)にある御願所で、芝生の中を海に向かって歩いて行きます。岩の先端部には香炉などが置かれています。
反対側には「フチブイ岩」と呼ばれる小さな岩の乗っている岩があります。
御願所の由来など詳細については不明です。
 
「御神崎 御願所」 「御神崎 御願所」遠景

7.屋良部岳山頂拝所

崎枝半島の屋良部岳(216m)山頂にあります。緑色凝灰岩のイビ石の前に香炉が置かれています。願い始めの正確な年代は不明の拝所です。霊験あらたかな山岳信仰のひとつと見られます。
なお、屋良部岳の山頂は戦時中、旧日本軍が見張り山として駐屯していたそうです。
 
「屋良部岳山頂拝所」のイビ石(中央) イビ石の右側の一枚岩、通称「ベロ岩」

8.欠

地図3. (川平地区)


9.旧オーセの火の神

川平保育所敷地の東側に小さな祠がありますが、これが「旧オーセの火の神」です。川平のオーセは、現在の川平公園駐車場にありましたが、そこから移転したとのことです。
(オーセの井戸は、現在も川平公園駐車場に残されています。)
 
「旧オーセの火の神」 「旧オーセの火の神」遠景

10.川平観音堂

川平湾はその昔、琉球王府への貢納物を集積する三大港の一つで、川平公園内の観音堂は17世紀半ばに創建されたと伝えられています。伝承によると、風待ちで湾内に停泊していたマーラン船から小僧が順風になるまでと川平村に上陸したそうです。暫くして戻ってみると船はすでに出航していました。小僧は驚き、嘆きながら船が川平湾に戻るように一生懸命に祈りました。その願いが通じて、北風が吹き船が戻り、小僧は乗船することができたそうです。数年後、小僧は和尚となって帰島し、祈願した地に観音堂を建てたそうです。
 
[川平観音堂] [川平観音堂]説明書

11.赤イロ目宮鳥御嶽(アカイロメミヤトリオン)

赤イロ目宮鳥御嶽は、川平集落の消防分団のロータリー前にあります。
昔、宮鳥御嶽へ通っていた氏子が分家して、川平のこの地に赤イロ目宮鳥御嶽をつくり、以降、四箇字の宮鳥御嶽の分家として存在しています。この赤イロ目宮鳥御嶽は、豊年祭や結願祭の会場となっている御嶽です。

以下、「赤イロ目宮鳥御嶽」の説明書きより一部抜粋

 この御嶽は、別名アーラオンとも呼ばれ、群星御嶽・山川御嶽・浜崎御嶽と並んで川平四嶽の一つに数えられています。川平村の年中行事は、この四嶽を中心に行われ、中でも川平村の雨乞いはここで行われます。またこの御嶽の豊年祭では、境内の一角に祀られているピッチュル(カーラ石)と呼ばれる俵形の石を担いで境内を廻る儀式が行われます。
 「八重山島由来記(御嶽々名并由来記)によれば、御嶽の神名は御嶽名と同じで、御イベ名は「まかお大あるじ」と記述されています。また、川平村では、「牛馬による農作物の被害を避けるため、農作物保護役の野夫佐や馬夫佐へ監視させ、その結果を神司が毎月石垣村の宮鳥御嶽に行き、同御嶽の神司を通じて神に報告する習わしであった。当時の神司がその煩雑さに同情し、宮鳥御嶽への御通しとしてこの御嶽は作られた」と伝えられています。
 この御嶽は鳥居・拝殿・イビ門・イビを東西に直線的に配置し、神庭はイビ門前の広場・拝殿のある広場・下段の広場と高低差によって三段になっています。
 現在の拝殿は、昭和12年(1937年)に建てられたもので、間口が2間半(5m)、奥行き2間(4m)、赤瓦葺寄棟の屋根をおく木造平屋の建物です。拝殿には右側に祭壇が設けられ、「沐陰」の扁額が掛けられています。イビ門は長さ11m、幅80cm、高さは中央部で1.8m、両端で1mと中央部から両端に向かって低くなっています。入口は幅85cm、高さ1.8mで、暑さ15cmの平たい板状の石が乗せられています。イビは半月状で奥には高さ45cmの石積みがあり、香炉が置かれています。
 この御嶽は、川平村の年中行事には欠かせない御嶽で、八重山の民間信仰を知る上で重要なものです。また、拝殿は、御嶽の施設や伝統的な木造建築の変遷を知る上で重要なものです。
 
「赤イロ目宮鳥御嶽」 「赤イロ目宮鳥御嶽」の説明書き
「赤イロ目宮鳥御嶽」遠景 (豊年祭の様子)

12.群星御嶽(ンニブシオン)

川平集落から底地ビーチ方面に少し行った所にある「川平貝塚」の案内板の前の道を右折し、少し坂を上った左手にあるのが「群星御嶽(ンニブシオン)」です。
群星御嶽は、川平村の発祥に深い関係があると考えられており、結願祭など村の重要な祭場となっています。

伝承によれば、村の宗家として住民から尊敬されていた南風野家の娘が、ある日、夜中に目を覚まして外に出ると、不思議なことに群星(スバル)が天中にさしかかった時、霊火と群生が地上を昇降していました。その後も同じ現象が起き、その場所を調べたところ、白米の粉で丸く印されていました。このため神が降りた場所として御嶽を建て、村人の信仰の中心となったと伝えられています。
 
「群星御嶽」 「群星御嶽」遠景

13.山川御嶽(ヤマオン)

「川平貝塚」の案内板の向かい側(底地ビーチに向かって道路左手側)にあるのが、山川御嶽(ヤマオン)です。
山川御嶽は、この御嶽の後ろにある小高い山の神を祈る場所だったと考えられています。

 
「山川御嶽」 「山川御嶽」遠景

14.浜崎御嶽(キファオン)

浜崎御嶽は、川平の観光船乗場のそば(海辺)にあります。
航海の安全を祈願する拝所として、「川平観音堂」とともに、今も多くの人びとの信仰の場となっています。
「浜崎御嶽」は、「赤イロ目宮鳥御嶽」、「群星御嶽」、「山川御嶽」と並んで川平四御嶽の一つで、地区の3大行事である豊年祭・結願祭・節祭が行なわれます。
 
「浜崎御嶽」 「浜崎御嶽」遠景

15.底地御嶽(スクジオン)

底地御嶽は、川平の底地ビーチの北側、シーサイドホテルの南側の浜辺にあります。
底地御嶽は、川平地区の御嶽の中で唯一拝殿がありません。また、現在は御嶽に神司はおられません。
伝承によると仲間村時代、大和(本土)から来た男性と村の娘が恋仲となり、帰国の時に娘が航海の安全を祈った場所とされています。
古村の川平には底地湾にも船が寄港したようで、大和の男性は近くの仲底家に身を寄せ、娘との間に男の子が生まれ、後にその子は保嘉真山戸となり活躍したそうです。
現在、御嶽に神司はいらっしゃらないそうです。
 
「底地御嶽」 「底地御嶽」遠景

地図4. (吉原地区)


16.与那真御嶽

与那真御嶽は、川平仲筋(吉原)にあります。「仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林」の説明碑の前の道を左側(北西)に約50m進むと鳥居があり、そこから北に約50m進み、更に左側(北西)に約100m進んだ所にあります。
この「与那真御嶽」の由来は不明です。
氏御嶽の系統に属する御嶽で、南側(県道側)に鳥居が設置され1960年旧8月14日建立と記されています。御嶽のある一帯は聖域の海岸林として、伐採がタブー視された結果、隣接の根原御嶽と併せて1972年に「仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林」として県の天然記念物に指定されました。
 
「与那真御嶽」イビ門 同 拡大
拝所と香炉 拝所後方のガジュマル
「与那真御嶽」への鳥居 仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林の説明碑

17.根原御嶽(ニーバルオン)

与那真御嶽は、川平仲筋(吉原)にあります。「仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林」の説明碑の前の道を左側(北西)に約50m進むと鳥居があり、そこから北に約50m進み、更に右側(北東)に約200m進んだ所にあります。
もしくは説明碑の横にできた道(踏み跡)を少し進むと割とはっきりとした道がありますので、それを右手にずっと進んだ所にあります。
「根原御嶽」の由来は不明です。創建はかなり古い御嶽のようで、1610年の「慶長検地記録」にも仲筋村の御嶽としての記録があります。北の海浜側に鳥居があったようですが長年の風雨に耐えきれず倒壊しています。祭祀もすでに絶え、コンクリート瓦葺きの拝殿も老朽化が著しく、荒廃に向かいつつあります。
 
「根原御嶽」遠景 「根原御嶽」拝殿
「根原御嶽」拝殿 「根原御嶽」イビ門
海へと続く道 「根原御嶽」へと続く道

18.欠

19.欠

地図5. (桴海・富野地区)


20.桴海御嶽

桴海御嶽は、米原のヤエヤマヤシ群落の北北西方向、知花食堂の北東方向(コーラルテラス石垣島のそば)の、桴海・ウナスカの森の中にあります。
御嶽は仲筋村の根原御嶽の分身を祭って建てられたと言われてます。
桴海村は、川平や平久保の人達の合流で村建てが行われたようです。
そして桴海村の神事や文化・人文などは石垣島北部の諸村に大きな影響を及ぼしましが結局は戦時中に廃村となりました。
コンクリート製の拝殿が残っているそうですが、現在、御嶽の森は足を踏み入れることもできないほどにジャングル化して、確認も困難になりました。
 
「桴海御嶽」 「桴海御嶽」遠景
「桴海御嶽」への道 「桴海御嶽」遠景

21.高間御嶽

富野公民館の北隣(県道側)の畑の中にあります。鳥居も拝殿もなく、自然石を巡らしたとても簡素な御嶽です。
この御嶽は、戦後、この地区に移住した人々によって再建されました。その理由は、同地区に移住したものの、原因不明の火災が連続しました。このためユタに問い合わせると「200年前の御嶽を再建せよ」とのお告げがありました。付近を調べたところ古い香炉が見つかり、それに従って再建されました。近年は神司の高齢化のため祭祀は中断してしるそうです。
 
「高間御嶽」 「高間御嶽」遠景

地図6. (野底地区)


22.野底御嶽(ヌスクオン)*

野底・野底崎の海岸林内にある御嶽ですが、その由来は不明です。
野底村は1732年、王府の開拓政策によって黒島・保里村からの強制移住で創建(村建て)された村です。黒島のカニムイと、野底のマーペーの別離の悲劇が「チィンダラ節」に歌われています。
御嶽は戦後(1954年6月)野底地区に入植した多良間出身者により一時信仰されていました。しかし最後まで墳墓の地を守っていた東盛ナビの転居に伴って信仰も絶えました。
今日では周囲は完全にジャングル化していますが、イビ門やその前の広場は当時のままで、綺麗に残されています。
 
「野底御嶽」 「野底御嶽」イビ門
イビ門前広場 「野底御嶽」遠景
「野底御嶽」への入口 「野底御嶽」 説明碑

地図7. (伊原間地区)


23.半嵩御嶽(ハンダキオン)

「半嵩御嶽」は、伊原間公民館の北側にある御嶽です。
18世紀はじめに桴海村から別れた人々が金武岳北の半嵩と呼ばれた場所に、「半嵩村」を作ったところがルーツとしてあるようです。
元々伊原間にはウフオンの半嵩御嶽とそのバギオン2ケ所、集落北のウイヌオン、中央のナカヌオン、南のタキオンの6御嶽がありました。しかし神司の死去や転居により村の祭祀が難しくなり、1973年に住民の集まりやすい公民館隣のナカヌオンに御嶽を新設し、合祀したそうです。字民の少ない人数を分散して信仰するよりも、一カ所で合同で拝む方が字民の団結にも繋がるとの考えからそのようにしたそうです。
 
「半嵩御嶽」 「半嵩御嶽」遠景

24.伊原間水神拝所

「伊原間水神拝所」は、伊原間集落の南部、金武岳の麓にある拝所です。
由来等については、調査不足で不明です。
 
「伊原間水神拝所」 「伊原間水神拝所」遠景

25.上ヌ御嶽

「上ヌ御嶽」は、伊原間集落の北方、約400mの畑の中にあります。伊原間牧場の南ゲートから東方の独立した森で、拝殿や鳥居はありません。サンゴ石の香炉がおかれた素朴な御嶽です。
半嵩御嶽へ合祀される前は西盛蒲多氏等が中心となって信仰されていたそうです。

今は森の中に香炉と石囲いが残っています。
 
「上の御嶽」遠景 「上の御嶽」遠景

26.大浦川の大主

「大浦川の大主」は、伊原間・大浦ダム堰体の南側に隣接する広場に建立されています。1792年(乾隆54年)、3年続きの天災で農作物は枯死し、また井戸水や付近の川も枯れました。村人は、遠く、探し当てた大浦川の滝つぼの水で命をつなぎました。以来、イビを設置して水神への祭事を執り行ってきましたが、遠方のため、1992年(平成4年)にイビ石を3個に分けて現在の場所に遷座されました。
2012年(平成24年)12月に遷座された場所の南隣に新しい祠を建立し、大浦川の大主として祀るようになりました。
 
「大浦川の大主」 「大浦川の大主」

地図8. (平久保地区)


27.ムトゥムラ御嶽

「ムトゥムラ御嶽」は、平久保集落(平久保小学校)の北東側約800mの畑中、ヤエヤマシタンの碑(標柱)の西側にある御嶽です。
伝えによればこの御嶽は花城村の御嶽だったそうです。1702年、半島の最北端にあった平久保村が風水師の指導で同地に移り、花城村と合併しました。合併後は花城村の名は消え、そのまま平久保村の御嶽として信仰されたようです。
 
「ムトゥムラ御嶽」 「ムトゥムラ御嶽」拝殿
 

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