舞台の芸能 2014 (初日)その3  作成 2015.01.17

2014年11月15日に開催された竹富島の種子取祭の「舞台の芸能」の様子を紹介します。
初日は玻座間村の演芸となりますが、一度に全ての演目を紹介することができませんので、いくつかに分けて紹介します。
ここは、その3です。

19.うりずんの詩

「うりずん」とは、八重山で「旧暦2、3月、麦の穂の出る頃」を言います。
この歌は、八重山の唄者仲宗根長一氏が、今から40年ほど前に作った新歌謡で、舞踊や民謡で広く愛されています。

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20.伏山敵討狂言 ( フシヤマティチウチキョンギン)

名君の誉れ高い主君・棚原按司を、天願の按司に滅ぼされた富盛大主は、主君の奥方と息子二人(若按司)を連れて落ちのびます。 天願の按司が本部山へ狩りに出るという噂をききつけた富盛大主と棚原の若按司は、先回りして山に潜み、天願按司一行を待ち伏せ、敵討ちの機会を狙います。 一方で天願按司は富盛大主の敵討ちをしようとしている情報を狩人から得て、狩人の案内で富盛大主の隠れ家を襲うことにします。 しかし、富盛大主と棚原の若按司は、天願按司と臣下を見事に討ち取り、敵討ちを果たします。

この伏山敵討狂言は、寄り足(ゆいあし)と呼ばれる特殊な足使いに加え、華麗な踊り、按司方と大主らとの大立ち回り・殺陣など、見どころ満載です。 観客を巻き込んだ滑稽な演技に拍手や歓声がわき起こります。

棚原按司です。 棚原の若按司です。
  迫真の演技に観客から大きな歓声と拍手が送られます。
こちらは天願の按司。敵討ちの相手となります。
  天願按司とその臣下です。
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天願按司たちは狩人からの情報を入手します。 
  富盛大主と、天願按司の臣下との闘いです。
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  棚原の若按司と天願按司の臣下との闘いです。
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最後の殺陣です。 天願按司は切られても切られても立ち上がります。
客席に非常に近いところでの演技です。 迫真の演技に観客から大きな歓声と拍手が送られます。
  見事に敵討ちを果たし、演技が終わります。

21.むりか星

むりか星(群か星=群れている星という意)は、具体的には「スバル」のことを言います。 この星は八重山では大変重要な星で、昔の人たちはこの「むりか星」の位置を見て、種まきの時期や収穫(刈り取り)の時期を判断して農業を行っていました。

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22.竹富口説

西支会の竹富口説です。リズミカルな踊りです。
口説とは、大和言葉の七五調を基本とし、同一のメロディを繰り返しながら景色や物語りを語るような内容のものです。 浄瑠璃の口説などのような口説歌は、室町から江戸初期にかけて念仏踊り系の伊勢踊りとして踊られ、物語り風の内容を歌って全国に流行しましたが、沖縄の口説もこれらの流れをくむものであると言われています。

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23.ペーク漫遊記

「ペーク漫遊記」は戦前から演じられていたものの、一旦途絶えてしまい、昭和54年に復活したとのことです。
芝居の内容は、大豊作となった年に村頭が、在番を招待して祝宴を開いた際、この祝宴で踊った2人の踊り子のうち大名屋のカンチという若い娘を在番が気に入ってしまいます。在番はカンチを自分のものにしようとしたものの、カンチには新城という婚約者がいたことから、在番の申し入れを拒否しました。しかし、在番はそれを許しません。
ある時、二人が密会しているのを在番が発見し、カンチの婚約者の新城に島流しを命じました。 そして、この新城を乗せて船出しようとしたところに、首里王府からペークという役人がやって来て事情を聞き、在番の悪行を戒めます。 ペークの存在を知らなかった在番がそれに気がつき、平身低頭して自分の悪行を詫びるといったものです。

この漫遊記は、沖縄歌劇の流れを汲むものだそうです。
「ペーク漫遊記」は、若いカップルの仲を引き裂こうとする役人を、もっと偉い役人が懲らしめるという、分かりやすいストーリーです。

在番を招待しての祝宴です。 2人の踊り子が在番の前で踊ります。
二人が密会しているのを在番が発見し咎めます。
婚約者の新城を乗せて船出しようとしているところです。 ペークが登場し在番の悪行を戒めます。

24.しきた盆

「しきた盆」は、竹富島を石垣島の前に置かれたお盆のような島と謡い、続いて八重山を統治した西塘、マーラン船の誕生を謡い、最後にうつぐみの心を謡います。 つまり、叙頚歌、史歌、教訓歌の三部構成となっています。

沖縄の伝統的衣装である紅型(びんがた)をまとった女性2人で優雅に舞う踊りです。
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25. 安里屋節

 かつて竹富島では畑仕事をしながら歌う労働歌として「ユンタ」が歌われていました。 このユンタを歌うことにより、人頭税を納めるための過酷な辛い畑仕事を、お互いに励まし合って疲れを癒していたようです。
 農民たちの労働歌として知られる「安里屋ユンタ」には三線の伴奏はなく、古くから太鼓や銅鑼などの伴奏で歌われていましたが、この「安里屋ユンタ」に役人たちが編曲して三線を付けて歌ったと言われているのが「安里屋節」です。 (よく知られる「新安里屋ユンタ」とは曲が違います。)

 「安里屋ユンタ」と「安里屋節」はともに歌詞は同じですが、歌詞は23番あり、物語となっています。囃子は、別の人によって歌われ、23番は対話のように歌い続けられ途切れることがありません。
 八重山の他島でも「安里屋節」が歌われています。石垣島などの他島の「安里屋節」の歌詞は、竹富島の歌詞とは異なっています。竹富島では、クヤマは、ミザシシュ(目差主)から求婚される前に、既に上役の与人の求婚を受け入れていたので断ったとなっているのに対して、他島で歌われる<安里屋>は,他の島の男性と結婚するよりも地元の男性と結婚するほうが後々よいから、目差主の求婚を断ったとしています。<安里屋>と呼ばれる歌には、このように、竹富島の「安里屋ユンタ」「安里屋節」と他島で歌われている「安里屋節」、星克氏作詞・宮良長包氏作曲の「新安里屋ユンタ」の4種があります。


なお、安里屋の美女「クヤマ」は実在の人物で、1722年に尚敬王時代に安里家で生まれ、1799年の尚温王時代に78歳でこの世を去りました。竹富島には生家も残されています。


小型の打楽器の三板(さんば)が用いられています。
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26. やいま

「やいま」とは八重山を意味する言葉です

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27. 種子取節

この舞踊は、種をまいて作物が実るのを願った唄です。

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28. ガイジンナー

ガイジンナーとは粟などの種子を入れる籠(農具)で、畑に種をまく時に使います。種子取祭の奉納芸能でもよく見かけるものです。この劇は、このガイジンナーの中に隠したお金を巡る喜劇で、金銭欲を戒めるものとして演じられています。

種子取祭のほとんどの劇が沖縄方言で演じられますが、この劇はほぼ標準語で演じられますので意味も分かりやすくなっています。

テーブルに5つ並んでいるのがガイジンナーです。
  劇の出演者は全て男性です。
  演じている舞台を遠方から眺めたものです。

以降、次の演目が演じられましたが、当日、私は都合によりここで石垣に引き上げなければなりませんでした。 従って11月15日(初日目)の記録はここまでです。

29.谷茶前
30.まんのーま
 (17年ぶりの奉納となったそうです。)
31.まへらつ
32.真栄節
33.かたみ節
34.組長刀

35.曽我の兄弟 (当日最後に演じられた、鎌倉時代初期の仇討ちを語る 「 曽我夜討狂言 」 です。 )

この後はユークイ(世乞い)となります。
初日の奉納芸能が終わると世持御嶽の神前でイバンカミ(九年母の葉を戴く)の儀式が行なわれます。 その儀式に参列しイバンを戴くと夜通しのユークイに参加しなければなりません。 翌朝のイバン返還の儀式まで拘束されることになります。

ユークイは、各地区の家々を訪れて豊穣を祈願するユーニンガイ(世願い)の要素を持つもので、イバンカミの儀式が終わると、ユークイが始まり、これには、島民だけでなく、島の出身者や観光客も参加することができます。

イバンカミの儀式を終えた神司や公民館役員などの一行は、世持御嶽を出発し、ドラ、太鼓を打ち鳴らし、「道歌」を歌いながら、根原家に向かいます。 到着すると、「巻き歌」を歌いながら、根原家の庭の中をグルグルと回ります。 「巻き歌」が終わると東西に分かれて「シキドーヨ」という歌を歌い、その後、両集団が前進後退するガーリを行います。
その後、祈願が終わると、参加者に、祭壇に供えられていたニンニクの漬けたものとタコをスライスしたもの、お神酒が振る舞われ、「根下りユンタ」を歌って根原家のユークイを終えます。
その後、玻座間東・玻座間西・仲筋の三集落に分かれて各家々を廻り、ユークイを繰り返します。

 
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