オヤケアカハチ  作成 2015.04.04


 オヤケアカハチ・ホンカワラ(ホンカワラは大酋長の意:以下「オヤケアカハチ」と記載)は、西暦15世期後半の八重山に実在した人物です。
 西暦1500年に起きた「オヤケアカハチの乱」について、その評価は八重山のなかでも分かれるところですが、第二次大戦終戦後、オヤケアカハチは地元で再評価されるようになりました。
 ここでは、オヤケアカハチの生い立ちから「オヤケアカハチの乱」について紹介します。
 

 
 西暦2000年10月に大浜小学校の北側に「オヤケアカハチ之像」が建立されました。 その「オヤケアカハチ之像」の裏面には次のように記されています。
 
オヤケアカハチ之像
 西暦一五〇〇年(明応九年)、当時の琉球王府に年貢を拒否、反旗を翻した驚天動地のオヤケアカハチの乱の主人公・オヤケアカハチの銅像。その人物像は体つきが人並みはずれた大男、抜群の力持ち、髪は赤茶けて日本人ばなれのした精悍な顔つきの若者−と伝えられている。正義感が強く、島民解放のため先頭に立って権力にたち向い、大浜村の人々から太陽と崇められ信望を一身に集めていた。
 爾来、今日まで英傑・オヤケアカハチの遺徳は大浜村の人々に「アカハチ精神」として受け継がれている。この銅像はイメージ像をもとに現代の手法を駆使して製作したものである。
 オヤケアカハチ五〇〇年実行委員会
 西暦二〇〇〇年十月吉日建立
 
 2000年10月に建立された「オヤケアカハチ之像」です。  「オヤケアカハチ之像」の裏面にあるプレートです。
 

 また、この像の建立から遡ること47年前の昭和28年には大浜地区の崎原公園内に「オヤケアカハチ」の顕彰碑が建立されていますが、その横の石碑には次のように記されています。
 
碑文
 オヤケアカハチは一名ホンガワラアカハチとも
稱(しょう)した豪勇(ごうゆう)衆にすぐれ群雄割拠のその当時大浜村を根拠として酋長に仰がれていた。文明十八年(一四八六)中山尚真王は使者を八重山に特派してイリキヤアモリの祭祀を淫祠邪教(いんしじゃきょう)として厳禁したところ島民は信仰への不当なる弾圧だとしていたく憤慨した。ここにおいてアカハチは島民の先頭に立って反旗をひるがえし朝貢を両三年壟断して中山の反省を求めたが尚真王は大里王子を大将とし副将並びに神女君南風らと共に精鋭三千人を兵船四十六隻で反乱鎮圧に派遣した。アカハチは大いに防戦奮闘したが衆募敵せず恨みをのんで底原の露と消えた。時は明応九年(一五〇〇)今から四五四年前のことである。アカハチは封建制度に反抗して自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義感をもつて戦ったのである。戦いは利あらず敗れたけれどもその精神と行動は永く後世に光芒を放つことであろう。ここに碑をもってその遺徳を讃えるゆえんである。
 一九五三年四月十六日  
 オヤケアカハチ顕彰碑建立  (以下省略)
 
「オヤケアカハチ」の顕彰碑の横にある石碑です。 こちらが大浜地区の崎原公園内にある「オヤケ赤蜂之碑」と、彼の妻の「古乙婆之碑」です。

オヤケアカハチに関する地図
  
 
 

1.オヤケアカハチ誕生説


 オヤケアカハチ 生誕の地 (波照間島)
 オヤケアカハチは、波照間島に生まれ育ったとされていますが、誕生については諸説があり、
コモに巻かれて流れ着き、アダンの下で泣いていたが、東を向いていたため拾われ育てられた。
東海岸に潮が吹き出ている所があり、その側に捨てられて泣いていたが、東を向いていたため拾われ育てられた。
難破船から助けられた男と波照間島の司の間に出来た子で、司は御嶽の中で子どもを産み、その子を浜に捨てておき、拾ったことにして育てた。
オランダ船が漂着して、上陸したオランダ人と加屋本家(今でも島には子孫がいらっしゃいます)の女の間にできたハーフ。
などとありますが、語り継がれてきた髪の色や目の色、風貌などを考慮すると、外国人(もしくはハーフ)であった可能性は高いと思われます。
 オヤケアカハチは育つにつれ、体格も大きくなり、また頭脳も優れていました。

 

2.長田大主とは


長田大主 生誕の地 (波照間島)
 同時代に生きた長田大主(ナータフーズ)も波照間島の生まれで、オヤケアカハチと一緒に遊んでいた幼馴染みとされていますが、オヤケアカハチよりも早く石垣島に渡りました。

 長田大主は、父親と言われる宮古島の支配者・仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ)の勢力を借り、今の石垣市街地である四箇(現在の石垣・登野城・大川・新川)を支配していました。
 
 

3.大浜村への移動


フルストバル遺跡(石垣島)
 オヤケアカハチは波照間島から小舟に乗り、当時、石垣島で最も大きい村「大浜(ホーマ)村」へ辿り着きます。
 やがて、オヤケアカハチは村人にとけ込んでゆき、村のために良く働き人々を助けたこともあり、次第に慕われるようになります。
 その当時の大浜村は、今の大浜地区西端(旧石垣空港の北東側)にあるフルストバル遺跡と呼ばれるところにあったようです。(因みに、当時の石垣島の人口は、600人程度だったそうです。)
 当時の大浜村は、近くの島々との交通も盛んで、次第に周辺の竹富島や小浜島でもオヤケアカハチに従う者が多くなってきました。オヤケアカハチの勢力が広がり、島々の民を味方に巻き込み台頭するに従って、次第に長田大主と対立するようになります。
 あちこちで諍いが始まり、やがてオヤケアカハチの勢力は長田大主の支配する四箇さえも脅かすようになりました。
 
 
4.八重山の勢力分布
 

慶来慶田城翁屋敷跡の碑(西表島・祖納上村)

 15世紀中期の八重山は、各地域の中で力のある者が中心になり政が行われ、村を形成していました。この時代は、いわば群雄割拠の時代で、それぞれの有力者は勢力拡大を画策し混沌とした状況にありました。
 当時、八重山の中心地であった西表島の祖納には、平家の子孫と伝えられる慶来慶田城(ケライケダグスク)が、石垣島の西北の川平には仲間満慶山(ナカマミツケーマ)が、石垣島北端の平久保には平久保加奈按司(ヒラクボカナアンジ)が、四箇には長田大主が、大浜にはオヤケアカハチが君臨していました。また、波照間には獅子嘉殿(シシカドゥン)が、与那国では女頭領のサンアイ・イソバが、それぞれの地をまとめていたと伝えられています。

 更に海を隔てた宮古島の頭領・仲宗根豊見親は、資源豊かな西表島や波照間島に手を伸ばし、石垣島の一部にも影響力を及ぼしていました。

 
  

5.長田大主との共闘決裂の背景

 ある年、宮古島の仲宗根豊見親は石垣島に渡りオヤケアカハチに年貢の催促をしましたが、オヤケアカハチはそれを拒否しました。その態度に仲宗根豊見親は驚き、このままでは石垣島どころか足元の宮古島までオヤケアカハチに取られてしまうと危惧し、なんとか手をうたねばと考えるようになりました。

 一方、オヤケアカハチは首里王府や宮古の仲宗根豊見親に年貢を納めるのは不合理であり、八重山がまとまって仲宗根豊見親に抗すべきだと、幼馴染である長田大主に共闘を持ちかけました。

 しかし、長田大主と仲宗根豊見親は親戚関係にあり、首里王府と宮古島の豪族の先鋒が長田大主でもあったことから、オヤケアカハチの申し出は反故にされ、逆にオヤケアカハチ討伐の側に回ることになります。

 
 

6.長田大主の策略

 長田大主は、武力的にオヤケアカハチに対抗できそうもなかったため、いくつかの策略を巡らせることになります。
 ある時、オヤケアカハチが長田大主の所に島々のことを相談するために訪れた際、長田大主は日頃の諍いを忘れたように歓待しましたが、歓迎の料理を鶏がついばむとその場で死んでしまいました。毒を盛ったわけですが、怒ったオヤケアカハチが刀で斬りつけようとするものの、周囲の者に止められて大浜へ帰ることになります。
 次に長田大主が策略をめぐらし思いついたのが、妹の古乙姥(クイツバ)をオヤケアカハチに嫁がせることでした。妹を嫁がせれば当分自分に刃を向くことはしないだろうという考えで、今で言うところのいわゆる政略結婚を仕組んだわけです。
 古乙姥は兄の言うことを断ることもできずにオヤケアカハチのもとに嫁ぎます。そして、長田大主は、妹の古乙姥に、「隙を見て、この薬でオヤケアカハチを殺せ」と毒薬を与えました。
 しかしながら、オヤケアカハチは力があって頭脳明晰、しかも村人に対しても親切で誠実で、兄の長田大主が言うような悪人でも恐ろしい人間でもないことがわかり、古乙姥は逆にオヤケアカハチのことを好きになってしまいました。
 古乙婆がオヤケアカハチと意を通じたことにより、長田大主の企みが明らかになってしまい、長田大主は四箇に住むことができなくなります。石垣島西部の屋良部の海岸に逃げ、その後、西表の古見に渡り、祖納の慶来慶田城の元に身を寄せ、事の次第を宮古・首里王府へと知らせました。

 
 

7.豪族との共闘作戦の失敗


「仲間満慶山英極」生誕之地の碑(石垣島・川平)
 長田大主を逃したオヤケアカハチは、大浜の住民と一緒になって島内で戦う味方を集めようとします。まずアカハチは川平の豪族「仲間満慶山」を味方に引き入れるべく画策します。
 仲間満慶山は、平家の落ち武者の子孫で文武に優れた人物だったと言われ、今でも「川平の英雄」と慕われています。

 ケーラ崎にある「仲間満慶山終焉の地」の碑(石垣島)
 ある時、仲間満慶山はオヤケアカハチから呼ばれ川平を出るとき、長男が心配して同行を申し出たのですが、それを断りオヤケアカハチと会う約束をした真栄里まで馬に乗り一人で会いに来ます。オヤケアカハチは仲間満慶山と共に首里王府と戦おうと説得しますが、仲間満慶山はこの申し出を断ります。
 仲間満慶山が断った理由は、首里王府の大きさを認識しており、王府に弓を引くことは逆臣・逆賊になってしまい、武力・財力共に圧倒的な力を持った首里王府との争いに、罪もない島民を巻き込みたくない、というものでした。
 しかし、話し合いが決裂した後、オヤケアカハチは仲間満慶山が敵に回るのを恐れて、帰り道の途中のケーラ崎(斬りつけるの意)の海辺近くに落とし穴を造って待ち伏せし、馬で帰る途中の仲間満慶山を討ち取ります。
 現在、ケーラ崎には「仲間満慶山終焉の地」の石碑が建立されていますが、その場所は、市街地から川平へ向かう途中の名蔵湾沿いにある「石垣島焼」の近くに有ります。

 次に、オヤケアカハチは波照間島の獅子嘉殿を仲間に入れるため、強力者の嵩茶(タケチャ)を使者として波照間に送りました。しかし、その獅子嘉殿も一緒に戦うことを断ったため、嵩茶は獅子嘉殿に、「アカハチと会って話しをして欲しい」と誘い出し、船に乗せて石垣へ向かう途中、狭い船上で獅子嘉殿を殺して海に捨ててしまいます。
 その後、オヤケアカハチは長田大主を討つべく攻め込むものの、長田大主の弟二人(那礼當と那礼重) は討ち果たしましたが(二人ともオヤケアカハチに殺害されたという説がありますが、真偽のほどは確かではありません)、長田大主と妹の真乙姥(マイツバ=古乙姥の姉)は取り逃がしてしまいます。

 この後、宮古へ逃れた長田大主からの報告で、宮古の仲宗根豊見親 (長田大主の父親で宮古島の酋長) は、打開を図るべく舟を出し首里王府にオヤケアカハチの謀反を訴え救済を求めます。
 このとき首里王府は琉球全土に支配力を高めんとしていた時期で、これ幸いとばかりに、仲宗根の求めに応じ大軍団を八重山へ差し向けたのです。

 
 

8.首里王府のオヤケアカハチ討伐の理由(オヤケアカハチの乱の背景)

 救済を求められた首里王府からすれば、王府に対して反感を持つオヤケアカハチが八重山諸島を支配するようになることは、中山王への朝貢が絶たれることは勿論のこと、それ以上に中国や東南アジアへの交易ルートに大きな障害が生じることになりかねません。

 首里王府がオヤケアカハチ征討に踏み切ったのは、3年もの間、「首里への入貢を拒絶した (*1)」という王府の命令に従わない謀反への成敗を大義名分としているものの、実は八重山を首里王府の中に統合し安定した交易ルートを確保しようとしたからだと言われています。

(*1)

  「首里への入貢を拒絶した」という理由の他にも、八重山の人々が尊敬していたイリキヤ・アマリを祭る「神遊び」(裸舞い)を邪教として禁止されたことが遠因となり、重税にあえいでいた島人の怒りが反乱をおこした」という説もありますが、信仰禁止された年代(1486年)からするとこの説は考えにくいものがあります。


 

9.オヤケアカハチの戦い

 こうしたことから、首里王府は沖縄本島・久米島・宮古から兵を集め、百隻の船に三千名の兵を乗せて、オヤケアカハチ征伐に動き出します。
 その規模は軍船大小46隻、兵士3千人の大軍団であったと記録されています。これに対しオヤケアカハチ側は軍備らしいものはなく、竹やり、鎌や棒などを武器にした年寄りや女を含め1500人程、土嚢を積んだような砦を守っていました。王府軍が石垣島沖の海上に現れると、西表島にいた長田大主もそれに加わりいよいよ総攻撃が始まりました。悪天候などの関係もあり、王府軍の石垣島への上陸は困難を極めました。

 オヤケアカハチは、まず、新川の海岸に押し寄せて来る首里軍の目を欺くため、水甕にアダン葉で作った蓑笠を着せて並べました。首里軍は数千の矢を雨のように降らせましたが、並んでいるのは水瓶であり、首里軍はその策に驚きました。
 同行していた久米島の最高神女の君南風が、姉妹神の於茂登照の神に願をかけると、「オヤケアカハチは優れた武将だから、普通では勝てない。筏に火を灯しそれに目が向いている間に攻めればよい。」というお告げがあったそうです。
 首里軍は教えのまま、竹で沢山の筏を作り、それに火をかけて登野城に向けて流しました。オヤケアカハチは、敵襲とばかり味方の軍勢を筏が流れて行く登野城方面に回すと、首里軍は裏をかき、新川の海岸から上陸しました。

 
オヤケアカハチ終焉の地 底原山近辺
(於茂登山山頂からの底原ダム湖方面)
 しかしオヤケアカハチが、島中の人を集めていくら戦っても、三千人の兵とまともに戦うことはできませんでした。やがて、首里軍に追われたオヤケアカハチは於茂登山の麓、底原(そこばる)に逃げました。しかし遅れて来た古乙姥は首里軍に捕まってしまいます。首里軍はオヤケアカハチの居場所を聞き出すために古乙姥の足に脛枷(スネカセ)を噛ませて拷問しましたが、古乙姥は最後まで白状しませんでした。それを木に登って身を潜めていたオヤケアカハチは等々いたたまれなくなり、「オヤケアカハチはこっちに居るぞ。」と叫び、首里軍に矢を射掛けられ応戦しました。

 多くの敵兵を倒し、逃げ回りましたがさすがに疲れていたので、敵がいないのを確かめて、茅を敷いて寝たものの、休む間もなく敵が追ってきたので、武名田原(ぶなたばる)の水田に沈み、蓮の茎をストローのように使い水中で息をして隠れていました。
 
 追っ手は探し回りましたが見つからず、帰りかけようとするとたまたま探った槍の先の水中が真っ赤に染まり、オヤケアカハチは見つかってしまい、泥田の中で最期をとげることになります。
 「長田大主」に追い詰められたオヤケアカハチは、底原山の大きな榕樹(がじまる)の木の下で、死に物狂いに抵抗するも多勢に無勢、遂に討ち取られ首をはねられてしまいます。
 
 
10.戦いの後
 
 戦乱のときに殺された古乙姥は、姉の真乙姥を祀る真乙姥御嶽の入口近い場所に葬られたといわれ、泡石で作られた平らな墓は蝸牛墓(つだみばか:かたつむり墓)と呼ばれており、毎年の四箇の綱引きのときに裏切り者として踏まれていました。(つだみ墓にした目的は意図的に墓地を訪れる人々に踏みつけさせようという見せしめであり、古乙姥を逆賊の象徴としたのです。) 
 

 真乙姥御嶽(石垣島)

 一方、長田大主のもう一人の妹、真乙姥は兄に従い王府軍のために働くことになります。オヤケアカハチ討伐後王府軍が無事首里まで帰還できるよう、祈願しこれが叶ったということから永良比金(イランビンガニ)という神職を授かることになります。その後真乙姥は人々の尊敬を集め神職としての役目を全うし、没後は立派な墓が作られ鄭重に供養されました。この墓地を訪れる人々は多く、遂には真乙姥御嶽として多くの人々から崇敬されることになりました。

この戦功により、仲宗根豊見親は宮古の頭職、その次男の真刈金豊見親は石垣の頭職に任ぜられます。長田大主は古見大首里大屋子、その他オヤケアカハチに殺害された長田大主の二人の弟の遺児や仲間満慶山の遺児等にも要職が与えられました。

しかし、栄華を誇った琉球王朝もそれからおおよそ百年後の1609年薩摩郡の侵略を受けその支配に下るという皮肉な運命を辿ることになります。

 
付録
 
オヤケアカハチの森(小浜島)
小浜島の南西にある小高い山が、通称「オヤケアカハチの森」です。
オヤケアカハチが、琉球王府軍との戦いに敗れて逃げ込んだという伝説のある森で、森の中にはオヤケアカハチの足跡の残る石があるそうです。
「イシスクムイ」とも呼ぶようです。
 

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