西表・宇多良炭鉱跡  作成 2011.7.24 

宇多良(ウタラ)炭鉱の概要

かつて、西表島・西部地区には良質の石炭を産出するいくつかの炭鉱(※1)がありました。
その代表的なのが、浦内川河口の遊覧ボート乗場近くの支流、宇多良川の上流にある宇多良炭鉱(正式名称は丸三炭鉱宇多良鉱業所)で、この炭鉱は明治の初めから第二次世界大戦後まで、約60年の歴史を持つ西表島最大の規模を誇る炭鉱でした。また宇多良集落は、最盛期には芝居小屋などの娯楽施設や、医務室、売店もある大きな集落でした。

ここで働いていた坑夫は、当時、「よい働き口がある」という甘言などによって全国(台湾や朝鮮を含む)から集められたものの、狭い納屋(タコ部屋)に詰め込まれ、しかも納屋制度という炭鉱独特の労務管理体制下に置かれ、低賃金・長時間労働という、実に過酷な労働条件を強いられました。
また、炭鉱会社は炭坑切符と称する金券を発行し、坑夫から給与の回収と逃亡防止を図るなどしたものの逃亡者は後を絶たず、ジャングルの山中で迷って死亡した人や、当時、西表島はマラリア蔓延地でもあったこともあり多くの坑夫が病死しました。
特にマラリアで病死した坑夫は川沿いの適当な所に葬られ、次に葬るために穴を掘ると前に葬った坑夫の骨が出てくるような状態だったと言われています。

1941年に陸軍船浮要塞の構築が始まると、坑夫は軍夫として徴用され、また石炭輸送船舶の航行も禁止されたため、炭鉱は閉山に追込まれました。

戦後再開されたものの、西表の炭鉱は、資源の枯渇と石炭需要の減少によって相次いで閉山し、跡地はジャングルに埋もれていきました。
以前は通じる道もなくカヌーなどでしか行く方法がなかったのですが、2007年の経済産業省の「近代化産業遺産群」に認定されたのを機に、2010年春に遊歩道や木道などが整備され、観光スポットの一つとして紹介されるようになりました。現在ではその残骸が多くの犠牲者の方々とともにジャングルの中でひっそりと眠っています。

※1 :西表島西部には、宇多良の他にも内離島の成屋(ナリヤ)などに炭鉱の集落跡があります。
    県道(陸路)の終点の集落となっている白浜は、元は炭鉱のためにできた集落です。
    現地の説明看板には「炭坑」と記されていますが、ここでは本来の意味として「炭鉱」と記しています。


地図



宇多良(ウタラ)炭鉱跡への行き方
宇多良炭鉱跡へは、浦内川橋右岸・遊覧ボート乗場から川沿いに遊歩道が整備されており、距離は片道約1km、約15分程度歩けば辿り着きます。
遊歩道は、多少のアップダウンはありますが大したことはありません。途中、シーズンであればサガリバナの花や、フトモモの花や実を見ることができます。一部水はけのよくない所もありますが、靴については普通のシューズでOKです。
木道を外れ更に奥に足を延ばすと、建物跡、井戸跡の遺構や、坑夫が当時使っていた食器類やビール瓶なども見られるそうですが、今回はこのページに示したようにトロッコレール跡までの見学としました。
なお、今では宇多良や内離島の炭鉱跡を見学するエコツアーもあります。詳細はHPで検索してください。

 

【説明看板】 西表自然休養林(宇多良遊歩道)案内図
宇多良炭坑の概要
西表炭坑は1886年(明治19年)から西表島の西部を中心に採掘がはじまり、第二次大戦終了後も米国統治下で、数年採掘された長い歴史を持つ沖縄県内で唯一の炭坑である。
宇多良は、明治・大正期の成屋や内離島のあと、1936年(昭和11年)に丸三炭坑宇多良鉱業所として開坑された昭和期の西表における代表的な炭坑である。
炭坑ではジャングルを切り開き坑夫の宿舎や集会所、食堂、売店などが設置され、坑夫など数百人が昼夜分かたず働いていた。
しかし、太平洋戦争がはじまり、1943年(昭和18年)ごろから石炭の輸送が困難となって、事業停止に追い込まれた。
炭坑が日本の近代化に果たした功績を記念し、宇多良の炭坑遺構も2007年に貴重な「日本近代化産業遺産群」の一つとして認定された。
林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)
この案内看板は、浦内川遊覧ボート乗場近くにあります。ここが遊歩道のスタート地点となります。

 

遊歩道途中の景色(1)
右手下に浦内川船着場を見て、遊歩道を真直ぐ進みます。 途中の展望台から見た浦内川の緩やかな流れです。

 

【説明看板】 西表島の地形と石炭層
西表島は面積289.27km2、周囲129.99kmと沖縄県下では沖縄本島に次ぐ大きな島である。
亜熱帯海洋性気候に属しており、黒潮の影響で一年を通して気温の変化は小さく、湿度は年平均78%と高い。
年平均2,200mmを超える降水量は、島のいたるところに大小の河川と多くの滝を形成し、沖縄県内最長の浦内川をはじめ、亜熱帯の森と水量豊かな河川を支えている。
西表島は約1500万年前に海中から隆起した大陸の一部であり、第三紀中新世に堆積した八重山層群と呼ばれる砂岩や頁岩の地層から成っている。
この地層の間に厚さ20cmから100cmの石炭層が3枚程挟まれており、特に内離島夾炭部層(ウチバナリジマキョウタンブソウ)と呼ばれ、仲良湾周辺及び浦内川周辺に多い。
石炭の地層としては比較的浅い場所にあることや、遠く大陸から海流に運ばれ海底に堆積した植物が元となったため、層が薄いのが特徴である。
林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)
この看板は、遊歩道途中の浦内川展望所近くにあります。

 

遊歩道途中の景色(2)
潮が満潮に近い時間帯では、このように遊歩道のすぐそばまで水が上がってきます。幻想的な光景となります。 浦内川橋付近から宇多良炭鉱跡までの918mの遊歩道はよく整備されていて、多少のアップタ゜ウンはあるもののとても歩き易くなっています。

 

遊歩道途中の景色(3)
遊歩道の途中には、このような距離標識がほぼ200mごとに設置されています。 ジャングルの中に、石炭を運搬したトロッコレール跡があります。

 

木道の様子
炭鉱跡(トロッコレール跡)は木道から観察できるようになっています。木道は全体で65mあるそうです。 これは奥側から木道の様子を写したものですが、とても立派なものです。

 

炭坑跡(トロッコレール跡)
このトロッコレールのある場所は川からすぐ近くで、元は貯炭場があったの場所と思われます。坑道そのものはもっと山の上の方にあったようです。 赤レンガのレール支柱にはガジュマル(アコウ:絞殺しの木)が絡みつき、遺構全体が徐々にジャングルに同化しつつあります。

【説明看板】 丸三炭坑宇多良鉱業所の全景
1935年(昭和10年)に宇多良(ウタラ)で炭層が発見され翌年に丸三炭坑(マルミツタンコウ)によって宇多良鉱業所がジャングルを切り開いて建設された。
2階立ての坑夫独身寮、一戸建ての夫婦宿舎、300人収容の集会所兼芝居小屋、医務室や売店など、忽然と一つの炭坑村が出現した。
当時の全景写真が残っているが、今では想像つかない光景である。
しかし、これらの施設は今では姿を消し、わずかにトロッコレールを引きこんだレンガ柱の遺構などが残っているだけである。
目の前のレンガの遺構を、当時の写真に照らし合わせ、宇多良炭坑の全景を想像してほしい。

林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)
この看板は、木道上に設置されています。

 

【説明看板】 貯炭場跡
宇多良坑の石炭埋蔵量は、480万トンと言われ、1938年(昭和13年)には月産2500トンを産出していた。
採掘された石炭は、坑口から引かれたトロッコに積まれ、ここの貯炭場まで運ばれた。
山積みされた石炭は、宇多良川に横付けされたダルマ船に積まれ、浦内川河口の本船まで運ばれた。
積み込み作業は、川岸に突き出したコンクリートの突堤から下のダルマ船に落とされたが、当時の突堤の跡には、石炭屑やボタが、戦後しばらくまで見られたが、今ではほとんど姿を消した。
林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)
この看板は、木道上に設置されています。

 

【説明看板】 炭坑の生活
炭坑での生活は、ほとんど炭坑村の中で営まれた。
坑夫たちの多くは斡旋人の口車にのせられ、九州などの産炭地から来ていた。
台湾北部の産炭地から台湾人坑夫も来ていた。
中には沖縄(本島)や宮古島から来た人もいた。
坑夫たちは朝の5時に起床、6時に坑内に入って採掘し、夕方6時に上がった。
給料は炭坑独特の「炭坑切符」と呼ばれた金券で支払われ、炭坑直営の売店から米、酒、しょう油などの日常物資を購入した。
野菜などは地元の村人から購入していた。
一帯はマラリアの有病地のため、常にマラリアとの戦いを余儀なくされた。
林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)
この看板は、木道上に設置されています。

【説明看板】 炭坑労働の歴史
西表炭坑の坑夫の労働は、明治期に導入された納屋制度を基本としていた。
同制度は坑主から請け負った納屋頭(ナヤガシラ)が、坑夫の労働や生活を管理するというもので、時に暴力を伴う強制労働で「圧制炭坑」として坑夫たちから恐れられ、逃亡が企てられた。
しかし捕らえられると、厳しい拷問が待っていた。
宇多良鉱業所では、こうした汚名を払拭すべく、近代的経営を目指したこともあったが、戦時下の増産体制の中で労働は強化され、再び元の「圧制炭坑」に戻った。
犠牲となった坑夫たちの遺体が、墓石もなく周辺に埋められた。
また、山中に逃げて道に迷い、白骨となった坑夫もいた。
林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)
この看板は、木道上に設置されています。

 

萬骨碑
萬骨碑は木道の最奥部の西側にあります。
碑文(左記参照)に記されているように、2007年に経済産業省の「近代化産業遺産群」に認定されたのを機に、2010年に建立されました。
【碑文内容】
西表炭坑は一八八六(明治十九)年に開坑 以来元成屋や内離島を中心に九州沖縄台湾から多くの坑夫が採炭に従事 炭坑独特の納屋制度のもと強制労働が行われた 宇多良炭坑は一九三六(昭和十一)年に丸三炭坑が開坑 当時としては近代的設備を備えていた しかし太平洋戦争勃発後増産による過酷な労働とマラリアのため幾多の犠牲者を出した 二〇〇七年宇多良炭坑跡は近代化産業遺産群に認定された ここに坑夫の功を讃え犠牲者の霊を弔う碑を建立する
 二〇一〇年四月一日
  萬骨碑建立期成会
 
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