石垣島の御嶽(市街地2)  更新 2019.06.08

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。

※今回は、No.13の追加を行いました。併せて地図の修正をしました。

 石垣島は古くから八重山地域の中心地であり、また多くの歴史を有する地でもあったことから数多くの御嶽があります。 特に古くからある集落(村)には著名な御嶽があります。

 各御嶽の紹介

No. 名 称 場 所
1. 多田御嶽(タダオン)* 真栄里
3. 蔵原御嶽(クラバルオン) 真栄里
5. 福山御嶽(イナシキオン)
 
平得
7. 古見ぬ主御嶽(クンヌシューオン) 平得
9. 舟屋岡御嶽(フナヤムルオン) 平得
11. パイヌフツイ御嶽
 
平得
13. 平得 火の神(ピサイピィナカン) 平得
 
No. 名 称 場 所
2. 安居御嶽(アングンオン)* 真栄里
4. 地城御嶽(ギシュクオン)* 平得
6. 大阿母御嶽
(ホールザーオン:オオアモオン:ウファムオン)*
平得
8. 宇部御嶽(ウブオン)* 平得
10. トウメスカ御嶽* 平得
12. 藍盛御嶽(アイムリオン)・
迎里御嶽(ンカイザトゥオン)*
平得
     
 

地図1.(真栄里地区)


1.多田御嶽(タダオン)

今から500年前の琉球王府時代、八重山最高神職の初代「大阿母」を務めた多田屋遠那理(タダヤブナリ(オナリ))が、首里への上国の際に(逆に戻る時という説もあります)遭難してしまい安南(現在のベトナム)に漂流、その安南から戻る際に、稲の種子や穀物の種子をもって上陸したとされる場所が真栄里の多田浜とされています。(多田御嶽は、種子を一時置いた大きな岩の下にも作物の神が宿ったとして、崇拝するようになったそうです。)(またこの御嶽は、安南から作物栽培の指導のために同行した人「神」を祀ったところという説もあります。)
持ち帰った五穀の趣旨を広めたのが種子取祭の由来とされ、平得村の種子取祭は、毎年この御嶽で早朝、ユーニガイ(世願い)を行い、その年の豊作を祈願します。

※この御嶽は真栄里海岸に1938(昭和13)年に建立されました。
※多田御嶽は多田浜御嶽(タダハマオン)とも呼ばれます。
 
   
「多田御嶽」 「多田御嶽」

2.安居御嶽(アングンオン)

真栄里村の八重山商工高校の北西にある御嶽です。
ここで真栄里村のオンプーリィ(来夏世の豊穣と住民の無病息災を祈願する豊年祭)が行われます。そして数々の芸能が奉納される場所でもあります。

この御嶽には、平家の落人(落ち武者)伝説があります。
昔、平家の落人が住んでいて、死後その屋敷跡(安居御嶽の地)に葬られました。その後、真栄里出身の男が人食いとなり、子どもをさらって食べていました。男の妹が確認をするために、子どもと兄のいる洞窟に行ったところ、二人とも捕まってしまいました。隙を見て逃げたものの追われ、落人の墓の前にさしかかった時にデイゴの木が割れ、二人を空洞に入れて助けたと伝えられています。
なお、安居御嶽は、地元では大和ウガンとも言うそうです。
   
「安居御嶽」 「安居御嶽」石柱

3.蔵原御嶽(クラバルオン)

平得村の蔵盛・浜元・高嶺の3家の先祖が一緒に多田浜の海で潮干狩りをしていたところ、そこに海から不思議な石が流れてきました。
その石は神が宿る霊石であると思い運んできたところ、その地で重くなり動かなくなったことからそこに石を置き御嶽として拝むようになったそうです。
   
「蔵原御嶽」遠景 拝殿
鳥居 御嶽東側からの遠景

地図2.(平得地区1)


4.地城御嶽(ギシュクオン)

地城御嶽は、平得村のオンプーリィ(来夏世の五穀豊穣と住民の無病息災を祈願する豊年祭)等の行われる場所です。
石垣市浄水場の北東に位置し、石垣島で最も大きい御嶽と言われています。他の御嶽とは違う高い格式を有しているので祭祀は大阿母の司祭で行われました。


地城御嶽は、蔵元の公事と深い関係にあり、美崎御嶽と同様、琉球王府の安泰祈願や在番等の着任時には必ず初めにこの霊地を拝んでいました。地城御嶽には、公の御嶽・大和願い・唐願い・龍宮願いの4ケ所のイビがあります。
   
「地城御嶽」遠景 「地城御嶽」
   

地図3.(平得地区2)


5.福山御嶽(イナシキオン)

平得交差点の南西側にある木立の中にある御嶽です。
平得村の浦本家一族の信仰する、いわゆる氏御嶽です。
浦本家の先祖が昔、不思議な火を何度も(3日間続けてという伝えもあり)見たことから、神のいる霊地であるに違いないと判断し、イビを建てて拝むようになった御嶽です。
   
「福山御嶽」 拝殿裏の香炉

6.大阿母御嶽(ホールザーオン:オオアモオン:ウファムオン

八重山初代の「大阿母」を務めた多田屋遠那理(タダヤブナリ(オナリ))の墓が御嶽となりました。ブナリは、オヤケアカハチの乱で長田大翁主の妹の真乙婆とともに王軍を応援します。祈りで衰弱した真乙婆を救い、その功績で八重山初代の「大阿母」に任命されたと伝えられています。
ブナリは、首里への上国の際に(逆に戻る時という説もあります)遭難してしまい安南(現在のベトナム)に漂流、その安南から戻る際に、稲や粟などの穀物の種子を持ち帰ったとされています。
大阿母御嶽は平得村にあり、伝統行事「種子取祭」が催され、地域住民は五穀豊穣と無病息災を祈願します。種子取祭の最後に御嶽前では健脚を競う「潟原(カタバル)馬」が行なわれますが、これは苗床に稲の種を蒔いた後に、名蔵の砂浜で貝を拾い、大阿母御嶽に奉納したことが始まりだそうです。
   
「大阿母御嶽」遠景 「大阿母嶽」石柱

7.古見ぬ主御嶽(クンヌシューオン)

西表島・古見で役人をしていた身分の高い人をクンヌシュー(古見の主)として呼び、その人を葬った墓が御嶽のようですが、詳細は不明です。
拝殿周囲は木々の緑に囲まれていましたが、2016年秋には綺麗に伐採されてしまいました。
 
「古見の主御嶽」 「古見の主御嶽」東側からの眺め

8.宇部御嶽(ウブオン)

「宇部御嶽」は、平得仲本遺跡の南、産業道路沿いにあります。

その昔、ウーリ家から西宇部家に嫁いだ娘が、大浜に嫁入りした唐家の娘に分けてもらった石を拝んだところ豊作になり、人々も拝むようになったことから、「宇部御嶽」と名付けられたと伝えられています。

一方で、ここは新本井戸を掘ったウーリ家の租に当る7人兄弟の屋敷跡という説もあります。
   
「宇部御嶽」遠景 「宇部御嶽」遠景

9.舟屋岡御嶽(フナヤムルオン)

「舟屋岡御嶽」は、新本井戸(アラントゥカー)を掘り、現在の平得集落を創り出すのに大きな力となったオーリヤー(宇里屋)の7人兄弟の一人、長男のフナヤギサマ(舟屋儀佐真)という人の墓と言われています。(境内の中央に半円形の石積みがあります。)
その人が祖先神として崇められています。
   
「舟屋岡御嶽」遠景 「舟屋岡御嶽」

10.トウメスカ御嶽

「トウメスカ御嶽」は、平得の新本井戸・頌徳碑から北へ約100m、石垣市総合体育館駐車場の東側道路沿いにあります。
この御嶽は墓が御嶽として信仰されたものです。
墓の主は前述の井戸を掘った宇里家の祖の7人兄弟の二男だそうです。石組み墓の傍らに花崗岩がありますが、次男が名蔵から本パイ(本製の鍬)の柄で担いできたとのことです。しかしながら、現在では誰も担げる者がいないそうです。次男はそれほどの力持ちだったようです。
   
「トウメスカ御嶽」遠景 「トウメスカ御嶽」
「トウメスカ御嶽」遠景 「トウメスカ御嶽」

11.パイヌフツィ御嶽

「パイヌフツィ御嶽」は、舟屋岡御嶽(フナヤムルオン)の東方約250m、平得集落の北方・田原の土地改良された畑の中にあります。
この御嶽は、墓が御嶽として信仰されるようになったものだそうです。墓の主は、新本井戸を掘った宇里家(ウーリャー)の祖に当たる7兄弟の1人だそうですが、詳細は不明です。
「パイヌフツィ御嶽」は、昔の仲本村(ナカンドゥ村)の南の入口(パイヌフツィ)にあったのでこの名がついています。一帯は1975(昭和50)年、平得仲本御嶽遺跡として大規模な発掘調査が実施されました。
   
「パイヌフツィ御嶽」遠景 「パイヌフツィ御嶽」

12.藍盛御嶽(アイムリオン)・迎里御嶽(ンカイザトゥオン)

「藍盛御嶽(アイムリオン)・迎里御嶽(ンカイザトゥオン)」は、平得の「大阿母御嶽」の道路隔てた東側、日本キリスト教団平真教会の北側にあります。
藍盛御嶽と迎里御嶽が同一境内に鎮座していますが、拝殿は一つです。藍盛御嶽のイビが拝殿の北側奥に座り、迎里御嶽のイビが拝殿の西隣に座っています。藍盛御嶽は、平得村の人頭税織物染用の藍の担当者が、その仕事がうまくいくよう祈願するために創建したもので、迎里御嶽は平得在住の2戸の氏御嶽として創建したものです。
なぜ2つの御嶽が同一箇所にあるかというと、明治時代に両者が協議した結果だそうです。
   
「藍盛御嶽・迎里御嶽」 「藍盛御嶽・迎里御嶽」遠景
 
御嶽の西側から北方向の光景 藍盛御嶽のイビ
 

13.平得 火の神(ピサイピィナカン)

「平得 火の神」は平得公民館の敷地の南東端にあります。
もともと村番所(オーセー)に祀られていた火の神ですが、明治30年(1897)蔵元廃庁と共に旧制度に終止符が打たれました。これにより村番所を失うという結果になりましたが、各村では当時の縁故者によって信仰が継続され、中には御嶽として奉斎している村もあります。(但し御嶽とは呼んでいません。)


火の神(ピィナカン:ヒヌカン)とは、台所に祀られる神のことです。
もとは竈そのものを拝んでいたようですが、やがて竈をかたどった3個の石を拝むようになりました。家庭を守る神で、その家の主婦が祀り、家庭に吉凶があるときは火の神を拝みました。元々家庭で拝まれた火の神ですが、のちに八重山などではオーセーでも拝まれるようになりました。
   
「平得 火の神」、後ろは平得公民館 「平得 火の神」
 
祠の中の様子 竈をかたどった3個の石
 

 Page Topへ戻る   八重山の御嶽 に戻る    八重山豆辞典 に戻る    HOME へ戻る


Copyright (c) 2008.8 yaeyama-zephyr

写真の無断転載・使用を禁じます。利用等をご希望される場合はメールでご連絡下さい。