電信屋    更新 2019.12.14

今回は地図の修正を行いました。

1.電信屋とは

 日清戦争が1895年4月に終結し、日本は、下関条約で中国の清から台湾を割譲させ領有することになりました。
 しかし、中国系の人達は台湾の割譲に納得せず独立宣言をしたり、抗日運動も根強く続いたようで、安定した統治がすぐに開始されたものではなかったようです。
 こうした背景もあり、通信の重要性(*1)を理解していた日本は、本土と植民地とした台湾との間に軍用海底電信線を敷設する事にしました。
 そして、その海底電信線の中継地として、1897年に石垣島(屋良部半島)に建てられた電信設備が、電信屋(元海底電線陸揚室)です。

 
(*1) 日清戦争は、琉球の所属問題も絡んでおり、戦争終結で台湾の統治と合わせ、直ちに海底ケーブルを敷設したことは情報通信の重要性が強く認識されていたものと思われます。
 
日露戦争時に、バルチック艦隊が通過するを目撃した宮古島の漁師が、手漕ぎの船で石垣島へ駆けつけて連合艦隊への通報をしたのも、石垣島にこの施設があって電信が開通していたからと言えます。
(伊原間の久松五勇士上陸之地の碑を参照下さい。)

 この電信屋は、太平洋戦争中、連合軍の攻撃対象となり、今でも、ものものしい銃弾の跡を見ることができます。通信に関する歴史的遺産だけでなく、八重山における貴重な戦跡でもあります。
 電信屋は、1986年に石垣市の史跡に指定されましたが、現在は内壁が崩れるなど随分と傷んでいます。石垣市教育委員会によれば、史跡に指定したことで補修などの手を加えることがかえって難しくなったそうですが、このままでは崩落の恐れもあり何らかの保存処置が必要かと思われます。

2.電信屋へのアクセス

 石垣島の中心部から名蔵湾に沿って県道79号線を北上していくと、屋良部半島・崎枝方面に向かう(左に折れる)道があります。
 そこを左折し海沿いにしばらく西に進み、「大崎牧場」の手前まで行くと道案内の標識があります(大きく右にカーブする場所です)。
 そこを左折してください。道は一部舗装されていますが、大半は未舗装のデコボコ道で、しかも轍があるため、タイヤを轍の山と山に乗せて慎重に進んで行ってください。
 また、道の横にある有刺鉄線にも注意してください。(シーズンによっては雑草にも注意が必要です。)
 しばらくすると、車が数台程度駐車のできる少し広い場所があり、その右手にある今にも壊れそうな小さな建物が電信屋です。

地図



3.電信屋の碑文と写真

碑文
                 碑文
 1895年(明治28)の日清戦争終結後、日本はその領有となった台湾との間に通信回線を敷設することにし、1896年(明治29)先ず鹿児島〜沖縄本島との間に、次いで翌1897年(明治30)沖縄本島〜石垣島〜台湾間・石垣島〜西表島間に海底電信線を敷設した。
これにより、本土〜沖縄本島〜石垣島〜台湾間の通信回線網が完成した。
 当初、通信回線は陸軍省が管轄していたが、後に逓信省に移管され1897年(明治30)7月1日八重山郡大川村12番地に八重山通信所を設置し一般公衆電報の取扱を開始した。
以来この海底電信線は明治・大正・昭和の三代にわたって政治・経済・文化その他各分野の先駆けとしての重要な使命を、担っていたが太平洋戦争の戦災を受け昭和20年に破壊された。
 21世紀高度情報化社会の到来とIT新時代を迎え、電気通信システムも著しく変貌しつつあるが、この海底電信線の敷設された歴史的経過を永く残すため、海底電信線の陸揚げ地であるこの地に記念碑を建立する。

                    2001年12月吉日
                電信屋記念碑建立期成会

電信屋記念碑の外観 海底電線布設ルート図の碑

 
元海底電線陸揚室の説明看板

            元海底電線陸揚室
                      石垣市史跡
                   昭和61年9月25日指定

 俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
 1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって本土−沖縄本島−石垣島−台湾間の通信施設が完成したのである。なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
 開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも使用された。明治30年のことである。この年、石垣島では大川2番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
                  昭和62年10月
                     石垣市教育委員会


電信屋の写真
太平洋戦争では連合軍の攻撃目標の一つとなり、現在もその攻撃を受けた当時の様子がそのままに残されており、壁や天井に無数の弾痕を見ることができます。 戦争の傷跡を残す場所の一つです。
 
北東方向から 東方向から
北側の部屋の様子 南側の部屋の様子
南側の部屋の天井の様子 南側の部屋から北側の部屋を眺めた様子
南西方向から 北西方向から
 

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