桃里村は、石垣島の北東部、市街地から18kmほど離れた所にあった村です。土地が肥沃であった為、蔵元政庁は、享保17(1732)年に880人で村を創建しました。しかし、明和の大津波(1771年)で、200人以上が溺死し、また、過酷な人頭税とマラリアの為に人が減っていき、大正3(1914)年についに183年の歴史で廃村になってしまいました。 この「桃里節」は、悲惨な歴史を辿った桃里村ですが、一時的にでも繁栄していた時期があり、その時に歌われた歌です。歌の中の「空岳:カラ岳」は、桃里村の西南方向にある山です。樹木が一本も生えない禿山である為にその名がつけられました。そこに登ると村の田畑が一望でき、収穫時期には黄金色の稲穂がゆれて、素晴らしい眺めだったに違いありません。 廃村となった1914年から39年後の昭和28(1953)年に琉球政府が沖縄本島の大宜味村から135名の開拓移民を募り、大里村と改名し桃里村は復活しています。 この歌を歌うときは、島人たちは「桃里村の繁栄」を自分たちの住んでいる村の繁栄に置き換えて、それがいつまでも続きますようにとの願いを込めて歌ってきたのだと思われます。
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