2.種子取祭の由来伝承について
伝承によると今から640年ほど前、竹富島には6つの村がありました。その村には、玻座間村は根原金殿(ネーレカンドゥ)、仲筋村は新志花重成(アラシハナカサナリ)、幸本村は幸本節瓦(コントゥフンガーラ)、久間原村は久間原ハツ(クマーラハツ)、花城村は他金殿(タガニドゥン)、波利若村は塩川殿(スーカードゥン)という酋長がいました。最初のうちはこれらの村で別々に種子取祭を行っていましたが、このうち根原金殿と新志花重成が作物の主導権を争いました。その結果、玻座間村の根原金殿は粟を司り、仲筋村の新志花重成は麦作を司ることとなりました。その後、新志花重成は種子蒔きの日を根原金殿の行っていた戊子(つちのえね)の日にするようになりました。
しかし、種子蒔きの日について他の酋長はこれに従いませんでした。特に、幸本節瓦は己丑(つちのとうし)の日の種蒔きを強く主張していました。そこで、根原金殿は自分の妹を幸本節瓦に嫁がせ、幸本節瓦を説得させます。
彼女は、「兄の根原金殿の作物が良く稔るのは、作物が土の中で根付く戊子の日に種子を蒔くからであり、貴方の蒔く己丑は、作物が土の中でウシル(失せる)悪い日である」と説得しました。それを聞いた幸本節瓦は、根原金殿の戊子の日に種子を蒔くことにしました。
一方、甲午(きのえうま)の日に種蒔きを行っていた久間原ハツ、他金殿、塩川殿の3酋長も根原金殿の豊作を見てこれに従うことを決めて、幸本節瓦とこの3酋長はアンガマ(覆面仮装)の姿に扮して根原金殿を訪問します。
その時の応答が世乞い(ユークイ)の「巻き歌」として現在も歌われています。こうして、6人の酋長による種蒔きの日取り争いが行われ、種子取祭が統一された、と言われています。
この酋長時代は竹富島における村落共同体の始まりとされ、六山(ムーヤマ)時代と呼ばれる一種の伝説的な時代であり、この時代の6人の酋長たちは竹富島では神として御嶽に祀られています。
※ この種子取祭の由来伝承は竹富島文庫T「種子取祭」から一部引用しました。
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