石垣島の集落と開拓・入植記念碑  更新 2015.11.28

 ここでは石垣島の郊外にある集落の紹介(主に開拓集落の成り立ち)と、節目の年で建立された開拓・入植記念碑について紹介します。

 1945年(昭和20年)、太平洋戦争の敗戦によって、戦前多くの移住者が渡航した南洋群島、台湾、満州などの入植地は日本の領土ではなくなり、焦土と化した沖縄へそれらの国及び地域にいた人達の引き揚げが始まりました。しかし、米軍の軍用地化のための土地接収により畑地の面積が限られたことや、労働者を雇用する民間の事業所も少なく、失業者があふれる状態となりました。

 そうした中、海外の沖縄県人会が移民受入の体制を整え、琉球政府と協力して移民奨励などを行うようになりました。家族や同郷者の呼び寄せによる自由移民に加えて、琉球政府による計画移民や産業開発青年隊の移民などが盛んに行われるようになりました。

 このような状況下、海外ではなく、八重山の石垣島や西表島についてもまだまだ未開地が多く残されており、ここに目が向けられるようになりました。特に石垣島では市街地から一歩外れると未開地が多くあり、ここに沖縄本島や宮古島、八重山群内から入植・開拓を希望する人達が増えていくようになりました。これに対し、琉球政府の計画移民や、一般住民の自由移民が実施されるようになりました。

*  政府計画移民とは、戦後、沖縄本島各地で米軍によって多くの土地を強制接収された農家の保護救済措置、そして疎開先からの帰還や復員兵などで人口過剰となり食料が不足した地域から「八重山再開発」の名目で開拓事業を行う政策でした。
*  自由移民の方々によって形成された集落は、政府計画移民と違い多くのハンディを抱えながらも発展して来た集落です。開拓の苦労も多く、猪などの被害にも悩まされ、飲料水にも事欠き大変な苦労をしながら集落が維持されて来ました。

Ⅰ.集落名と記念碑名

No. 集落名 記念碑名
1. バラピドー* 波多宮之碑
3. 開南*  
5. 三和*  
7. 大里* 開拓之碑
9. 伊野田* 伊野田入植記念碑
11. 崎枝* 入植三十周年記念碑
13. 仲筋  
15. 山原  
17. 富野  
19. 伊土名*  
21. 下地* 入植之碑
23. 栄* 開拓の碑
25. 明石 明石開拓之碑
27. 吉野*  
29. 平野* 開拓之碑
No. 集落名 記念碑名
2. 名蔵* 入植50周年記念碑
4. 川原* 入植五十周年記念碑
6. 於茂登* 開拓之碑
8. 星野* 星野入植記念碑
10. 大野*  
12. 大嵩*  
14. 吉原* 開拓之碑
16. 米原* 開拓之碑
18. 大田*  
20. 多良間  
22. 兼城* 入植之碑
24. 伊原間*  
26. 久宇良* 開拓之碑・入植記念碑
28. 平久保*  
     

Ⅱ.地図
   (マーカーは、記念碑の有る場合はその設置場所を、無い場合は集落最寄りのバス停などを示します。)

 

Ⅲ.集落の説明と記念碑

(1)バラビドー
 バラビドーは、昭和25(1950)年11月、波照間島(波)、多良間島(多)、宮古島(宮)から入植された方々により開拓された地です。入植記念碑には波多宮之碑と記されています。
 バンナ公園東隣のバラビドー地区は、観光農園や八重山農林高校の農園施設などがあり、市街地から近い農村地区として多くの人が訪れるようになりましたが、入植時は開墾やマラリアでその苦労は並大抵のものではなかったそうです。
 バラピドーとは、昔、この辺りには、ワラビが沢山生えていたそうで、その中に道を通した事からワラビの道(ドー)と呼ばれ、それが今日では、バラビドーになったそうです。 (因みにワラビを石垣島の方言でバラビと言います。)
 
波多宮之碑(正面) 
2000年11月に、入植50周年記念として建立されました。
同拡大
説明石碑 波多宮之碑(裏面)入植者プレート
  

(2)名蔵
 名蔵は1647年の古文書に「那蔵村」として登場しています。なかなか村が繁栄しないので1686年に風水師の見立てによりスーンニ(潮嶺)へと移転しました。しかし、190年後の1876年に元の場所に戻って来ました。前の村があったスーンニを「元名蔵(ムトゥノーラ)」と呼ぶようになりました。
 明治12(1879)年に廃藩置県が行われると、人口の減った八重山の開拓が大きな課題となりました。そうした背景の下、明治24(1891)年に八重山開墾が県によって規定され、開墾が進められていくことになります。徳島県出身の「中川虎之助」が製糖産業で進出し、他人名義も併せて91町歩もの広大な面積の土地を、引き連れてきた60余名の本土人により開墾を始めます。近代的な農業を行い、島人の注目を集めますが、マラリヤや台風等の災害、工場の焼失があり、中川虎之助は四国へ帰っていきました。
 入れ替わりに台湾農業者約60世帯330人が、パインの苗とともに1935年に入植してきました。彼らは「水牛」を使い効率的な農業を開始します。石垣島民と様々な軋轢を生みますが、この水牛や持ち込んできたパインの苗が八重山開拓にとって大きな救いとなっていきました。
 今日、名蔵地区は土地改良事業が進みサトウキビやパイン、水稲、野菜、果樹とあらゆる農作物が生産されるようになっています。
 
入植50周年記念碑 [表面] 碑は1985年の建立です。 同下段拡大
入植50周年記念碑と名蔵公民館遠景 入植50周年記念碑 [裏面]
  

(3)開南
 集落の創設は昭和13(1938)年にさかのぼり、平得や真栄里、川平に住んでいた本土出身者(御木本真珠の養殖事業関係者)ら17世帯が入植しました。
 しかし、その後マラリアで大半が引き揚げ、本島・本部町や泡瀬などから12戸が2次移住しましたが、それも定着せず豊見城などからの入れ替わりも行われました。
 本土復帰後に道路網が整備され、市街地に近い位置にありながらも過疎化が進み、市営団地建設で歯止めがかけられていますが、校区の大本小学校の児童数は減少しています。
  

(4)於茂登
 昭和32(1957)年5月に真栄里山・於茂登地区に琉球政府最後の移民として入植、開拓してできたのが於茂登集落です。入植団の方々の出身地は、沖縄本島の玉城村・北谷村、与那国町などでした。この場所は、入植当時は「真栄里山」と呼ばれていましたが昭和36(1961)年に「於茂登」と改称されました。北谷出身は11戸でしたが、内7戸は米軍によって土地を接収されたため、八重山移民となったそうです。
 石ころの多い土地で、大変苦労されたそうですが、水が豊富で市街地に近いこともあり、今日では石垣島でも野菜生産農家の多い集落となりました。
 於茂登岳は、方音で「ウムトウ」。「ウムトウ」とは本来、島の大本という意味があるそうですが、集落の小学校名はこの於茂登にちなんで、大本とされています。
 
「開拓之碑」[表面] 昭和57年10月に開拓25周年記念事業として建立されました。 同 「裏面]
  

(5)三和
 県道を挟んで隣は川原集落ですが、川原集落が戦前の入植に対して三和集落は、昭和24(1949)年11月に人口過剰に悩む宮古島からの自由移民によってできた集落です。
 当時の宮古群島知事・具志堅宗精氏が大浜町を視察、未開発地が多いのを見て自由移民受け入れを要請しました。
 台湾、本土を含む7世帯が入植し、当初は底原地区を開拓し、その後現在の場所に移動しました。
 集落名は当時の大浜町長・星克が命名したそうです。
 
「和の碑」。 2010年11月の建立です。 同 遠景。 ここは県道209号線と211号線の交差点です。
  

(6)川原
 昭和16(1941)年9月に沖縄県振興計画による開拓移民として、沖縄本島・豊見城村の人々が中心となり入植し、創設された集落です。当初は12世帯15名が入植しました。一戸当たり2町歩の畑と家屋を融資、5年返済というのが入植の条件だったそうです。
 マラリアや、大戦で一家の大黒柱が兵役に召集され、畑仕事などは妻や子供達が行なわなければならないなど、幾多の困難を乗り越え、パインやサトウキビ産業で発展してきました。今日では特にパインの産地として有名な所です。
 
入植50周年記念碑 [表面]
1991年9月に建立されました。
同 「裏面]
昭和16年の入植者名のプレートです。 
  

(7)大里
 琉球王府時代の強制移民地・旧桃里村跡に1950年頃、宮古島・城辺町から自由移民として4世帯が入植しました。その後、政府計画移民として昭和28(1953)年3月に入植、開拓して誕生した集落が大里集落です。入植者は、沖縄本島の大宜見村や羽地村、越来村などの人達で、入植当時の戸数は20戸、入植者数は116人でした。入植した年に農作物を全滅させたキッド台風に見舞われましたが、開拓を断念することなく結束して苦難を乗り越えたそうです。
 集落名の由来は、出身村である沖縄本島の大宜味村の「大」と元の桃里村の「里」をとって命名されています。入植当初は、サトウキビ、イモ、陸稲、落花生、パインなどを栽培していたそうです。
 
「開拓之碑」[表面]  昭和58年11月に開拓30周年記念事業として建立されました。 同 「裏面]
  

(8)星野
 星野集落は、昭和25(1950)年3月に集団移住として、沖縄本島の大宜味村、玉城村、宮古島の城辺町の方々の入植によって形成された集落です。 入植当時の戸数は24戸、入植者数は105人でした。(後の昭和29年には琉球政府計画移民に編入されています。)
 集落名は当時の大浜町長・「星克」氏の「星」と、八重山民政府知事・「吉野高善」氏の「野」を取って、「星野」と名づけられたそうです。入植当初は、イモ、陸稲、落花生などを栽培していたそうです。
 
星野共同売店の横にある「入植記念碑」で、下部には入植者名が記されています。1975年の建立です。 星野共同売店脇のトイレの上に乗っている「人魚の像」
野原﨑の人魚伝説にちなんだものです。
  

(9)伊野田
 伊野田集落は明治12(1879)年の廃藩置県以降、県外者が開拓したという歴史をもちます。
 その旧伊野田の跡地一帯に、昭和26(1951)年10月、沖縄本島の大宜見村からの入植者により誕生したのが伊野田集落です。(それ以前には台湾からの自由移民もあったそうです。) 以降も、宮古島や竹富町、沖縄本島(大宜味村)の方々が入植し、昭和29(1954)年には琉球政府計画移民に編入されています。集落名は、小字名の伊野田を活かしています。(昭和22年(1947)年には桃里と井原間を結ぶマクラム道路が完成していて、入植当時から道路がありました。また入植2年後の昭和28(1953)年には伊野田折り返しのバスが運航開始されています。)
 第一次入植は21世帯で、入植当初は、イモ、バナナ、ハッカ、陸稲、落花生、パインなどを栽培していたそうです。伊野田は、沖縄にパインブームを巻き起こした集落として有名です。
 
中央の碑は入植35周年記念碑です。 「開拓の詩」の碑
入植者名が記されたプレートです。入植50周年記念事業として2001年に建立されました。 伊野田集落センター西側の鳥居
もっと古い入植記念碑が伊野田集落センター西側の鳥居をくぐり階段を上った所にあります。 同入植記念碑 拡大
  

(10)大野
 新たな大野集落が誕生したのは昭和30(1955)年のことで、集落結成当時は、戦前から移住していた人たちと、戦後、宮古島や地元八重山から自由移民として入植した人たちで構成されていました。(元の大野集落の開拓移住の歴史は明治期までさかのぼります。当時は奄美大島や東京などからの移住者が開墾して、サトウキビやレモン、ザボンなどの農場や牧場を経営していましたが、マラリアや台風などで失敗しました。)
 集落名は、集落の北方に位置する大野岳の「大野」にちなんでいます。
 開拓移住の主な目的は、サトウキビ作でしたが、レモンやネーブル、ザボンなどの果樹類も栽培していたそうです。昭和35(1960)年以降は、次第に牧場としての風景に移り変わってきています。
  

(11)崎枝

 崎枝村は大正3(1914)年に廃村となり、以来26年間マラリアの有病地帯として恐れられ、住む人もいませんでした。川平村の人々が田畑に往復していましたが、薬草栽培や大戦中の郷土防衛で人が住むようになってから次第に入植者が増えていったそうです。
 そして、元崎枝村の地に、昭和22(1947)年3月以降、新たに開拓の村として崎枝集落が形成されていきました。当初、自由移民として17戸が移り住みましたが、その出身地は、沖縄本島(兼城村、那覇市)、多良間村、宮古島(下地村、城辺町、平良市)、福岡、地元などでした。集落名の由来は、古くからの地名で、方音はサキダと言います。
 昭和33(1958)年頃の戸数は56戸、人口は314人でした。
 移住当初は、落花生、陸稲、サトウキビ、黄麻(ジュート)などを栽培していたそうです。
 復帰直後に本土企業土地買い占めに遭いました。

 
「入植三十周年記念碑」 表面  昭和54年9月の建立です。 同 裏面
記念碑 表面の拡大 記念碑 裏面下段の拡大。
繫昌節歌詞および記念事業内容が記載されています。
 

(12)大嵩
 川平湾の奥(南側)のピシダマと呼ばれる所に、昭和27(1952)年に自由移民の方々によって形成されたのが大嵩集落です。元は戦後間もない頃、宮古島から移り住み塩を作っていた方々などが再移住し、集落を形成したとされています。集落名は小字名に由来しています。昭和33(1958)年頃の戸数は6戸、人口は30人でした。移住当初は、サトウキビ、陸稲、イモ、バナナなどを栽培していたそうです。
 入植当初は飲料用水の確保と道路整備が大きな課題でした。現在も集落内をバスが通らず、県道のバス停まで500mも離れています。
  

(13)仲筋
 旧仲筋村(元禄12(1699)年に創建し、戦争による強制移転で昭和19(1944)年に廃村)の南西側の高台の地に、昭和23年(1948)年以降、自由移民が入植し新たな集落である仲筋を形成していきました。入植者の出身地は宮古島(城辺町)や地元の方々が多かったとのことです。集落名は小字名に由来し、方音はナカチと言います。
 昭和33(1958)年当時の戸数は6戸で、人口は28人でした。移住当初は、タバコ、バナナなどを栽培していたそうです。
 現在、集落の近くには駐車場の整備された川平湾展望台が設けられており、南側から川平湾の全貌を見る事ができます。
  

(14)吉原
 吉原集落は、昭和28(1953)年6月、政府計画移民団によって創建されました。入植した方々の出身地は、宮古(城辺町、下地町、平良市、上野村、来間島)で、入植戸数は48戸、入植者数は228人でした。
 集落名は、団長の「下地豊吉」氏の「吉」と地名・山原(ヤマバレー)の「原」をとって命名されたようです。 
 入植当初は、イモ、サトウキビ、陸稲、タバコ、バナナ、野菜、落花生などを栽培していたそうです。
 しかし、農地の土壌の殆どが砂であった為に作物はうまく育たず(パインブームの恩恵もなく)、また台風の被害にも翻弄されたため、下地団長は「畜産」で村を維持することを決意し、以降、畜産農業を行い村を興してきたとのことです。
 
「開拓之碑」[表面]。「アララガマ魂」とは、宮古島地方の方言で「不屈の精神:自らの力で苦しい環境に立ち向かうこと」という意味です。 同 裏面
  

(15)山原
 かつては広く原野が見られた山原の地に、県外から移住した方々によって家が建てられ始めたのは、平成13(2001)年頃からのことです。これは農業振興地域からの除外を契機に、住宅地としての利用が可能となったことによります。今日では、本土から移住してきた方々の住宅や、別荘としての建物が多く建てられ、新興の住宅地となっています。特に、一周道路沿いは「山原(ヤマバレ)・カフェ・ストリート」とも呼ばれ、カフェや喫茶店、レストランなどが数多くあり、また近隣には、宿泊施設や色々なショップもあります。
 地名については、山が割れている地、ヤマバリが「ヤマバレー」と転訛したという説があります。
  

(16)米原
 ヤエヤマヤシ群落の北西部の原野、元の桴海村一帯に、琉球政府の計画移民として昭和27(1952)年8月に入植し、創建されたのが米原集落です。入植当時の戸数は28戸、入植者数は131人でした。入植した方々の出身地は、沖縄本島(移民団の90%が軍用地に土地を奪われた読谷村出身で他には与那城村、名護町)でした。
 集落名は、入植当時、水稲や陸稲がよく実ったことから「米原」と名付けられたと言われています。入植当初は、イモ、バナナ、陸稲、サトウキビなどを栽培していたそうです。
 道路や桟橋も無い環境下で村づくりが始まりましたが、不幸にも入植の翌年に移民団長で住民の信頼の厚い与儀加奈氏がマラリアの第一の犠牲となりました。リーダーを失った開拓団は落胆させられましたが、良(ヨシ)夫人がその遺志を引き継ぎ、住民も結束を強めて苦難を乗り越えていきました。その後も、旱魃や台風等に苦しめられながら今日まで村は維持されています。
 
開拓之碑 入植者名の碑
「入植者名の碑」の拡大 この碑は米原公民館横の広場の隅にあります。
  

(17)富野
 昭和22(1947)年当時、旧日本軍の兵舎があった佐久田川(スクザーラカーラ)の東方一帯にはイモ等の食料が残っていたようで、それを目当てに人々が移り住み、次第に旧道沿いに集落が形成されていきました。これが現在の富野集落です。
 移り住んできたのは、佐久田川の西方台地にあった元の桴海村の関係者をはじめ、沖縄本島や宮古島、日本本土出身の方々でした。当初の移住戸数は22戸、人口は97人でした。
 集落名は、戦後間もない頃に発足した八重山民政府の衛生部長をしていた大浜信賢氏の発案による命名とも言われています。移住当初は、サトウキビ、イモ、水稲、パインなどを栽培していたそうです。
  

(18)大田
 浦底湾奥の原野に自由移民の方々が移り住み、集落を形成していったのは、昭和30(1955)年頃からです。かつてここは陸路で辿りつけない地域で、またマラリアの有病地として知られていました。
 移住者の出身地は、宮古島平良市、日本本土、八重山(石垣市、竹富町、与那国町)などでした。昭和39(1964)年頃の戸数は21戸、人口は87人となっていたそうです。しかし、本土復帰前の大旱魃やパイン産業の衰退、後継者不足などで当時の入植者全員が地域を離れてしまい、近年は新たに本土などからの移住者が移り住むようになりました。
 集落名は、小字名による命名で、方音はフーダと言います。
  

(19)伊土名
 マングローブ林で知られる吹通川河口の南側の原野に、琉球政府の計画移民として昭和31(1956)年に入植し、開拓、誕生したのが伊土名集落です。入植したのは、宮古(下地町、平良市)、沖縄本島(糸満町、那覇市)、久米島出身の方々で、当初の入植戸数は18戸、入植者数は79人でした。
 実はこれらの方々は、それ以前の昭和29(1954)年に野底地区への政府計画移民として入植したのですが、耕地配分が政府との約束と違っていた為、昭和31(1956)年に再入植先として現在地に移って来たという経緯があります。
 バショウの多い場所で、古くは「糸名」という地名でしたが、開拓団員らによって三文字の「伊土名」と改められました。 伊土名は方音でイトゥナ、シトゥナと言います。
 入植当時は道路がなく、海岸線を伝って畑へ通い、開墾を行うという大変な不自由さの中、苦労され、今日があります。
  

(20)多良間
 西浜川の南側、古くは野底村のあった地に、 琉球政府の計画移民として昭和29(1954)年6月に入植し、開拓、誕生したのが多良間集落です。入植した方々の出身地は、沖縄本島(石川市)、宮古(多良間村、伊良部村、平良市、上野村、下地町、城辺町)、石垣島(大浜)などで、入植戸数は41戸、入植者数は199人でした。
 集落名は、多良間島の出身者が多かったことに由来しています。入植当初は、イモ、野菜、落花生、ジャガイモ、玉ネギなどを栽培していたそうです。
  

(21)下地

 野底小学校のあるのが下地集落です。戦後、開拓の村として、野底マーペー(ヌスクマーペー)の麓の原野に下地集落が形成されたのは昭和29(1954)年6月のことです。
 政府計画移民として入植した方々の出身地は、宮古(下地町)、沖縄本島(糸満町)などで、入植戸数は40戸、入植者数は165人でした。集落名は、宮古島の下地出身者が多くいたことに由来します。入植当初は、開拓団は井戸を掘り湧き水を使って生活し、イモ、サトウキビ、落花生、陸稲などを栽培していたそうです。

 
入植之碑。
この碑は2014年に入植60周年を記念して建立されました。
先遣隊入植者名が記されたプレートです。
  

(22)兼城
 戦後、開拓の村として、新たに兼城集落が形成されたのは昭和29(1954)年6月です。
 政府計画移民として入植した方々の出身地は、沖縄本島(兼城村、越来村、那覇市、糸満町、大宜見村、具志頭村、具志川村、大里村、西原村、与那原村、東風平村、今帰仁村)、八重山(宮良)などで、入植戸数は30戸、入植者数は166人でした。
 集落名は、沖縄本島の兼城(カネグスク)村出身者が多かったことから「兼城(カネシロ)」と名づけられました。入植当初は、イモ、陸稲、落花生、サトウキビ、パインなどを栽培していたそうです。当時の生活は苦しく、薪取りで生計をしのいだり、夫婦で出稼ぎに出る人もいたり、退団者も相次いだようです。近年は本土から新たに移住された方の住宅が増えています。
  
入植之碑[表面]。 この碑は2004年6月に入植50周年を記念して建立されました。 同裏面[裏面]
入植者名が記されたプレートです。 入植之碑の遠景
  

(23)栄
 昭和39(1964)年に、美野集落と越来(ゴエク)集落が合併して出来た村が栄集落です。美野集落、越来集落ともに昭和29(1954)年6月に琉球政府の計画移民として入植し、開拓、誕生した村です。
 合併前の美野集落は、沖縄本島(読谷村、石川市、具志川村、美里村、嘉手納村)から政府計画移民として入植しています。入植戸数は40戸、入植者数は203人でした。集落名は、沖縄本島の美里出身者が多かったことから、美里の「美」と野底の「野」をとって命名されたと言われています。
 また、越来集落は、沖縄本島(北谷村、金武村、名護町、具志頭村、大里村、西原村、宜野湾村、美里村、与那城村、那覇市、羽地村、大宜見村)、座間味島、宮古(城辺)、八重山(石垣、与那国)から政府計画移民として入植しています。入植戸数は37戸、入植者数は155人でした。集落名は、団長の比嘉清一が越来村出身であったことからの命名と言われています。合併前の越来団は出身地が広範囲のため、団をまとめるのも大変で、共同開墾や入植団運営は厳しいものがあったようです。またイノシシ被害に悩まされたほか、マラリアで死亡者も出て退団者が相次ぎました。
 
「開拓」の碑です。
2004年に入植50周年を記念して建立されました。
先遣隊入植者名が記されたプレートです。
  

(24)伊原間
 かつての伊原間村は赤石集落の西方にあり、「内野村」とも呼ばれていました。明和の大津波で大きな被害を受け、黒島から寄百姓して(人口の少ない村や新しい村へ政策的に百姓・農民を移住させること)、明治期まで存続していました。その後、村は次第に現在地(かつて舟越村と呼ばれた所)へと移ってくるとともに、伊原間村へと村名が変わってきました。
 戦後は集落の南方に沖縄本島の勝連村からの移民(船越団)や宮古島からの自由移民の方々が入植して、発展してきましたが、復帰前の大旱魃で人口は減りました。最近は建設業や観光業(ダイビング関係者)などに携わる若い世代の方々の移住によって人口増加が見られます。
  

(25)明石
 古くから牧場として利用されていたフタナカ(二中:二つの山の間に広がる地の意)の地に、琉球政府の計画移民として昭和30(1955)年4月12日に入植し、開拓、誕生したのが明石集落です。
 入植当時の戸数は63戸、入植者数は349人でした。入植した方々の出身地は、沖縄本島(大宜見村、読谷村、玉城村、石川市、具志川村、北中城村、美里村、久志村、屋部村、勝連村、首里)、それと地元の石垣市、大浜町などでした。
 集落名は、入植当時の小字名の赤石の「赤」を、入植団によって「明」に変え命名されたそうです。(集落の北西の海岸に赤色の岩場がありますが、これが元の「赤石」の由来です。)
 県内でいち早く農休日を設け、住民の親睦を図り、先進的な村づくりや営農で農林水産大臣賞を2度も受賞しました。
 入植当初は、イモ、陸稲、落花生、サトウキビ、玉ネギ、ジャガイモ、パイン、葉タバコなどを栽培していたそうです。風土病であったマラリアや台風、旱魃、イノシシなど、厳しい自然災害などと闘いながら今日の集落を築き上げていったそうです。
 
「開拓之碑」[表面]。
昭和60年に入植30周年記念事業として建立されました。
同[裏面]
先遣隊入植者名が記されたプレートです。
「開拓の詩」の碑 入植20周年を記念して制作された「開拓の像」
  

(26)久宇良集落
 古くは久志真村があった一帯に、昭和31(1956)年10月に政府計画移民として入植し、開拓、誕生したのが久宇良集落です。入植当時の戸数は53戸、入植者数は254人でした。入植した方々の出身地は、沖縄本島の大宜見村、玉城村、北谷村、具志頭村、名護町、知念村、大里村、那覇市、浦添村、宜野湾村、美里村、読谷村、勝連村と地元の石垣市となっています。政府は移民事業の失敗例をもとに、入植前に青年開発訓練帯を派遣して準備にあたらせました。
 集落名の由来は、付近の地名による命名で、「小さな湾」という意味の小浦からきています。方音はクーラと言います。
 入植当初は、イモ、陸稲、玉ネギ、馬鈴薯、落花生などを栽培していたそうです。当時は全戸セメント瓦ぶき建てという先進的な集落でしたが、水不足と台風に苦しめられたそうです。
 
「開拓之碑」[表面]。 平成8年10月に入植40周年記念事業として建立されました。 同[裏面]。 当時の開拓者名が記されています。
「開拓之碑」の隣には「入植記念碑」があります。[表面] この「入植記念碑」は1956年3月に、10周年記念として建立されたものです。[裏面]
「入植記念碑」の傍には記念事業開催時の寄付者名が記された碑があります。[表面] 同[裏面]
  

(27)吉野
 久宇良と平久保の中間に位置する吉野集落は、戦後、新しい開拓の村として誕生した集落です。政府計画移民として、昭和31(1956)年4月に、沖縄本島の東風平村、那覇市、糸満町、玉城村、北中城村、読谷村、具志川村、与那城村、ならびに竹富島などから入植しています。入植当時の戸数は23戸、入植者数は108人でした。
 吉野集落の移民団は当初、西表島の古見に入植した後、間もなく古見から少し離れた地区に「城建」という集落を形成していましたが、その後、現在地へと再入植したそうです。
 古見での生活は食糧も逼迫して厳しく、石垣島に新天地を求めましたが、本土復帰前の大旱魃や台風被害を機に住民は次々と離れていき、現在は1世帯が残るのみとなりました。
  

(28)平久保
 平久保は1500年頃、平久保加那按司という人物が治めていた古くから歴史のある村で、当時は現在の平野集落付近にありましたが風水師の指示で1702年に現在地に移転しました。
 第二次世界大戦の終戦当時は人口も30名余りの村となっていました。そこへ政府計画移民として戦後開拓の平久保団が入植したのは昭和31(1956)年4月のことでした。入植戸数は30戸、入植者数は151人でした。出身地は、宮古島(平良市、下地町、城辺町、上野村)と沖縄本島(国頭地区)、ならびに地元・石垣島などでした。入植当初は、サトウキビ、落花生、パインなどを栽培していたそうです。
 なお、平久保村の名は、方音でペーブグムラと言います。
 

(29)平野集落
 平野は石垣島最北の地で、古くは一面の草地が牧場として利用されていた所です。ここに政府計画移民として開拓団が入植したのは、昭和32(1957)年7月のことでした。 入植当初の戸数は60戸、入植者数は80人で、入植者の出身地は、沖縄本島(北谷村、玉城村、コザ市、豊見城村、那覇市、北中城村、石川市、知念村、具志川村、勝連村、与那城村)、ならびに伊江島、久米島、南大東島、宮古(平良市、下地町、上野村、城辺町、多良間村)などでした。
 入植当時は車の通れる道路がなく、バスは明石までの運航でした。また、
入植当初は、イモ、パイン、サトウキビ、落花生などを栽培していたそうです。
 
「開拓之碑」[表面]。 昭和62年8月に入植30周年記念事業として建立されました。 同「裏面]先遣隊入植者名が記されたプレートです。
 

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