石垣島の御嶽(市街地1:四ケ字)  更新 2023.11.12

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。

※ 今回はNo.23の写真の入替えをしました。

 石垣島は古くから八重山地域の中心地であり、また多くの歴史を有する地でもあったことから数多くの御嶽があります。 特に古くからある集落(村)には著名な御嶽があります。

 各御嶽の紹介 (御願所等も併せて記載しています。)

No. 名 称 場 所
1. 美崎御嶽(ミシャギオン)* 登野城
3. ユーヌ火之神 登野城
5. 船着御嶽(フナツキィオン) 登野城
7. キツィパカ御嶽(キツィパカオン)* 登野城
9. アマスイ御嶽* 登野城
11. 船浦御嶽(フノーラオン)* 登野城
13. 米為御嶽(イヤナスオン)* 登野城
15. 真乙姥御嶽(マイツバーオン)* 新川
17. 大嵩屋の御嶽(フータキヤーヌオン)* 新川
19. 唐屋の御嶽(トーヤーヌオン)* 新川
21. 長田大翁主霊(ナータウフシュリョウ) 石垣
23. 長田御嶽(ナータオン)* 石垣
25. 龍宮の御嶽 石垣
27.
29.

基斗御嶽(キドゥオン)*

大川
No. 名 称 場 所
2. 蔵元の火の神(クラヌビィナカン)* 登野城
4. 天川御嶽(アーマーオン)* 登野城
6. 糸盛御嶽(イチュムリオン)* 登野城
8. 糸数御嶽(イトゥカジィオン)* 登野城
10. 真泊嶽(マドゥマリィオン)* 登野城
12. カンヌミチィ(神の道)* 登野城
14. 小波本御嶽(クバントゥオン)* 登野城
16. 長崎御嶽(ナガサキオン・ナーシィキィオン)* 新川
18. 本宮良の主の御嶽(ムトゥメーラヌシューヌオン)* 新川
20. 後の御嶽(シーヌオン) 新川
22. 宮鳥御嶽(メートゥルオン)* 石垣
24. ビッチンヤマ* 石垣
26. かざるぱか* 石垣
28. 大石垣御嶽(ウシャギオン)* 大川
     

地図1.(登野城地区1)

1.美崎御嶽(ミシャギオン)

「美崎御嶽」の説明石板より一部抜粋

 県指定記念物 史跡
 県指定有形文化財 建築物  
美崎御嶽
 尚真王のころ、石垣市登野城の美崎山に創建された航海安全を祈願するための御嶽である。神名を大美崎トウハ、御イベ名は浦掛ノ神ガナシという。
 御嶽の由来については、遠弥計赤蜂の乱(AD1500年)の時に首里王府派遣の兵船の那覇港への安着を祈願して、神女の真乙姥が籠もったところといわれている。
 御嶽の周囲は石垣がめぐり、中央部には拝殿にあたる拱式(アーチ)の石門がある。石門の構造は、屋根石を架し、棟中央に火炎宝珠を乗せている。規模こそ小さいが首里王城下の園比屋武御嶽に類似するといわれている。この拝殿を「イビの前」と称し、その奥には石や岩、大木等があり、そこをイビと称している。
 この御嶽は、王府より派遣された役人の離着任時、農耕儀礼などに高官や大阿母によって拝され、公儀であった。現在は字大川の村拝所として住民の信仰地となっている。昭和31年2月、県指定有形文化財(建造物)としても指定され、史跡と建造物の二重指定をうけている。
 
 「美崎御嶽」は、オヤケアカハチの乱を制圧した王府軍が海路を無事で首里に帰還できるよう、真乙姥(マイツバ)が美崎山の聖地に籠もって祈願し、その願いが叶えられたことから創建された、航海安全祈願の御嶽です。
断食祈願で衰弱した真乙姥を助けたのが平得の多田屋遠那理で、これを機に八重山で初めて大阿母(多田屋)、永良比金(真乙姥)の神職が置かれるようになりました。
以降、御嶽は現地役人の旅立ちや王府役人の離就任、高官が参加しての農耕儀礼などを行うようになり、代々、八重山の蔵元が管理するクギィオン(公儀御嶽)として尊崇を集めてきました。
     
「美崎御嶽」遠景 「美崎御嶽」拝殿
「美崎御嶽」の説明石板 「美崎御嶽」のイビ石門

2.蔵元の火の神(クラヌビィナカン)

火の神はその昔、八重山島守護の任務を託された今帰仁の神・オタイカネが降臨、蔵元の神として崇拝されるようになり、大阿母が祭祀を執り行ったとされています。
「蔵元の火の神」は1524年に「西塘」が竹富島に蔵元政庁を創設した際に建立したと伝えられ、琉球王国の安定、八重山や蔵元政治の守護を祈るものでした。その後、石垣島に蔵元が移設されるのに併せて移されました。その蔵元は、現在の八重山支庁・八重山博物館を含む一帯にありました。
戦後の1953年に土地区画整理で美崎御嶽の境内に移転されています。
 
蔵元の火の神
   

3.ユーヌ火之神

美崎御嶽の鳥居を入った左手(北側)にある御嶽です。
安全、平和、健康、繁栄などを祈願した「火之神」が祀られていて、各家庭に分けられ、かまどに祀ったのだそうです。
 
「ユーヌ火之神」

4.天川御嶽(アーマーオン)

「天川御嶽」は、登野城の那覇地方裁判所・検察庁の東側にあります。

以下、「天川御嶽」の説明書きより一部抜粋

 天川(アーマー)とは、この地一帯の称で、古くは天川原(アーマーバル)と呼ばれていた。また、御嶽(オン)とは、村人の健康や村の繁栄などを祈願する聖地である。
 天川御嶽の歴史は古く、「八重山島由来記」(1705年頃)にも記されている。
登野城(トゥヌスク)村の伝承では、新城家(アーマーヤー)の祖先で霊験(セジ)高く篤農家でもあった野佐真(ヌサマ)が天川原の霊石(イビ)を信仰していたことから毎年豊作・豊漁に恵まれ、そのため村人たちにもその霊石を尊信するようになり、豊作・豊漁の神として信仰するようになった、といわれている。
 首里王府時代には、沖縄本島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する七嶽(ナナオン)(美崎[ミシャギ]・宮鳥[メートゥル]・長崎[ナースク]・天川[アーマー]・糸数[イトゥカズ]・名蔵[ノーラ]・崎枝[サキダ])の一つとされていた。
現在でも折々の祈願のほか、旧暦六月には豊作への感謝と来る年の豊穣を祈る豊年祭が古式豊かに執り行なわれている。
  
「天川御嶽」の拝殿は1874年(明治7年)に茅ぶきで建立されて以来、3度改築されましたが、最後に改築された1963年から45年以上が経過し老朽化が進んだため、2010年6月に実に135年ぶりに建替えられました。なお、旧拝殿の解体工事は重機を使わず、素手で解体されたそうです。
 
「天川御嶽」 改築前の「天川御嶽」
 【2009年11月撮影】
「天川御嶽」遠景

5.船着御嶽(フナツキィオン)

登野城漁港のすぐ近くにある御嶽で、御嶽の向かいには「サザンゲートブリッジ」があります。
かつては、宮良湾(西側)の入り江が船着御嶽のあるフナスク(船着き場)という地名のところまで入り込んでいて、ここが海上交易の拠点となっていたようです。

登野城集落にとっては非常に重要な場所であり、アガリグヤの糸満系漁民たちの精神的支えともなっている御嶽です。ユッカヌヒー(旧5月4日)には爬龍船が祭られ、海の恵みに感謝するとともに豊漁と航海安全が祈願されます。



船着御嶽は、戦後しばらくまで木々が茂り御嶽としての形態は全く無かったようです。その後、同地は明和の大津波で没した世にも稀な霊力の持ち主・新城武那津の祈願所と判明し、1950(昭和25)年に御嶽が再興されました。1993(平成5)年、長い年月で老朽化した拝殿が撤去され、鳥居や拝殿が新築され今日に至っています。
 
「船着御嶽」拝殿 「船着御嶽」遠景
「船着御嶽」の鳥居

6.糸盛御嶽(イチュムリオン)

登野城の美崎御嶽近くの、国道390号線の北側(石垣SS登野城給油所南東)にある御嶽です。建物の間に挟まれ、入口からかなり奥に入った所にある御嶽のため、なかなか分かりづらいです。
この御嶽には2つの香炉があり、西側は於茂登照神(ウムトゥティラス)、東側は牛馬の健康願(ドウイハダニガイ)をする役目をもつものであるとされています。
昔、付近一帯はうっそうと茂る密林で、イチュムリと呼ばれていました。そこにはパームイと呼ばれる霊威高い老婦人が住んでいて、不思議なことにその人の信仰しているイビを拝むと牧場の牛馬がよく繁栄したそうです。このためイビには多くの人々が訪れ、牛馬繁栄の御嶽として信仰されるようになったそうです。
拝所内にはクワノハエノキ(ウラジロエノキ?)の大木があり、かつての森の面影が僅かながら残っています。
なお、御嶽前には次のように記されています。

いちむるお嶽
平成3年10月22日
(旧9月15日)竣工
 
「糸盛御嶽」 「糸盛御嶽」

7.キツィパカ御嶽(キツィパカオン)

桟橋通りの、サーターアンダギーで有名な「さよこの店」と2号線との間にある小さな御嶽で、キツィパカオン(岸若御嶽)と呼ばれています。
キツィパカ住民の健康・豊年・豊作・航海安全などを、他の御嶽に向って通し祈願する「願所」が長い間にオン(御嶽)と呼ばれるようになったそうです。
御嶽内にはアカテツやクワノハエノキの巨木が生えています。
 
「キツィパカ御嶽」全景 「キツィパカ御嶽」香炉
「キツィパカ御嶽」鳥居

8.糸数御嶽(イトゥカジィオン)

登野城は石垣島内でも早くから集落が形成された地域で、そのため多くの御嶽が点在しています。
糸数御嶽のある場所は、登野城村の東端に位置し、かつてはここより東には家はなかったそうです。国道370号線より南は海岸線で八重山の離島や沖縄本島を行き来する船着き場があり、ここは航海の安全を祈った場所でした。

糸数御嶽の創建者は黒島出身の舟道石戸とされています。舟道は1732年、野底への強制移住を命じられますが、念仏教や葬札などの知識にたけていたため移住を免じられ、大川村の高台に住んでいました。僧侶の代わりに葬儀を執り行っていた功績が認められ、親雲上の位を授けられました。その後、舟道は「辻野」姓を名乗るようになり、公用で王府に向うたびに家族が糸数原で祈り、無事に往復できたことから航海安全の霊所とされ、人々も信仰するようになったそうです。
                
「糸数御嶽」 「糸数御嶽」拝殿
「糸数御嶽」拝殿

9.アマスイ御嶽

「アマスイ御嶽」は登野城町内にある御嶽です。
豊川家所蔵の登野城村の古地図に描かれた3ケ所の「願所」の一つで、その「願所」がいつしか御嶽になったようです。水の神が祀られていました。

その昔、クバガサをかぶりミノ笠を着けた不思議な人物(男性)が天から降りてきましたが、亡くなったためこの地に葬りました。「願所」はその人物の墓とのことです。その後、雨乞い等で拝む人が出てきて、次第に御嶽と呼ばれるようになったようです。しかし、戦後放置され、祭祀も絶えて久しいようです。
 
「アマスイ御嶽」 「アマスイ御嶽」遠景
 

10.真泊嶽(マドゥマリィオン)

この御嶽は、大濱信泉記念館の裏手(東側)にあります。

琉球王府から命令を受け、三司官(国務大臣)や御検視官、在番たちが毎年八重山にやって来ていました。彼らは、公用船「馬艦船(まーらんぶに)」に乗って来て、今の登野城漁港の先辺りにあった美崎泊に錨を下ろし、そこから小伝馬船に乗り移って上陸していました。その上陸地点の直ぐ傍にあったのが真泊嶽で(古くは美崎真泊とよばれていました)、航海安全の神が祭られていました。


1820年、首里から公務の帰途、台風に遭遇した松茂氏第8世宮良頭当演が漂流中、真泊御嶽に祈願して無事に帰島しました。1902年、附近の道路工事に支障が出たため隣接の美崎御嶽の境内に奉還されました。その後、1957年には有志の浄財で旧跡(現在の場所)に再奉還されました。そのため真泊御嶽は2ケ所に別れて鎮座しています。
 
「真泊嶽」 「真泊嶽」側面より

11.船浦御嶽(フノーラオン)

この御嶽は、美崎御嶽の南西側(海側)、登野城のサザン歯科クリニックの南東側にあります。

677年に石垣親雲上(ハンナー主)が私費を投じて新式の造船所(スラ)を建築し、蔵元の公用に供したとされます。
フノーラとは造船所の意味で、御嶽の由来については記録が残っていないため不明ですが、ハンナー主が建てたスラと因果関係があったものと推測されます。
龍宮の神を祀っていて、御嶽の拝殿と神殿は1934年に建立され1960年には建て替えられましたが、現在は残っていません。また御嶽の森ともいうべきガジュマル・ハスノハギリなどの亜熱帯常緑樹も根こそぎ伐採されました。
なお、黒島にも同名の船浦御嶽がありますが、造船や進水式、航海安全などを祈願をする御嶽として創建されています。

かつて琉球王府時代には御用船が美崎の浜を出帆したら宇根神司を中心に神女らは船浦後方の仮屋に夜ごもりして、竹富島の船神、於茂登岳の守護神、龍宮の神に航海の無事を祈願したと言われています。この3神の信仰場所が美崎・真泊・船浦の3御嶽です。
 
「船浦嶽嶽」 祠と香炉

12.カンヌミチィ(神の道)*

この「カンヌミチィ」は、市道3号線のひとつ手前(海より)の横道路沿い(やえやま幼稚園の東側)にあります。

登野城の古地図に記された道です。かつて天川御嶽(アーマーオン)から北側に延びる道があり、神の道と呼ばれていました。伝承では天川御嶽への参拝道とされています。
現在は、住宅建設などで周辺は大きく様変わりし、わずかにブロック塀に挟まれた幅1m長さ10mほどの道だけが残っています。
 
「カンヌミチィ(神の道)」 「カンヌミチィ(神の道)」

地図2.(登野城地区2)


13.米為御嶽(イヤナスオン・イヤナシィオン)

米為御嶽は、石垣市営野球場(運動公園)の西側にあります。

以下は、「米為御嶽」の説明標柱より一部抜粋

 米為御嶽は、八重山にはじめて稲作を伝えたとされる兄タルファイ、妹マルファイのうちマルファイの墓とされ、のちの人々が稲作を伝えた神として尊崇し、御嶽として信仰されるようになったといわれる。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、米為御嶽は字登野城の御嶽として信仰されている。また、タルファイの墓も同様に尊崇され、大石垣御嶽(ウシャギオン)として字大川の人々に信仰されている。
 伝承によれば、タルファイ・マルファイは安南(現在のベトナム)のアレシンという所から稲種子を持って来島し、登野城の小波本原(クバントゥバル)に住居し、水田を開いて島民に稲作を指導したとされる。登野城の種子取祭や豊年祭などの農耕儀礼は、この御嶽と兄妹の住居跡とされる小波本御嶽を中心に、現在でも古式豊かに執り行なわれている。

Tai phi and Mal phi are two siblings who were the first to introduce rice growing to the Yaeyama region. It is said that the Iyanasu On (sacred praying site) is grave of Mal phi that became worshiped by the future generations. The grave of the Tal Phi is similarly worshiped by the local people as the Ushagi On.

八重山における稲作の始まりに関わる御嶽です。御嶽名の「イヤナス(イヤナシィ)」は「米ニ為ス(シ)」とされていますが、稲の発祥を意味しているのか、単なる当て字なのかは不明です。登野城の農耕儀礼の中心で、水元の神でもあります。
 
「米為御嶽」遠景 「米為御嶽」広場
「米為御嶽」イビ門

14.小波本御嶽(クバントゥオン)

この御嶽は、石垣市営野球場(運動公園)の西側にあります。幅1mもない小路を通って御嶽に行きます。
ここは、八重山に初めて稲作を伝えたとされる安南国(現在のベトナム)出身のタルファイ、マルファイ兄妹の住居跡と言われます。
元御嶽(ムトゥオン)や大御嶽(ウフオン)などと言う呼び名がある貴重な御嶽ですが、鳥居や拝殿のような構造物はありません。イビ門の石垣がまばらに残っている程度で、周囲は大きな木々に取り囲まれています。(御嶽全体が森林化しています。)
妹マルファイの墓は米為御嶽、兄タルファイの墓は大川の大石垣御嶽(ウシャギオン)とされ、いずれも重要な農耕儀礼の地となっています。
 
「小波本御嶽」 「小波本御嶽」への小路

地図3.(新川地区)


15.真乙姥御嶽(マイツバーオン)

 1500年、オヤケアカハチの乱で、琉球王府・中山軍に協力した八重山の群雄割拠時代の英雄、長田大翁主(ナータウフシュ)の妹・真乙姥(マイツバ)という女性を祀った御嶽です。

 オヤケアカハチと敵対した長田大主には、真乙姥と古乙姥(クイツバ)の二人の妹がいましたが、長田大翁主は妹の古乙姥を今で言う政略結婚という形でオヤケアカハチの元に嫁がせ、隙を見てオヤケアカハチを暗殺するように指示しました。 しかし、古乙姥はオヤケアカハチを愛してしまい、兄の企みには加担せず、結果としてオヤケアカハチとともに王府軍に殺されてしまいました。
 一方、長田大翁主のもう一人の妹、真乙姥は兄に従い王府軍のために働きました。彼女はオヤケアカハチの乱鎮定後、王府軍が首里まで無事帰還できるよう、美崎山へこもって祈願しました。これが叶ったということから、平得村の多田屋遠那理(ターダヤブナリ(オナリ))とともに尚真王から初代永良比金(イランビンガニ)という神職を授けられました。 その後、真乙姥は人々の尊敬を集め神職としての役目を全うし、没後は立派な墓が作られ供養されました。そして、この墓地は真乙姥御嶽として多くの人々から崇敬されるようになりました。但し、御嶽になった年代は不明です。

 この真乙姥御嶽では、毎年旧暦の6月に四箇字(石垣・登野城・大川・新川)の盛大な豊年祭(ムラプール)が執り行われています。
 
「真乙姥御嶽」 拝殿前にあるオオバアコウの大木
(推定樹齢:200〜300年)
 
「真乙姥井戸」(マイツバカー)  
「真乙姥御嶽」の東側の道路を少し上ると「真乙姥井戸(マイツバカー)」があります。 石垣中学校の正門前になりますが、正に道(十字路)のど真ん中にあります。
 丸い石造りの井戸は、既に蓋がされ使用されている様子はありませんが、桶を吊り下げていたと思われる金具などが昔のまま残されています。
 この井戸は、真乙姥御嶽を深く信仰していた宇根通事(ウーニトゥージ)という地元の船頭が掘ったとされ、今でもこの井戸の水は神事に使われているそうです。

井戸の正面には次のように記されています。
 昭和五十七年
 真乙姥井戸
 宇根弘

16.長崎御嶽(ナガサキオン・ナーシィキィオン)

石垣島四ヶ字の豊年祭・オンプールにおいて、字新川(集落)の会場となるのが「長崎御嶽」です。オンプールでは豊作の感謝を祈願します。

昔、長崎家(ナーシィキィヤー)の祖が森で怪しい火の明滅に気づき、訪ねてみると夫婦石があったそうです。霊石に違いないと考えた祖は、それ以来お参りするようになります。
ある凶作の年、なぜか長崎家の作物だけは豊かに実ったそうです。そこで村人たちは社を建て信仰を深めたのが、この「長崎御嶽」の由来とされています。
 
「長崎御嶽」 「長崎御嶽」のイビ

17.大嵩屋の御嶽(フータキヤーヌオン)

桃林寺からざっと500m西に行った沖ハム八重山営業所の隣にある木々の中にあるのが大嵩屋の御嶽で、大嵩家一族の氏御嶽(ウジィオン)です。
大きなウラジロエノキ(コーブグ木)の根元に香炉が一つ置かれていますが、一族の繁栄と健康、豊作祈願などが行なわれているそうです。
御嶽の由来は、二百数十年前に大嵩家の兄弟が唐に旅したとき、妹がここで旅の安全を祈願したところ、無事に帰島することができたことから、一族の御嶽として拝むことになったそうです。
 
「大嵩屋の御嶽」 「大嵩屋の御嶽」の香炉

18.本宮良の主の御嶽(ムトゥメーラヌシューヌオン)

新川の通称市道2号線沿い、宮城ガーデンの向いにあります。俗称は「オンナー」。小さな御嶽という意味の名が付けられています。
1624年のキリシタン事件で処刑された元宮良頭・石垣永将を祀っており、御嶽の位置は、石垣永将が火あぶりの極刑にされた場所と伝えられています。石垣の死を悼む親族、嘉善姓関係者が供養を続け、御嶽になったものと考えられます。祠には十(クルス)の印が付けられています。
 
「本宮良の主の御嶽」 「本宮良の主の御嶽」の遠景

19.唐屋の御嶽(トーヤーヌオン)

「唐屋の御嶽」は、新川の唐真家(トーヤー)一族の祖先を祀っている氏御嶽です。新川の「かんな歯科クリニック」の南隣に「唐真家報祖之碑」が建てられています。
はるか昔に、唐の国から2人の兄弟が石垣島に漂着し、住民に助けられ、新川村に住み着きました。兄弟は流刑処分を受けたと言い、イノシシを生け捕りにしたりするなどして村人を驚かせました。棒術の名人でもあり、崎枝海岸で南方系の遭難者を救助、これが新川の伝統芸能「パイヌシマカンター棒」のきっかけになったとされています。
 
「唐屋の御嶽」 「唐屋の御嶽」の遠景

20.後の御嶽(シーヌオン)

この「後の御嶽」は、真乙婆御嶽西・4号線沿いの高那氏屋敷内にあります。

大嵩家の兄弟が唐旅をしたとき、姉はこの地でも祈願を重ねたことから祈願所となりました。プナリィンガンを祀ると伝えられていることから祈願をこめたその妹を祀ったものと推測されます。


福木に囲まれた中に香炉が1つ置かれています。大嵩家一統縁の御嶽でフータキヤーヌオンと関連があり、その北方に位置していることからシイヌオン=後の御嶽の名が付いたようです。

※個人の敷地内ですので了解を頂き、撮影させて頂きました。

 
「後の御嶽」(シーヌオン) 後の御嶽」への道

地図4.(石垣地区)


21.長田大翁主霊(ナータウフシュリョウ)

「長田大翁主霊」は、石垣市役所から万世館通りを北(山側) へ上り、4号線との交差点の手前左側にあります。

ここには八重山の群雄割拠時代の英雄の一人、長田大翁主(ナータウフシュ)の霊が祀られています。長田大翁主は1500年のオヤケアカハチの乱で、琉球王府軍側につきアカハチを討伐し、その功績により古見首里大屋子という要職に任命されました。
この石碑は長田大翁主を称えるためのもので、彼はこの地で身を隠し神となったと云い伝えられています。
 
「長田大翁主霊」

22.宮鳥御嶽(メートゥルオン)

以下、「宮鳥御嶽」の説明書きより一部抜粋

 この御嶽は、文献上は最初に「八重山嶋由来記(やえやまじまゆらいき)」(1705年)に記載されており、「琉球國由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)」(1713年)には「宮屋鳥御嶽」という表記もある。 方言では「メートゥルオン」などと呼ばれている。 神名は「ヲレハナ」、御イベ名は「豊見タトライ」とある。
 上の二つの由来記によれば、「石城山(いしすくやま)に住んでいたナアタハツ、平川(ひさがー)カワラ、マタネマシズの三兄弟妹がここを御嶽として拝み始めると作物が豊かに実るようになった。 すると、人々は彼らを慕い、周りに集り住むようになった。そして、人々が増え、石垣・登野城両村へと発展していった。」と伝えられている。
 このように石垣四カ村発祥の伝承をもつ御嶽であり、字石垣の豊年祭をはじめとする年中行事の舞台となる御嶽であることなどから石垣市の重要な文化遺産になっている。
 境内全体の構成は、鳥居、拝殿、イビ手前の木造の門、石造のイビ門、イビ内の祠(ほこら)が南北の軸線上に配置されている。 拝殿の敷地には砂が敷かれ、段差のある三つの領域に区分されている。
 拝殿(大正12年改築)は、桁行(けたゆき)約6.73m、梁間(はりま)約5.82mの木造入母屋赤瓦葺である。 拝殿の背後の敷地はさらに約70cm高くなっており、拝殿後方両脇と中央部後方に石段が設けられている。 その奥にはイビ垣を囲む栗石積みの垣があり、その中央に木造切妻造赤瓦葺門(薬医門型)がある。
 イビ垣内部には、正面と左右に門を開いた石垣で囲われた領域があり、正面の門には琉球石灰岩の大きな一枚岩がのせられている。
 御嶽全体を包み込むようにそびえ立つ樹木のなかに、県指定の天然記念物リュウウキュウチシャノキも自生している。


 「宮鳥御嶽」は、石垣村の起源とされており、ここから登野城・大川・新川の各村に分村されたという、四箇字創建の神話を伝える御嶽です。
 かつて「宮鳥御嶽」の敷地は、現・石垣小学校の全敷地を含む広大な森でしたが、明治時代に校舎建築のため現在の規模になったそうです。
 
「宮鳥御嶽」遠景 文化財指定柱
「宮鳥御嶽」拝殿 「宮鳥御嶽」イビ門
「宮鳥御嶽」の説明書き 御嶽内の樹木

かつてここが森であったことを示すように、今でも御嶽の周囲には大木が自生しています。

23.長田御嶽(ナータオン)

「長田御嶽」は、「ゆいロード」沿い、「スーパーホテル石垣島」の西側にあります。
両側をビルに囲まれ、まさにビルの谷間にある御嶽です。かつてここは大木に囲まれ、東ヌ山(アンヌヤマ)とも呼ばれていたそうです。

この御嶽は、八重山の群雄割拠時代の英雄、オヤケアカハチの乱で琉球王府に協力した波照間島出身の長田大翁主(ナータウフシュ)信保を祀る長栄姓一門の氏御嶽とされ、かつては祈願所で、のちに一門が御嶽として拝むようになったとされています。長田大翁主は1517年に62歳で死去し、ツカラ岳南の山座利に墓があります。境内の石碑は1956年に長栄姓一門が改築建立しました。
一方で、宮鳥御嶽の創建にかかわった3姉弟(ナタネマサシという女性、ナアタハツ、ピサガカーラという男性二人)の一人であるナアタハツを祀った宗家の御嶽であるという説もあります。
 
かつての「長田御嶽」外観 2020年2月に33年ぶりに建て替えられた木造鳥居

24.ビッチンヤマ

「ビッチンヤマ」は、「美鎮山」とも記されます。
この御嶽は字石垣の18番街の角地にあります。御嶽への入口が建物によって塞がれているためやや分かりにくいですが、御嶽内の樹齢150〜200年と言われるクワノハエノキの大木が目印となります。

「ビッチンヤマ」は、石垣島育ちの作家「池上永一」著の「風車祭(カジマヤー)」の舞台として知られています。
伝承によれば、ビッチンヤマは明和大津波(1772年)の直後のころ、石垣村の役人が波の上に浮いていた石を持ち帰ろうとしたところ、現在の場所で急に重くなって持てなくなったことから「聖地に違いない」として祀ったのが、この御嶽の始まりだそうです。
なお、名前の由来について伝えられたものはないそうですが、丁字路に邪鬼払い目的で設置される自然石「ビッチリ」とも関係があるのではないかと言われています。
 
「ビッチンヤマ」遠景 「ビッチンヤマ」

25.龍宮の御嶽

「ビッチンヤマ」のすぐ近く(南側)にある御嶽です。
ミルクヌウガン、イシガチヌウガングワーとも呼ばれています。

この地が昔、美鎮御嶽(ビッチンヤマ)の霊石が上陸の際、一時休憩したところであることが分かり、ここに住んでおられた方は別の所に移転し、ここを霊地として美鎮御嶽の分神を龍宮の神として祀り信仰することとなったそうです。

旧5月4日(ユッカヌヒ)の石垣ハーリー組は美鎮御嶽と龍宮の御嶽を参拝してから出陣するのが慣例になっています。
小祠の中にはミロクの面が一つ安置されているそうで、このことからミルクヌウガンの名が付けられたようです。
 
「龍宮の御嶽」 「龍宮の御嶽」遠景

26.かざるぱか*

「かざるぱか」は、石垣小学校正門の道路隔てた向い側(東側)にあります。

「かざるぱか」は、宮鳥御嶽の初代神司「またねましす」の墓です。
「またねましす」は昔、バンナ岳の麓の石城山に住んでいた信仰心の厚い心優しい3兄弟の長女です。神のお告げで石垣小学校の校庭にあったガジュマルの根元に拝所を建てました。宮鳥の神を熱心に信仰したところ豊作が続いたことから周辺に人が住むようになり、石垣村ができたと伝えられています。
また、伝えでは、「またねましす」はこの場所に草履とつえを残して姿が見えなくなっていたので、時の人々がここ(宮鳥山)から昇天されたとして、ここに祀ったということだそうです。
この墓は1959年8月14日に改築されました。
 
「かざるぱか」 「かざるぱか」遠景
 

27.欠

地図5.(大川地区)


28.大石垣御嶽(ウシャギオン)

大石垣御嶽(シャギオン)は、大川の海星小学校の向かい(北側)にある御嶽です。
大石垣御嶽は大川の豊年祭(プール)が行われる御嶽で、毎年、ここはメインの会場となります。


八重山に初めて稲作を伝えたとされる安南国(現在のベトナム)出身のタルファイ、マルファイ兄妹の、兄タルファイの墓が、のちに御嶽として信仰されるようになりました。
もともとは石垣村の御嶽だったと伝えられています。
 
「大石垣御嶽」遠景 「大石垣御嶽」拝殿

29.基斗御嶽(キドゥオン)

基斗御嶽(キドゥオン)は、大川の八重山病院の北西部約500mの畑の中にあります。ここは大川村の元牛ヌ御嶽の場所とも言われます。
基斗御嶽は1771年の明和の大津波で流されたそうですが、戦後、この場所からイビと香炉が発見され、関係者により御嶽が再興されました。御嶽の名称は、神の霊示に基づくものだそうです。
また、拝殿奥にある琉球石灰岩のイビや香炉は出土当時のものだそうです。
 
「基斗御嶽」遠景 「基斗御嶽」鳥居と拝殿

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