アヒャー綱は、四カ字豊年祭の神事の最後に行われる熱狂的な女性だけの綱引で、真乙姥御嶽の前で行われます。男綱と女綱を結び合わせるブル棒を貫く役目の中役は(この役目は「ツナブルピトゥ」と呼ばれます)、今でも新川出身で在住の婦人に限られますが、綱引はよその村の婦人も一緒に参加しています。(1948年頃までは、字新川の女性だけが綱引をやっていたそうです。) 中役に選ばれるのは大変名誉なことですが、選ばれる条件は夫が健在で夫婦円満の家庭の方だそうです。
現在のような形で四ヵ字豊年祭が行われるようになったのは与那覇在番(よなはざいばん)の時代(1778〜80)からと言われ、約230年以上の歴史ある祭りです。
アヒャー綱の始まりは、次のように伝えられています。
『昔、新川(あらかわ)村がまだ石垣村と分離していなかった頃、石垣村の知念家に航海術に大変優れた男がいた。琉球王府へ貢物を届ける仕事をこの男にお願いすると、誰よりも短時間で、安全に航海してきたので「宇根通事(ウーニトゥージ)(ウーニ:舟、トゥージ:船頭)」と呼ばれた。通事の妻は、いつも真乙姥御嶽の神様に夫の無事をお願いしていたが、あるとき目が見えなくなってしまった。困った通事は妻と相談して補佐役として第二婦人を持つことにした。通事が上覇するときには二人の妻が真乙姥御嶽に祈願しながら待った。
ある年のこと、通事は王府からの帰りに遭難して唐国に流された。一年たっても帰らなかった。二人の妻は真乙姥御嶽に「夫を無事に帰してくれたら恩返しに綱引をして感謝の意を表しましょう」と言って祈願した。
ある日、御嶽で祈願していた本妻が「長崎の浜に明かりがついている。夫が帰ってきたのではないか」という。もう一人の妻は「盲目の本妻が見たのなら神様の知らせではないか」と、翌朝早くに浜へ行って見ると、夫の舟が帰っていた。
二人の妻は喜び勇んで真乙姥御嶽に詣で、約束の綱引をしようとしたが材料がない。そこで、近くの井戸のつるべ紐をはずして縄にない、綱引をして見せた。その後、士族の妻達が、通事の妻にあやかって王府に出向く夫の無事を祈って願を掛け、役目を果たして帰ってくると綱引をして御礼詣でをした。』
以来、この綱引を、アヒャー綱と言うようになったそうです。なお、綱は龍の化身ともいわれ、水神、龍神への感謝を込めているとも言われています。
アヒャー綱は、女性だけで行うものですが、実際に綱を引くことはしません。神司からブルを受け取ったツナブルピトゥは、他の婦人たちが真乙姥御嶽の前に準備された雄綱と雌綱を絡ませて作った隙間にブル棒を差し込み、綱の上に乗ります。その綱はそのまま祭の中央へ運ばれ、そこでツナブルピトゥは綱から降りてブル棒を引き抜き御嶽へ戻します。この儀の間「サァーサァーサァーサァー」という凄いパワーの女性たちの掛け声と巻踊りが繰り広げられますが、これは豊穣の模擬行為を示していると言われています。
[石垣島検島誌より一部引用]
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