波照間島の御嶽  更新 2019.06.22

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
※今回は、地図の修正を行いました。
 

 波照間島の主要御嶽の紹介

 波照間島には、「ウツィヌワー」「ウガン」と呼ばれる御嶽が各集落に1箇所ずつ、計5箇所あります。しかしながらこれらの御嶽はあくまでも遥拝所(遠く離れた所から神仏などを拝むために設けられた場所)で、集落から遠く離れた原野の森に、「ピテヌワー」と呼ばれる拝殿などの建造物の存在しない御嶽があります。このような形態になっているのは八重山ではここ波照間島だけです。

 「ウツィヌワー」はそれぞれの「ピテヌワー」に向って建てられていて、人々も普段はそこから「ピテヌワー」におられる神様(ウヤーン)に向ってお祈りをします。また、年に数回、大きな神事の時には「ピテヌワー」から神様をお連れすることもします。
 いずれの御嶽も拝殿、イビの門、イビを持つ一般的な御嶽の形態をとっており、また周囲は木々に囲まれています。そして境内や近くには神井戸があります。
 
No. 名称 集 落 備考
1. 阿底御嶽(アースクワー・アスクワー) 冨嘉 ウツィヌワー
2. 大底御嶽(ブスクワー) ウツィヌワー
3. 大石御嶽(ブイシワー) 名石 ウツィヌワー
4. 新本御嶽(アラントゥワー) ウツィヌワー
5. 美底御嶽(ミスクワー) ウツィヌワー
6. 長田御嶽(ナータヤマ)
7. ビッチュル御嶽(ビッチュルワー)

※ 「ピテヌワー」は、またの機会に紹介することとします!

地図


  
1.阿底御嶽(アースクワー・アスクワー)
 
冨嘉のトゥニムトゥ(御嶽の宗家)であり島の創始者の子孫と伝えれる家に隣接しています。他の4つの御嶽に対して、宗教的な地位が高いと考えられており、神事において重要な役割を果たしています。
外部落の人々の真徳利御嶽への遥拝御嶽として建立されたと伝られ、豊年祭などの祭祀はこの御嶽に集合して執り行われています。
 
冨嘉集落の西に位置します。 阿底御嶽拝殿遠景
 
     
 

2.大底御嶽(ブスクワー)
 
島の伝承によると、「ナーヌ村」(現「前」集落一帯)の有力者ウヤマシ・アガダナが部落民の阿奉俣御嶽の遥拝御嶽として創設したとの伝承があります。豊年祭などのときには前部落の人々はここに参集しマソーミを通じて祈願祭祀を執り行っています。
宮古の仲宗根豊見前親軍勢の与那国討伐(1522年)に加勢したウヤマシ・アガダナ(ウヤミシャ・アカタナ)の加わった遠征軍は、与那国島で島民を虐殺するなど悪虐無造を繰り返して悪行の限りを尽くして島に帰還しました。彼が島に戻ってしばらくたった夜、浜辺で魚釣りをしていると、突然何百と言う悪霊の魂(マザムヌ)が青白く海上に浮かんでいるのを見ました。それは与那国島で殺された人達の怨霊で、彼はあわてて家に帰り、その様子を人々に知らせ、自分はユピナヤ(夜業する小屋)の網の下に隠れて息を殺してじっと耐えていました。怨霊は島に上陸したものの網の中にいるアガダナには近づくことができませんでした。そこで怨霊はナーシヌ村(ナーヌ村の後ろの村の意。現在の小中学校辺りとその北方方面一帯)の人々に怒りを向け、村民の悉く目玉をくり抜くという残虐なやり方で皆殺しにしました。その後、アガダナは隠れ難を逃れることができたユナビヤの地に、大底御嶽を建立したそうです。
また、アガダナが若い自分頃ブナビ(夜の手作業)をしたところであるという伝えもあります。
大底御嶽は、琉球王府支配時には役所や役人を守護する御嶽でもあったようです。
 
御嶽への入口。右手奥に御嶽があります。   大底御嶽拝殿
 
      
 
     
 

3.大石御嶽(ブイシワー)
 
名石部落の人々の阿奉俣御嶽に対してする遥拝御嶽として建立されたと言われています。
御嶽の東側にある大きな石からその名がつけられたといいます。5つの御嶽の中では最も小規模です。形式的には「名石集落の御嶽」ですが、実際には名石集落の家の大部分が大底御嶽に帰属しており、大石御嶽に帰属している家が少ないのも特徴的です。これは、1771年八重山を襲った明和大津波後に、壊滅状態にあった石垣島大浜集落を復興させるため、「長石村」の住民の大半が強制移住させられ、かわりに前集落やシムス村などからの移住で「名石」として再興したためと伝えられています。
強制移住の際、稲福、大浜、田盛の3兄弟はかつて波照間で信仰していた大石御嶽の神を分神してフルスト原の聖地に祀り信仰しました。ウイヌオンとして崇敬されている同名の大石御嶽がそれで、現在は大浜小学校の北側に奉遷されています。
豊年祭などのときには名石部落の人々はここに参集しマソーミを通じて祈願祭祀を執り行っています。
 
大底御嶽の遠景   イビ門?
 
大底御嶽拝殿(北側から)    
 
     
 
 
4.新本御嶽(アラントゥワー)
 
南部落の人々の自部原御嶽に対する遥拝御嶽として建てられたと伝えられています。
御嶽の創設者[新本与人?]の子孫とされる家に隣接しており、創設者の墓と伝えられる一角は、現在メーパナツ(前拝所)として崇拝されています。子孫とされるこの家のほか南集落及び北集落の一部は、島の北東岸より移住してきたとの伝承があります。
毎年の豊年祭などのときには南部落の人々はここに参集しマソーミを通じて祈願祭祀を執り行っています。

 
御嶽への道 新本御嶽拝殿遠景
  イビ門
 
     
 

5.美底御嶽(ミスクワー)
 
15世紀の島東部の統治者ミウスク(ミシュク)・シシカドン(明宇底獅子嘉殿)の屋敷跡であり、また北部落のトゥニムトゥ(宗家:血族的集団)の屋敷跡も含まれています。
オヤケアカハチの手の者によって海上(小浜島のビルマ崎沖と言われています)で殺害されたシシカドンの遺骨をここに葬り、そこに墓を造って崇拝したという伝説が残っており、2つあるイビの香炉のひとつからは、西表島古見も崇拝する形となっているのが特徴的です。これはミウスク・シシカドンをはじめとする北部落の旧家の一部が西表島古見より移住してきた史実を反映していると考えられています。(「美底」とは古見の別称でもあります。古見はかつて八重山の中心地であったとされています。)そして、北集落が現在の形にまとまったときに、もとからあった美底御嶽を、集落の御嶽としたのだろうと推定されています。
後に自部原御嶽に対する遥拝御嶽として北村の人々により信仰されるようになったものと考えられます。
 
御嶽への道
 
美底御嶽拝殿 イビ門
 
     
 

6.長田御嶽(ナータヤマ)
 

前集落、「星空荘」の向かいの長田御嶽(ナータヤマ)は史跡にも指定されており有名です。15世紀に石垣島の石垣地区を支配していた波照間出身の有力者「長田大主(ナータフージィ)」を祀っており、家系的につながりがあるといわれているM家によって崇拝されています。また、琉球王府支配期には、大底御嶽や港近辺の拝所と連携して公的機関や役人を守護する拝所としても機能しており、重要視されていたようです。

 
長田御嶽の標柱 長田御嶽の遠景
 

7.ビッチュル御嶽(ビッチュルワー)
 
「ビッチュル御嶽」は島の北岸、港から集落に向う道(イナマ線:祖平花道)の途中にある、航海安全・一路平安を祈る御嶽で、陽石(ビジュル)が祀られています。ビジュル信仰は沖縄全般に見られますが、このビジュルに関してはヤマダブファーメという女性が頭上に乗せてこの場所まで運び、恋人のイナフクサトゥヌシを守護する御嶽として祀り始めたという伝承が残されています。イナフクサトゥヌシはもともと首里王府の貴族で、政争に破れ波照間に島流しにされたと伝えられています。
なお、この御嶽に隣接して北西側には、人頭税時代の貢納物を保管するイノーサヒが復元されています。
 
御嶽は祖平花道の途中、写真右手側にあります。 ビッチュル御嶽の遠景
奥に見える細長い石がビジュルです。
 

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