舞台の芸能2023(初日)その1  作成 2024.04.14

ここからは2023年11月28日に開催された竹富島の種子取祭の「舞台の芸能」の様子を紹介します。
初日は玻座間村の演芸となりますが、一度に全ての演目を紹介することができませんので、いくつかに分けて紹介します。
ここは、その1です。

なお、以下の青字の演目は「ジィの狂言」です。

 
舞台の芸能が始まる前に、まずはヤイマムニ(八重山方言)で新田長男館長から挨拶が行われました。
この後、例年ですと「玻座間 長者(ホンジャー)」からスタートするのですが、2024年はが演じられず、次項の「ミルク(弥勒神)」からとなりました。

1.ミルク(弥勒神)

竹富島の弥勒神は、仲道家の先祖が弥勒神の仮面を海岸で拾って拝み始め、後に与那国家に譲ったと言われています。現在でも、種子取祭に面をかぶって弥勒神として登場できるのは、与那国家の当主だけです。
種子取祭の弥勒神は、弥勒節(みるくぶし)の歌に促されて、シーザ(先輩=二才)や大勢の供、子供たちとともに登場します。弥勒への捧げ物を持った供、およびシーザは、弥勒神の周りを廻り、その後、シーザ4人による「シーザ踊り」が奉納され、「ヤーラヨー節」で退場します。


弥勒は与那国家の当主が務められています。 弥勒神は大勢の子どもたちと共に登場します。
このミルク様を拝むと次の観光地へと足早に移動される観光客もいらっしやいます。
続いてシーザが登場しミルク様の周りを回ります。 
シーザ4人による「シーザ踊り」の奉納です。

2.鍛冶工(カザグ)狂言

琉球王朝時代、沖縄には鉄の原料がなかったため、鉄器の製作はヤマトよりも10世紀近く遅れたと言われています。鉄製の農具を作るには、ヤマトから鉄の塊を輸入して製作するしか方法がありませんでした。鍛冶工狂言は、その製作の模様を描いたものだそうです。
狂言のあらすじは、鍛冶工主(かざくしゅ)が家来と鍛冶にでかけ、でき上がったものを家来の1人が素手で触って熱いと騒ぎ立てます。「耳をつかんだらいい」と言われ他人の耳をつかみ2人の間で一波乱。その後、もう1人が仲介し、鍛冶祝いの用意ができている家へ帰ります。


鍛冶工主とその家来たち。 ふいごを使って鉄を熱し、鉄を鍛える様子が4人でコミカルに演じられます。
時々出来具合を確認します。 何度も鍛え確認します。
      

3.赤馬節

舞踊のトップとして、「赤馬節」が演じられました。八重山を代表する民謡で、祝いの席、座開きの歌舞として親しまれています。(難曲です。)
この唄は別名「いらさにしゃー」とも言われています。「いらさにしゃー」とは方言で「あー、うれしい」という意味で、心から嬉しさが込み上げてきて、地に足が着かず、宙に体が浮いて飛び上がりそうな位の心境を表現する島言葉です。


美しい衣装で優雅に舞う踊りです。
「赤馬節」は、宮良村の役人、大城師番が18世紀初めに作詞作曲したものだと言われています。
 
 

4.早口説

詳細調査不足
 
   
 
 

5.しきた盆

「しきた盆」は、竹富島を石垣島の前に置かれたお盆のような島と謡い、続いて八重山を統治した西塘、マーラン船の誕生を謡い、最後にうつぐみの心を謡います。 つまり、叙頚歌、史歌、教訓歌の三部構成となっています。

琉球花笠をまとった踊りです。
沖縄の伝統的衣装である紅型(びんがた)をまとった女性2人で優雅に舞う踊りです。ゆったりとした踊りでとても美しいです。 
   

6.組頭(フンガシャ)狂言

組(フン)とは村の中の小さな組織で、組頭とはそこの長のことです。組頭がでてきて「鍛冶をして農具が揃ったのでみんなで畑の開墾しよう」と言いますが、これは2項の鍛冶工の流れを受け継いでいるものと思われます。組頭が自分の家来と若者4人を畑に連れていき、歌い踊りながら農作業をします。その後若者たちは自分が誰よりも一番働いたと自慢しあいます。以前は台詞はアドリブでやっていたそうですが、現在は固定化されつつあるとのことです。

組頭が自分の家来と若者4人を集め… 畑に連れて行きます。
 
歌い踊りながら農作業をします。    

7.真栄

人頭税を納めるため、西表島・仲間村に移住せざるをえず、離別を余儀なくされた真栄(マサカイ)と竹富島に残されたカナシャーマが互いに、「竹富の上空に白雲、積雲が上がったらカナシャーマだと思ってちょうだい」「西表島の古見岳の真上に月が上がったら真栄だと思ってくれよ」と言い交す哀しい舞踊です。

朱色の衣装が印象に残ります。    
優雅で華やかな踊りです。   
 

8.元たらくじ

「たらくじ」とは「太郎叔父」さんという意味です。但し、この歌の主人公は姪のカマドマです。
タラクジの軽率な行動が、姪のカマドマを取り返しのつかない不幸のドン底に落としてしまったという悲しい物語です。この踊りはカンブーを結わずタリンガン(垂れ髪)で踊ることから、誤解であるもののカマドマの罪は許されなかったようです。

傘と衣装の美しさが際立ちます。
     
 
 

この後は、郷友会からの挨拶だったかな?

9.世持(ユームチ)狂言

仲筋でも伝承されている重要なもので、かつては種子取祭が玻座間と仲筋で別々に行われていたことを示すものです。世持とは「村の長」のことで、世持が畑を耕していたら恵の雨が降り、村の若者を呼び出して「自分の畑に種子を蒔いた後、みんなの畑にも蒔こう」と言います。蒔き終わったらみんなで歌いながら家路に着きます。

 
 
     
 

10.八重山下ル口説

八重山で「クドゥキ」と発音する「口説」は、18世紀頃に本土から入ってきた音楽の形式で、七五調の長編の物語歌のことです。
八重山で「上り口説(ヌブイクドゥキ)」といえば八重山から那覇(首里)への旅路を、 「下り口説(クダイクドゥキ)」は沖縄から八重山への旅程(道々の風景)を詠ったものです。

 
 
   
 

 
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