四ケ字の豊年祭(ムラプール)2014  更新 2014.11.22

今回は青字の部分(アヒャー綱)の追記をしました。
 
 石垣島最大の伝統行事は、五穀豊穣に感謝し来夏世(クナツユ)の豊作を祈願する「豊年祭」ですが、その豊年祭の中でも一番規模が大きく賑やかなのが四カ字(シカアザ)の豊年祭です。四カ字とは、石垣島の市街地(中心部)にある「新川」、「石垣」、「大川」、「登野城」の字のことで、豊年祭はこれらの地区が合同で行うものですが、最近は四ケ字だけでなく、周辺の新興集落(ex.双葉公民館)も参加するようになっています。

 四ケ字の豊年祭は二日間にわたり開催され、一日目のオンプール(御嶽プール)は各地域の御嶽で開催され、二日目のムラプールは、新川地区が「大川」「石垣」「登野城」の各地域を招き、真乙姥(マイツバ)御嶽にて合同で開催されます。

 ムラプールでは、各字会や公民館、各種団体自慢による旗頭や伝統芸能が奉納されますが、地域によって違う旗頭や奉納行事・伝統舞踊を一堂にみる事ができます
 また、女性だけで行われる「アヒャー綱」や勇壮な「ツナヌミン」、「大綱引き」など見ごたえのあるものも多くあり、夜遅くまで賑やかに行われます。



















 四カ字の豊年祭の開催日は、新暦の7月中旬から8月上旬頃であり、1日目は市内四ヶ所の御嶽でオンプール、2日目は真乙姥御嶽でムラプールが行われます。
 2014年のムラプールのスケジュールは次の写真のようになっていましたが、メインとなる行事は、凡そ15時30分〜21時30分の間と捉えておくとよいでしょう。

 ところで、2014年のムラプールは、接近する台風9号の影響で開催も危ぶまれましたが、結果としては風が強かっただけで雨は降らず、予定通り開催されました。
 ただ強風のため、旗頭奉納は大変で周囲の仲間がロープで倒れないようにバランスをとる手助けをしていました。しかし、上部に大きな装飾品が取り付けられていることもあり旗頭を持つ人のコントロールはなかなか難しく、すぐに倒れそうになるためなかなか前に進むことができませんでした。
 こうしたこともあり全体スケジュールはどうしても遅れ気味で進行しました。

【アヒャー綱】 (「アヒャーマ綱」とも言います。)
 「アヒャー綱」は女性だけで繰り広げられます。ブルピトゥ(棒貫人)に選ばれた女性が神司から授かったブル棒(貫棒:カヌチ棒とも呼ばれます)で雌雄の大綱をつなぎ合わせると、取り囲んだ大勢の婦人たちが「サァー、サァー、サァー、サァー」と掛け声を上げガーリー(歓喜の乱舞)で熱狂、盛り上がります。「アヒャー」とは、貴婦人という意味だそうです。
【ツナヌミン】
 「アヒャー綱」の後、豊年祭の会場は水元の神前と言われる真乙姥御嶽の約200m西側の場所に移動します。綱は市民や観光客が持って移動します。 そして、日が傾きかけたころ、綱の両側から松明に囲まれて、東から「なぎなた」、西から「鎌」を持った武者が板舞台に乗せられてきて、綱の中央で勇壮なツナヌミンを演じます。
【大綱引き】
 フィナーレは大綱引きで、東西に分かれ合図とともに大勢の市民や観光客が東西に綱を引きあいます。2014年は西が勝利しました。(1回勝負)

 四ケ字の豊年祭(ムラプール)2014の様子

会場となる真乙姥御嶽です。車両は通行禁止となり、旗頭の支障にならないよう信号機も予め向きが変えられています。 各字会や公民館、学校、各種団体の旗頭が建てられています
新川字会の会長他、多くの方の挨拶から豊年祭祝典が開始されます。時刻は16時前です。 樹齢2〜3百年と言われるオオバアコウの巨樹の下の広場で各種伝統芸能が奉納されます。
各集落を代表する御嶽の司(神司)の皆さんです。 ここから各種伝統芸能が奉納されます。これは子どもたちによる五穀の奉納です。

 

クバの扇や旗を持った踊りです。 ざるなど持った踊りで、たぶん「稲摺り」と思われます。
鎌を持った踊りです。 こちらは子どもたちの鉦と太鼓です。
女性たちの巻き踊りのようです。 奉納舞踊(スナイ)が次々に演じられます。

 

旗頭奉納です。こちらは字大川の旗頭です。 転倒事故等を防ぐために、チーム内の2人が、柱の上部に繋いだロープを両側から引っ張り、バランスを崩さないようにしています。
相当重い旗頭を一人で持ち上げて動き回ります。持ち手は1人で腰に巻いた帯に掛けて前進します。 こちらは字登野城の旗頭です。

 

八重山農林高校の郷土芸能部の皆さんによる踊りです。
華やかさがあります。

 東から老人の姿で稚児を連れた五穀豊穣の神が板舞台に乗って登場します。

各団体の奉納後、予定より約30分遅れの18時半頃から、「五穀の種子授けの儀」が行われました。
西からは真乙姥御嶽の巫女が現れます。 こちらも板舞台に乗っての登場です。

 

真乙姥御嶽の前で両方が出会います。 農の神から巫女に五穀(稲、粟、麦、大麦、甘藷)の種子が手渡されます。
扇を挙げ種子が手渡されたことを表しています。これで来夏世の豊穣が約束されました。 その後凄いスピードで両者は離れます。
それを祝って女性たちが喜び踊ります。

 無事に五穀の種子が渡されると、次は女性のみで行われる「アヒャー綱」の儀式に移ります。
 この儀式が終わるまで、男性は、綱には触わってはいけないそうです。

雌雄の大綱を両側から持ち寄ります。 「ブルピトゥ」は、司から受け取った「ブル棒(カヌチ棒)」で雌雄の大綱をつなぎ合わせます。(写真中央の棒です。)
結び終わると、周囲の女性たちが「サァー、サァー、サァー、サァー」と掛け声を上げる「ガーリー」で盛り上がります。 今年はこの方が「ブルピトゥ」です。
「ブルピトゥ」は一生に一度の大役で、しかも1年に一人という女性にとっては大変名誉のある役だそうです。 「ブルピトゥ」は、司に無事に綱が結ばれたことを伝えます。

 アヒャー綱は、四カ字豊年祭の神事の最後に行われる熱狂的な女性だけの綱引で、真乙姥御嶽の前で行われます。男綱と女綱を結び合わせるブル棒を貫く役目の中役は(この役目は「ツナブルピトゥ」と呼ばれます)、今でも新川出身で在住の婦人に限られますが、綱引はよその村の婦人も一緒に参加しています。(1948年頃までは、字新川の女性だけが綱引をやっていたそうです。) 中役に選ばれるのは大変名誉なことですが、選ばれる条件は夫が健在で夫婦円満の家庭の方だそうです。

 現在のような形で四ヵ字豊年祭が行われるようになったのは与那覇在番(よなはざいばん)の時代(1778〜80)からと言われ、約230年以上の歴史ある祭です。
 アヒャー綱の始まりは、次のように伝えられています。

 『昔、新川(あらかわ)村がまだ石垣村と分離していなかった頃、石垣村の知念家に航海術に大変優れた男がいた。琉球王府へ貢物を届ける仕事をこの男にお願いすると、誰よりも短時間で、安全に航海してきたので「宇根通事(ウーニトゥージ)(ウーニ:舟、トゥージ:船頭)」と呼ばれた。通事の妻は、いつも真乙姥御嶽の神様に夫の無事をお願いしていたが、あるとき目が見えなくなってしまった。困った通事は妻と相談して補佐役として第二婦人を持つことにした。通事が上覇するときには二人の妻が真乙姥御嶽に祈願しながら待った。
 ある年のこと、通事は王府からの帰りに遭難して唐国に流された。一年たっても帰らなかった。二人の妻は真乙姥御嶽に「夫を無事に帰してくれたら恩返しに綱引をして感謝の意を表しましょう」と言って祈願した。
 ある日、御嶽で祈願していた本妻が「長崎の浜に明かりがついている。夫が帰ってきたのではないか」という。もう一人の妻は「盲目の本妻が見たのなら神様の知らせではないか」と、翌朝早くに浜へ行って見ると、夫の舟が帰っていた。
 二人の妻は喜び勇んで真乙姥御嶽に詣で、約束の綱引をしようとしたが材料がない。そこで、近くの井戸のつるべ紐をはずして縄にない、綱引をして見せた。その後、士族の妻達が、通事の妻にあやかって王府に出向く夫の無事を祈って願を掛け、役目を果たして帰ってくると綱引をして御礼詣でをした。』

 以来、この綱引を、アヒャー綱と言うようになったそうです。なお、綱は龍の化身ともいわれ、水神、龍神への感謝を込めているとも言われています。 

 アヒャー綱は、女性だけで行うものですが、実際に綱を引くことはしません。神司からブルを受け取ったツナブルピトゥは、他の婦人たちが真乙姥御嶽の前に準備された雄綱と雌綱を絡ませて作った隙間にブル棒を差し込み、綱の上に乗ります。その綱はそのまま祭の中央へ運ばれ、そこでツナブルピトゥは綱から降りてブル棒を引き抜き御嶽へ戻します。この儀の間「サァーサァーサァーサァー」という凄いパワーの女性たちの掛け声と巻踊りが繰り広げられますが、これは豊穣の模擬行為を示していると言われています。
 [石垣島検島誌より一部引用]


 「アヒャー綱」の儀式の後、旗頭と大綱は水元の神前とされる真乙姥御嶽の西側200mの所に移されます。

この後は、会場を真乙姥御嶽の西に移します。
旗頭も移動します。

 日没後、東からは「なぎなた」、西からは「鎌」を持った武者が板舞台に乗って登場します。これが勇壮なツナヌミンです。
 「ツナヌミン」とは「綱の耳」、つまり綱引きの結びあう先端の「耳」を表しています。
 なお、地元では、この「ツナヌミン」のことを「牛若丸と弁慶」と呼ぶ方が結構いらっしゃいます。

不安定な板舞台の上で武者が華麗に乱舞する姿は勇壮です。

 フィナーレは大綱引きが行われ、大勢の市民や観光客が東西に綱を引きあいました。今年は西側が勝利しました。
 残念ながら綱引きの写真は未撮影です。
 この後、各字会は旗頭を出身集落に持ち帰ります。一通りの行事が終わった後も片づけなければならない作業が多々あり、各地区のメンバーは夜遅くまで相当大変なようです。

 


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