鳩間島の御嶽  更新 2018.11.17

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(御嶽内は基本的に男子立入り禁止です。女性であっても観光客は勝手に御嶽内には入らないようにしましょう。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。

※今回は、地図の入替えと青字の部分の追記を行いました。

鳩間島には、友利御嶽・鬚川(ヒナイ)御嶽・前泊御嶽のほか、西堂御嶽・新川御嶽の各御嶽があります。
鳩間島はかつて稲作農耕が盛んでこれに基盤をおいた伝統的な祭祀が行われ、特に稲の豊穣感謝・祈願祭であるプーリ(豊年祭)は島の一大行事となっています。
 
No. 名 称
1. 友利御嶽(トゥムルウガン・ムトゥウガン)*
2. 前泊御嶽(マイドゥマリウガン)
3. 鬚川御嶽(ヒナイウガン・ピィナイウガン)
4. 西堂御嶽(ニシドーウガン)*
5. 新川御嶽(アラカーウガン)*

鳩間島の御嶽の地図

1.友利御嶽(トゥムルウガン・ムトゥウガン)*
 
鳩間島で最も大きな聖地・御嶽が友利御嶽で、島のほぼ中心の、港から鳩間中森に行く途中にあります。世ヌ本(ユーヌムトゥ)として信仰され、鳩間の豊年祭・二月祭・世願い・結願祭・十月願いなどの祭祀はこの御嶽を中心に行われます。
鳩間島の創設者は宮古島の鳩間儀佐真主、別名、船屋儀佐真と伝えられており、友利御嶽は同島の漲水御嶽の神を勧請して建てたと伝えられ、島の友利姓はその子孫であるという説がありますが明らかではありません。一方で、友利姓は対岸の西表島の古見から渡来したもので古見→上原→鳩間という経路をもって島に来たという説もあります。これはマラリアが蔓延した西表島に耐えかねて鳩間島に移住した人々が、信仰神も移したというものです。
友利御獄の旧記は神名を鳥渡森、威部の名を大座那呂金と言い、大座(うふだ)は田んぼを意味し、那呂金は鍛冶屋の神だそうです。このことから稲作と鍛冶屋を祀る友利御獄はいわば八重山版の稲荷神と言えようかと思います。
豊年祭や結願祭の際には島の人々が集まり、一晩中、神様へのお祈りが捧げられますが、その他の神行事のほとんども友利御嶽で行われます。

なお、友利御嶽は「トモル御嶽(トモルウガン)」や「上御嶽(ウイヌウガン)」とも呼ばれます。
 
鳩間中森への道から見上げた友利御嶽 苔むした階段と鳥居

2.前泊御嶽(マイドゥマリウガン)
 
鳩間小中学校のグランドの西側、サンシキ広場の東側、前の浜に面した所にあるのが前泊御嶽(マイドゥマリウガン)です。
御嶽は、瓦葺き・漆喰塗りで、鳥居は海側(「前の浜」の前)にあります。

竜宮の神を祀るとされ、漁撈・入営兵などの航海安全を祈願してきた御嶽です。小浜家(アマスヤー)三代前の祖が拝み始めたと言われますが、当時、松のくり舟で物資を輸送する際、不慮の海難などに遭遇する年もあって航海安全の祈願所として建てられたと伝えられています。
 
前泊御嶽  

3.鬚川御嶽(ヒナイウガン・ピィナイウガン
 
鬚川御嶽(ヒナイウガン)は、近世初頭の鳩間村を管轄していた西表島の船浦湾奥にあった鬚川村(ピナイムラ)の御嶽の神を勧請して建てられたそうです。
島への移住者は鬚川村の御嶽の分神を希望したものの残留者はこれを許さなかったため、やむなく後日密かに御嶽の香炉の灰を盗んできて鳩間で鬚川御嶽を建てたと言われています。移住はマラリアに耐えかねた結果と考えられます。この御嶽には火の神を祀る、長寿と豊作の神を祀るなどの伝えもあるようです。
拝殿には窓があり、その窓は西表島のヒナイサーラを向いていて、そこの神に祈りを捧げるのだそうです。
鳥居は島のメインストリート沿いにあります。
 
鬚川御嶽  

4.西堂御嶽(ニシドーウガン)*
 
鳩間中森の北側の山林にあるのが西堂御嶽(ニシドーウガン)です。西塘御嶽とも記されます。
シマナカ道の中央部から西に約100m進むと左側に白い鳥居が建っています。
西堂御嶽は墓が御嶽に移行したもので、墓の主は友利御嶽を創建した
船屋儀佐真主だそうです。御嶽創建は、明治の頃に糸満や久高島から来た漁師たちに同行したセジ(霊力)高い賄い老婆の神がかりの言葉、「島を創建した恩人のお骨が牛馬に踏み荒らされている」という言葉によるものだそうです。
 
西堂御嶽 同拝殿

5.新川御嶽(アラカーウガン)*
 
鳩間中森西側のパカ山の南側中腹にある新川御嶽(アラカーウガン)です。
水の堰口(ミジフシキフチ)と呼ぶ場所に拝殿(パイデン)が建ち、水元の神として祀られています。
新川御嶽の創建は新しく、明治の初め頃かその少し前だそうです。信心深い個人
(東里家の祖)が同地に神を祀り、日夜拝みを欠かさなかったと言われています。旱魃のとき不思議にもその人の畑の上だけ雨が降り豊作が続きました。その後、村人が神の霊力に驚き、村でも拝ませてもらうようになりました。その個人の拝所が村の御嶽になったそうです。
 
新川御嶽 同御嶽への道と御嶽の森
 

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