西表島・忘勿石&忘勿石之碑  作成 2019.02.16 

1.忘勿石とは

 「忘勿石(わすれないし:わするないし)」は、西表島の南部、南風見田(はいみた)の浜の東端の岩場、通称「ヌギリヌパ」(鋸の歯)の一角にあります。
 現在では忘勿石のすぐそばに立派な「忘勿石之碑」が建てられていますので、場所は随分と分かりやすくなりましたが、その右脇(東側)の岩に『忘勿石 ハテルマ シキナ』の文字が刻まれています。少し分かりづらいのですが、これが「忘勿石」です。
 かつては海岸沿いに10分以上歩かなければここに辿り着けなかったのですが、現在は遊歩道も整備され随分と行きやすくなりました。
 なお、ここから晴れた日には向いに波照間島を望むことができます。

2.忘勿石の概要


 第2次世界大戦末期の1945年春、波照間全島民は西表島・南風見田に強制疎開させられました。(南風見田は かつてマラリア発生地域として非常に恐れられていた場所で、古くは琉球王国によって移住が何度も試みられましたが、マラリアにより定着せず移住政策は全て失敗し、大正9年(1920年)に廃村になっていました。)
 強制疎開させたのは、島の青年学校教師、実は陸軍中野学校の軍曹(諜報員)、「山下虎雄(本名酒井清:喜代輔)」で、彼は「米軍の上陸近し、西表島に疎開せよ」と命令しました。 人々は西表のマラリアを怖れ疎開を拒みましたが、軍刀を抜いて「天皇陛下の命令を聞かぬ奴は、叩き斬る」と脅し、強制疎開させたのですが、その本当の狙いは、島の牛・豚・山羊・馬を日本軍の食糧にするためだったようです。[*1]
 この強制疎開先の南風見田はマラリア猖獗の地だったため、波照間島の疎開者1,590人のうち、僅か4ヶ月で児童を含む85人が命を落とすことになりました。

 この状況にたまりかねた島民の代表・波照間国民学校の識名信升校長は、軍曹に帰島願いを出すものの聞き入れられませんでした。そこで覚悟を決めて夜間、西表島を脱出し石垣島に渡り、駐留する旅団長に波照間島民の惨状を直訴しました。これにより4月の強制疎開から約4ヶ月後の7月30日に疎開命令の解除を取り付けることができました。
 波照間島への帰島が叶いましたが、島民たちにとってはここから更なる苦難が始まりました。帰還できたもののほぼ全ての住民がマラリアに罹患しており、本来波照間島には無い病気を持ち帰った状態となります。しかも島の家畜は全て処分された上に農地は4ヶ月間も放置されたままになっていました。有効な薬も無く、疲労と栄養失調で犠牲者は増える一方となり、最終的には波照間島住民のマラリア罹患率は99.8%、そのうち30%あまりの488人が命を落としました。うち66人は波照間国民学校の学童でした。[*2]

 1953年、西表島の南風見海岸「ヌギリヌパ」の岩に「識名信升」元校長が刻んだ『忘勿石 ハテルマ シキナ』の文字が発見されました。ここはかつて識名信升校長によって波照間国民学校の青空教室として入学式と授業が行われた場所でした。[*3]

 『忘勿石 ハテルマ シキナ』の10文字は、識名校長が、自らの直訴により疎開を解除し島に帰る際にひっそりと刻んだもので、ほとんどの者はその存在すら知らなかったそうです。1954年、波照間島出身の保久盛長正氏により偶然発見されましたが、その後も多くが語られることはなく、1982年の沖縄国際大学・石原ゼミによる調査と、その成果をまとめ翌年刊行された「もうひとつの沖縄戦」によってようやく、世間に知られることとなりました。

 識名校長は、「忘勿石」に関して生涯殆ど口にすることはなかったそうですが、1982年の調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えたそうです。

 忘勿石のすぐそばに建てられた「忘勿石の碑」は、波照間島に向かって建てられており、人命の尊さや戦争の悲惨さを伝えようと1992(平成4)年8月15日に建立されました。碑の上部の銅像は、『識名校長』のものです。
 なお、向いの波照間島の港近くの祖平花道(港と集落とを結ぶ道路)の途中には、疎開学童323名の全員がマラリアに罹患し、内66名が犠牲となったことを記す「学童慰霊碑」 が西表島・南風見田の浜に対峙して建てられています。


[*1]  昭和20年(1945)3月末、沖縄に米軍が上陸し、八重山地方でも米軍上陸の可能性が高くなり、もしそのようなことになれば日本最南端の波照間島はその最前線となるということから、島民の集団疎開命令が出されました。
 疎開にあたっては、米軍が島に上陸するようなことになれば家畜(牛、馬、豚、山羊、鶏…)は食糧として利用されてしまう恐れがあるということで、全ての家畜を屠殺する命令が下されました。屠殺された肉は、燻製や塩漬け等にされ保存されたそうですが、島民の集団疎開後の島に守備隊が駐留することはなく無人状態になりました。
 集団疎開にあたり全ての家畜を屠殺したことは、後の帰島後の農耕の重労働や食料不足にも繋がっていくこととなり、マラリア禍がより酷いものとなりました。
[*2]  人口・罹患者数・死亡者数はデータの出所元等により多少の相違があります。
[*3]  疎開地でも教育を続けようとした校長に対し、強制疎開の命令者・山下軍曹はそれを中止させようとしました。最初は反発していましたが、間もなくマラリアの伝染が始まり、やがて子どもたちが次々とマラリアにかかり、結果的には授業の続行が不可能となりました。

3.地図



4.忘勿石・忘勿石之碑への行き方

 かつては『南風見田の浜』から海岸沿いに10分以上歩かなければ辿り着けませんでしたが、2016年からは手前の道沿いに駐車場や遊歩道が整備され短時間(3分程度)で行けるようになりました。

2016年には大型バスが発着することが出来る広い駐車場が整備されました。これは西側の景色です。 西表島観光のコースの一つにもなりました。こちらは東側の景色です。
忘勿石への遊歩道入口のモニュメントのアーチです。
遊歩道も整備され、浜を長々と歩くことなく楽に行けるようになりましたが、遊歩道はかなり急勾配な階段が多くあり、足腰の悪い高齢者や車いすの人が利用することはできません。
幅員1.5mの合成木材の板張りのボードウオーク遊歩道です。最初はかなりの急配で浜に向かって降りていきます。
急勾配の箇所では階段が40段程度続きます。 忘勿石のすぐ近くまで来るとこのようなフラットな所もあります。
遊歩道は忘勿石之碑の真裏に降りるようになっています。

遊歩道入口から碑までは108.2mあるそうです。
忘勿石之碑は1992年に建立されて以来、忘勿石之碑保存会が毎年、終戦記念日に慰霊祭を開催してきました。かつて参加者は海岸沿いに碑まで歩いていましたが、満潮時には砂浜を歩くのが困難で、しかも碑の直近では岩場を登らなければ辿り着くことができない状態でした。こうした問題解消のため竹富町が国の一括交付金を活用して遊歩道を整備しました。

忘勿石之碑の裏側にある碑文です。    
  忘勿石之碑建立のあらまし

波照間公民館始め 関東、関西、沖縄本島、石垣、西表島の各波照間郷友会、識名信升先生の御家族及び 縁故者、知人、友人、退職教職員、八重山郡内外の各学校、多数の諸社、諸機関の人々の平和を愛する貴い厚意ある御芳志に依って全世界人類の恒久平和を願い、愚かな戦争の為、亡くなった数多くのマラリア犠牲者の精霊供養と遥か波照間島を望む識名先生の遺徳を偲び建立したものである。

忘勿石之碑建立事業期成会
(以下省略)

5.忘勿石之碑

忘勿石之碑の表側です。太平洋戦争当時、波照間島の住民がここ南風見田の浜に強制集団疎開させられ、マラリアに感染し多くの人が亡くなった悲劇を後世に伝えるため、1992(平成4)年8月15日、この碑が建立されました。
識名信升先生之像
波照間国民学校の識名信升校長の胸像です。

この忘勿石之碑ならびに識名信升氏の胸像は沖の波照間島に向かって建てられています。
胸像の右のプレートの碑文です。
  忘勿石
ハテルマ
シキナ
その下のプレートの碑文です。    
忘勿石の碑
 この一帯は歴史的な戦争マラリアの悲劇の霊境である 一九四五年四月 波照間の住民が軍命によってこの地に強制疎開させられ多くの人々が熱帯マラリアに罹患して 古里の島影を求めながら亡くなった
 その人々の苦悩はまことに筆舌に尽しがたいものがある 学童とともに疎開し その学童たちの死を見守りながら 浜辺の岩に「忘勿石」と刻んだ識名信升先生の心情は察するに余りあり
 この碑が歴史を語り継ぎ 病没した人々の霊を慰め 平和創造への礎となることを祈り願う
 一九九二年八月
 琉球大学名誉教授  高良鉄夫
更にその下のプレートの碑文です。    
虚ろに煙る 母の島影
呼べど白砂続く恨みの浜
母も逝き露しづくともがら
帰らぬ教え子抱き恩師の声
石叫びやまず 忘勿石
胸像の下のプレートの碑文です。
軍令による強制疎開の為
、風土病の悪性マラリア
に罹患、戦わずして尊い
人命を失った。


犠牲者氏名

波照間島北部落
(以下氏名省略)
名石部落
(以下氏名省略)
更にその下のプレートの碑文です。
南部落
(以下氏名省略)
前部落
(以下氏名省略)
冨嘉部落
(以下氏名省略)

戦時下のため、役場へ届出不可能、一家全滅等終戦後数年して戸籍簿整理したため調査漏れ、死亡年月日不明並びに不正確も僅少あるものと思料される。

 一九九二年八月
  波照間公民館
   館長 安里 正
   新城 保 謹書
 
6.忘勿石

これが波照間国民学校の識名信升校長が、西表島・南風見田から波照間島に帰島する前に、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め刻んたものだそうです。忘勿石之碑の右側(東側)の岩にありますが、風化も進み少々分かりづらいかもしれません。

7..周辺の景色
 
晴れた日には忘勿石之碑の向かいに波照間島を望むことができます。下の写真では分かりづらいかと思いますが、左の大きな雲の下に波照間島があります。 
忘勿石のある通称「ヌギリヌパ」より少し東側の町道からの波照間島の眺めです。高い所からは島影がよく分かります。
 
忘勿石の東側の海岸の景色です。 南風見田の浜より忘勿石の方向を眺めた様子です。この浜の近辺に集団疎開が行われていました。
同方向を拡大したもので、岩が鋸の歯状に侵食された通称「ヌギリヌパ」の様子が分かるかと思います。かつてはこの岩場を越えなければ忘勿石に辿り着けませんでした。 通称「ヌギリヌパ」の西側の浜です。集団疎開が行われていた場所と思われます。
前の写真の山側の様子です。このあたりも集団疎開が行われていた場所と思われます。   南風見田の浜の西方向(上の写真の反対方向)の景色です。
 
 

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