舞台の芸能2023(初日)その2 作成 2024.05.12
ここからは2023年11月28日に開催された竹富島の種子取祭の「舞台の芸能」の様子を紹介します。
玻座間村の演芸となりますが、一度に全ての演目を紹介することができませんので、いくつかに分けて紹介します。
ここは、その2です。
なお、以下の青字の演目は「ジィの狂言」です。 |
11.祝種子取
12.世曳き狂言 (ユーヒキキョンギン)
この踊りの特徴は那覇の首里言葉を使って演じられるところです。琉球王朝から位を授かった竹富島の豪農「大山家」の御主前(ウシュマイ)が登場し、子どもや孫を引き連れて与人(ユンチュ)と呼ばれる役人と神様に豊作の報告をします。ウシュマイは2人の若者にお供え物を荷車で持ってくるようにと指示を出します。若者たちはゆっくり踊りながら曳きだした荷車を神前に供えます。 |
13.種子取節
14.赤またー節
「赤また―節」は、「赤また」という遠来神を迎え喜びにわく村人と役人の関わりを歌ったものといわれています。
首里王府は、八重山を統治する際に豊年祭の「赤また黒また」とぃった習俗を禁止しました。しかし人々は役人に「赤また―節」は古くからの習慣だからと豊年祭の許しを請う歌です。
「赤またー節」は小浜島の豊年祭の謡を節唄に改作されたもので、1751年頃、小浜節を作詞作曲した宮良永祝が作ったとされています。
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15.安里屋
かつて竹富島では畑仕事をしながら歌う労働歌として「ユンタ」が歌われていました。 このユンタを歌うことにより、人頭税を納めるための過酷な辛い畑仕事を、お互いに励まし合って疲れを癒していたようです。 農民たちの労働歌として知られる「安里屋ユンタ」には三線の伴奏はなく、古くから太鼓や銅鑼などの伴奏で歌われていましたが、この「安里屋ユンタ」に役人たちが編曲して三線を付けて歌ったと言われているのが「安里屋節」です。 (よく知られる「新安里屋ユンタ」とは曲が違います。)
「安里屋ユンタ」と「安里屋節」はともに歌詞は同じですが、歌詞は23番あり、物語となっています。囃子は、別の人によって歌われ、23番は対話のように歌い続けられ途切れることがありません。 八重山の他島でも「安里屋節」が歌われています。石垣島などの他島の「安里屋節」の歌詞は、竹富島の歌詞とは異なっています。竹富島では、クヤマは、ミザシシュ(目差主)から求婚される前に、既に上役の与人の求婚を受け入れていたので断ったとなっているのに対して、他島で歌われる<安里屋>は,他の島の男性と結婚するよりも地元の男性と結婚するほうが後々よいから、目差主の求婚を断ったとしています。<安里屋>と呼ばれる歌には、このように、竹富島の「安里屋ユンタ」「安里屋節」と他島で歌われている「安里屋節」、星克氏作詞・宮良長包氏作曲の「新安里屋ユンタ」の4種があります。
なお、安里屋の美女「クヤマ」は実在の人物で、1722年に尚敬王時代に安里家で生まれ、1799年の尚温王時代に78歳でこの世を去りました。竹富島には生家も残されています。
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16.伏山敵討狂言 ( フシヤマティチウチキョンギン)
名君の誉れ高い主君・棚原按司を、天願の按司に滅ぼされた富盛大主は、主君の奥方と息子二人(若按司)を連れて落ちのびます。 天願の按司が本部山へ狩りに出るという噂をききつけた富盛大主と棚原の若按司は、先回りして山に潜み、天願按司一行を待ち伏せ、敵討ちの機会を狙います。 一方で天願按司は富盛大主の敵討ちをしようとしている情報を狩人から得て、狩人の案内で富盛大主の隠れ家を襲うことにします。 しかし、富盛大主と棚原の若按司は、天願按司と臣下を見事に討ち取り、敵討ちを果たします。
この伏山敵討狂言は、寄り足(ゆいあし)と呼ばれる特殊な足使いに加え、華麗な踊り、按司方と大主らとの大立ち回り・殺陣など、見どころ満載です。 観客を巻き込んだ滑稽な演技に拍手や歓声がわき起こります。 |
棚原按司は天願の按司に殺されます。 |
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棚原の若按司です。 |
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棚原の若按司と臣下の富盛大主です。 |
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こちらは天願の按司。敵討ちの相手となります。 |
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天願按司とその臣下たちです。 |
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天願按司たちは狩人からの情報を入手します。 |
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敵討ちが始まります。富盛大主と、天願按司の臣下との闘いが続きます。 |
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棚原の若按司と天願按司の臣下との闘いです。 |
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観客にも結構本気で迫ります。 |
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天願按司の登場です。 |
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富盛大主と、天願按司の臣下との闘いです。迫真の演技には観客から大きな歓声と拍手が送られます。 |
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天願按司は異様に強く、切られても切られても立ち上がります。 |
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最後の殺陣です。 |
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棚原の若按司と富盛大主は天願按司と臣下を見事に討ち取り、最後は誇らしげに引き上げます。 |
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17.夜雨節
適度に降る夜雨に五穀豊穣の祈りを捧げて詠まれた歌曲で、波照間島が発祥の地とされています。
畑仕事を休んでいる時間帯、また、太陽の光を遮らない夜間に降る雨は農作物に適した天候であることから豊年の兆しとされていました。 |
18.竹富口説
西支会(いんのた村)の竹富口説です。リズミカルな踊りです。 口説とは、大和言葉の七五調を基本とし、同一のメロディを繰り返しながら景色や物語りを語るような内容のものです。 浄瑠璃の口説などのような口説歌は、室町から江戸初期にかけて念仏踊り系の伊勢踊りとして踊られ、物語り風の内容を歌って全国に流行しましたが、沖縄の口説もこれらの流れをくむものであると言われています。 |
19.曽我兄弟(曽我夜討)
初日の最後に演じられたのは、鎌倉時代初期の仇討ちを語る「曽我夜討狂言」です。
鎌倉時代初期の仇討ちを語る 「 曽我物語:曽我兄弟、曽我夜討」は、1300年前後に成立した準軍記物語です。
庚寅の日(舞台の芸能初日)の最後に、歌舞伎の曾我兄弟が演じられます。
1903年に人頭税が廃止されると、それまでの士族による支配が終わり、島民たちは旧制度から解放されます。それまでは農耕の過程を表したものが多かった奉納芸能も、この頃から本土の狂言も盛んに種子取祭に取り入れられるようになったようです。
種子取祭で演じられる曾我兄弟のストーリーは次のようなものです。
幼い頃、由比ケ浜で殺されかけた兄弟は、畠山重忠によって救われます。その恩返しは、父・河津三郎祐重の仇を討つことだと考えた兄弟は、工藤左衛門祐経の陣屋(仮屋御殿)へと急ぎます。途中、弟五郎時宗と親しい局(虎御前)に迎えられて工藤祐経の眠る仮屋御殿に案内されます。
兄弟は工藤左衛門祐経を叩き起して仇討ちをします。
仇討ち成就後、弟五郎時宗は「源頼朝公に会いに行く」と言い、兄弟は点水で別れの水杯を交わします。兄弟はそれぞれ、兄十郎が父の祐重に似ていること、弟五郎が母おまんに似ていることを称えあって退場します。 |
曽我兄弟です。 |
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「虎御前」に迎えられて工藤祐経の眠る仮屋御殿に案内されます。 |
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父の仇、「工藤左衛門祐経」の登場です。 |
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「工藤」は曽我兄弟に仇討ちにされ、切られてしまいます。 |
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しかし何度も切られますが「工藤」はなかなか死にません。 |
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最後には打ち取られます。 |
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父の仇を討ち取り兄弟で喜び合います。 |
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2023年の舞台の芸能・初日の最終演目である「曽我兄弟」が終わったのは17時頃でした。
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