黒島の石碑・説明看板  更新 2020.04.25 

※今回は、No.2の追加を行いました。


No. 名   称 場所
1. 「ようこそ黒島へ」の説明看板 保里
3. 「西表国立公園 黒島」の説明看板 保里
5. 牛魂之碑 保里
7. イサンチャの碑 学校北
9. 黒島中学校の歴史 学校内
11. 学校教育発祥之地 宮里
13. 西表国立公園 黒島ビジターセンター 宮里
15. 「飲水恩源」いのちの水 仲本
17. 勤王流舞踊の二十二手の名稱 東筋
19. 日本の道100選 県道黒島港線* 東筋
No. 名   称 場所
2. 「牛のモニュメント」の説明プレート 保里
4. 「日本最南端の町 黒島」の説明プレート 保里
6. アサビシバナの碑 保里
8. 水道記念碑* 学校北西
10. プズマリ 宮里
12. 史跡・番所跡(竹富町指定) 宮里
14. 矢橋式日時計 宮里
16. 八重山舞踊 勤王流ゆかりの地* 東筋
18. 黒島伝統芸能館 東筋
20. 伊古桟橋 伊古

地図1 (保里周辺)



1.「ようこそ黒島へ」の説明看板

「ようこそ黒島へ」の看板
ようこそ黒島へ
●水着姿での島内観光はご遠慮下さい。
●荷物から離れたり、自転車のカゴに荷物を置きっぱなしにするとカラスにイタズラされますので気を付けて下さい。
●日差しが強い日の激しい日焼けにご注意下さい。
   黒島観光組合


この注意表示看板は、黒島港・ハートランド黒島の側、大きな牛のモニュメントの側にあります。

2.「牛のモニュメント」の説明プレート

「牛のモニュメント」の説明プレート


本像は昭和二十八年(巳年)生まれの
島出身で結成されている一本松会の
左記寄附者により生年記念並びに島
の発展を願い建立されました
平成元年七月
記(順不同)
[以下省略]

 牛のモニュメント    
このプレートは、ハートランド黒島前の大きな牛のモニュメントの左下にあります。
     

3.「西表国立公園 黒島」の説明看板

港前の黒島紹介の看板
西表国立公園 黒島

■公園利用の心得
・植物や動物をとったり、痛めつけたりしないようにしましょう。
・美しさを保つため、ゴミは必ず自分で持ち帰りましょう。
・ハブの仲間のサキシマハブが生息していますので、気をつけて下さい。
・海では事前に潮位を調べ、危険な生物には近づかないようにして下さい。
・島の人に出あったらあいさつをしましょう。そしていろいろ尋ねてみて下さい。

西表国立公園
 西表島の亜熱帯林と石西礁湖のサンゴ礁景観を保護するため指定され、小笠原国立公園と共に数少ない亜熱帯独特の景観を誇っています。

石西礁湖地区
 石西礁湖は石垣島と西表島の間に広がる東西20km南北15kmに及ぶ海域の呼称で、この海域には黒島・竹富島など多くの島々があり、島々の周辺には裾礁が発達し、サンゴの各種形態が観察できます。この海域は、多種の魚類をはじめとする豊かな動物相を有しています。
 環境省・沖縄県・竹富町
 看板遠景
この案内看板は、港近くの牛のモニュメントの前にあります。

4.「日本最南端の町 黒島」の説明プレート

日本最南端の町 黒島のプレート
日本最南端の町 黒島 沖縄県八重山郡竹富町
位置 東経124°北緯24°14′ 石垣市西南方約19km
面積 13.7km2 八重山群島5番目 周囲12.7km
人口 590名 世帯数121 昭和初期は1000人だった
地形 低平な小島 海抜13m 隆起サンゴ石灰岩
気候 湿潤亜熱帯海洋性 平均気温23.6℃ 降水量2195.7mm
産業 農業:甘蔗作が中心であったが今は肉牛の飼育がさかんで
    黒島牛は八重山の名産である。
文化 島名の由来:一説に薩南諸島からの移住者が自己にゆかり
    の地名をつけたともいわれるが、サクシィマ(珊瑚礁の島
    の意)からフィシマ−黒島に転訛したものであろう。
    民謡・伝承:黒島は民俗芸能の宝庫といわれ各部落に古く
    からの民謡・伝承が多い。なかでも「山崎のアブセーマ」
    「黒島口説」「タラマモーサの話」などは有名であろう。
    舞踊:唐踊、獅子舞、仲本部落の「かでく舞」 保里部落の
    「太舞」が知られている。   科学:豊富な海洋資源開発
    のため海中公園研究センターの建設が予定されている。

リーフはあたかも帽子のツバのように島の周囲にのびている遠浅の環礁で、干潮時は徒渉が可能であるが多くの危険があるので案内なしでわたってはならない。 とくに外海は突然深くなるので注意を要する。

「まっさおな空、サンゴの海、そして頭上を超音速でとびぬける戦闘機−−沖縄の人はしかしなぜあれ程に人の情にあついのであろうか、私は今 守礼の邦にいるのです−−」 1972 一学生


このプレートは、黒島紹介の看板(前項参照)の道路を隔てた反対側にあります。

5.牛魂之碑

牛魂之碑 表面
【表面】
牛魂之碑
JAおきなわ八重山地区本部
[現在は、上記の碑文プレートが外れ識別不可です。]

【裏面】

平成19年3月2日建立
揮毫
JAおきなわ八重山地区本部
本部長
 (以下氏名略)

この碑は、黒島畜産市場(牛のセリ場)の中(裏手:西側)にあります。
同碑 裏面
黒島畜産市場

6.アサビシバナの碑

記念物 アサビシバナ(遊び岩)
指定昭和四七年八月・・・

竹富町教育・・・
港の近くの西側に、人が横になってようやく通れる狭さで、海岸に出られる岩の隙間(海岸段丘の遊び石)があります。これが「アサビシバナ」で、1972(昭和47)年に竹富町指定の天然記念物となっています。以前は、隙間が桃の様な形をしていましたが、最近では下部が砂で埋まってしまいました。
昔、この岩の上には芝が生えていたため、月夜ともなると島の若者が集い、岩の上で歌や踊りに興じたそうです。

左の写真は、陸側から海側に向かって見たアサビシバナです。
こちらはの写真は、海側から見たアサビシバナです。

7.イサンチャ

イサンチャの碑
記念物 イサンチャヤー(古墓)

イサンチヤ(古墓)
黒島初代の役人高嶺首里
大屋子夫妻の墓 この島にはじめて
牛を入れた恩人である。


この碑は、黒島港から学校に向かう道の途中にあります。 高嶺首里大屋子氏は1628年に黒島初代の役人に着任の後、黒島に初めて牛を入れ、牛耕によって農業振興を図った人物といわれています。
イサンチャ遠景

地図2 (学校周辺、宮里・仲本周辺)

 

8.水道記念碑

水道記念碑
【表面 上段】

水道記念碑
初代沖縄開発庁長官
山中 貞則



黒島港から黒島小中学校に至る道路の途中(右手側)に、水道記念碑があります。

この碑は、黒島・新城島の海底送水実現を記念し1975(昭和50)年に建立されました。西表島を除く竹富町の島々は昔から水資源に恵まれず、先人は天水を頼り、干ばつ時には西表島や石垣島から飲料水を運搬するなど厳しい生活を強いられてきました。水問題の解決は、復帰後、国の高率補助で竹富島は石垣島から、小浜島や鳩間島、黒島、新城島は西表島を水源として、海底送水が実現しました。また、波照間島は海水淡水化装置を導入することにより、積年の問題が解消されました。
同 表面 下段
【表面 下段】

黒島新城島は昔から水に恵まれず島の住民は天水を頼り旱魃時は石垣島や西表島から運搬し言語に絶する生活苦と斗い今日に至った。町はこの島の水解決のため当時の琉球政府や米民生府に要請し、度を重ねて地下水源の探査をしたが水源がなく西表島から海底送水の結論に及んだ。それによって県や政府に強力な陳情を続けた。工事の着工までは夢とも言はれたがこの歴史的工事の着工が当時の山中総務長官の卓越せる政治手腕と離島住民を思う御温情により見事完成を見たのである。この水道の実現こそは島の住民にとって正に苦節幾百年の輝かしい実りでありこの歓喜他に勝るものわない。本海底送水の完成方について格段の御協力を戴いた県並びに政府に対し深甚な謝意を表す。この施設が永遠に住民に明るい希望を抱かせ郷土の建設と福祉繁栄をもたらし万の礎となることを記念する。
  昭和五十年二月二十三日
  竹富町


文字は、碑文記載(原文)のまま掲載しています。
同 裏面
【裏面】

工事の概要
一 水源地 西表島仲間川上流
一 浄水場の一日浄水能力 九三二屯
一 西表島 陸上導水管及び送水管
        延長八、一四三米
一 海底送水管延長 一三、二五八米
一 新城島 陸上送水管及び排水管
        延長二、三七三米
一 黒  島 陸上送水管及び排水管
        延長八、二六七米
一 工事着工 昭和四十八年三月十六日
一 工事竣工 昭和五十年二月二十三日
一 総 工 費  七億参阡壱百五拾九萬七阡円
一 工事発注者 竹富町長 瀬戸 弘
一 工事施工者 日本鋼管株式会社
           社長 槙田久生

9.黒島中学校の歴史

黒島中学校の歴史の碑
表面】
[上段]


黒島中学校50周年記念事業
[下段]
[下段]
黒島中学校の歴史
本校は、明治二十六年六月十二日
宮里部落でかやぶき十二坪の
大川尋常小学校黒島分校として
産声を上げ、その後大川尋常小学校
黒島分教場、黒島尋常小学校と
つぎつぎ改名する。
 大正十一年七月十日に宮里部落
から島のほぼ中央に位置する
現在地(仲原)へ移転し、校名も黒島
尋常高等小学校、黒島国民学校
黒島初等学校とさらに変遷を
繰り返す中、学制改革により
昭和二十四年四月一日に黒島初等
学校が黒島小学校と黒島中学校
に改名された。
 当初の中学校は、一年生三十二名
二年生三十一名、三年生六名
計六十九名の向学に志す生徒で
開校し、現在に至る。
【裏面】
【裏面】
いつも喜んでいなさい
絶えず祈りなさい
すべての事について感謝しなさい

寄贈者
中山 展(童名マイチ)
一九〇九年(明治四十二年)二月十一日 生
竹富町黒島字仲本 出身
 父 本原 保久利
 母     ウナヒト



この碑は黒島小中学校の校庭内にあります。

10.プズマリ

プズマリ説明看板
【説明看板】
プズマリ

プズマリは、海上を行く貢船や異国船を監視するため、遠見台として琉球王府時代に使われた、黒島で一番高い場所です。八重山の島じまにこのような遠見台があり、船が見えると火や煙を使って遠見台から遠見台へ次々と合図が送られ、石垣島の蔵元(琉球王府の役所)へ通報されました。今は危険ですから、注意して上って下さい。

フズマリ全景
【石碑】(写真・看板の右側)
フズマリ(タカムイ)
旧藩時代海上の監視や船の通報のため烽火を揚げた所  黒島口説の「メーヌタカムイ」はここである。


【標柱】(写真・右端)
記念物フズマリ(高盛・火番盛

※説明看板は「プズマリ」となっていますが、古い石碑・標柱では「フズマリ」と記されています。

プズマリは島の南西側、宮里海岸手前にあります。プズマリの頂上まで登ることができますが、サンゴ石で角が尖っていますので足元には十分注意して下さい。

11.学校教育発祥之地

学校教育発祥之地の碑
学校教育発祥之地
大川尋常小学校黒島分校



この碑は、宮里集落内、黒島ビジターセンターに入ってすぐの右手側にあります。

12.史跡・番所跡(竹富町指定)

史跡・番所跡の碑
(右側の標柱)
史跡 番所跡

(左側の碑
番所跡
旧藩時代この島を
統治した役所跡である



この碑は、宮里集落内、黒島ビジターセンターに入ってすぐの右手側(奥側)にあります。
史跡・番所跡の説明看板
史跡・番所跡(竹富町指定)
 ここは、八重山群島が薩摩藩の支配下におかれていた時代に、八重山群島の総元締である蔵元(行政庁)の末端機関として、当時の黒島を統治するために置かれた村番所跡(役所跡)です。
 当時の番所には、首里王府派遣の役人(与人・目差等)が常駐し、村からも一年交代で協力人が選出され、人頭税の徴収や島に出入する船舶の荷役の管理・統制等を行いました。
環境庁・沖縄県・竹富町



この碑は、宮里集落内、黒島ビジターセンターの敷地角(フズマリに行く道の手前:十字路)にあります。

13.西表国立公園 黒島ビジターセンター

黒島ビジターセンター 説明看板
西表国立公園 黒島ビジターセンター
 このビジターセンターは、黒島の豊かな自然と独自の文化を、島を訪れる人に、より深く理解し、親しんでもらうための施設です。
 内部には、地形模型・カラーコルトン・標本・民具が展示され、パネルやオートスライドによって黒島の自然と文化、サンゴ礁の生物などがわかりやすく解説されています。
 ここで、島を探勝するための情報や島の周辺に広がるサンゴ礁の景観を正しく・安全に楽しむための予備知識などを得ることもできます。
 環境省・沖縄県
黒島ビジターセンター前の光景

2009春、郵便ポストが側に設置されました。目印になりますね。ビジターセンターは宮里集落内にあります。

14.矢橋式日時計

矢橋式日時計の説明プレート
        矢橋式日時計 第107号
 日時計のみかた
 この日時計は、上のひさしの形をした板のかげが、
午前は左側、午後は右側の目盛にうつり、それで、そ
のときの時刻がわかります。
 この半円形の目盛板は、その中心のまわりに回転さ
せて、時間のくるいをなおせば、常に正しい時刻を示
すことができます。
 また、毎日の正午になると、上のひさしの形をした
板の先にある穴のかげが、ちょうど、下の「8」の
字型をした日付の目盛線の上にきて、それで、正午の
時刻と、およその月日を知ることができます。
 この日時計の特長とあわせかた
 これまでの普通の日時計には、次の2種類の時差がありま
した。
 経度差 ここ(東経124.0°)と、中央標準時の基
準子午線(東経135°)の通る兵庫県赤石との経度差によ
る時差(ここでは日時計が常に約44分遅れる)と
 均時差  四季の変化で、太陽が天の黄道上を移行する
速さが一定でないため、真太陽と、わたくしたちが時刻の
基準にしている平均太陽との相違による、最大16分まで
の歩みおくれがあります。
 この日時計は、東経135°、北緯45°のところの垂直型日
時計とまったく同じ方向をむくように、すこし傾けておいて
ありますから、(1)の経度差による時差はありません。
 また、目盛が等間隔になっているので、(2)の均時差によ
る時差は、下の均時差修正表に記してある日に、目盛板を多
少左右に回転して、その下方にある矢印の真上に、その日の
修正値がくるようにすれば、日時計から、直接、中央標準時
(誤差1分程度)を知ることができます。
矢橋式日時計
この日時計は旧黒島マリンビレッジの敷地内にあります。

15.「飲水恩源」いのちの水

「飲水恩源」いのちの水の碑
 「飲水恩源」
    いのちの水
 有史以来 この黒島は推に飢え水に
渇し塗炭の苦しみをなめつくして来た。
水さえ豊かにあれば天然の楽土となるべ
き島であるにも拘わらず水なき島として
苛酷な運命を幾世紀となく余儀なくさ
れたのである。
 黒島住民の言語に絶するこの苦痛
は「タイ国のミルク我が島にいもり十日越
ぬ夜雨たぼり」と祈り続けた島の人々の心
のひだに深く刻まれていた。このような逆境
を打開せんと父子二代にわたり挑戦した
上江洲安義・安健氏の不屈の闘魂により
昭和五十年二月吉日遂に西表島より黒
島をはじめ新城両島への海底送水パイプ
敷設に成功した。
 この事業はもとより竹富町当局も真剣
に考慮し重大決意を以って當時の立法院
議員上江洲安健氏を介し時の国務大臣
山中貞則先生の特段の配慮と高度な政治
力を発動して海底送水計画実現の端緒を
開き水なき島の歴史も送水パイプ敷設
完成によって終りを告げた。
 住民積年の悲願が実を結び人力のみに
ては測り知れぬ島の運命が遂に開かれた
のである。これより先黒潮洗うこの島は
後世水も豊かな世果報の島となるであろう。
 子々孫々に至るまでこの銘記すべき歴史
的大事業を碑文に記し後世に伝えるもの
である。
  昭和六十一年九月二十五日
     黒島公民館
     黒島老人クラブ

     黒島婦人会
同遠景
この碑は仲本集落内にあります。
「飲水恩源」は中国の格言ですが、これは「水を飲む時は井戸を掘った人の事を忘れてはならない」、ということで、現在の自分があるのは自分の力だけではなく、父母や周りの人々のおかげであり、感謝を忘れてはならないということを意味しています。

地図3 (東筋、伊古周辺)

16.八重山舞踊 勤王流ゆかりの地

「八重山舞踊 勤王流ゆかりの地」の碑
【上段】
八重山舞踊
勤王流ゆかりの地


【下段】
 八重山舞踊勤王流は、比屋根安弼(一八三五〜一九〇一年)によって創設され、諸見里秀思(一八七六〜一九四五年)の代に盤石の基礎が築かれ、渡慶次長智(一八八七〜一九六二年)らに引き継がれて八重山の興隆に多くの彩りを添えてきた。
 比屋根安弼は、首里で生を享め、享け、鳩間島・西表島古見村を経て黒島で終生を過ごした。
 この地は、諸見里秀思の居住跡であり、仲元村に居を構えていた比屋根安弼や近隣に住んでいた渡慶次長智及び島の人々と共に数多くの名作を創案・作成した由緒ある場所である。
 ここに、八重山舞踊勤王流を称揚し、その創設・完成に関わった先師を顕彰するための記念碑を建立する。
  一九九六年一一月一〇日
  八重山舞踊勤王流記念碑建立期成会
伝統芸能館
伝統芸能館は東筋集落の中心にあります。

17.勤王流舞踊の二十二手の名稱

勤王流舞踊の二十二手の名稱の碑
勤王流始祖 比屋根安弼・諸見里秀思・渡慶次長智
勤王流八重山舞踊保存会 石垣寛吏
勤王流舞踊の二十二手の名稱
起恕 凱恕 斜歓 示視
恩顧 奉納 風靡 招麾
無窮 登峰 遠眺 瞬眸
思出 飜熾 恋想 袖懐
警厳 尊顔 揮前 進貢
飛龍 降龍



沖縄舞踊の一派八重山舞踊勤王流は琉球王朝期、比屋根安弼によって創設されました。勤王流二十二手とは、比屋根安弼が琉球舞踊の手振型を二十二手に分類し、「起恕」「凱恕」「斜歓」「示視」などの名称を付したものです。更に諸見里秀思によって今の形(手振型)になったと言われています。


この碑は、前項「八重山舞踊 勤王流ゆかりの地」の石碑の隣にあります。

18.黒島伝統芸能館

黒島伝統芸能館の碑
【表面】
黒島伝統芸能館
同 裏面
【裏面】
寄贈 平成三年十月二十五日
名古屋鉄道株式会社
取締役会長 竹田弘太郎


この碑は伝統芸能館に向って右手側に建てられています。
名古屋鉄道株式会社は、かつて「黒島マリンビレッジ(閉館)」や石垣市の「八重山民俗園(現「石垣やいま村」)」などを所有・運営していた経緯があります。

19.日本の道100選 県道黒島港線

日本の道100選の碑の表面
【表面】

日本の道100選

県道黒島港線
昭和61年8月10日
建設省・「道の日」実行委員会


この碑は東筋の伝統芸能館の近くにあります。
碑の裏面


 同碑の拡大
  【裏面】
 この顕彰碑は、建設省が道路に対する国民の関心を高める目的で、昭和六十一年度から八月十日を「道の日」に制定したのにちなんで、「日本の道百選」に日本全国から推薦された百四十一の道路の中から県内で初めて県道黒島港線が選定されたことを記念し設置するものである。
    記
 県道黒島港線は、東筋集落を起点とし、黒島港を終点とする延長二千四百三十八メートルで、昭和五十六年度から昭和五十八年度にかけて総工費およそ九千万円を投じ、昔ながらの石垣や赤瓦屋根など島の代表的景観を配慮し、琉球石灰岩による石垣の復元、クリーンベルトを兼ねた地下浸透式の排水溝など構
造物に工夫を凝らした地域独特の文化や景観に調和した道づくりが高く評価された。
 なお、顕彰プレートは、東京オリンピックシンボルマークをはじめ、日本万国博覧会ポスター、沖縄海洋博覧会ペットマークなどを製作した亀倉雄策氏によってデザインされたものである。
  昭和六十二年十月
  沖縄県八重山土木事務所


 県道黒島港線
  道100選は「道の日」制定を記念して行われ、黒島港選は沖縄での選定第1号です。東筋集落を起点として、総延長2.4km余り。1981年から3カ年かけて整備されました。

20.伊古桟橋

伊古桟橋の碑
登録有形文化財
第47-0010号
この建造物は貴重な国民的財産です
文化庁

伊古桟橋

この碑は2010年に設置されました。
碑は、伊古桟橋に向かって左手側に設置されています。

 Page Topへ戻る   八重山の石碑・説明看板 に戻る   八重山豆辞典 に戻る    HOME へ戻る


Copyright (c) 2008.8 yaeyama-zephyr

写真の無断転載・使用を禁じます。利用等をご希望される場合はメールでご連絡下さい。