今回は地図の修正を行いました。
宇多良(ウタラ)炭鉱の概要
かつて、西表島・西部地区には良質の石炭を産出するいくつかの炭鉱(※1)がありました。
その代表的なのが、浦内川河口の遊覧ボート乗場近くの支流、宇多良川の上流にある宇多良炭鉱(正式名称は丸三炭鉱宇多良鉱業所)で、この炭鉱は明治の初めから第二次世界大戦後まで、約60年の歴史を持つ西表島最大の規模を誇る炭鉱でした。また宇多良集落は、最盛期には芝居小屋などの娯楽施設や、医務室、売店もある大きな集落でした。
ここで働いていた坑夫は、当時、「よい働き口がある」という甘言などによって全国(台湾や朝鮮を含む)から集められたものの、狭い納屋(タコ部屋)に詰め込まれ、しかも納屋制度という炭鉱独特の労務管理体制下に置かれ、低賃金・長時間労働という、実に過酷な労働条件を強いられました。
また、炭鉱会社は炭坑切符と称する金券を発行し、坑夫から給与の回収と逃亡防止を図るなどしたものの逃亡者は後を絶たず、ジャングルの山中で迷って死亡した人や、当時、西表島はマラリア蔓延地でもあったこともあり多くの坑夫が病死しました。
特にマラリアで病死した坑夫は川沿いの適当な所に葬られ、次に葬るために穴を掘ると前に葬った坑夫の骨が出てくるような状態だったと言われています。
1941年に陸軍船浮要塞の構築が始まると、坑夫は軍夫として徴用され、また石炭輸送船舶の航行も禁止されたため、炭鉱は閉山に追込まれました。
戦後再開されたものの、西表の炭鉱は、資源の枯渇と石炭需要の減少によって相次いで閉山し、跡地はジャングルに埋もれていきました。
以前は通じる道もなくカヌーなどでしか行く方法がなかったのですが、2007年の経済産業省の「近代化産業遺産群」に認定されたのを機に、2010年春に遊歩道や木道などが整備され、観光スポットの一つとして紹介されるようになりました。現在ではその残骸が多くの犠牲者の方々とともにジャングルの中でひっそりと眠っています。
※1 :西表島西部には、宇多良の他にも内離島の成屋(ナリヤ)などに炭鉱の集落跡があります。
県道(陸路)の終点の集落となっている白浜は、元は炭鉱のためにできた集落です。
現地の説明看板には「炭坑」と記されていますが、ここでは本来の意味として「炭鉱」と記しています。
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