舞台の芸能 2019 (初日)その3  作成 2020.05.09

2019年10月20日に開催された竹富島の種子取祭の「舞台の芸能」の様子を紹介します。
初日は玻座間村の演芸となりますが、一度に全ての演目を紹介することができませんので、いくつかに分けて紹介します。
ここは、その3です。

25.八重山下ル口説

八重山で「クドゥキ」と発音する「口説」は、18世紀頃に本土から入ってきた音楽の形式で、七五調の長編の物語歌のことです。
八重山で「上り口説(ヌブイクドゥキ)」といえば八重山から那覇(首里)への旅路を、 「下り口説(クダイクドゥキ)」は沖縄から八重山への旅程(道々の風景)を詠ったものです。
 
 
   

26.胡蝶の舞

野山に春の花々が咲き乱れるうりずんの日、雄雌ペアーのハビル(蝶)が蜜を求めて楽しく群れ遊ぶ様子を表現した踊りです。カチャーシーの技を駆使して、明るく楽しく表現しています。
頭に被った花の回りで戯れるハビルのしぐさが、なんとも優雅な踊りです。
「胡蝶の舞」は、一般にはヌーバレー(旧盆明けの祭り)で沖縄本島南部・知念知名地区だけで行なわれる踊りとして有名ですが、この踊りはそれとは異なります。
 
     
 

27.ペーク漫遊記

「ペーク漫遊記」は戦前から演じられていたものの、一旦途絶えてしまい、昭和54年に復活したとのことです。
芝居の内容は、大豊作となった年に村頭が、在番を招待して祝宴を開いた際、この祝宴で踊った2人の踊り子のうち大名屋のカンチという若い娘を在番が気に入ってしまいます。在番はカンチを自分のものにしようとしたものの、カンチには新城という婚約者がいたことから、在番の申し入れを拒否しました。しかし、在番はそれを許しません。
ある時、二人が密会しているのを在番が発見し、カンチの婚約者の新城に島流しを命じました。 そして、この新城を乗せて船出しようとしたところに、首里王府からペークという役人がやって来て事情を聞き、在番の悪行を戒めます。 ペークの存在を知らなかった在番がそれに気がつき、平身低頭して自分の悪行を詫びるといったものです。

この漫遊記は、沖縄歌劇の流れを汲むものだそうです。
「ペーク漫遊記」は、若いカップルの仲を引き裂こうとする役人を、もっと偉い役人が懲らしめるという、分かりやすいストーリーです。
 
在番の登場です。
2人の踊り子が在番の前で踊ります。衣装が例年とは異なっています。   在番を招待しての祝宴です。
新城の登場です。 新城とカンチの二人が密会しています。
 
在番が二人を発見し咎め引き離します。   婚約者の新城は島流しとなります。
 
船出する前の母親との別れです。 そこへペークが登場します。
ペークは在番の悪行を戒めますが、初めのうちは在番はペークの存在を知りません。 やがて在番はペークに驚きます。
在番は二人にも詫びます。
また一緒になれた二人は喜びあいます。 手に手を取って退場します。
最後には母親も一緒に喜びます。

28.鳩間節(正調)

鳩間島は、八重山西表の北方にある周囲4kmの小島です。歌は、鳩間島の結願祭の時に稲や粟の稔りを神に感謝して踊られるものです。
元は鳩間島のゆんた(労働歌)のようですが、人頭税時代の八重山に生まれ生きた庶民の歴史が刻まれている歌とも言えます。小気味よいテンポの唄三線に太鼓、惹き込まれるような力強い踊りの「鳩間節」は、人気の高い琉球舞踊のひとつです。
 
 
 

29.笠踊り

黄色の衣装が印象に残る舞踊です。

     
     
 
 

30.揚古見の浦節

独特の響を持つ一揚調の歌で、豊年の喜びにあふれた歌です。歌の内容は大まかに「今年は豊年弥勒世を迎えたが、来年はより以上の豊穣の世を恵み給え。弥勒世を恵まれたからには、今日も祝いし明日も引き続き祝賀しましょう。」といったところ。この歌と「古見の浦節」との関連は不明です。

 
 
 

31.稔り美しゃ

稲を植え、たわわに稔った稲穂を収穫できた喜びと五穀豊穣への願いが込められた歌です。

 
 
 
 

32.鳩間節(早調)

鳩間島は、八重山西表の北方にある周囲4kmの小島です。歌は、鳩間島の結願祭の時に稲や粟の稔りを神に感謝して踊られるものです。
元は鳩間島のゆんた(労働歌)のようですが、人頭税時代の八重山に生まれ生きた庶民の歴史が刻まれている歌とも言えます。小気味よいテンポの唄三線に太鼓、惹き込まれるような力強い踊りの「鳩間節」は、人気の高い琉球舞踊のひとつです。

 
 
 

33.竹富口説

西支会の竹富口説です。リズミカルな踊りです。
口説とは、大和言葉の七五調を基本とし、同一のメロディを繰り返しながら景色や物語りを語るような内容のものです。 浄瑠璃の口説などのような口説歌は、室町から江戸初期にかけて念仏踊り系の伊勢踊りとして踊られ、物語り風の内容を歌って全国に流行しましたが、沖縄の口説もこれらの流れをくむものであると言われています。

 
   
     
 

34.曽我兄弟(曽我夜討

初日の最後に演じられたのは、鎌倉時代初期の仇討ちを語る「曽我夜討狂言」です。

鎌倉時代初期の仇討ちを語る 「 曽我物語:曽我兄弟、曽我夜討」は、1300年前後に成立した準軍記物語です。
庚寅の日(舞台の芸能初日)の最後に、歌舞伎の曾我兄弟が演じられます。
1903年に人頭税が廃止されると、それまでの士族による支配が終わり、島民たちは旧制度から解放されます。それまでは農耕の過程を表したものが多かった奉納芸能も、この頃から本土の狂言も盛んに種子取祭に取り入れられるようになったようです。

種子取祭で演じられる曾我兄弟のストーリーは次のようなものです。
幼い頃、由比ケ浜で殺されかけた兄弟は、畠山重忠によって救われます。その恩返しは、父・河津三郎祐重の仇を討つことだと考えた兄弟は、工藤左衛門祐経の陣屋(仮屋御殿)へと急ぎます。途中、弟五郎時宗と親しい局(虎御前)に迎えられて工藤祐経の眠る仮屋御殿に案内されます。 兄弟は工藤左衛門祐経を叩き起して仇討ちをします。
仇討ち成就後、弟五郎時宗は「源頼朝公に会いに行く」と言い、兄弟は点水で別れの水杯を交わします。兄弟はそれぞれ、兄十郎が父の祐重に似ていること、弟五郎が母おまんに似ていることを称えあって退場します。
 
曽我兄弟です。 「虎御前」の案内で仮屋御殿へ急ぎます。
  父の仇、「工藤左衛門祐経」の登場です。
「工藤」は曽我兄弟に仇討ちにされ、切られてしまいます。
しかし何度も切られますが「工藤」はなかなか死にません。 最後には打ち取られます。
父の仇を討ち取り兄弟で喜び合います。    
 
 
2019年の舞台の芸能・初日の最終演目である「曽我兄弟」が終わったのは17時50分過ぎでした。


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