石垣島の石碑・説明看板(郊外-3)  更新 2022.12.11

※今回は、No.30の追加を行いました。

ここでは石垣島の郊外(島の西部地区・川平まで)にある石碑・説明看板について紹介します。
石垣島の市街地(石垣・登野城・大川・新川・新栄町・真栄里・八島町)にある石碑・説明看板については、別のページを参照してください。

No. 名 称 場 所
1. ラムサール条約湿地 名蔵アンパル 名蔵
3. 大田原遺跡 名蔵
5. 石柱のバス停(フーネ) 名蔵
7. 地神宮 名蔵
9. 水難之碑* 崎枝
11. 南無観世音菩薩像 崎枝
13. 石垣-蘇澳 姉妹締結記念碑 崎枝
15. 温故知新の碑* 崎枝
17. 石垣御願崎灯台 崎枝
19. 感謝記念碑* 川平
21. 平和之塔 川平
23. 底地海水浴場の説明看板 川平
25. 川平湾の人魚物語 川平
27. 仲間満慶山英極生誕之地* 川平
29. 川平村の歴史 川平
31. 赤イロ目宮鳥御嶽 川平
No. 名 称 場 所
2. 国指定名蔵アンパル鳥獣保護区 名蔵
4. 仲間満慶山終焉之地の碑* 名蔵
6. 名蔵入植50周年記念碑 名蔵
8.
10. 入植三十周年記念碑 崎枝
12. 八重山丸沈没事故の慰霊碑 崎枝
14. 八重山丸遭難 詩碑 崎枝
16. 姉妹締結15周年記念碑 崎枝
18. 電信屋 崎枝
20. 石柱のバス停(ヨーン) 川平
22. 史跡 川平貝塚 川平
24. 伊波南哲詩碑* 川平
26. 黒蝶真珠養殖発祥の地 川平
28. 川平観音堂 川平
30. 川平鶴亀節 川平

地図1.


1.ラムサール条約湿地 名蔵アンパル

ラムサール条約湿地


 名蔵アンパルのマングローブ林


この説明看板は名蔵大橋横の駐車場横に設置されています。
 ラムサール条約湿地 名蔵アンパル
 国を越えて旅をする多くの水鳥が、休憩したり、安全に子育てをしたり、冬を越したりする場所として、世界各地にある自然豊かな湿地を利用しています。水鳥だけでなく、私たち人間も古くから湿地を利用し、豊かな”恵み”を享受してきました。
 そこで、多くの国々が協力して湿地の賢明な利用と保全をはかるため、1971年イランのカスピ海湖畔の町ラムサールで「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」が定められました。
 名蔵アンパルは、平成17年11月8日にラムサール条約湿地に登録されました。将来の世代にもこの”恵み”を引き継いでいくため、私たちの生活とバランスのとれた湿地の保護と利用を進めていきます。

名蔵アンパル
 バンナ岳、前勢岳(まんせだけ)、沖縄県の最高峰於茂登岳(おもとだけ)から流れる名蔵川などの豊かな水系がそそぎこむ、東西1.5km、南北2kmほどの湿地が名蔵アンパルです。
 名蔵アンパルは、マングローブ林や海岸林、砂浜に囲まれ、湖が引くと広大な干潟が現れます。ひとまとまりになった多様な自然環境には、カニやエビ、魚貝類、鳥類など、多くの種類の生物がくらしています。
 この豊富な餌と安全な環境を求めて毎年たくさんの水鳥が名蔵アンパルに渡ってきます。ここは、やってきた水鳥たちの大切な休憩場所や越冬地になっているのです。

民謡 「あんぱるぬみだがーまゆんた」
 名蔵アンパルは、古くから島の人々に親しまれ生活に利用されてきました。そのような人と自然とのかかわりの中で生まれ、歌い継がれてきた民謡が「あんぱるぬみだがーまゆんた」です。
 この民謡には、名蔵アンパルでくらす多くのカニが登場し、それぞれの姿形や行動に合った役で宴会をしている様子がユーモラスに歌われています。
 実際のカニたちはどのような姿や動きをしているのでしようか?
 「あんぱるぬみだがーまゆんた」
 (以下省略)

2.国指定名蔵アンパル鳥獣保護区

国指定 名蔵アンパル鳥獣保護区


名蔵アンパル


自然のゆりかご名蔵アンパル


こちらの看板には、名蔵アンパルで見ることのできるマングローブ、カニ類、ハゼ類、貝類、鳥類が描かれています。
これらの看板は名蔵大橋横の駐車場横に設置されています。
国指定名蔵アンパル鳥獣保護区
平成15年度指定
 名蔵川河口域のマングローブ林、干潟、海浜、原野、海岸林に名蔵湾の一部を加えた一帯は、国指定名蔵アンパル鳥獣保護区(面積:1145ha)に指定されています。
 亜熱帯のさまざまな自然環境がまとまって分布しているため、多くの種類の鳥類を観察できることがこの鳥類保護区の特徴です。この地域をシギ・チドリ・サギ類の水鳥は渡りの中継地又は越冬地として、また、猛禽類、森林性鳥類等は生息の場として利用しているため、水鳥類ではクロツラヘラサギ、セイタカシギ、アカアシシギ等、猛禽類ではカンムリワシ、リュウキュウツミ、チュウヒ等、森林性鳥類ではキンバト、オオクイナ等の希少な鳥類が観察できます。
 鳥類保護区のマングローブ林、干潟、海岸林等の一部は鳥類の生息環境として特に重要であるため、特別保護地区に指定されています。鳥類保護区内では、鳥類の捕獲が禁止されており、さらに、特別保護地区内においては、①建築物や工作物を新・改・増築する、②水面を埋め立てる又は干拓する、③木竹を伐栽する場合には環境大臣の許可が必要となります。
 名蔵アンパル鳥獣保護区の自然が将来にわたって野鳥をはじめとした野生動物たちの住みかであり続けるようこの環境を守っていくことが大切です。

 環境省那覇自然環境事務所

3.大田原遺跡

大田原遺跡の説明看板




この説明看板は、名蔵集落側から向うと名蔵神田橋の手前(右手側)の道路沿い、木々に覆われた台地上にあります。
      大田原遺跡(おおたばるいせき)
                                石垣市指定文化財 史跡
                                平成8年11月12日
 この遺跡は、県土絵石垣浅田線の拡幅工事に伴い昭和55年(1980)沖縄県教育委員会による発掘調査が行われた。出土した遺物は多量の土器片と石斧で、前者は波照間島下田原貝塚出土土器を標識とする下田原式土器で、後者は刃の部分を中心に研磨する局部磨製石斧である。これらと同じ深さから出土したシャコガイ貝殻の放射性炭素年代測定によって紀元前1800年頃という石垣島では最も古いグループに属する遺跡であることが知られている。
 遺跡は名蔵川沿いの小台地上に広がっていて、戦後になって、主にパイン畑やサトウキビ畑などに利用されてきた。昭和57年(1982)、個人農家の土地改良工事に伴う発掘調査が石垣市教育委員会によって行われ、この頃をさかいに一帯の地形は急変した。現在では、道路脇の擁壁に面する箇所にのみ遺跡の一部が残されている。
 出土した石斧は全般的に小型で全体の形も変化に富む。刃の部分が片刃的特徴をしめすものが主体を成すことはこの時期の八重山の石斧の大きな特徴にあげられている。出土土器は、下田原敷く土器と呼ばれる赤色を帯びた分厚いもので胎土に粗い石英粒を含んでいるのが特徴的で文様の無いものが主体であるが、まれに沈線などを浅く施すものなども知られている。この登席の源流については、南方系であることのほかはよく分かっていない。
 なお、昭和55年の前記発掘調査は隣接する八重山編年上、無土器時代に位置付けられている神田貝塚も同時に行われ、両遺跡の層序関係が多いに注目された。この貝塚はかつて神田橋の手前から名蔵集落方向へ150mの範囲に広がっていたが、発掘調査後道路工事によってほとんど消失した。
 この指定地一帯において無断で現状変更することは、石垣市文化財保護条例により禁止されています。
                                石垣市教育委員会
                                平成22年3月


ここに記されているように、大田原遺跡は、約3800年前の下田原期の遺跡ですが、八重山では土器のある時代 から、土器のない時代(有土器→無土器)に移行するという、日本国内でも他例がない不思議な先史時代があり、それがこの大田原遺跡とすぐそばにある神田貝塚の調査から分かりました。
このことから、大田原遺跡は八重山の考古学上(学問上)、大変重要な遺跡と位置づけられています。

4.仲間満慶山終焉之地

仲間満慶山終焉之地の碑 [表面]

[裏面]


この碑は、石垣と川平の間の県道沿いのケーラ崎(石垣焼窯元の正面・海側)にあります。
[表面]
仲間満慶山終焉之地

[裏面]
十五世紀の末葉この地で英傑満慶
はオヤケ赤蜂の謀略の刃に殪れた
一九六一年十月憲章姓一門会建立



伝承によれば、1500年の「オヤケアカハチの乱」以前に大浜村を拠点に活躍していたオヤケアカハチは、登野城の仲須目原(ナカシィメーバル)で、川平村の仲間満慶山(ナカマミツケーマ)と会見し、首里王府(国王:尚真王)に対抗し共に戦おうと申し出をしました。しかし、仲間満慶山はこの協力を断ります。その後、仲間満慶山は川平村に帰る途中、オヤケアカハチの手下の仕掛けた落とし穴に落ち、名蔵湾沿いの岬で無念の死を遂げました。享年32・33歳ごろと言われています。
この「仲間満慶山終焉之地」の碑は、昭和36年(1961年)10月に、彼の子孫にあたる憲章(ケンショウ)姓一門の関係者によって建立されました。

5.石柱のバス停(フーネ)

石柱のバス停


フーネのバス停


この石柱は名蔵湾沿いのフーネのバス停の近くにあります。

バスのりば


かなり古いものと思われますが、詳細については調査不足で不明です。

地図2.

6.名蔵入植50周年記念碑

名蔵入植50周年記念碑


同 下段


同 裏面


同 裏面


この碑は崎枝公民館の前庭にあります。
【表面 上段】
名蔵入植50周年記念碑

【表面 下段】

名蔵入植50周年記念事業(延床面積八〇坪、敷地九〇〇坪)
記念事業費総額      (六七、三七一、〇〇〇円)
一.施設建設費助成金   五八、〇七一、〇〇〇円
  (造成費と合括)
二.施設建設費負担金     三、〇〇〇、〇〇〇円
三.備品費            二、〇〇〇、〇〇〇円
四.環境整備費         二、三七一、〇〇〇円
五.落成式典祝賀会費       六〇〇、〇〇〇円
六.記念誌作成費        一、五〇〇、〇〇〇円
七.運営費               二〇〇、〇〇〇円

名蔵入植50周年記念事業期成会 
         会長    (以下氏名は略)
         副会長
         書記会計
名蔵公民館 館長
         副館長
         書記
         会計
落成式典事業代表
記念誌発刊代表
募金部
         壮年代表
         婦人代表
         青年代表
監事
運営顧問


【裏面】
設計
 名蔵中学校三期卒業 東浜永松
製作会社
 有限会社 沖縄国際海運

7.地神宮

地神宮 (右後方は御茂登岳)


同 側面


白石御嶽(右)と地神宮(左)


この石柱は名蔵の白石御嶽の境内横にあります。
【表面】
地神宮


【側面】
明治37年8月吉日世話人・宮前、清水


名蔵・浦田原の白石御嶽の境内に隣接した場所に建立されています。
高さは約1m
ほどです。
金城朝夫氏の「八重山開拓移民」によれば、サトウキビ開拓などで四国・徳島から一帯に入植した農業労働者によって分祀建立された農業神だそうです。
現在では入植者たちの信仰や祭祀も途絶えたようです。

8.欠

地図3. 

9.水難之碑

水難之碑


碑文


この碑は崎枝から御神埼灯台に行く途中の右手(海側)にあります。
水難之碑

建立の記
平成十年九月十七日午後二時三十分 高波にさらわれし朋友を救わんとした乙女は荒海にひとり毅然と立ち向うも力尽き此所オオハマガマの海に帰らぬひととなる
嗚呼・・・
吾は知る ときに人の危うきを見て命(メイ)を授く仁人(ヒト)有るをそれが海外での奉仕活動を念い続けていた乙女の生き方の規範であり優しさであったと
ここに
今は亡き乙女の御霊の永遠に安からんことを祈り この碑を建て 再びこのような悲しき水難事故の起こらんことを切に願う



この碑は1999年に建立されました。前年の1998年9月、近くで遊泳中に沖合に流された友人の救助に向い死亡した女性観光客の関係者が、供養と悲しい水難事故の防止を願って建立したものです。当時、付近の海域はサンゴ礁が発達、地元住民を中心に口コミで遊泳地として人気がありました。しかし、ここは米原海岸同様に潮の満ち引きにより離岸流が発達しているため、特に注意が必要な浜です。

10.入植三十周年記念碑

記念碑 全景表面


同 裏面


記念碑 下段


この碑は市街地から川平方面に向かって行き、崎枝集落への分岐路の手前に建てられています。
[上段表面]
入植三十周年記念碑
崎枝部落会

[上段裏面]
昭和五十四年九月吉日之建

[下段裏面]
繁昌節
だんじゅ豊まりる崎枝ぬしきや
黄金岡くさで 田ぶく前なし
うやき繁昌 勝る繁昌
且つまた 弥増し

崎枝部落入植三十周年記念事業
一.入植記念誌の編纂
二.崎枝お嶽の改築
三.入植記念碑の建立
記念事業期成会役職員
  会長   石垣蒲戸
  副会長  石垣博正
  書記会計 喜舎場 功
記念誌編纂委員 
  委員長  渡慶次賢康
  会計   石垣岩男
記念碑建立工事施工者
       崎枝青年会
昭和五十四年(一九七九年)九月一日

地図4.


11.南無観世音菩薩

南無観世音菩薩


碑文拡大


この碑は御神埼灯台下の広場にあります。
南無観世音菩薩
この菩薩像は八重山丸遭難
者遺族の会が海難で犠牲と
なった人々の御霊に対し白
浄の信心を発して無上の菩
提を祈求精進し よって御霊
の平安と船舶の航行安全を
願って建立した
昭和五一年一二月八日


八重山丸の遭難は、北からの激しい季節風が吹き荒れ大時化となった中、不幸にも操舵用のチェーンが千切れ、航行の自由を失った同船は横波を受けて横転沈没したそうです。

12.八重山丸沈没事故の慰霊碑

慰霊碑


慰霊碑と海


この碑は御神埼灯台下の広場にあります。
[上段]
八重山丸遭難者氏名(35名)

(以下氏名は略)

[下段]
八重山丸(40.39トン)は昭和二七年十二月八日那覇からの帰途おがん崎南西二千六百米の地点で遭難沈没し死亡行方不明者三五人を出した。ここに故人の二五回忌を迎えるにあたり遺族会がこの碑を建立する。
昭和五一年十二月八日
八重山丸遭難者遺族の会

13.石垣-蘇澳 姉妹締結記念碑

姉妹都市締結記念碑


姉妹締結記念碑


この碑は御神埼灯台前の広場にあります。
[左]
石垣市-蘇澳鎮 姉妹都市締結十五周年記念
第十八代 石垣市長  中山 義隆
第十六代 蘇澳鎮長   林 騰煌


[右]
(社)八重山青年会議所
蘇澳
港國際青年商會
姉妹締結三十周年記念
 以下省略

14.八重山丸遭難 詩碑

詩碑




この碑は御神埼灯台下の広場にあります。

(表面) (裏面)
うがん崎
盆の供物の
漂える
 信甫
平成五年 晩秋建立
西表信甫
句碑建立期成会


八重山丸の遭難に心を痛めた作者は、この句を詠み石に刻み慰霊としました。前記の観音菩薩像と同一の製作者だそうです。

15.温故知新の碑

温故知新の碑 (表面)


同 (裏面)


この碑は御神埼灯台前の広場にあります。
 
[上段]
 (社)八重山青年会議所創立50周年記念
 温故知新
 社団法人 八重山青年会議所 第50代理事長 黒島 栄作
     50周年記念事業実行委員会 運営総括 平得脩一郎
                       2011年8月1日建立

[下段 主文]
社団法人 八重山青年会議所
創立五十周年記念石碑 主文

 現在私達がこの地域で幸せに暮らすことができるのは、先人たちの知と汗と涙の結晶であり、私達の生活はその上に成り立っている事を知らなければなりません。世界の恒久平和が究極の目的である日本最南端の青年会議所として、時代の変化へ即応すべく組織づくり、まちづくりを常に提言し行動に移すことが、私達の使命だと考えます。
 今年、八重山青年会議所は創立五十周年を迎えます。守るべきものは守り変えるべきものは変え、新しい価値を創造しながら未来へ繋げていく為に、温故知新の精神を以って此処に記念碑を建立しこれからの活動の礎と致します。
             二〇一一年八月一日
             社団法人 八重山青年会議所
             第五十代理事長 黒島 栄作



除幕式や記念式典は姉妹青年会議所の台湾・蘇澳港國際青年商會メンバーも出席して行われました。

16.姉妹締結15周年記念碑・絆

記念碑 全景


下段碑文


同 裏面


この碑は御神埼灯台前の広場にあります。
姉妹締結15周年記念事業

1996年7月31日建立

中華民國蘇澳港青年商會
第20代會長 劉慶祥
(社)八重山青年会議所
第35代理事長 福島英洋


その他 略

17.石垣御願崎灯台


説明看板

この説明看板は御神埼灯台登り口にあります。

石垣御願崎灯台

一般には単に御神埼灯台と呼ばれています。
石垣御願崎(いしがきおがんさき)灯台
~夕日とテッポウユリ、そして白亜の灯台~


この灯台は、昭和58年(1983年)3月に景勝地である御願崎に建設され、春には野生のテッポウユリが咲き、南海の壮観な眺めに一層の彩を添えています。この岬の沖合いでは、昭和27年(1952年)12月8日、那覇から貨客を満載して石垣へ帰る途中の八重山丸(40トン)が、折からの季節風のため遭難し、死者行方不明者35人を数える大惨事となりました。この海難事故から25年後の昭和51年(1978年)12月8日、遭難の碑が建設され、灯台と共に沖に向かって航行の安全を見守っています。

位 置      北緯 24度27分09秒
          東経124度04分43秒
光り方      単閃白光 毎10秒に1閃光
光の強さ    31万カンデラ
光の届く距離 21.0海里(約39キロメートル)
高さ       地上から灯台頂部 約17メートル
          水面から灯台   約62メートル
管理事務所   石垣海上保安部
          電話 0980-82-4842
海上保安庁  燈光会  日本財団


※ 地図は省略

地図5.

18.電信屋

電信屋記念碑


電信屋碑文



  
碑文
 1895年(明治28)の日清戦争終結後、日本はその領有となった台湾との間に通信回線を敷設することにし、1896年(明治29)先ず鹿児島~沖縄本島との間に、次いで翌1897年(明治30)沖縄本島~石垣島~台湾間・石垣島~西表島間に海底電信線を敷設した。
これにより、本土~沖縄本島~石垣島~台湾間の通信回線網が完成した。
 当初、通信回線は陸軍省が管轄していたが、後に逓信省に移管され1897年(明治30)7月1日八重山郡大川村12番地に八重山通信所を設置し一般公衆電報の取扱を開始した。
以来この海底電信線は明治・大正・昭和の三代にわたって政治・経済・文化その他各分野の先駆けとしての重要な使命を、担っていたが太平洋戦争の戦災を受け昭和20年に破壊された。
 21世紀高度情報化社会の到来とIT新時代を迎え、電気通信システムも著しく変貌しつつあるが、この海底電信線の敷設された歴史的経過を永く残すため、海底電信線の陸揚げ地であるこの地に記念碑を建立する。
2001年12月吉日
電信屋記念碑建立期成会

元海底電線陸揚室の
説明看板


電信屋


電信屋は屋良部半島の大崎にあります。電信屋についての詳細は、電信屋記念碑のページを参照ください。
元海底電線陸揚室
石垣市史跡
昭和61年9月25日指定

 俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
 1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって本土-沖縄本島-石垣島-台湾間の通信施設が完成したのである。なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
 開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも使用された。明治30年のことである。この年、石垣島では大川2番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月
石垣市教育委員会

地図6.

19.感謝記念碑

感謝記念碑


碑文


感謝記念碑


この記念碑は川平集落南方の三叉路付近(旧道との分岐点:道下)に建てられています。
感謝記念碑

一九五三年六月
琉球民政副長官
オグデン少将御
来島の際八重山
開発援助のため
川平桴海道路工
事費として百万
円賜った御厚意
に對し此の碑を
建てて感謝の意
を表します。
一九五三年十二月
 八重山地方庁長
 高嶺世太
 石垣島住民一同



これは昭和30年(1955年)12月に建てられた「オグデン感謝記念碑」です。
かつて川平と富野間を結ぶ道は山道で、ジャングルの中を人馬がかろうじて通れる程度のものでした。その山道に対し、当時の琉球米国民政府副長官・オグデン少将が資金援助(B円:100万円)を行い、ブルドーザーやグレーダーなどの機械力を導入し、昭和28年(1953年)に車が通れる程度に整備されました。このことから、竣工した川平~富野間(6.7km)の道路は「オグデン道路」とも呼ばれるようになりました。


※設置場所が道路下で、かつ雑草が生い茂りやすい場所のため、碑の下段の碑文を確認するまでに長らくかかりました。([2018年春、下草の除草が行われていましたので撮影・判読できました。)

20.石柱のバス停(ヨーン)

石柱のバス停


ヨーンのバス停


この石柱は、川平の「ヨーン」バス停近くにあります。

バスのりば


かなり古いものと思われますが、詳細については調査不足で不明です。

21.平和の塔

平和之塔


同 裏面


裏面 上部拡大


平和之塔 斜め側面からの光景


平和之塔は川平集落からClub Med Kabiraに行く途中の道路沿い左手にあります。
平和之塔

【裏面 上段】
塔建立の趣意
太平洋戦争の末期
昭和十九年 二十年
海軍第十九震洋特攻隊
大河原部隊は石垣島
防衛の為川平に駐屯した
際当部落より多大の
御援助を頂きまた御迷惑
をおかけしました
若き青春時代に苦労を
共にした思い出深いこの地に
永遠の平和を祈念し茲に
平和の塔を建立する
 昭和六十年五月五日
 聖桜会々長
  
【裏面 下段】
海軍第十九震洋特別攻撃隊 寄付者御芳名
(以下氏名略)

【側面】
昭和六十年五月五日建立


「震洋」は艇首に250kgの爆薬を積み、自動車エンジンを搭載した木造合板製の海軍の高速奇襲特攻艇です。大河原部隊は、米英軍上陸時に体当たり攻撃をするため配備されました。特攻艇の格納壕は川平高屋、吉原仲筋側海岸に掘られましたが、出動することはありませんでした。

22.史跡 川平貝塚

川平貝塚の碑文


碑と標柱


川平貝塚の碑

貝塚周辺の光景


川平貝塚は川平集落から底地(スクジ)ビーチに行く道の途中、右手の坂道を上がった所にあります。
【説明板】
史跡 川平貝塚

 昭和47年5月15日 国指定
この貝塚は、比高約30メートルの仲間森と獅子森を含む一帯の原野や畑地に形成されています。1904年(明治37)に考古学者鳥居龍蔵博士によって中央の学会に紹介され、先史時代の南島文化研究の草創の地となったところです。
貝塚から出土する遺物としては、いわゆる外耳土器を含む土器類、中国製品を含む陶磁器類、石器、貝器等があります。先島諸島の遺跡は、大別すると陶磁器類を伴出する遺跡と、それを伴わぬより古い時期のものと考えられる遺跡および石器のみを出土し土器を伴わぬ遺跡に分類できます。陶磁器類を伴出する遺跡の年代は、宋銭の出土をみるものがあることから、ほぼ推定可能です。
川平貝塚は、先島諸島の遺跡の一類型を代表するものであり、学史的にも重要な位置をしめます。
  沖縄県教育委員会
    昭和53年3月31日


【標柱】
史跡 川平貝塚
昭和五十一年三月三十一日建立
昭和四十七年五月十五日指定


川平貝塚は沖縄で初めて考古学調査された遺跡です。遺跡は1904(明治37)年に人類学調査で訪れた東京帝国大学の鳥居龍蔵教授によって、仲間森(盛)と獅子森という2つある丘のうちの、獅子森が調査されました。そして調査結果は「八重山の石器時代の住民に就て」という論文で報告されました。
川平貝塚は15~16世紀の年代のものとされ、川平村の伝承では、村の中心だった仲間村があった場所とのことです。

23.底地海水浴場の説明看板

底地海水浴場の説明看板




底地海水浴場


底地海水浴場は、モクマオウの防風林に沿って白い砂浜が続く、遠浅の波の穏やかな海水浴場です。夕暮れも大変美しい浜です。
西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago, Iriomote-Ishigaki National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands, Sekisei Lagoon (the coral sea between the two main islands), and several smaller islands. Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests, provides ideal habitats for various rare wild animals including the endangered Iriomote wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages can be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and Kuro. Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It features clusters of subtropical forests, which cover its highest peak, Omotodake, at the center of the island. The shores of Ishigaki, including Shiraho Beach, which has one of the largest blue coral colonies in the northern hemisphere, offer breathtaking views to divers. 

底地園地 Sukuji area
底地海水浴場 Sukuji Beach
白いサンゴ砂の美しいビーチが弧状に続き、遠方の岬(川平石崎)と眼前のエメラルドブルーの海のコントラストが優れた自然景観を形成しています。また、ここ底地海水浴場は日本一早い夏を宣言する海水浴場として、観光客はもちろん、住民のレクレーションの場としても利用されています。
A magnificent natural landscape is formed by the striking contrast between the long arc of a beatiful, white coral sand beach with a cape in the distance (Kabira Ishizaki) and the emerald blue of the ocean before you. This bathing beach, Sukuji Beach, is the first in Japan to officially open for the swimming season each year and is a favorite recreational spot for not only tourists, but the locals as well.

屋戸引き屋(ヤドゥピキヤ)
1500年頃に活躍した豪族、仲間満慶山英極がまつられています。

川平貝塚
川平貝塚は底地海岸近くの小高い丘陵にあり、1904年に、鳥居竜蔵博士により調査が行われ、主に15~16世紀と推定される土器や石器、中国の青磁片などが発掘されました。その中から外耳土器と命名された、八重山地方の先史時代を解く鍵となる、学術的にも重要な土器が発見されています。国指定史跡。

24.伊波南哲詩碑

ふるさと 詩碑


(裏面)


伊波南哲詩碑


この碑は底地ビーチの駐車場脇にあります。伊波南哲氏は石垣島出身の詩人で童話作家、また多くの民話も残されています。
ふるさと
 伊波南哲
ふるさとは
わがこころのともしび
のぞみもえ
いのちのいずみわきいで
こころほのぼのと
とめるふるさと

(裏面)
伊波南哲さんは明治35年この島で生れ 昭和のはじめから亡くなられる昭和51年まで 一貫して沖縄をうたい続けた愛郷の詩人でした 代表作の長編叙情詩「オヤケアカハチ」をはじめ「沖縄の民謡」「伊波南哲詩集」など生涯に27冊もの著作を残しました その作品は南国の太陽のように明るくおおらかで台風のような情熱に貫かれた郷土文学です それに沖縄の民族的エネルギーを発揚したものとして 私達沖縄の誇りであります こうした半世紀に及ぶ文学活動を記念するため南哲さん没後の一周忌を機に この詩碑を建立するものであります
昭和52年12月28日
伊波南哲 詩碑建立期成会


数多くの名作を世に送り出した伊波南哲ですが、このほかにも八重農をはじめ郡内各小中学校の校歌を作成したことでもよく知られています。

地図7.

25.川平湾の人魚物語

「川平湾の人魚物語」の説明看板


人魚の像


この説明看板は川平地区の、高嶺酒造所のある交差点を海側に下りた所にあります。
川平湾の人魚物語
 その昔、村の若者が漁をしていると人魚がとれました。そのころ人魚は不老長寿の薬とされていたので、捕まえるのが常でしたが、大変美しい娘(人魚)であったので若者は村人の止めるのも聞かずに、人魚を海に返してしまいました。 若者は村から追われ、行き場を失ったので娘(人魚)が哀れに思い、自分の国へと連れて帰りました。 人魚の国の長老は「娘を助けてくれたので、かの地で二人で暮らせ」と言って見事に光輝く黒蝶真珠を取り出し若者と娘(人魚)に与えました。 二人はこの地へ移り住み子沢山に恵まれ幸せな一生を送りました。それゆえに真珠を身につけ人魚にふれると願い事がかなえられると言い伝えられています。

26.黒蝶真珠養殖発祥の地

黒蝶真珠養殖発祥の地の説明看板


この説明看板は、川平地区にある琉球真珠本店の横(人魚の像の隣)にあります。
世界初黒蝶真珠養殖発祥の地・川平湾
 天然の黒蝶真珠は40万個に1個の割合でしか発見されません。
その希少性ゆえに”幻の真珠”と言われております。
1953年(昭和28年)日本最南端、ここ川平湾で「世界初黒蝶真珠」が誕生しました。
その9年後、1962年にタヒチは黒蝶真珠養殖に成功し、1975年前後から本格的な養殖が行われました。
ここ川平湾で浜揚げされた「黒蝶真珠」が、1968年・世界的に有名な「ミキモト」のニューヨーク支店で販売され話題を呼びました。 当時の黒蝶真珠といえば着色したものしかなく、それが世界の真珠市場で定着していました。
ところが突然、当社の養殖黒蝶真珠が登場したので、ニセモノか本物かで世界の宝石市場で論議となり、科学的に立証され、ようやく世界で認められました。同年代に生産された黒蝶真珠が現在アメリカのスミソニアン国立博物館の沖縄民族コレクションに展示されています。 この「世界初黒蝶真珠」の生みの親、渡嘉敷 進(当社会長)は、半世紀を黒蝶真珠養殖に精魂を傾け、今尚、より美しい黒蝶真珠を求め研究開発に取り組んでいます。
この川平湾で産まれた黒蝶真珠は、美しい沖縄のサンゴの海が生んだ世紀の傑作といえるでしょう。
 現在この黒蝶真珠は国際的に高い評価を得ています。

27.仲間満慶山英極生誕之地

碑の表面


同 裏面


この石碑は、1961年に憲章姓一門会によって川平公園内に建立されたものです。
[表面]
間満慶山英極生誕之地

[裏面]
ばしゆんた

うふ山ぬうちなんが なあ山ぬ すばなんが
うふあこうぬむようり なりあこうぬさしような

英傑満慶山は紀元一四六五年川平に生れた 父は元の王 母は仲間村つかさ仲間サカイ ばしゆんたは母サカイが詠んだと伝えられている


「ばし」とは「鷲」の意味で、八重山に生息するカンムリワシを示しています。「ゆんた」とは八重山古民謡にある農民の労働歌で、男女で交互にうたわれた唱でした。
「ばしゆんた」はこの川平発祥説のほかに、大川(石垣市内)発祥説もあります。

28.川平観音堂

川平観音堂の碑文


川平観音堂遠景


川平観音堂は、川平公園の駐車場東側、川平湾への降り口の横にあります。
川平観音堂
 川平村は八重山でも歴史は古く、川平湾は昔、首里王府への貢納物を集積する三大港の一つで、石垣島から沖縄本島等へむかう船の風待つ港でもあった。
 川平湾を見下ろす小高い丘の川平公園に立つ川平観音堂は、十七世紀中葉に創建されたと伝えられている。
 伝承によると、「川平湾にマーラン船が順風を待って停泊していた。その船から小僧が順風になるまでと川平村へ上陸した。しばらくして戻ってみるとマーラン船はすでに出帆し、遥か沖を帆走していた。小僧は驚き嘆きながら、船が川平湾へ戻るように神仏に一心に祈った。小僧の熱願は天に通じ、北風が吹き船は戻って来て乗船することができ、無事要件をはたした。数年後、小僧は和尚となって帰島し、自分の祈願した地に観音堂を建て祀った」と伝えられている。
 爾来、この川平観音堂には全国津々浦々から、多くの人々が訪れ安全祈願、大願成就祈願、無病息災や縁結びの祈願のために参拝している。
 なお、風光明媚なこの川平湾は日本百景の一つに選ばれ、石垣市文化財の名勝にも指定されている。
  平成四年十月一日
        川平公民館
  奉納  高嶺英正

29.川平村の歴史

「川平村の歴史」の説明看板


同拡大


川平村の古地図

この説明看板は川平駐在所の北側の公園内にあります。
川平村の歴史
 川平(カビィラ)集落は、1500年頃に仲間満慶山(英極)が活躍した村で、
伝承によれば、1185年(寿永4年)当時からあった歴史の古い村です。
 集落発祥の地は、ナカマムリ(仲間盛)一帯にあった仲間村で、その北に
大口、東に仲栄・多田・古場川(久場川)・西・慶田城・玉得・大津原(内
原)の小村があったといわれています。その後、フンシミー(風水見)の外間
親雲上の見立てによって、1686年(康熈25年)頃に川平湾近くへ次第に
移動合流し、古場川村(上の村)、大津原村(下の村)の二村で村を形成
するようになり、ほぼ現在の集落の形になったようです。
 カビィラの語源について宮良當壯説によれば、「蝶の古語”かわひらこ”の
転である。沖縄国頭地方の方言では蝶-ハベル-の事を”カベル”といって
いる」と述べられています。字川平の全区域を地図に描いて全体の形を眺
めてみると不思議に羽を広げた蝶の形によく似ていることが分かります。

30.川平鶴亀節の碑

川平鶴亀節の碑


同 遠景


この碑は、川平公民館の敷地内に立てられています。
川平鶴亀節

一 川平主ぬ御蔭ん
  日差主ぬみぶぎん
  (囃子)鶴亀ヌ舞イ遊ブ
  
二 うやき世ば給らり
  みるく世ば給らり
  (囃子)鶴亀ヌ舞イ遊ブ

三 昔世ぬ廻りより
  あまん世ぬ廻りより
  (囃子)鶴亀ヌ舞イ遊ブ

川平公民館
川平鶴亀節発祥の地
令和元年8月25日建立

31.赤イロ目宮鳥御嶽(アカイロメミヤトリオン)

赤イロ目宮鳥御嶽 説明看板


赤イロ目宮鳥御嶽


この説明看板は、川平ロータリーそば、消防分団の向かいにあります。

赤イロ目宮鳥御嶽(あかいろめみやとりおん)
         石垣市制定文化財(民俗文化財・建造物)
         平成3年11月13日指定
 この御嶽は、別名アーラオンとも呼ばれ、群星御嶽・山川御嶽・浜崎御嶽と並んで川平四嶽の一つに数えられています。川平村の年中行事は、この四嶽を中心に行われ、中でも川平村の雨乞いはここで行われます。またこの御嶽の豊年祭では、境内の一角に祀られているピッチュル(カーラ石)と呼ばれる俵形の石を担いで境内を廻る儀式が行われます。
 「八重山島由来記(御嶽々名并由来記)によれば、御嶽の神名は御嶽名と同じで、御イベ名は「まかお大あるじ」と記述されています。また、川平村では、「牛馬による農作物の被害を避けるため、農作物保護役の野夫佐や馬夫佐へ監視させ、その結果を神司が毎月石垣村の宮鳥御嶽に行き、同御嶽の神司を通じて神に報告する習わしであった。当時の神司がその煩雑さに同情し、宮鳥御嶽への御通しとしてこの御嶽は作られた」と伝えられています。
 この御嶽は鳥居・拝殿・イビ門・イビを東西に直線的に配置し、神庭はイビ門前の広場・拝殿のある広場・下段の広場と高低差によって三段になっています。
 現在の拝殿は、昭和12年(1937年)に建てられたもので、間口が2間半(5m)、奥行き2間(4m)、赤瓦葺寄棟の屋根をおく木造平屋の建物です。拝殿には右側に祭壇が設けられ、「沐陰」の扁額が掛けられています。イビ門は長さ11m、幅80cm、高さは中央部で1.8m、両端で1mと中央部から両端に向かって低くなっています。入口は幅85cm、高さ1.8mで、暑さ15cmの平たい板状の石が乗せられています。イビは半月状で奥には高さ45cmの石積みがあり、香炉が置かれています。
 この御嶽は、川平村の年中行事には欠かせない御嶽で、八重山の民間信仰を知る上で重要なものです。また、拝殿は、御嶽の施設や伝統的な木造建築の変遷を知る上で重要なものです。
 なお、この地域を無断で現状を変更することは石垣市文化財保護条例で禁止されています。
          平成12年3月 石垣市教育委員会


昔、宮鳥御嶽へ通っていた氏子が分家して、川平のこの地に赤イロ目宮鳥御嶽をつくり、以降、四箇字の宮鳥御嶽の分家として存在しています。この赤イロ目宮鳥御嶽は、豊年祭や結願祭の会場となっている御嶽です。
 

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