舞台の芸能2015(初日)その1  作成 2015.12.19

ここからは2015年11月10日に開催された竹富島の種子取祭の「舞台の芸能」の様子を紹介します。
初日は玻座間村の演芸となりますが、一度に全ての演目を紹介することができませんので、いくつかに分けて紹介します。
ここは、その1です。

1.玻座間 長者(ホンジャー)

玻座間ホンジャーは、「玻座間村の父」と解釈することができます。「村の父」 というと、政治的な実力者、村の指導者、支配者というイメージがありますが、ホンジャーの場合はそうではなく、あくまでも、ホンジャーは芸能の統括者・責任者であり、芸能の神様として君臨するものです。
玻座間村のホンジャーは国吉家の当主が代々その役を務め、床の間にはホンジャーを神として祀っています。 初めて種子取祭の芸能に出演する人は、ホンジャーの神前で「新入り」 の儀式を行います。


ホンジャー(国吉家当主)が種子取を寿ぎます。 捧げる穀物は粟・芋・麦です。(稲穂もありました。)
ホンジャーは芸能の神です。 

2.ミルク(弥勒神)

竹富島の弥勒神は、仲道家の先祖が弥勒神の仮面を海岸で拾って拝み始め、後に与那国家に譲ったと言われています。現在でも、種子取祭に面をかぶって弥勒神として登場できるのは、与那国家の当主だけです。
種子取祭の弥勒神は、弥勒節(みるくぶし)の歌に促されて、シーザ(先輩=二才)や大勢の供、子供たちとともに登場します。弥勒への捧げ物を持った供、およびシーザは、弥勒神の周りを廻り、その後、シーザ4人による 「シーザ踊り」 が奉納され、 「ヤーラヨー節」 で退場します。


弥勒は与那国家の当主が(務められています。 弥勒神は大勢の子どもたちと共に登場します。
このミルク様を拝むと次の観光地へと移動する観光客も結構いらっしやいます。
シーザ4人による 「シーザ踊り」 の奉納です。

3.鍛冶工(カザグ)狂言

琉球王朝時代、沖縄には鉄の原料がなかったため、鉄器の製作はヤマトよりも10世紀近く遅れたと言われています。鉄製の農具を作るには、ヤマトから鉄の塊を輸入して製作するしか方法がありませんでした。鍛冶工狂言は、その製作の模様を描いたものだそうです。
狂言のあらすじは、鍛冶工主(かざくしゅ)が家来と鍛冶にでかけ、でき上がったものを家来の1人が素手で触って熱いと騒ぎ立てます。「耳をつかんだらいい」と言われ他人の耳をつかみ2人の間で一波乱。その後、もう1人が仲介し、鍛冶祝いの用意ができている家へ帰ります。


4人でコミカルに演じられます。   
出来具合の確認のようです。

4.赤馬節

舞踊のトップとして、「赤馬節」が演じられました。八重山を代表する民謡で、祝いの席、座開きの歌舞として親しまれています。(難曲です。)
この唄は別名「いらさにしゃー」とも言われています。「いらさにしゃー」とは方言で「あー、うれしい」という意味で、心から嬉しさが込み上げてきて、地に足が着かず、宙に体が浮いて飛び上がりそうな位の心境を表現する島言葉です。


実に優雅な踊りです。
衣装も大変美しいものがあります。  
「赤馬節」は、宮良村の役人、大城師番が18世紀初めに作詞作曲したものだと言われています。

5.早口説

大和めきたる七五調のリズムある曲です。沖縄の風土を扱っていない内容で決まった振りが伝承されず、創作舞踊などにも使われます。

6.しきた盆

「しきた盆」は、竹富島を石垣島の前に置かれたお盆のような島と謡い、続いて八重山を統治した西塘、マーラン船の誕生を謡い、最後にうつぐみの心を謡います。 つまり、叙頚歌、史歌、教訓歌の三部構成となっています。

沖縄の伝統的衣装である紅型(びんがた)をまとった女性2人で優雅に舞う踊りです。
 

7.組頭(フンガシャ)狂言

組(フン)とは村の中の小さな組織で、組頭とはそこの長のことです。組頭がでてきて「鍛冶をして農具が揃ったのでみんなで畑の開墾しよう」と言いますが、これは鍛冶工の流れを受け継いでいるものと思われます。組頭が自分の家来と若者4人を畑に連れていき、歌い踊りながら農作業をします。その後若者たちは自分が誰よりも一番働いたと自慢しあいます。以前は台詞はアドリブでやっていたそうですが、現在は固定化されつつあるとのことです。

_  _

8.種子取節

沖縄の伝統的衣装である紅型(びんがた)をまとった女性2人で優雅に舞う踊りです。

 

9.高那節

「高那節」は、別名「ザンザブロウ」とも呼ばれています。
竹富島の高那村に伝わる民謡で、歌意をとるのが難しい民謡とされています。冬に村人達が漁のために遠出し、その中で帰って来なかった子がいて心配していると、ざんざ(漁場)にいるという知らせが入り、村人は大喜びし、お祝いだ、料理をつくろう、味見をしよう、今日は誇らしい日だというような意味のようです。
一方で、新城島のジュゴン取り達が西表の高那村へ行って漁をした歌という説もあるようで、「ザンザブロウ」は、正しくは「ザンザブル」と言いザン(ジュゴン)のザブル(頭)とか。ジュゴンの皮を首里に献上するのに、新城の漁師達が西表の漁場で漁をし、獲物を捕った喜びの歌という説もあります。
この他にも、ヤマト人の山三郎(ざんざぶろう)が遭難して西表の高那村に住み着き、土地の娘と結婚し、二人の間に生まれた娘が、嵐が来るから辞めろと言うのに海へ行ってしまったが娘は無事に帰ってきます。嬉しくて感極まった父親の山三郎が即興で歌ったのがこの高那節という説もあるようです。

 

10.真栄

人頭税を納めるため、西表島・仲間村に移住せざるをえず、離別を余儀なくされた真栄(マサカイ)と竹富島に残されたカナシャーマが互いに、「竹富の上空に白雲、積雲が上がったらカナシャーマだと思ってちょうだい」「西表島の古見岳の真上に月が上がったら真栄だと思ってくれよ」と言い交す哀しい舞踊です。

   
 

11.安里屋

 かつて竹富島では畑仕事をしながら歌う労働歌として「ユンタ」が歌われていました。 このユンタを歌うことにより、人頭税を納めるための過酷な辛い畑仕事を、お互いに励まし合って疲れを癒していたようです。
 農民たちの労働歌として知られる「安里屋ユンタ」には三線の伴奏はなく、古くから太鼓や銅鑼などの伴奏で歌われていましたが、この「安里屋ユンタ」に役人たちが編曲して三線を付けて歌ったと言われているのが「安里屋節」です。 (よく知られる「新安里屋ユンタ」とは曲が違います。)

 「安里屋ユンタ」と「安里屋節」はともに歌詞は同じですが、歌詞は23番あり、物語となっています。囃子は、別の人によって歌われ、23番は対話のように歌い続けられ途切れることがありません。
 八重山の他島でも「安里屋節」が歌われています。石垣島などの他島の「安里屋節」の歌詞は、竹富島の歌詞とは異なっています。竹富島では、クヤマは、ミザシシュ(目差主)から求婚される前に、既に上役の与人の求婚を受け入れていたので断ったとなっているのに対して、他島で歌われる<安里屋>は,他の島の男性と結婚するよりも地元の男性と結婚するほうが後々よいから、目差主の求婚を断ったとしています。<安里屋>と呼ばれる歌には、このように、竹富島の「安里屋ユンタ」「安里屋節」と他島で歌われている「安里屋節」、星克氏作詞・宮良長包氏作曲の「新安里屋ユンタ」の4種があります。

なお、安里屋の美女「クヤマ」は実在の人物で、1722年に尚敬王時代に安里家で生まれ、1799年の尚温王時代に78歳でこの世を去りました。竹富島には生家も残されています。

小型の打楽器の三板(さんば)が用いられています。
 
   

12.世持(ユームチ)狂言

仲筋でも伝承されている重要なもので、かつては種子取祭が玻座間と仲筋で別々に行われていたことを示すものです。世持とは「村の長」のことで、世持が畑を耕していたら恵の雨が降り、村の若者を呼び出して「自分の畑に種子を蒔いた後、みんなの畑にも蒔こう」と言います。蒔き終わったらみんなで歌いながら家路に着きます。

   
 
 Page Topへ戻る  竹富島の種子取祭 に戻る  八重山のお祭り に戻る  HOME へ戻る

Copyright (c) 2008.8 yaeyama-zephyr

写真の無断転載・使用を禁じます。利用等をご希望される場合はメールでご連絡下さい。