西表島の御嶽  更新 2023.02.19

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。

※今回は、青字の項目を追加しました。

各御嶽の紹介

No. 名 称 場 所 備考 
1. 大原神社 東部・大原  
2. 世持の宮 東部・大富  
3. 三離御嶽(ミチャーリオン・ミチャーリウッカン) 東部・古見   
4. 兼真御嶽(カニマオン・クンシンオン・カニマウッカン)
東部・古見  
5. 請原御嶽(ウカウガン・ウカウッカン) 東部・古見  
6. 宇根御嶽(ウーニオン・シタツオン・シタディウッカン) 東部・古見  
7. 平西御嶽(ビイニシィオン・ビイニシィウッカン) 東部・古見  
8. 慶田城御嶽(キダスクオン・キダスクウッカン) 東部・古見  
9. 仲盛御嶽(ナカムリィオン) 西部・上原  
10. 住吉神社 西部・住吉 神社
11. 干立御嶽(フタデウガン) 西部・干立  
12. ウィヌウガン(ムトゥウガン) 西部・干立  
13. 世御嶽(ユーヌウガン) 西部・干立  
14. 雨御嶽(アマウガン) 西部・干立  
15. 離御嶽(パナリウガン・ウーニオン・シタツオン) 西部・祖納 西表小中学校内
16. 北泊御嶽(ニシィドゥマリウガン) 西部・祖納
17. 大竹御嶽(オータケウガン) 西部・祖納 上ぬ部落 
18. 前泊御嶽(前泊穀御嶽)(マイドゥマリウガン) 西部・祖納  
19. 白浜神社 西部・白浜 神社
20. 船浮御嶽 西部・船浮  
 

地図1.(大原・大富地区)


1.大原神社

仲間川河口右岸のザラザキにあります。先の大戦終戦の翌1946年に新城上地島の美御嶽の神を分移勧請して祀り、名を大原神社としたものです。このためいわば美御嶽の子御嶽的存在です。
大原部落は戦前は南風見部落と呼ばれていました。主に新城島からの移住で部落建設がなされています。
 
大原神社
 

2.世持の宮(よもちのみや)

 戦後の政府計画開拓移住地の大富地区(昔の仲間地区)の大富中学校東側に御嶽の旧跡が発見されましたが由来は全く不明です。御嶽の名前は「あかた御嶽」と判明します。1961年に観音像と自然石が祀られ有志により宮を建て奉遷し「世持ちの宮」として信仰されています。「千年万年世代に栄ありかし仲間の里」と未来に対する祈りのことばが記録されています。
 
世持之宮の祠 世持之宮の碑
 

地図2.(古見地区)


3.三離御嶽(ミチャーリオン・ミチャーリウッカン

 三離御嶽(ミチャーリオン)は西表島東部、古見の前良川右岸にあり、八重山におけるアカマター神事(秘祭アカマタ・クロマタ・シロマタ祭)発祥の御嶽といわれています。創建の時期などは不明で、謎の多い御嶽とされています。
 この御嶽は古見で行われた往昔の造船事業と何らかの因果関係があるかもしれません。御嶽は当初は前良川河口の三離島にありました。当時、潮の干満でいろいろ支障があって戦前、現在の場所である前良川右岸にイビを奉遷しました。イビは拝殿より西方凡そ数十mの密林中にあります。
 拝殿は向かって右に「三離嶽」の篇額が、左に「兼真嶽」の篇額が、また右には「神依人教増其威厳」が左には「人頼神霊重其福」の文字板が掲げられています。
 なお、この御嶽の後側にはサキシマスオウノキの群落があります。
【参考】
 三離とは、大枝村・花城村・半西村の三村を意味し、これらは過疎化で村名は消滅し、古見となりました。三離村は士族村・南の村と呼ばれ、他は平民村・北の村と呼んでいました。豊年祭では士族の黒マタが親、平民の赤・白マタはその子供だと言われます。
赤・白マタの面は唐から持ち帰ってきたと言われ、それを持参した家は唐屋という屋号ですが今は廃家となっています。
 
三離御嶽(ミチャーリオン) 同 拡大
 

4.兼真御嶽(カニマオン・クンシンオン・カニマウッカン)

 兼間御嶽(カニマオン)は元は西表島東部、古見の前良川右岸に位置していたようですが、現在は三離御嶽(ミチャーリオン)と同居しています。イビは三離御嶽のイビより更に西方30m奥に位置していますが、古くは元々、仲間崎と古見村との中間付近の無名の小島にありましたが、戦前に現在地に遷座されました。その理由は三離御嶽と同じです。
 古見の豊年祭に当たり、親クロマタ神のスタートする御嶽であったと言われています。
 
兼真御嶽 [三離御嶽と同居]

5.請原御嶽(ウカウガン・ウカウッカン)

 請原御嶽は、古見集落から少し海岸側に下った低地にあります。
古くは「をか御嶽」と呼ばれていました。花城村(平民村)の信仰した御嶽です。拝殿には「請原嶽」の扁額と「神依人敬増其威」の聨が掲げられています。
 古見村の「結願祭」はここで行われ、奉納芸能が演じられます。またシロマタ神事の行われる御嶽です。
 
請原御嶽 請原御嶽 遠景
 

6.宇根御嶽(ウーニオン・シタツオン・シタディウッカン)

 請原御嶽の南方に所在し、古くは「したつ御嶽」と呼ばれていました。また大根御嶽とした記録もあるそうです。
 嶽名の宇根は元来「ウーニ」で、航海の練達者に対する称号で、航海の神を祀るのではないかと推測されます。

 
宇根御嶽への道 拝殿 (ウッカンヤー)
拝殿内

7.平西御嶽(ビイニシィオン・ビイニシィウッカン)

 シイラ川、アイラ川河口のピニシという島にあり、古くは小離御嶽と呼ばれていました。
 古見村のアカマタ祭祀の行われる御嶽です。
 
御嶽への参道 拝殿
拝殿に向かって左側が慶田城御嶽、右側が平西御嶽とされています。

8.慶田城御嶽(キダスクオン・キダスクウッカン)

 前項、平西御嶽と同一場所にある御嶽です。拝殿に向かって左側が慶田城御嶽、右側が平西御嶽とされています。
 与那良田原で奇しき邂逅[カイコウ:出会い]をした長田大翁主と慶来慶田城用緒は、協議の結果取り急ぎ連絡用の船を造ることとし、古見村西北方の密林内に適材を発見、これを協力して切り出しました。
 船材は由布島に運ばれてこの島で造船作業が行われました。 後人、船材を伐り出したゆかりの地に神を祀り御嶽として信仰しました。

 一方で、この御嶽は由布島にあるアミニガイ(雨願い)の御嶽という説もあります。
 
慶田城御嶽 [平西御嶽と同居]

地図3.(上原地区)


9.仲盛御嶽(ナカムリィオン)

 上原の公民館に隣接。
 冨里家一家が祭る御嶽のようで、豊年祭(世ヌ願い・水の願い)、竜宮の願い(航海安全)、節祭などを行っている。
 冨里家は鳩間から上原に移住してきた家
 
仲盛御嶽 広場 香炉
仲盛御嶽 遠景 (中央の森の中)

地図4.(住吉地区)


10.住吉神社

 住吉集落は、1948年に宮古島からの移住者により開拓・形成された比較的新しい集落です。もとは西表島から木材を切り出して宮古島の復興に当てる計画により、移住が開始されたそうです。1950年に「住吉集落」と命名されました。
 こうした集落の歴史の浅いこともあり、「御嶽」ではなく「神社」となっていますが、拝殿は「御嶽」様式となっています。
 
住吉神社

地図5.(干立地区)


11.干立御嶽(フタデウガン) 

 干立御嶽(フタデウガン)は干立村における唯一の登録御嶽で、干立村創立にゆかりの宇根家の先祖によって建てられ、今日まで受け継がれてきています。
もう一つの説としては、干立村に「ウニファー(年貢を首里に運ぶ船頭主の名前)」という航海の達人がいて、この人は船出の都度「ウイヌオン」に航海の安全を祈願していました。しかしウイヌオンは丘の上にあり、上り下りでいろいろと支障があるので海岸に遙拝所を建てて祈願することとしました。この場所が後年干立御嶽となりました。(当時干立の前の海をニジドンと呼びました。)ウイヌオンはムトゥウガンのことであると考えられます。
 干立御嶽は干立の中心的な御嶽で、儀式・祭礼等は主にこの御嶽で行なわれます。すぐ前はマイヌハマで、鳥居は海に向かって立てられています。かつては航海安全を祈願する御嶽だったと言われています。
 
干立御嶽(フタデウガン) 干立御嶽(フタデウガン) イビ門
 

12.ウィヌウガン(ムトゥウガン)

 ウィヌウガン(ムトゥウガン)は干立で最も古く、格が高いと言われている御嶽です。この御嶽はカナザヤン(金座山)にあり、周囲はヤエヤマヤシの林となっています。
古くはウイヌ御嶽(ウイヌオン)と呼ばれていたようです。干立村(星立村)の北方台地上のヤエヤマヤシの中にイビがあり、香炉が置かれています。航海安全の神を祀ると言われ、干立御嶽は元々この御嶽への通し願いのために古く航海業者によって建てられたものと伝えられています。
 
ウィヌウガン(ムトゥウガン) 鳥居奥の階段
 

13.世御嶽(ユーヌウガン)

 干立の五穀豊穣の神を祀る御嶽が世御嶽(ユーヌウガン))です。
 毎年6月中旬頃、一期米の収穫を迎える時期に行なわれる儀式がシクヮーン(初穂刈り)です。収穫の期間が晴天に恵まれ、無事に立派な収穫をあげることができるよう祈願して行なわれるもので、農家はこの儀式を終えてから本格的な収穫に取りかかります。
 農家は、朝早くに起きて田んぼに行き、初穂を刈り取ってきて世御嶽に供えます。
 
世御嶽(ユーヌウガン)
   

14.雨御嶽(アマウガン)

 雨乞いに使用される御嶽で、干立集落から海岸沿いに北西方向に約70m行ったところにあります。元干立村跡の海岸にあり雨を司る神として信仰されてきたようです。
 御嶽の鳥居は海に面して立っています。ここへは満潮時は歩いて行くことは困難かと思われます。
 干立御嶽(フタデウガン)にはこの雨御嶽への遙拝所があります。
 
雨御嶽(アマウガン) 干立集落を向いた光景
 

地図6.(祖納地区)

15.離御嶽(パナリウガン・ウーニオン・シタツオン)

 西表島小中学校の体育館の隣(入り口北側)にある御嶽です。
 伝説では悪疫(パナシキ)払いの御嶽とされます。伝染病を防ぐ神様で、島人の健康を祈願するお宮といわれています。また港の口を守る御嶽で、かつて与那国島へ出入りする際はここで祈願したという伝えもあります。

 元々は船浮港と仲良川口の白浜にあったものが移転されたとされます。
 田植えの前に稲の無事生長を願う世願いでは「田植えジラー」が歌われます。

 (伝説)
 昔、パナリウガンのトウニムトゥ家の祖先がユシカダラという処で畑小屋を造り農作をしていました。ある日、川の中で得体の知れない物を捕らえました。所が驚くべくことにその物が言葉を話し自らそこに祀れというのでその通り祀りました。しかし間もなく内離に祀れと命令するのでその通り内離島に移し祀りました。ところがまたまたそこは駄目だというので現在の地に祀ったということです。
離御嶽 イビ門遠景
イビ門
 

16.北泊御嶽(ニシィドゥマリウガン)

 北泊御嶽は前項の離御嶽の北側(海側)にあります。
 一名、ウブウガン、旅ウガンとも呼ばれて観音堂のような性格を帯びているとされます。
 昭和10年頃、西表小学校の校舎新築のため約50m北方に遷座したという伝えがあります。
北泊御嶽
管理者の方と連絡がとれず、撮影許可が得られなかったため写真はこの遠景のみです。
右側に鳥居が見えます。

17.大竹御嶽(オータケウガン)

 祖納部落の西方祖納崎の高台地にあり往昔の祖納堂の屋敷跡に建てられたものと伝えられています。
 伝説では大竹御嶽は祖納堂儀佐を祀ったお宮で、昔の根所であり豊年祭の中心をなしたお宮とも伝えられています。根所とは島の根本(ニームトウ)、島の中心拝所という意があると思われます。
 大嵩御嶽と記したものもあります。元は拝殿がありましたが、暴風で倒壊、石積みの遺構があります。天然記念物に指定されたタブの老木も近くにあります。

 
大竹御嶽 大竹御嶽 遠景
 
大竹御嶽前の道(東側)   大竹御嶽前の道(南側)
 
大竹御嶽の碑     
     

18.前泊御嶽(前泊穀御嶽)(マイドゥマリウガン)

 西表島西部の祖納集落にあり、作物(穀類)と関わりの深い御嶽で、「穀御嶽」とも呼ばれ、祖納村の稲作儀礼はここを中心に行われます。(五穀の豊作を祈るお宮とも言われています。)
 ここは毎年節祭が執り行なわれることで知られる御嶽です。国指定の重要無形文化財に指定され、500年もの伝統がある節祭は、農作業上の年が変わる正月儀礼の祭で、その年の豊穣感謝と来年の五穀豊穣、地域住民の無病息災を祈願する祭りです。御嶽の鳥居の前には節祭の文化財指定記念碑があります。
 この御嶽は前泊湾に面していて湾の守護神でもあります。
 
前泊御嶽(前泊穀御嶽) 前泊御嶽 イビ門
 

地図7.(船浮地区)

19白浜神社

 白浜は元々炭鉱で出来た新しい集落で、1937年(昭和12年)に部落会が設置されるとともに白浜神社が建立されました。設立のお祝いに当時あった炭鉱(丸三、星岡、南海)が豊年祭、山神祭、海神祭を行いました。現在では白浜地区における年一度の最大行事となった海神祭のみが行われています。
 現在の社殿は2017年(平成29年)8月に老朽化のため建て替えられました。

 ※御嶽ではありませんがほぼ同様の拝所であることから載せました。
 
白浜神社 白浜神社 拝殿
 

地図8.(船浮地区)

20.船浮御嶽

 船浮集落の北、船浮小中学校の北側に位置する御嶽です。船浮集落の豊年祭や節祭などの行事が執り行なわれます。
 
船浮御嶽 船浮御嶽 イビ門
 
 

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