舞台の芸能2019(初日)その1  作成 2020.04.04

ここからは2019年10月20日に開催された竹富島の種子取祭の「舞台の芸能」の様子を紹介します。
初日は玻座間村の演芸となりますが、一度に全ての演目を紹介することができませんので、いくつかに分けて紹介します。
ここは、その1です。

なお、以下の青字の演目は「ジィの狂言」です。

 
舞台の芸能が始まる前に、まずはヤイマムニ(八重山方言)で上勢頭公民館長(左)から挨拶が行われます。 観客の様子です。

1.玻座間 長者(ホンジャー)

玻座間ホンジャーは、「玻座間村の父」と解釈することができます。「村の父」 というと、政治的な実力者、村の指導者、支配者というイメージがありますが、ホンジャーの場合はそうではなく、あくまでも、ホンジャーは芸能の統括者・責任者であり、芸能の神様として君臨するものです。
玻座間村のホンジャーは国吉家の当主が代々その役を務め、床の間にはホンジャーを神として祀っています。 初めて種子取祭の芸能に出演する人は、ホンジャーの神前で「新入り」 の儀式を行います。


ホンジャー(国吉家当主)が種子取を寿ぎます。 手にしている穀物は米・粟・芋・麦です。
ホンジャーは芸能の神です。 豊作祈願の後、以降行われる芸能の許可を乞い、その披露を宣言します。

2.ミルク(弥勒神)

竹富島の弥勒神は、仲道家の先祖が弥勒神の仮面を海岸で拾って拝み始め、後に与那国家に譲ったと言われています。現在でも、種子取祭に面をかぶって弥勒神として登場できるのは、与那国家の当主だけです。
種子取祭の弥勒神は、弥勒節(みるくぶし)の歌に促されて、シーザ(先輩=二才)や大勢の供、子供たちとともに登場します。弥勒への捧げ物を持った供、およびシーザは、弥勒神の周りを廻り、その後、シーザ4人による 「シーザ踊り」 が奉納され、 「ヤーラヨー節」 で退場します。


弥勒は与那国家の当主が(務められています。 弥勒神は大勢の子どもたちと共に登場します。
このミルク様を拝むと次の観光地へと足早に移動される観光客もいらっしやいます。
シーザはミルク様の周りを回ります。 
シーザ4人による 「シーザ踊り」 の奉納です。

3.鍛冶工(カザグ)狂言

琉球王朝時代、沖縄には鉄の原料がなかったため、鉄器の製作はヤマトよりも10世紀近く遅れたと言われています。鉄製の農具を作るには、ヤマトから鉄の塊を輸入して製作するしか方法がありませんでした。鍛冶工狂言は、その製作の模様を描いたものだそうです。
狂言のあらすじは、鍛冶工主(かざくしゅ)が家来と鍛冶にでかけ、でき上がったものを家来の1人が素手で触って熱いと騒ぎ立てます。「耳をつかんだらいい」と言われ他人の耳をつかみ2人の間で一波乱。その後、もう1人が仲介し、鍛冶祝いの用意ができている家へ帰ります。


ふいごを使って鉄を熱します。
鉄を鍛える様子が4人でコミカルに演じられます。 時々出来具合を確認します。
      

4.赤馬節

舞踊のトップとして、「赤馬節」が演じられました。八重山を代表する民謡で、祝いの席、座開きの歌舞として親しまれています。(難曲です。)
この唄は別名「いらさにしゃー」とも言われています。「いらさにしゃー」とは方言で「あー、うれしい」という意味で、心から嬉しさが込み上げてきて、地に足が着かず、宙に体が浮いて飛び上がりそうな位の心境を表現する島言葉です。


美しい衣装で優雅に舞う踊りです。
  子供たちがよく練習してきたのが分かります。
 
「赤馬節」は、宮良村の役人、大城師番が18世紀初めに作詞作曲したものだと言われています。

5.玻座真口説

詳細調査不足
 
 
     

6.しきた盆

「しきた盆」は、竹富島を石垣島の前に置かれたお盆のような島と謡い、続いて八重山を統治した西塘、マーラン船の誕生を謡い、最後にうつぐみの心を謡います。 つまり、叙頚歌、史歌、教訓歌の三部構成となっています。

琉球花笠をまとった踊りです。
沖縄の伝統的衣装である紅型(びんがた)をまとった女性2人で優雅に舞う踊りです。
ゆったりとした踊りでとても美しいです。   
 

7.組頭(フンガシャ)狂言

組(フン)とは村の中の小さな組織で、組頭とはそこの長のことです。組頭がでてきて「鍛冶をして農具が揃ったのでみんなで畑の開墾しよう」と言いますが、これは鍛冶工の流れを受け継いでいるものと思われます。組頭が自分の家来と若者4人を畑に連れていき、歌い踊りながら農作業をします。その後若者たちは自分が誰よりも一番働いたと自慢しあいます。以前は台詞はアドリブでやっていたそうですが、現在は固定化されつつあるとのことです。

 
     

8.種子取

この舞踊は、種をまいて豊作を祈る踊りです。
 
四つ竹を使い4人で踊られます。
 
 

9.未確認

10.世持(ユームチ)狂言

仲筋でも伝承されている重要なもので、かつては種子取祭が玻座間と仲筋で別々に行われていたことを示すものです。世持とは「村の長」のことで、世持が畑を耕していたら恵の雨が降り、村の若者を呼び出して「自分の畑に種子を蒔いた後、みんなの畑にも蒔こう」と言います。蒔き終わったらみんなで歌いながら家路に着きます。

 
     

11.安里屋

かつて竹富島では畑仕事をしながら歌う労働歌として「ユンタ」が歌われていました。 このユンタを歌うことにより、人頭税を納めるための過酷な辛い畑仕事を、お互いに励まし合って疲れを癒していたようです。
 農民たちの労働歌として知られる「安里屋ユンタ」には三線の伴奏はなく、古くから太鼓や銅鑼などの伴奏で歌われていましたが、この「安里屋ユンタ」に役人たちが編曲して三線を付けて歌ったと言われているのが「安里屋節」です。 (よく知られる「新安里屋ユンタ」とは曲が違います。)

 「安里屋ユンタ」と「安里屋節」はともに歌詞は同じですが、歌詞は23番あり、物語となっています。囃子は、別の人によって歌われ、23番は対話のように歌い続けられ途切れることがありません。
 八重山の他島でも「安里屋節」が歌われています。石垣島などの他島の「安里屋節」の歌詞は、竹富島の歌詞とは異なっています。竹富島では、クヤマは、ミザシシュ(目差主)から求婚される前に、既に上役の与人の求婚を受け入れていたので断ったとなっているのに対して、他島で歌われる<安里屋>は,他の島の男性と結婚するよりも地元の男性と結婚するほうが後々よいから、目差主の求婚を断ったとしています。<安里屋>と呼ばれる歌には、このように、竹富島の「安里屋ユンタ」「安里屋節」と他島で歌われている「安里屋節」、星克氏作詞・宮良長包氏作曲の「新安里屋ユンタ」の4種があります。


なお、安里屋の美女「クヤマ」は実在の人物で、1722年に尚敬王時代に安里家で生まれ、1799年の尚温王時代に78歳でこの世を去りました。竹富島には生家も残されています。

四つ竹を使って踊られます。
 
     
 

12.かたみ節

かたみ節は、結婚式などのお祝いの席や、座開きで歌われることが多い祝儀歌です。

囃子詞に「かたみくいら」とありますが、これは「形見呉いら」という文字を当て、「形見を渡す=死ぬまで共に過ごす」という意味だそうで、つまり「かたみ」とは、 「男女の契りまた、契りとして取りかわすもので、この歌は「夫婦の契りを千歳までも固めましょう」という意味が込められたもののようです。

「かたみ節」の生まれた土地は、石垣島の北部の平久保村と伊原間村との間にあった、「久志間」(くしま)という村で、現在は廃村となっています。現在はそのあたりを久宇良浜と言います。(サンセットビーチの南側あたりです。)
 
 
  
 
 
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