石垣市内の文化財 (史跡)  更新 2016.01.09 

下表の青字の項目が今回追加した個所です。


ここでは石垣市内の指定文化財(史跡)について紹介します。

1.石垣市史跡一覧 (指定区分、指定順に記載)

No. 名  称 エリア 区分 指定年月日 備考
1-1. 川平貝塚 川平 国指定 昭和47年5月15日
1-2. フルスト原遺跡 大浜 国指定 昭和53年3月3日
1-3. 先島諸島火番盛 
遠見番所(平久保遠見台)
平久保 国指定 平成19年3月23日 「八重山豆事典」・「八重山の火番盛」のページも参照ください。
1-4. 先島諸島火番盛 
遠見番所(川平火番盛)
川平 国指定 平成19年3月23日 同上
2-1. 美崎御嶽 登野城 県指定 昭和31年2月22日
建造物と二重指定
「八重山の御嶽」・「石垣島の御嶽(市街地)」のページも参照ください。
2-2. 平得アラスク村遺跡 平得 県指定 昭和56年8月13日
2-3. 桃里恩田遺跡 桃里 県指定 平成2年2月2日
3-1. アダドゥナー 宮良 市指定 昭和55年10月31日 「八重山のカー(井戸)」・「石垣島のカー(井戸)」のページも参照ください。
3-2. パイナーカー 平得 市指定 昭和55年10月31日 同上
3-3. 元海底電線陸揚室(電信屋) 崎枝 市指定 昭和61年9月25日 「ちょっとDeepな旅スポット」・「電信屋」のページも参照ください。
3-4. 冨崎観音堂及びその周辺 冨崎 市指定 昭和62年3月26日
3-5. ハンナー主の墓 大川 市指定 昭和63年1月19日
3-6. 石城山残丘部 大川 市指定 昭和63年2月16日
3-7. 仲道の三番アコウ 登野城 市指定 平成3年11月13日 「八重山の自然」・「八重山の巨樹・名木・群落」のページも参照ください。
3-8. 大田原遺跡 名蔵 市指定 平成8年11月12日
3-9. 真謝井戸 白保 市指定 平成8年11月12日 「八重山のカー(井戸)」・「石垣島のカー(井戸)」のページも参照ください。
3-10. 富野遺跡 桴海 市指定 平成19年3月23日 未掲載
3-11. 旧盛山村跡の御嶽 盛山 市指定 平成21年3月30日 「八重山の御嶽」・「石垣島の御嶽(郊外)」のページも参照ください。
-12. 名蔵白水の戦争遺跡群 名蔵 市指定 平成21年3月30日 未掲載
3-13. 黒石川窯跡 大川 市指定 平成24年8月3日 未掲載
4−1. 天人の墓 石垣* その他 指定文化財ではありませんが参考までに紹介します。
4−2. 新川公園内亀甲墓 新川* その他 同上
4−3. ヤドゥピキヤー(屋戸引き屋) 川平* その他 同上

2.史跡の地図 

3.各史跡の紹介  (青字の部分は、石碑や説明板から引用したものです。)

1−1.川平貝塚
    
この貝塚は、比高約30メートルの仲間森と獅子森を含む一帯の原野や畑地に形成されています。1904年(明治37)に考古学者鳥居龍蔵博士によって中央の学会に紹介され、先史時代の南島文化研究の草創の地となったところです。
貝塚から出土する遺物としては、いわゆる外耳土器を含む土器類、中国製品を含む陶磁器類、石器、貝器等があります。

先島諸島の遺跡は、大別すると陶磁器類を伴出する遺跡と、それを伴わぬより古い時期のものと考えられる遺跡および石器のみを出土し土器を伴わぬ遺跡に分類できます。
陶磁器類を伴出する遺跡の年代は、宋銭の出土をみるものがあることから、ほぼ推定可能です。川平貝塚は、先島諸島の遺跡の一類型を代表するものであり、学史的にも重要な位置をしめます。  [碑文より一部抜粋]

川平貝塚は、川平集落から底地(スクジ)ビーチに行く坂道の途中、右手(群星御嶽への道の途中右手)にあります。
出土遺物から14〜15 世紀頃の遺跡とされています。
「外耳土器」とはこの貝塚から出土した把手の付いた土器を意味しています。
 
1−2.フルスト原遺跡
    
この遺跡は、崖上に連なる石積み障壁、四囲に石積みを繞らした郭状の区画、北東部に築かれた城門跡のほか墓および御嶽を内容とします。
グスク時代の石垣島は、沖縄本島の勢力に対して独立性を保ちながら内部は複数の有力者が分割的に地域支配を行なっていたものと思われ、その有力者たちの拠点となったところが遺跡として残っていますが、15世紀の遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の居城といわれるフルスト原遺跡はその内でも規模・構造ともに秀れています。 
[碑文より一部抜粋]
フルスト原遺跡は大浜集落の北側の、標高25mの石灰岩の丘陵地に、南北900m、東西200mの敷地に石塁が築かれています。現在、史跡整備事業により復元が進められています。
フルスト原遺跡は、沖縄本島等にある城(グスク)跡と類似していますが、城郭としての機能よりも屋敷囲いの石垣としての要素が強いといわれています。その理由の一つとして、土器や中国製陶磁器などが数多く出土するものの、武器にあたるものが出土しないことが挙げられます。
郭状遺構の配置等に独自のものがあり、沖縄県の歴史を理解する上できわめて貴重な遺跡とされています。
  
 
1−3.先島諸島火番盛 遠見番所(平久保遠見台)
    
石垣島の最北端の平久保崎に建つ、平久保崎灯台の丘の駐車場を挟んだ反対側(東側)にある丘が、平久保遠見台です。
船影を確認後、平久保であげた烽火は川平火番盛で確認され、その情報を蔵元へ伝えたとされていますが、平久保と川平は遠距離であり、その間を中継する施設(火番盛等)があったのではないかとする意見もあります。
逆方向には、ここから多良間島の火番盛(八重山遠見台)に狼煙で通報していたそうです。
 
1−4.先島諸島火番盛 遠見番所(川平火番盛)
    
川平火番盛は、川平の集落の北西側にあり、地元では、ピーバンムルと呼ばれます。川平貝塚に近接する小さな丘の上にあるものの、周辺の丘と見分けるのが困難な状況にあります。 平久保遠見台で烽火があがると直ちに応火し、船影を確認した後に村役人の書付を早馬で蔵元(現在の八重山博物館付近)へ報告したとされています。
  

  
2−1.美崎御嶽
    
尚真王のころ、石垣市登野城の美崎山に創建された航海安全を祈願するための御嶽である。神名を大美崎トウハ、御イベ名は浦掛ノ神ガナシという。
御嶽の由来については、遠弥計赤蜂の乱(AD1500年)の時に首里王府派遣の兵船の那覇港への安着を祈願して、神女の真乙姥が籠もったところといわれている。
御嶽の周囲は石垣がめぐり、中央部には拝殿にあたる拱式(アーチ)の石門がある。石門の構造は、屋根石を架し、棟中央に火炎宝珠を乗せている。

規模こそ小さいが首里王城下の園比屋武御嶽に類似するといわれている。この拝殿を「イビの前」と称し、その奥には石や岩、大木等があり、そこをイビと称している。
この御嶽は、王府より派遣された役人の離着任時、農耕儀礼などに高官や大阿母によって拝され、公儀であった。現在は字大川の村拝所として住民の信仰地となっている。昭和31年2月、県指定有形文化財(建造物)としても指定され、史跡と建造物の二重指定をうけている。  [碑文より一部抜粋]

「美崎御嶽」は、オヤケアカハチの乱を制圧した王府軍が海路を無事で首里に帰還できるよう、真乙姥(マイツバ)が美崎山の聖地に籠もって祈願し、その願いが叶えられたことから創建された、航海安全祈願の御嶽です。 代々、八重山の蔵元が管理するクギィオン(公儀御嶽)として尊崇を集めてきました。
  
 
2−2.平得アラスク村遺跡
    
平得部落の北東1.5Kmの琉球石灰岩地帯に形成された八重山編年第V期(15・16世紀)に相当する遺跡で 石囲いの遺構内に多量の中国製陶磁器 八重山式土器等が散見され かたわらには降り井戸が残っている。
伝承によると 本遺跡はアラスク村と称されていたようで 今日みる平得部落の前身だといわれている 平得部落は ペーギナー村(熱帯農業研究センター北側の平喜名遺跡)から当遺跡へ さらに南側のウィスズ村(ウィヌスズ遺跡) ナカンドゥ村(仲本村遺跡群)を経て 現在の平得に定着されたと伝えられており 村落変遷を知るうえで貴重な資料を残している。
 
当遺跡は本来 土塊を含む石垣等を有し かなりの規模を誇っていたが 近隣の圃場整備により 中心部のみが残っている。  [碑文より一部抜粋]


平得アラスク村遺跡は八重山家畜市場の西に位置しており、遺跡への道は、細い農道となっています。 本説明板の前には車が止められる程度のスペースはありますが、 広くはありません。
 
2−3.桃里恩田遺跡
    
桃里恩田遺跡は、現在の大里村から星野村に通ずる道路の海側にあって、通称ぺーフ山と呼称される小高い丘陵上に位置し、すべて古第3紀前記石灰岩(宮良層群)によって形成されている。この岩石はコンクリートの原料に適していることより砕石が行われ、これを免れた所にかろうじて遺跡が残っている。
1981年、石垣市教育委員会によって範囲確認のための試掘調査が実施されている。
この結果、中国製の白磁、青磁と黒褐釉陶器、須恵器、八重山式土器等のほか、石器、鉄器、古銭等が出土した。
これらのうち特筆されるのは、後になつて著名となった「ピロースクタイプ」と称される中国製白磁で、これはすでに当遺跡で出土していたことと、須恵器のなかでは裏面に青海波文様を有するがあり、これは県内における新資料とされ話題となった。
八重山地域におけるいわゆる第三期の遺跡で14〜15世紀の年代が与えられている。
  [説明板より一部抜粋]

桃里恩田遺跡は、新石垣空港から国道390号を北進すると、 カラ岳が見えてきます。そこを通過し更に進むと採石場入口の手前に開けた所があり、そこに遺跡の標柱と説明板があります。
  

  
3−1.アダドゥナー
    
この井戸は人と水とのかかわりを知るうえで大切な遺跡である。宮良むらの由緒あるウリカー(降り井戸)として、昔から人びとの信仰を集めている。ウリカーとは、直接水面まで降りて水を汲む井戸のことで、傾斜する降り道には40段の石段が設けられている。
「八重山旧記」に「安多手井」と記されているこのアダドゥーナーは、宮良むらの歴史とかかわりの深い「下又屋敷遺跡」(しいむぬかくいせき)の内にあって、下の村創設のころ、神に願立てして水脈を掘りあてたという伝承がある。以来、神の水として崇信され、共同井戸としても広く利用されてきた。
近年は各自の井戸や貯水タンクが普及したことや、上水道が敷設されたことにより、共同井戸としての利用はなくなったが、アダドゥー願いは今でも続けられている。
また、周辺には外本御嶽があり、磁器や陶器、鉄滓などの遺物も出土している。井戸の深さは12m、斜道21mである。
  説明板より一部抜粋]

宮良西バス停付近から海側へ向う道路を少し下ると説明板があります。周囲に駐車場はありません。
井戸に近接して、外本御嶽がありますが、ここは宮良集落の重要な祭祀行事を行う聖地で、部外者は立入禁止となっています。
 
3−2.パイナーカー
    
この井戸は、長さ約20m、40段の石段があるウリカー(降り井戸)である。ウリカーとは直接水面まで降りて水をくむ井戸のことで、琉球石灰岩の岩盤を削って作られている。
平得村の伝承によると、年代は明らかではないが、井戸のある場所付近がナカントゥと呼ばれていた頃、ウーリヤー(宇里家)に武勇に優れた7兄弟がいて、昼間は彼らが井戸を掘り、夜は神が掘って、この井戸が完成したといわれている。
平得村の共同井戸として、一般家庭へ水道が普及されるまで大切に利用された。また、井戸の周辺からは多くの鉄滓や土器が見つかっており、パイナーカー遺跡としても知られる。  [碑文より一部抜粋]

パイナーカーは石灰岩の岩盤を削り、斜面に40段の石段を築いて直接水際まで下りて汲むウリカー(降り井戸)です。井戸底までの急勾配の通路は約1m、長さは約20m。地表から垂直に約11mの深さで底に達します。
  
 
3−3.元海底電線陸揚室(電信屋)
    
俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって本土−沖縄本島−石垣島−台湾間の通信施設が完成したのである。なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも使用された。明治30年のことである。この年、石垣島では大川2番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。  [碑文より一部抜粋]

電信屋は、崎枝の大崎牧場の南側のダート道を海側に500程度進んだところにあります。前には駐車できるスペースがあります。
  
 
3−4.冨崎観音堂及びその周辺
    
境内はリュウキュウマツやフクギ並木に囲まれた静かな環境です。数多くの献灯が続く参道を進むと、奥に赤瓦の祠があります。
その由来は、役人・西表直香が王府への公務を終えて石垣島に戻る途中嵐にあい、中国福州へ漂着しました。そこで、先年石垣島に漂着し、救助した中国人と偶然再会し、無事石垣島へ戻れるよう観音像2体を贈られました。また、石垣島では直香の妻・真鶴が夫の無事を祈り、美崎御嶽や権現堂に日参している姿に感動した桃林寺の住職が、真鶴に観音像1体を贈りました。
観音像の守護もあってか、直香は無事島に戻ることができ、観音像3体を自宅で篤く信仰しました。のちに大浜のカヤンニ、新川のフッコンニを経て、1742年、現在の冨崎原に茅葺のお堂を建て航海安全の祈願所としました。
1784年に瓦葺に改築、1837年には在番知念親雲上政行が本堂を造営しました。
その後、明治から昭和、平成にかけて数度の改築や再建が繰り返されていますが、現在でも航海安全をはじめ、交通安全や家内安全を祈願する信仰の場として人々の暮らしを支えています。
 
3−5.ハンナー主の墓
    
 ハンナー主の墓は、市街地から北方約1.5km、バンナ岳麓にある石城山のすぐ前方に位置しています。屋号が玻武名屋(ハンナーヤー)とよばれる長栄姓一門の7代信明の墓と伝わります。
墓碑によると、この墓が造られたのは1647年で、5代の石垣親雲上宗延が56歳の時、数百人の力で数月かけて墓を造営したそうです。
この場所に墓を造るよう助言したのは、当時八重山に滞在していた唐栄(久米村人・中国系)の風水師、古波蔵親雲上で、墓碑には墓前に田を開くことは好ましくないとされ、子々孫々に至るまでこの教えを忘れずに守るよう碑を立てた旨が記されています。
なお、現在、墓碑は取り外され、八重山博物館に収蔵されています。
墓の造り方などから、風水思想など当時の人々の墓に対する考え方をうかがい知るとともに、墓の築造方法などから、当時の建造技術を知ることができます。
 
3−6.石城山残丘部
    
石城山は市街地の北方約1.5km、バンナ岳の麓にある新生代古第3紀始新世石灰岩(宮良層)の岩山です。
ここは石垣島における集落(石垣四ケ村)発生の場所と伝えられ、かつては岩山全体に石城山遺跡が形成されていましたが、コンクリート材料として岩山全体が大規模に採石され、現在は岩山の南西側の一角のみが残丘部として残され保護されています。
過去の小調査では、頂上の窪地から大量の地元産土器片が出土し、僅かですが中国製陶磁器、石器や貝殻類なども見つかっています。 石垣島の民俗や地質、考古を学ぶ場所として、これからも守っていかなければならない場所です。
この史跡は、現在、周辺部が廃棄物の処理場となっていることもあり近づくのも容易ではありません。足元に十分注意して下さい。
 

3−7.仲道の三番アコウ
    
この巨樹は、三番アコウと呼ばれ親しまれて推定樹齢200から250年のオオバアコウである。
 仲道とは字登野城の小字名で、三番アコウが生えるこの場所は、登野城から平得、真栄里への道路の分岐点にあり、古くから道しるべとして、また、アコウが作る心地よい木陰は、農作業帰りや行商の人々の憩いの場として親しまれてきた。かつては、三番アコウから西100mの道路の分岐点に二番アコウ、さらに西100mの分岐点に一番アコウが生えていたが、現在は三番アコウのみが残っている。
 三番アコウの側には、八重山を代表する民謡「トゥバラーマ」の歌碑が建っており、仲道にゆかりのある歌詞が刻まれています。
  [碑文より一部抜粋]
(民謡「トゥバラーマ」の歌碑)
なかどう道から ななけーらかようけ
仲筋かぬしゃま そうだんぬならぬ
(歌碑の意味)
なかどう道から七回通うけれども、仲筋家の愛しいあの娘は話を聞いてくれない。(縁組が叶わない)


※「仲道道(ナカドゥミチィ)」とは、昔、登野城村から真栄里村に通じる道の呼名です。
 
3−8.大田原遺跡
 
大田原遺跡は、名蔵集落側から向うと名蔵神田橋の手前(南側)の道路沿い、木々に覆われた台地上にあります。この遺跡は1978(昭和53)年の県道工事に伴い緊急調査が行なわれましたが、既に発掘を終え埋戻しが行なわれ、遺跡保存されている状況です。
遺跡を示す看板表示がありますが、そこから台地上に登ることはできません。(尤も、木々が鬱蒼と茂っていますので登ろうとしても困難ですが・・・。)
大田原遺跡は、約3800年前の下田原期の遺跡ですが、八重山では土器のある時代 から、土器のない時代(有土器→無土器)に移行するという、日本国内でも他例がない不思議な先史時代があり、それがこの大田原遺跡とすぐそばにある神田貝塚の調査から分かりました。
このことから、大田原遺跡は八重山の考古学上(学問上)、大変重要な遺跡と位置づけられています。
 
3−9.真謝井戸
    
寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のために壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に再掘して永く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。
  [碑文より一部抜粋]
真謝井戸(マジャンガー)は、白保村に現存する唯一の古井戸で、民謡「シンダスリ節」にも詠まれ、また村人の信仰の対象にもなっています。1950年代に、白保の各戸に水道が導入されるまでは飲料水の源として重要な役割を果たしていました。
 
3−10.富野遺跡
 
3−11.旧盛山村跡の御嶽
    
盛山村は1771年に八重山諸島を襲った明和大津波の後、竹富島から石垣島南西端の富崎に移住して出来た富崎村の人々が、1785年に桃里村の属地であった盛山に再移住して創建された村である。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、盛山村の人々が信仰した御嶽は、出身地である竹富島の御嶽の神を勧請したとされる。
盛山村創建時の人口記録はないが、風土病やマラリヤや伝染病などにより、明治6(1873)年には戸数9戸、人口17人にまで減少している。
明治10(1877)年には、白保・宮良・大浜の3村から23人を補充し、村の維持を図ったが人口減少は止まず、大正6(1917)年には集落が廃された。
この御嶽は、かつてこの地にあった盛山村の歴史を物語る貴重な史跡である。
  [碑文より一部抜粋]

旧盛山村跡の御嶽は、国道390号線から分岐し新石垣空港に通じる道の途中、左手にあります。

3−12.名蔵白水の戦争遺跡群

3−13.黒石川窯跡


4−1.天人の墓(ティンピトウヌハカ)
    
八重泉酒造の前にあるマイミジィカーの前道路を隔てた畑の一角にあります。墓碑の周囲には石積みがなされ、その手前には、円形状の香炉1基と花活1対、陶器の白い湯呑茶碗1対が置かれています。土地改良に伴い、現在の場所はかつてあった場所から少し移動されているそうです。ハカ(墓)と称されていますが、その経緯は不明です。 天人(ティンピトゥ)とは、弥勒神であると伝えられています。また、麦、栗、黍、モロコシ、クワズイモなどを島にもたらせた神であるとも言われています。

なお、この「天人の墓」は、池上永一氏の小説「風車祭」に出てくることでもよく知られています。
【天人にまつわる説話】
ある日、島の貧しい状況をみかねた天人が、クワズイモを携えて集落を訪れました。天人は、集落に住む一人のお爺さんに、そのクワズイモを授け、「このイモを育てて皆に分け与えなさい」と伝えて帰っていったそうです。しかし、そのお爺さんは、人々に分け与えることもなく自らの畑で育て、一人で食べていました。その話を聞いた集落の人々は、そのイモを求めてお爺さんのもとへと通いますが、誰にも分け与えようとはしませんでした。そんなある日、天人は衣装を変えて再びこのお爺さんのもとを訪れます。丁度その頃、お爺さんはイモを食べようと鍋で煮ている最中でした。天人は、お爺さんに対して「そのイモが欲しい」と伝えました。しかし、お爺さんは「人にあげるイモはない」と返答したと言います。それを聞いた天人は、すぐさま帰っていきました。すると、それまで煮ていたイモは、いくら時間を経ても煮えることはなく、食べることのできないイモになってしまったそうです。再び島を訪れた天人は、今度はある穀物を携えて登野城集落を訪れます。そして、そこで生活をする者に、その穀物を与え、「これを育てて皆に分け与えなさい」と伝えて帰っていきました。その穀物を授かった者は、天人の教えを守り集落の人々に分け与えてその穀物を広めました。そのため、登野城集落には弥勒の仮面が存在し、新川集落には弥勒の仮面が存在しないということだそえです。また、このような結果を招いたお詫びに、このイモの葉だけでも使おうということで、各御嶽の神に奉げる供物をクワズイモの葉で包むようになったそうです。
 

4−2.新川公園内亀甲墓
 
新川公園の一角にある伝統的な亀甲墓です。17世紀末に中国から伝来した「亀甲墓」は 、「かめこうばか」や「きっこうばか」、又は「カーミナクーバカ」と呼ばれ、上から見ると亀の甲羅のような形をしている墓のことです。最近のものはコンクリート造りが多いのですが、 昔に造られたものの中にはサンゴで造られているものもあります。亀甲墓は女性の子宮を模したものと言われ、胎内から生まれ、死して再び母体に帰るという「母体回帰」の思想によるものだそうです。 新川公園は、かつて大部分が墓地でこれを移転して整備されました。
この墓は王府時代に大浜間切の頭職を務めた石垣家(国指定名勝・石垣氏庭園)の旧墓です。伝統的亀甲墓が減少していることから、事業計画を変更して残されました。
 
 
 

4−3.ヤドゥピキヤー(屋戸引き屋)
 
底地ビーチの南の奥に行った所に、通称・ヤドゥピキヤー(屋戸引き屋)と呼ばれている場所があります。そこは、1500年頃に川平で活躍した仲間満慶山(英極)が祀られていて、そこの洞穴は、満慶山の居城跡であるとされています。満慶山は、石垣島の豪族で、憲章氏の元祖で、もとは平家の落人の子孫との伝承があります。
満慶山が活躍した当時は尚真王の治世で、彼は八重山も含めた中央集権国家の確立を図ろうとしていました。
1500年のオヤケアカハチの乱では、首里王府・宮古に抵抗するアカハチは、王府側に従おうとする仲間満慶山、長田大主に呼びかけ会見の場を求めましたが、長田大主は出席せず、ひとり満慶山が、その呼びかけに応え、会見に臨みました。彼はアカハチから挙兵への協力を求められますが、時代の大勢に従うべきとの考えから、これを断わります。このため、馬に乗って一人で帰途に着きますが、名蔵湾沿いのケーラ崎でアカハチの遣わした追っ手などによって討ち取られました。
洞穴の奥にある碑です。 「英傑 仲間 満慶山」と記された碑です。
憲章氏の元祖であることを示すプレートです。 「仲間サカイ」は、仲間満慶山の子孫とされ、有名な「鷲ぬ鳥節」の元歌の「鷲ユンタ」を作ったとされています。
サカイは、ユーグレナモール南側にある航海安全の神を祀った与那国御嶽(ユノーオン)の神司でした。58歳前後に明和の大津波を予言したと伝えられており、生存者の一人だったようです。
 

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