竹富島の石碑・説明看板 (西集落・西)  更新 2023.06.18

今回は、No.37の内容・写真の入替えなどを行いました。
(なお、御嶽の説明看板については、竹富島の御嶽のページを参照下さい。)


No. 名 称 場所
1. 安里屋クヤマの墓 ナーの浜
3. 小城盛 記念物指定碑 西集落
5. 方位板 西集落
7. 大豆翁頌徳碑 西集落
9. 重要無形民俗文化財指定証書 西集落・世持御嶽
11. 世持御嶽説明碑 西集落・世持御嶽
13. 顕彰之碑(有田家) 西集落・世持御嶽
15. なごみの塔 西集落・赤山丘
17. 赤山丘の設置に至るまでの碑 西集落・赤山丘
19. 石馬ノ由来 西集落・赤山丘
21.
23. 篤志顕彰之碑 西集落・赤山丘
25. 新おきなわ観光名所選定碑 西集落・赤山丘
27. 安里屋クヤマ生誕の地の碑 西集落
29. こぼし文庫贈呈記念碑 西集落
31. 顕彰之碑(上勢頭亨翁) 西集落・喜宝院
33. 竹富の歌碑 西集落
35. スンマシャーの説明看板* 西集落
37. 西桟橋の説明看板 トードゥイ海岸
No. 名 称 場所
2. 「小城盛(クスクムリ)」の碑* 西集落
4. 「小城盛の由来」の碑 西集落
6. 竹富町出身戦歿者 慰霊之塔 西集落
8. 忠魂碑* 西集落
10. 世持御嶽拡張顕彰碑 西集落・世持御嶽
12. 上間廣起先生の碑 西集落・世持御嶽
14. 頌徳碑(竹盛氏) 西集落
16. なごみの塔登録有形文化財の碑* 西集落・赤山丘
18. 亀の甲台 西集落・赤山丘
20. 竹富町説明板 西集落・赤山丘
22. 星見石ノ由来 西集落・赤山丘
24. 竹富島の説明看板 西集落・赤山丘
26. 紀元2600年記念碑* 西集落
28. 竹富島のこころ(民宿泉屋) 西集落
30. 「感謝」の碑 西集落・喜宝院
32. 大石隊戦没者 慰霊之塔 西集落・喜宝院
34. 自然と人間の碑 西集落
36. 土地顕彰之碑 西集落
38. 西桟橋 登録有形文化財の碑 トードゥイ海岸

地図1.



1.安里屋クヤマの墓

安里屋クヤマの墓の説明看板


西表国立公園 安里屋クヤマの墓

安里屋のクヤマは、十八世紀前半に竹富島の安里家に生まれたと伝えられています。クヤマは絶世の美女と言われ、目差主(メザシシュ:役人)の賄女に望まれますが、きっぱりと断ったと言われています。このクヤマの生き方を唄ったのが、沖縄の代表的な民謡として現在でも歌い継がれている「安里屋ユンタ」です。

「安里屋ユンタ」
一、安里屋(アサドーヤ)ぬ クヤマにヨー
  目差主ぬ くゆたらヨー
     ◎ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨ
二、目差主や ばなんぱヨー
  
あたる親(シュ)や くりゃおいすヨー
    ◎ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨ
三、んぱてぃから みささみヨー
  
べーるてぃから ゆくさみヨー
    
◎ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨ
四、んぱてぃすぬ 見る目んヨー
  
べーるてぃすぬ 聞く耳ヨー
    
◎ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨ
  (以下、省略)

Asatoya Kuyama no Haka
Kuyama was born in the Asato family on Taketomi island in the early 18th century.
She is said to have been a woman of stunning beauty, who had the courage to reject a government official’s proposal to make her his “local wife.”
Expressing Kuyama’s way of life, Asatoya Yunta has long been sung as one of the most famous Okinawan folk songs.

 環境省 平成16年度

安里屋クヤマの墓

安里屋クヤマの墓は、西桟橋より島周回道路を少し北側に行った所を海側に下った右手側にあります。
安里屋クヤマの生誕地

地図2.

2.「小城盛(クスクムリ)」の碑

小城盛の碑

小城盛(クスクムリ)

正保元年(一六四四)尚賢王時代 火番所として建てられた。
海上の監視や出入りする船の通報のため烽火を揚げた。
指定 昭和四十七年八月三十日

小城盛の碑 遠景(右)
この碑は、小城盛に上がる階段横に建てられています。

3.小城盛 記念物指定碑

小城盛 記念物指定碑(左)
(正面) 記念物小城盛(クスクムリ・火番盛)
(左側)
指定昭和四十七年八月三十日
(右側)
竹富町教育委員会
(裏面)
建設昭和四八年二月二八日
小城盛
小城盛は世持御嶽の裏手(東側)にあります。

老朽化して崩落の著しかった小城盛は、有志によって昭和36(1961)年に復元されました。

4.「小城盛の由来」の碑

小城盛の由来の碑
(正面)
小城盛の由来

正保元年 一六四四年 尚賢王の世代琉球本土の冠船の
航海路にある諸離島に命じて烽火台として設
けられた火番盛である
碑文並びに揮毫 上勢頭廣


(裏面)
復元記念
父松久の遺志を継ぎ親族知友の
協力をえて復古をなす 採石は存
命中に自分の手で採工せるものなり
昭和三十六年六月十日建立

5.方位板

方位板

この方位板は、小城盛の頂上部(ハルミ台)に設けられています。
(上面)
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥

明治4年に竹富島に来島した鹿児島出身の八重山探検隊調査員によって、ハルミ台の円石の上部に十二支を刻み入れて方位を定めたと伝えられています。
その後、摩滅で判別できなくなっていた方位板は、小城盛の復元とともに昭和36(1961)年にコンクリートで復元されました。

6.竹富町出身戦歿者 慰霊之塔

新・竹富町出身戦歿者 慰霊之塔

竹富町出身戦歿者 慰霊之塔
(正面右側)
竹富町出身戦没者
 [人名略]
(正面左側)
こゝはもや
汝が古里ぞ
帰りきし
みたま安かれ
この島とゝもに

(新・慰霊之塔 裏面)
慰霊の塔は
一九六六年 十一月二十三日
建立期成会長 白保 生雄
工事施工者 大山 貞雄
詠 歌 冨村 致佑
遺族会長 高嶺 寛
を中心に建立したものを
二〇一五年に新たに建立
    二〇一五年三月
          竹富町
(旧慰霊塔 裏面)
一九六六年十一月二十二日
建立期成会長白保生雄
工事施工者大山貞雄
詠歌冨村致佑
遺族会長高嶺寛
 
新・竹富町出身戦歿者慰霊之塔 遠景

この碑は小城盛の西側に建てられています。
旧慰霊之塔 遠景

この慰霊之塔は、平成27(2015)年3月に同一場所で新たに建立されました。碑文は基本的に旧慰霊之塔と同一となっています。

7.大豆翁頌徳碑

大豆翁頌徳碑
(正面)
頌徳碑
(正面から左側)
一九五一年六月二十八日建立竹富部落会
(裏面)
前我名釜夛翁の頌徳
一.文保十四年五月、本盛家に生れ幼少の頃から研究心に富んでいた
一.明治四十三年、小浜島から大豆の種子を取入大寒の季節に試作をはじめた
一.大正元年、小浜島から耕土を運んで大豆栽培の研究を重ねた
一.大正三年、播種期栽培法についての継続研究を完成し、冬至の季節
 を適期として発表するとともに種子を配り、大豆作の普及奨励をした
 昭和八年三月十五日、翁は大豆栽培に大きな功績を残して享年九十一才
 で逝去された
大豆翁頌徳碑 裏面
この碑も小城盛の西側に建てられています。

8.忠魂碑

忠魂碑
(正面)
忠魂碑
(左側面)
工匠福岡留吉
(裏面)
大正庚甲歳三月建設
竹富村軍人優待会


天皇に忠節・忠義を尽くして戦死した人の忠君愛国の魂を慰め、顕彰した慰霊碑です。日露戦争で戦病死した霊を祀るため、大正9(1920)年に竹富村軍人傷痍会が建立したものです。戦前の日本軍国主義思想のシンボルとされ、戦後昭和21(1946)年に国の通達により忠魂碑建立は禁止されました。竹富島の忠魂碑も戦没者名などは消されています。
忠魂碑 裏面
この碑は小城盛の西側に建てられています。

9.重要無形民俗文化財指定証書

重要無形民俗文化財 指定証書の碑
第九十六号
重要無形民俗文化財指定証書
竹富島の種子取
竹富島民俗芸能保存会

文化財保護法第五十六条の十の
規定により重要無形民俗文化財
として昭和五十二年五月十七日文部大臣に
より指定されました
昭和五十二年五月十九日
文化庁長官 安嶋 彌
世持御嶽前
この重要無形民俗文化財指定証書は、種子取祭の主舞台となる世持御嶽前の広場に向かって建てられています。

10.世持御嶽拡張顕彰碑

顕彰碑 碑文 (下段)
(正面上段)
顕彰碑

(正面下段)
 ここ一帯は島の由緒あるところである
 竹富公民館では伝統の種取祭行事を考慮して狭隘にある世持お嶽神域を拡張する計画を立て実現を期することにした
 しかし用地取得整備等に多額の資金を必要としその捻出を一般に仰ぐことにしていた
 ところで左記愛郷クラブ員一同がこの計画に全面賛同して旧竹富村役場敷地(二百二十五坪) を買収 美化整備を行い本公民館に無償提供した
 よってこの尊い篤志を感謝してこれを顕彰する
 昭和四十三年十一月十六日
          竹富公民館
 愛郷クラブ員
 上間清亨 宮平良清 瀬戸 弘
 崎山  毅 小堂達雄 宇根栄孝
 有田  利 山森正治 新哲 次
 根本精能 瀬戸  淳 大山昭雄


(裏面)
謹書 糸洲長武
施工、刻字 崎山寛治

顕彰碑 遠景
この碑は、愛郷クラブ員が 世持御嶽に土地を寄贈したことを記念したものです。 (写真は2011年秋撮影)

11.世持御嶽説明碑

世持御嶽説明碑
世持御嶽(ユームチオン)
Yuumucchi On

ここは、琉球王府時代は村番所、竹富村誕生の一九一四年(大正三)から一九三八年(昭和一三)まで役場が置かれていた場所です。
その地に、火の神と農耕の神を祀っているのが世持御嶽です。初秋の戊子(ツチノエネ)の日を中心とした十日間の種子取祭(タナドゥイ)は、国の無重要無形文化財に指定されています。種子取祭は、五穀豊穣と島民の健康繁栄を祈願する島最大の祭で、七日目と八日目は神事、奉納芸能、世乞(ユーク)いの行事が夜を徹して行われます。殊に奉納芸能は、行列や舞台の芸をあわせて七十演目余りが幕間なくつづき、島全体が沸き立ちます。
世持御嶽周辺は拝所が集中して聖域をなしているため、竹富島の昔からの森が残されています。種子取祭はこの場所から、島全体へ祭りの場を広げていきます。

The sacred site of Yuumuchi On occupies the ground where the Taketomi yakuba (village office) stood from 1914 to 1938. This on, dedicated to the deities of fire and agriculture, is best known as the focus of the island's biggest event, the autumn Tanadui matsuri (festival). Recognized by the Japanese government as a National Important Intangible Folk Cultural Property, the Tanadui matsuri is an event to pray for good harvests, good health, and well-being. On the seventh and eighth days there are sacred rituals and prayers that last all night, as well as more than 70 performances of traditional songs, drumming, dance, and drama dedicated as offerings to the gods.

At the time of the Tanadui matsuri, the six gods from the six most important on travel the Nabindo (God's Road) to Yuumuchi On.

* On are sacred sites. Do not enter. Please understand the meaning of "sacred".
世持御嶽説明碑 遠景
  この 説明碑は、世持御嶽拡張顕彰碑の北側に建てられています。 (写真は2021年秋撮影)

12.上間廣起先生の碑

上間廣起先生の碑
上間廣起先生は、明治十九年竹富島に生まれ、八重山島高等小学校を卒えると、郷里竹富校で教鞭をとり子弟の教育に精進した。そのかたわら島の生活向上のため、旧来の風俗習慣等の改善に尽力した。
大正九年普通町村制施行による新制度の間接選挙に際し、官尊民卑思想の強い中に見事当選を果し初の民選村長となった。村長を二期勤め、勇退後も村会議員として村政に貢献した。その主な業績は
竹富村内の各小学校に高等科の併設と、学校後援会の結成 ○青年のための補習学校を各学校に開設 ○敬老会の創設 ○稚蚕飼育場の建設 ○農林・水産・畜産業の振興 ○優良村長として県の嘱託を受けて本土先進県の視察 ○竹富同志会の設立 ○大舛桟橋を中心にした防潮防風林の造成 ○製糖工場の建設 ○仲筋井戸の改修 ○芭蕉工場の設置 ○忠魂碑の建立 ○各種団体、官公庁より数多くの感謝状、表彰をうけた。
今日の竹富町の発展の礎石は、上間廣起先生の全身から溢れる郷土愛と、卓越した先見の明によるものが大きい。ここに初代民選村長の業績を広く顕彰し後世に伝えるため、旧竹富村役場を見渡すゆかりの地に先生の胸像を建立する。
昭和六十二年七月吉日
竹富村初代民選村長
上間廣起生誕百年記念事業期成会

上間廣起先生の胸像と碑
この碑は、世持御嶽前の広場の西側にあります。

13.顕彰之碑(有田家)

顕彰碑
顕彰之碑
ここ、西屋敷三九六番地、三九七番地の二筆は、有田静吉氏の
御厚意により、竹富公民館に寄贈されたものである。
今日の種子取祭の隆盛を見るとき、有田家一門の篤志を末永く
顕彰するものである。
平成十三年十一月
竹富公民館



この顕彰碑は、世持御嶽敷地内のトイレ横(南側)に建てられています。

14.頌徳碑(竹盛氏)

頌徳碑
頌徳碑
竹盛佐賀翁は明治十一年(一八七八) 十月
四日竹富島に生れ昭和三六年(一九六一) 十月
三日歿するまで島の各役職を勤め特に
土木建築農畜産業の発展に貢献
した外民間医療家として島民の保
健衛生に尽した功績は顕著でありま
す 依ってその功績を永遠に記念す
るため之を建立する
昭和五二年十一月竹富部落会

新いんのた会館横の頌徳碑
この碑は、新いんのた会館(自治会館)横に建てられています。
同 会館正面側から
新いんのた会館(自治会館)は2022年4月に完成しました。
旧いんのた会館横の頌徳碑
こちらは旧いんのた会館横に設置されていた頌徳碑です。

15.なごみの塔

なごみの塔 正面
(正面)
なごみの塔
(裏面)
一九五三年六月二十五日建立
石工 野底徳重
左官 入里俊勝


建立年月日は、昭和28年6月25日です。

塔はかなり急勾配ですので、上る際は十分気をつけて下さい。(階段と思わず梯子と思った方がよいです。)
同 裏面
同遠景

なごみの塔は、赤山丘にあります。

16.なごみの塔 登録有形文化財の碑

なごみの塔 登録有形文化財の碑
登録有形文化財
第47-0016号
この建造物は貴重な国民的財産です
文化庁

※ なごみの塔は、西集落のほぼ中央の赤山丘(あかやまむる:赤山公園)にある観光スポット・島のシンボルです。 高さ約6mの丘の上に設けられた約4.5m高の鉄筋コンクリート造の物見塔からは、赤瓦の町並みや島を一望することができます。頂上からだと海抜は約22mです。階段の幅が狭くて、かつ斜度約60度という急勾配のため、昇降時には十分気を付けてください。スリル満天です。
なお、観光ポスターなどの竹富島の町並みの写真はここから撮影されています。


※ なごみの塔が設置された1953年の頃は、メガホンで住民に連絡する場所だったそうです。2006年に国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。
なごみの塔の階段下の募金箱

なごみの塔の階段下には「登録有形文化財 なごみの塔」を記した募金箱があります。
なごみの塔

17.赤山丘の設置に至るまで

赤山丘の設置に至るまでの碑

工事碑
赤山丘の設置に至るまで
文治二年(一一八五年)壇ノ浦の海戦にやぶ
れた平家の落武者赤山王は遠くこの地に漂
着し地の利を占めるここを要害とした 一九
五三年にこの由緒ある地を一和会が買収し
部落へ寄贈したので西部落会では巨費を
投じここに塔を建ててなごみの塔と名づけ
部落の集会に或いはこどもの遊び場として
年々施設が増設されつつ今日に至っている
一九五八年十一月八日
竹富壮年会


(工事碑)

一九五三
癸己年六月二十五日竣工
一.寄附 本敷地百五拾坪一和会員
一.工事担当 西部落会
一.工事延人員 五百十人
赤山丘遠景
この碑は、なごみの塔の真下(写真では正面)にあります。

18.亀の甲台

亀の甲台
亀の甲台

※ 碑建立の意味、ならびに建立年月日は不明です。
同遠景
この碑は、赤山丘「なごみの塔」の、登録有形文化財プレートのすぐ下にあります。

19.石馬ノ由来

石馬ノ由来
石馬ノ由来
昔美佐志村ニ阿主ト云フ
村ノ子供達ヲ集メテ此ノ馬ニ
阿主曰●偉人ハ大馬ニ●●
巡●●●●・・・
達●●●●・・・
ナレト教訓サレタト言フ
美佐志村ニ有ツタモノヲ会
員ノ力ニヨツテ一九五七年三月
公園ニ移サレタ

●は判読のできない文字です。
石馬
石馬は、赤山丘のなごみの塔の下にあります。碑文は写真左下にあります。

20.竹富島説明板

竹富島説明板


同 遠景
竹富島
An Island Committed to Protecting Its Heritage

西表石垣国立公園
指定の理由 自然化環境が育んだ情緒豊かな人文景観、伝統文化の継承及び自然海岸の保護を図っている
重要伝統的建造物群保存地区 昭和六十二年四月二十八日選定
選定の理由 伝統的建造物群及びその周辺環境が地域的特色を顕著に示している
旧与那国家住宅 重要文化財 平成十九年十二月四日指定
指定の理由 竹富町竹富島伝統的建造物群保存地区の核となる住宅で、竹富島における近代の住居形態と生活様態を理解するうえで高い価値がある。
なお当住宅は、国内最南端、最西端の重要文化財建造物である。

竹富島は、沖縄文化を代表する典型的な農村集落で次のような特徴を色濃く残しています。

・家屋がほとんど南西向きで二~四軒が一区画に切られています
・ほぼ同面積の屋敷を珊瑚石灰岩の石垣で囲み、周囲は福木等の屋敷林でめぐらしています。
・分棟づくりの主屋と別棟は軒の低い屋根をチガヤや赤瓦で葺いています。
・門を入ると、マイヤシが目隠しの役割を果たし、白砂の庭があり、年二回浜から砂を運んで道と庭にしきつめる習慣があります。

竹富島は、一九八六年に島の精神を明文化した『竹富島憲章』を制定し、「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「活かす」を基本理念として種子取祭をはじめとする多くの伝統行事を守り、染織等伝統技術を活かした独自の地域づくりに励むほか、法令(地域自然資産法)に基づいた自然環境の再生や保全に取り組んでいます。島でお過ごしの際は次のルールをお守りください。

1.竹富島には多くの観光客が訪れます。自分で出したゴミはお持ち帰りください。
2.家の石垣から内側へは入らないでください。島民のプライベート空間です。
3.集落内は島民の日常生活の場です。水着や半裸で歩かないでください。
4.宿泊施設以外での宿泊を禁じています。キャンプや野宿はできません。
5.花・草・貝・魚・蝶・・そっとそのまま眺めてください。みんな命はひとつです。
6.御嶽(オン)は神聖な場所です。むやみに立ち入らないように、失礼のないように。


The landscape of Taketomijima (Taketomi Island) is the result of natural blessings merged with cultural traditions.
The sttractiveness of the carefully tended while sand roads, limestone walls, and red-tiled roof is more than aestheticc.
It is testimony to the will of the residents to preserve their community, along with the beaches, forests, and spiritual sites (known as on), and protect the island from overdevelopment.
This commitment is spelled out in the Taketomijima Kensho (Taketomi Island Charter) adopted by the island in 1986 and revised in 2017.
The Kensho lists five undertakings:

1."Do not sell" :Do not sell land or houses of the island to people outside the island or lend them in a disorderly manner.
2."Do not pollute" :Do not pollute any part of the island such as the sea, the beaches, and the villages. Furthermore, do not allow others to pollute.
3."Do not disturb" :Do not disturb the aesthetic appearance of the villages, roads, coasts, etc., with advertisements, signboards or other things.
Furthermore, do not disturb the island's moral order.
4."Do not destroy" :Do not destroy the unique rural community landscape or the beautiful natural environment.
Furthermore, do not allow others to destroy it.
5."Make full use":Use traditional ceremonial events, the fork performing arts, and local industries as spiritual support for residents and to promote the island.

These principal were and are viewed by the people of Taketomijima as being vital to preserving the island's traditional culture environment for future generations.


Taketomijima's residents welcome visitors, but the island is a small one, with a circumference of only 9.2 kilometers and a population of less than 400.
In accord with the undertakings of the Kensho, visitors are requested to observe the following rules:


1. Taketomijima has many visitors. Please take any rubbish home with you.
2. Do not enter areas bounded by rock walls around houses. These are the residents'private spaces.
3. The villages are where residents live their daily lives. Do not walk through villages in revealing clothes or swimwear.
4. Spending the night anywhere expect in accommodation facilities forbidden. You may not camp or sleep outside.
5. Flowers, plants, shellfish, fish, and butterflies are to be observed only, not touched. Each one is a tiny life
6. On are sacred sites. Do not enter. Please understand the meaning of "sacred"
竹富島説明板 遠景
この碑は、なごみの塔の南側(写真では右面)にあります。(写真は2021年秋に撮影)

21.欠

地図3.

22.星見石ノ由来

星見石

碑文の白された面
星見石ノ由来
[古ハ暦ナク]草木ノ緑ノ模様
星ノ出没ノ模様等デ春夏秋冬
ノ季節ヲ定メ以テ作物ヲシタト言フ

由来は、星見石の表面にコンクリート(モルタル)が塗られその上に書かれています。

2010.11時点では[ ]内の文字は消えていましたので、過去の資料から補足しておきました。

かつて、八重山では時節を知るのに、草木の成長、星の位置等が重要な役割を果たしていました。
星見石では群星=昴(スバル)の位置により時節を把握していたようで、今でも八重山のいくつかの島では、これと同様の星見石を見ることができます。


この星見石は元々ここにあったのではなく、島の北側の畑の中にあったものを移したそうです。
(反対側から)
星見石には穴が空けられていますが、この穴を利用して天体観測していたようです。

この星見石は「なごみの塔」の下(南西側)にあります。

23.篤志顕彰之碑

篤志顕彰之碑 裏面
篤志顕彰之碑

前野長用 白保英喜 本盛 松 大山真知
根原蒲戸 野原加名 入里俊勝 野底徳重
大盛常幸 亀井秀功 阿佐伊昇 東門用智
辻長 栄 高峯 寛   富本 武  國吉真津
大山祐功


※建立時期は不明です。
篤志顕彰之碑 正面
この碑は、赤山丘なごみの塔の登り口の近くにあります。

24.竹富島の説明看板

竹富島の説明看板

この看板は「なごみの塔」のある赤山丘の下にあります。

竹富島
西表国立公園 昭和四十八年五月十五日指定
重要伝統的建造物群保存地区 昭和六十二年四月二十八日選定
選定理由「伝統的建造物群及び周辺の環境が地域的特色を顕著に示しているもの」による。
竹富島は南島文化を代表する典型的な農村集落で次のような特徴を色濃く残しています。

●家の向きがほとんど南向きで二~四軒が一区画に切られています。
●ほぼ同面積の屋敷を珊瑚石灰岩の石垣で囲み周囲は福木等の防風林でめぐらしています。
●分棟づくりの主屋(フーヤ)と別棟(トーラ)は軒の低い屋根を瓦でふき、さらに漆喰で固めています。
●門を入ると趣向をこらしたマイヤシが結界の役目を果たした白砂の庭があります。

 年二回浜から砂を運んで道と庭にしきつめる習慣があります。
「かしくさや うつぐみど まさる」と今に伝わるこの協力一致の教えについて西塘(にしとう)様は竹富島出身で一五二四年に八重山統治の初代頭職となった人物である。1609年薩摩藩の侵攻後住民は明治三十五年まで続いた過酷な人頭税制のもとで苦しい生活を強いられてきました。それでも元来進取の気性に富み、一方では風土に根づいた伝統文化に誇りを持ってうつぐみの島を育んできました。
竹富島の住民は「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす」を基本理念として「竹富島憲章」を制定し種子取祭(たねどりさい)等多くの伝統行事をよく守り染織等伝統技術を生かした独自の地域作りに励んでいます。
 竹富町教育委員会

 環境省 平成16年度

25.新おきなわ観光名所選定碑

新おきなわ観光名所選定碑
新おきなわ観光名所
第4位
竹富島の町並み
1995年4月15日認定
沖縄郵政管理事務所
沖縄県
沖縄ビジターズビューロー



※竹富島の町並みは、昔ながらの沖縄らしい姿を保ち続け、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
この碑は、なごみの塔のある赤山丘の南側にあります。

26.紀元2600年記念碑

紀元2600年記念碑
紀元2600年記念
 竹富青年團

※ 昭和15(1940)年が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は昭和10(1935)年に「紀元2600年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進しました。
これは、日支事変後の戦線膠着や、列強の締め付けによる国内経済の悪化に窮する国民の景気付けの最大の好機として打ち出したものです。
景気付けは八重山にも及びましたが、この碑も昭和15(1940)年に建立されました。
碑 遠景

この碑はなごみの塔に面したイナフク(旧竹富島郵便局)の角塀(中央下部)に埋め込まれています。島のメインストリート沿いですが、少し分かりにくいかと思います。

27.安里屋クヤマ生誕の地の碑

ヒンプンに設けられた碑
ヒンプン
あ里屋ぬクヤマによう
目差主ぬくゆたらよう

安里屋ユンタの歌詞からです。

(標柱)
美女 安里屋(美女クヤマ)生誕の地

安里屋クヤマ生誕の地 2011年秋
安里屋クヤマ生誕の地 2019年春

28.竹富島のこころ(民宿泉屋)

竹富島のこころ
竹富島のこころ
輝かしい自然と礼儀正しい人々が
仲よく美しく暮らしている竹富島です
草も木も鳥も獣も海も砂も魚たちも
みんな生き生き
お互いにこのきよらかな環境を
大切に大切に愛しみましょう
人間らしさを
たずねる旅
島の文化財や壺やかめなどを尊び
島を傷つけ汚さないよう
珊瑚や魚貝を守りましょう
あなたのおもいでに竹富島の
こころが熱く長く生きるでしょう
        竹富島を生かす会
民宿泉屋
この文章は、泉屋の別棟(入って左手側)の前の、小さな黒御影石に記されています。
そしてこの文章は、こぼし文庫を贈呈した岡部伊都子さんが、島の人たちの協力で出来上がった家で最初に書いた原稿だそうです。

29.こぼし文庫贈呈記念碑

贈呈記念碑 (正面)

同(裏面)

正面)
贈呈
こぼし文庫
沖縄に照らされて
昭和四七年五月一五日
岡部伊都子

(裏面)
(有)沖縄国際海運
社長 上勢頭保


こぼし文庫は、竹富島をこよなく愛した随筆家の岡部伊都子さんが、民宿泉屋の西隣に子供たちのための図書室を作って、島に寄贈したものです。
こぼし文庫

この碑は、こぼし文庫敷地内(入って左手側)に設置されています。

30.感謝の碑

感謝の碑
感謝

この碑は、日本最南端のお寺である喜宝院と、そこに併設する民芸品などを集めた蒐集館の入口にあります。
同遠景
蒐集館は竹富島の歴史民俗資料館で、美術工芸、民具など約4000点が展示されています。

31.顕彰之碑(上勢頭亨翁)

顕彰之碑(正面)

同(裏面)
(正面)
あそびに学ぶ
ムーヤマの島
語りきわめて
未来ひらきし
上勢頭亨翁

(裏面)
顕彰之碑
 上勢頭亨翁(一九一○~一九八四年) は、幼いころより文化財の収集を始め、長じては古老たちから聞き取りを行い、来島した研究者の方々に島の民俗、歴史、文化を語り、竹富島を全国に知らしめた。
 その成果は、『竹富島誌』二巻に著され、蒐集館収蔵品約四千点のうち八四二点は沖縄県第一号の有形民俗文化財として国に登録された。
また、亨翁は一九三六年に仏門に入り、一九四九年浄土真宗本願寺派喜宝院を創設する一方で、芸能にも才を発揮し、狂言や踊りの演者及び師匠として玻座間村の後継者を育成した。
 よって、全国竹富島文化協会は、上勢頭亨翁の功績を讃え、生誕百年を記念して、石碑(豊平峰雲書) を建立する。
            二○一一年四月吉日



※表裏の表現は逆かもしれません。
碑 遠景
この顕彰之碑は、喜宝院蒐集館の前(鐘楼)の前にあります。

32.大石隊戦没者 慰霊之塔

慰霊之塔

中央下部の碑文
(上部)
大石隊 戦没者 慰霊之塔
(中央)
戦没者 九名 名簿 (略)
(下部) 
先きの太平洋戦争中、竹富島には高知、愛媛、新潟、沖縄出身兵士で編成された独立歩兵三〇一大隊の内百五十人が守備についた。米軍との直接戦闘はなかったものの、九名の戦病没者をだした。
昭和四十五年八月その霊を祀るため喜宝院々主が建立し、さらには五十二年七月、三十三回忌にあたり戦友の高知竹富会により英霊名板が作製入魂された。

(右石柱)
南無阿弥陀佛
(左石柱)
奉寄進
外村吉之介
慰霊之塔 遠景

この碑は喜宝院蒐集館の裏側(玄関右手側奥)にあります。館長にお断りをして中に入らせて頂き撮影しました。

33.竹富の歌碑

竹富の歌碑
かしくさや
 うつぐみど
  まさる


喜宝院蒐集館の向かい、水牛車の「新田観光」の敷地の隅にある歌碑です。

34.自然と人間の碑

自然と人間の碑
自然と人間

※この碑は、上勢頭亨氏の直筆で、ドライバーで文字を彫ったものだそうです。
同 遠景
この碑は、食事処やらぼの道向いにあります。

地図4.

35.スンマシャーの説明看板

スンマシャーの説明看板  (西集落)

西表国立公園 スンマシャー(西集落)
スンマシャーとは集落の入り口に巨木とそれを取り囲むように石垣を積みまわしたものです。風水思想に基づく集落作りの現れの一つで、病魔や凶事が集落に進入するのを遮るために設けられています。また、ここからが生活の場という目印ともいえます。
-守ってほしいこと-
一、自分の出したゴミは自分でお持ち帰り下さい。
一、集落内は水着などで歩かないで下さい。
一、宿泊施設以外での宿泊は禁じられています。
一、御嶽は神聖な場所です。中へは立ち入らないないようにしてください。

Summasha
The Summasha is a gigantic surrounded by a stone wall that usually stands at the entrance to a village.
Following the principles of feng shui, it is intended to keep out disease and evil and it also marks the beginning of the village.
Please keep the following rules in mind
Do not litter, please dispose of your trash property.
Refrain from walking around the village in swimwear and other revealing clothing.
Staying the night at places other than accommodation facilities (i.e. camping on the beach, etc.) is strictly prohibited.
The On is a sacred space, and is off-limits.


 環境省 平成16年度

竹富ではスンマシャーですが、石垣方言ではチィンマーセーと呼ばれます。
港から集落へのデイゴ並木のホーシミチには、東のスンマシャーがあります。
西のスンマシャー
西のスンマシャーは、西桟橋から西集落への入り口にあります。

36.土地顕彰之碑

土地顕彰之碑
土地顕彰之碑
入里 俊勝


この碑は、サンゴを焼いて漆喰を造る場所だった所を、墓地として寄付したことを称えたものです。
土地顕彰之碑 遠景

この碑は西パイザーシから西桟橋へ向う途中の左手・墓地の手前にあります。

37.西桟橋の説明看板

西桟橋の説明看板(新)

この看板は2023年春に元あった場所に更新設置されました。日本語説明と英語説明とでは随分と内容が異なっています。

補修工事後の西桟橋

桟橋も補修工事が行われ2023年春に完成しました。特に先端部の傷みが酷かったのですが綺麗に直されました。

西桟橋
竹富島では稲作が困難であったため、復帰(一九七二年)前までは、「イタフニ」と呼ばれる木板を張った船や松をくり抜いた船を用いて、この西桟橋から対岸の西表島まで時間をかけて渡り、田を耕しました。また、滞在している間は西表島に隣接する風土病のない由布島に田小屋を造り、寝泊まりしました。現在は、夕陽の絶景スポットとして多くの宿泊客が訪れるスポットとなっています。
西桟橋は、通耕の歴史を語る貴重な建造物として、二〇〇五年に登録有形文化財に指定されています。

Nishi-sanbashi:History of the Western Pier
The tranquil beauty of this pier concrasts sharply with the harsh role it played in the islanders struggle for survival from the early 1600s. Faced with a ruinous nintozei (poli tax) imposed by invaders from Kagoshima's Satsuma domain in 1609, the farmers of Taketomijima, where rice grows poorly had no choice but to travel by itafuni (canoes made from hollowed-outlogs) to cultivate fields on Ishigaki island to the east and Iriomate island to the west. They set out from Nishi Sanbashi, making slow passage, singing yunta (work songs) and ayo (ritual songs). After the harvest, the pier would be piled high with straw bags of rice. The nintozei lasted until 1902 and is rememberd for the great suffering brought upon the community, In 2005, the Nishi Sanbashi was declared a Registered Trangible Cultural Property of Japan.

An abundance of sea life popurates the area around the pier. Small iidako (octopasws) dig birrow in the sand and wait to catch minamisunagani (smooth handed ghost crabs). Kasumiaji (Blue trevally) , the island's representative large carnivarous fish, dart yhrough the shallows chasing schools of fish. In the evening, visitors can bask in the day's residual warmth from the pier structure while enjoying the spectacular sunset over Iriomote. After sunset, the view of the night sky can be bresthtaking.

 環境省 Ministry of the Environment
西桟橋の説明看板(旧)

西桟橋は畑作中心のヌングン(野の国)の島から、稲作が可能なタングン(田の国)の島へ舟を出した場所です。耕作地は西表島・古見の与那良原でした。
西表国立公園 西桟橋(にしさんばし)
竹富島では稲作が困難だったため、復帰(1972年)前までは「イタフニ」と呼ばれる松をくり抜いた船や帆船を用いて、この西桟橋から対岸の西表島へ長時間かけて渡り、田を耕しました。またその間は西表島に隣接する風土病のない由布島に田小屋を造り、寝泊りしました。
近年では漁のための船着き場として利用されています。また夕陽が美しく見える場所でもあります。

Nishi-sambashi
Since Taketomi is not suitable for growing rice, until the reversion of Okinawa to Japan in 1972 people used to make a trip of many hours from here, Nishi-sambashi (west pier), to Iriomote island using itafuni (boats hollowed out of pine trees)。
On Iriomote, they could cultivate their rice fields, but to avoid endemic diseases, they had to stay overnight in self-constructed huts built on the adjacent Yubu island.
This pier is now used as a fishing boat wharf, and it is the best spot to watch the beautiful sunset.


 環境省 平成16年度
補修工事前の西桟橋
桟橋に記載の文字

桟橋の中央右側に記載されている文字ですが、意味は分かりません。

38.西桟橋 登録有形文化財の碑

西桟橋 登録有形文化財の碑
これらの碑は、西桟橋の海に向って左手側の、陸地寄りの壁にあります。
(左プレート)
登録有形文化財

第47-0009号
この建造物は貴重な国民的財産です
文化庁

(右碑文)
部落会長 與那國■
東支会長 與那國清■
西支会長 野原安■
南支会長 嘉手川恒■
工事監督 竹盛佐■
左   官 大山 貞■
土木委員 大山英信
       友利清徳
       前野長用
       新井信勝
       嘉手川清
       勢頭敏晴
       國島松■

は、コンクリートが剥がれ落ち判読困難な文字です。



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