波照間島のカー(井戸)  更新 2020.01.11

※ 以下、ここでは井戸をカーと表現していますが、波照間島では「ケー」と呼ばれています。

今回は地図の修正をしました。


1.波照間島のカー(井戸)

 波照間島には川は無く、水資源の確保は天水や井戸水に頼っていました。このため、波照間島では家を建てる際には必ず貯水槽も一緒に設置し、雨が降ると雨どいを伝って雨水が貯まるようにし、これを生活用水として利用する、ということが永らく行われてきました。
 そして、「水道が欲しい!」という島の人々の願いが実って1969年に簡易水道による給水が始まりましたが、水質の問題に長年悩まされ続けました。この悩みを解消するため、かん水を逆浸透法一段脱塩法という方法で淡水化する設備が1989(H元)年に完成しましたが、その後、干ばつ時に塩分が高濃度となり、生産水量が極端に落ちるというトラブルが生じました。このため、その後、このかん水淡水化施設を海水淡水化施設に変更する整備が行なわれ、今日に至っています。
 ここでは、かつて波照間島の人々の生活を支えたカー(井戸)の一部について紹介します。
 
No. 名  称
1. シムスケー(シムシゲー)
2. フリブチ公園前の泉
3. ケーラ
4. 冨嘉集落・青空食堂傍の井戸
5. 大底御嶽(ブスクワー)の井戸
6. 大石御嶽の南側の井戸
7. 大石御嶽(ブイシワー)の井戸
8. 新本御嶽(アラントゥワー)の井戸
9. 美底御嶽(ミスクワー)の井戸

ニシ浜
 

2.波照間島の地図とカー(井戸)

地図(1)



(1)シムスケー(シムシゲー)
 
 波照間島の北部一帯には、かつてシムス村とよばれる集落がありました。その村内のシムスケーも当時から使われてきた井戸ですが、この井戸は水量豊富、水質良好で、島の人達にとってかけがえのない貴重な水源でした。大干ばつになって島中の井戸が枯れ果てても、この井戸だけはいつでも水を湛え、島の人々の生活を支え続けてきました。島では「シムスケーのお世話になる」ということが、大干ばつの代名詞になっていたほどです。

 この井戸には、次のような伝承があります。
 『昔、波照間島が7カ月にも及ぶ大旱ばつにみまわれ、人々が水不足と飢餓にあえいでいたとき、シムス村のベフタチバー(ベフタチは名、バーはお婆さんの意で、貝敷家の先祖)が飼っていたアマラ牛(赤牛)が角や前足で石や土をかきわけ、水を掘り当てて飲んでいました。それを見たベフタチバーは村人を呼び、みんなで井戸を掘って水不足から救われたのでした。その後人々は、この牛を神の化身だと崇拝し、牛の死後は手厚く葬って、井戸の側に牛の肝に似た石を据えて拝所としたそうです。』


 なお、この井戸には、環境省のレッドデータブックで「絶滅危惧I類」に分類されている「チスジノリ属」の淡水産紅藻類である「シマチスジノリ」が生息しているそうで、八重山でチスジノリ属の生息が確認されたのはここが初めとのことです。
 
写真中央がシムスケーです。 これがシムスケー全景です。
大きなシャコ貝が置かれています。 井戸の底には満々と水がたたえられています。
井戸の傍にはリュウキュウコクタンの大木があります。 その木の下には牛を繋いだという穴の空いた石があります。
 

(2)フリブチ公園前の泉
 
下田原遺跡の下・フリブチ公園前には小さな泉があります。これは恐らくそばにある燐鉱石の採掘跡地からの湧水と思われます。
島で燐鉱石が発見されたのは1921(大正10)年頃です。燐は化学肥料の原料となることから、朝日化学肥料が1933年から西表炭坑採掘に従事した坑夫らを雇って採掘を始めました。月産3000tの設備が設けられ島は活気づき、これにより島の人口はピーク時には1422人(1939年)を記録しますが、太平洋戦争で輸送が困難となり、廃業されました。当時の坑道入口は、今も外からも分かります。
 
ブドゥマリ浜へ下りる道の途中の右手に泉はあります。
写真中央に坑道入口(跡地)があります。 同拡大
 

(3)ケーラ
 
下田原城跡(フリブチ公園)の下の道を通り、大泊浜海岸に下り、そこから東に約100mほど行ったところにある泉ですが、現在は砂に埋もれ枯渇しています。「大泊司」と呼ばれる神女(神司)がおられ、崇拝されているそうです。
 
大泊浜海岸に下り、東側を眺めたところ。 ケーラ遠景。
枯渇していますが水の流れた跡が分かります。 同近景。泉の湧き出した跡が分かります。
 
地図(2)



(4)冨嘉集落・青空食堂傍の井戸
 
島の西に位置する冨嘉集落の、更に西端にある青空食堂の傍(東向かい)にある井戸です。
 
青空食堂側から冨嘉集落方向を眺めたところ。 同近景。
 
地図(3)




(5)大底御嶽(ブスクワー)の井戸
 
大底御嶽は、「ナーヌ村」(現・前集落一帯)の有力者ウヤマシアカダナが創設したとの伝承があります。宮古の仲宗根豊見親軍勢の与那国遠征(1522年)に加勢したウヤマシアカダナを追って、与那国の人々の亡霊が波照間を襲い、ナーヌシー村(ナーヌ村の後ろの村の意。現在の小中学校の辺り)の村民を皆殺しにしました。アカダナは村の作業小屋で魚網に隠れ難を逃れました。そこでこの小屋の場所を御嶽とした、とのことです。
周囲を四角形の石板で囲んだ井戸で、背丈も低く造られています。
 
大底御嶽の拝殿です。 拝殿の西側に位置する井戸です。
奥にもう一つ井戸があります。
 

(6)大石御嶽(ブイシワー)の南側の井戸
 
名石集落にある大石御嶽の南側にある井戸で、道路そばにあります。
 
冨嘉集落への道の途中の、JAおきなわ波照間業務取扱所の向かいにあります。 同拡大。
 

(7)大石御嶽(ブイシワー)の井戸
 
名石集落にある大石御嶽の北側にある井戸です。
 
御嶽の拝殿の北側に井戸はあります。 同拡大。
 

(8)新本御嶽(アラントゥワー)の井戸
 
南集落にある新本御嶽の境内にある井戸です。
 
境内の拝殿の傍に井戸があります。 同拡大。
 

(9)美底御嶽(ミスクワー)の井戸
 
北集落にある美底御嶽の北側にある井戸です。
 
拝殿遠景。井戸は拝殿の北側にあります。 井戸の遠景。




 Page Topへ戻る   八重山のカー に戻る   八重山豆辞典 に戻る    HOME へ戻る


Copyright (c) 2008.8 yaeyama-zephyr

写真の無断転載・使用を禁じます。利用等をご希望される場合はメールでご連絡下さい。