石垣島のカー(井戸)  更新 2017.06.03

1.石垣島のカー(井戸)

 石垣島は隆起珊瑚の島ではなく、またある程度まとまった面積を持つ割と大きな島であることから、西表島と同様にいくつもの川があり、水資源の確保は他の隆起珊瑚の島に比べれば多少ましな方だったと言えます。しかしながら、それでも集落内での生活用水の確保は容易ではなく天水や井戸水に頼っていました。 ここでは、石垣島の人々の生活を支えたカー(井戸)の紹介をします。

 岩の割れ目から流れる涌き水を八重山では「シタダリ(垂水):沖縄では「ヒージャー(樋川)」」と言いますが、古くから人々はその水を囲って飲料水に利用したようです。そしてこの涌き水は動物(鳥や犬など)が発見したとの伝承が各地に残されています。
 たとえば大川の地名はフガイン(黒犬)が湧き水を見つけ、その場所がフガナー(黒犬のわき水)と呼ばれ、それにちなんで村の名前が「フーガー(大川)」と称されたという伝承があります。また、大浜の「ウーニンガー(宇根井戸)」はピィース(ひよどり)が教えたという言い伝えがあます。

 湧き水をくむため、岩の裂け目に階段をつくったのを「ウリカー(降り井戸)」と呼びます。新川の「アラマリナー(新生井戸)」、平得の「パイナーカー」、大浜の「ウーニンガー(宇根井戸)」、宮良の「アダドーナー」、白保の「マジャンガー(真謝井戸)」などがウリカーの代表的な井戸です。
 このほか、人力で掘り当てるのが「プルカー(掘り抜き井戸)」で、つるべを使って水をくみ上げるため「ツンナーカー(釣井戸)」とも呼ばれています。 新川の「マイツバカー(真乙姥井戸)」や字石垣の宮鳥御嶽近くにある「ソウソウマカー」などがツンナーカーの代表的な井戸です。

 石垣島の人々が水くみの重労働から解放されたのは1951年に水道が開通してからです。この水道の普及により、旱魃となり飢饉となるのを防ぐため雨乞いをしたり、水を求めて苦労することもなくなっていきました。


今回は、No.10の写真の一部入替えと、No.14の追加を行いました。

No. 名  称 場所 区分 備考
1. アラマリナー(新生井戸) 新川 ウリカー(降り井戸)
2. マイツバカー(真乙姥井戸)*
別名:ウーニカー(宇根井戸)
新川 ツンナーカー(釣井戸)
3. カジィヤヌカー 新川 ツンナーカー(釣井戸)
4. ナータジーカー(名立井戸)* 新川 ツンナーカー(釣井戸)
5. ハンナーカーラ(ハンナー井戸)* 新川 湧き水
6. マージィ屋の井戸 新川 ツンナーカー(釣井戸)  
7. 石垣小学校内(南西側)の井戸 石垣 ツンナーカー(釣井戸)
8. ソーソーマカー* 石垣 ツンナーカー(釣井戸)
9. マイミジィカー(前水井戸) 石垣 湧き水
10. アーンノカー(東ヌ井戸)* 大川 ツンナーカー(釣井戸)
11. フーガーカー* 大川 ツンナーカー(釣井戸)
12. パイナーカー* 平得 ウリカー(降り井戸)
13. アラントゥカー(新求め井戸)* 平得 ツンナーカー(釣井戸)
14. ホーラザーオンヌカー(大阿母御嶽の井戸) 平得 ツンナーカー(釣井戸)  
15. 美崎御嶽内の井戸 登野城 ツンナーカー(釣井戸)
16. アコーバルカー(赤生原井戸)* 登野城 ツンナーカー(釣井戸)
17. キナヤヌカー 登野城 ツンナーカー(釣井戸)
18. マツムトゥヤカー 登野城 ツンナーカー(釣井戸)
19. 大浜郵便局横の井戸 大浜 ツンナーカー(釣井戸)
20. カンヌカー(神の井戸)* 大浜 ツンナーカー(釣井戸)
21. ウーニンガー(宇根の井戸)* 大浜 ウリカー(降り井戸)
22. アダドゥナー* 宮良 ウリカー(降り井戸)
23. マジャンガー(真謝井戸) 白保 ウリカー(降り井戸)
24. トゥンジヌケー 白保 ツンナーカー(釣井戸)
25. オーセヌカー(番所の井戸) 川平 ツンナーカー(釣井戸)
26. インヌカー* 伊原間 ツンナーカー(釣井戸)

・備考欄の※は、石垣市が「まちなか親水広場整備事業」で整備した5つの井戸です。
 
2.地図



3.各カー(井戸)の紹介

(1)アラマリナー(新生井戸)
伝説によると長崎御嶽から50mほど西の方向に、かつて湧き水がありました。そこを村人たちは降り井戸として掘り、「新生井戸」という名を付けました。井戸から汲み上げた水は神の手水と称し、長崎御嶽に捧げられていたそうです。1757年に石垣村から新川村が分村したとき、新しく生まれた井戸の名前を村名にして、新川村と命名されたそうです。 井戸への降り口の直径は約4m。3段に石で積み囲み、縁取りがなされています。地表面から井戸の途中までは、基盤の石灰岩を荒削りして作った8段の階段が設けられています。階段の幅は60〜70cmで、40〜50度の勾配となっています。綺麗に保存されていて、今でも重要な信仰地とされています。
   
     

   
【文碑】

新生井戸之碑

往時 長崎家の祖が漁猟のためこの杜の辺りを往還するたび樹々の間に怪しい火の明滅をみたので杜にわけ入り光の発するところを尋ねたところそこには夫婦石があつた。 思うにこの石は神のよりましの霊石にちがいないと考え爾来この霊之日参し礼拝信仰した。
ある年八重山は農作物の不作で収穫のほとんどない凶作であったが不思議なことには独り長崎家の農作物ばかりは豊かに稔ったので日頃篤く崇う杜の神のあらたかな霊験だとし初穂神酒を供えその恵みの感謝を捧げた。
この話を伝え聞いた村人はこぞって聖なる杜に額づくようになりひとしく神の霊徳に浴したので一社を建立益々信仰を深めるに至った。 ここがすなわち八重山御嶽七山の一つとして崇められる長崎御嶽である。 さるほどにこの杜への神降臨があったのち霊石の鎮まり給う西方に突然美しい霊泉の涌出があった。 人々はまさに神のみわざだと喜びこれを掘り下げ井戸を築き神に手向ける浄水を汲む井とし新生井戸(アラマリナー)と称した。
宝暦七年(一七五七)石垣村から新川村が分村したときこの新しく生れた井戸の名前を村名にして新川村と命名したと伝承されている。
 昭和五十四年(西暦一九七九)六月廿三日建立
 新川字会長 冨田孫秀謹書
 
 
(2)マイツバカー(真乙姥井戸) 別名:ウーニカー(宇根井戸)
石垣中学校の校門に行く前の、道路の真ん中にある井戸です。
この井戸は御嶽を深く信仰していた宇根通事(ウーニトゥージ)が、御嶽角に神井戸を掘り、神の手水を捧げてきたそうです。
都市計画の基幹道路整備により、道路中央に取り残されるようになりましたが、由緒ある井戸で、今も神事にはこの井戸水を使用していることから保存されました。
 
 
(3)カジィヤヌカー
カジィヤヌカーは、新川の4号線南の小道にあります。
なかなか見つけにくい所に位置しています。
近くにあった鍛冶屋が錬鉄の用水として使用していたことからその名がついたそうです。石垣市が「まちなか親水広場整備事業」で整備した5つの井戸のなかの一つです。
 
 
(4)ナータジーカー(名立井戸)
新川村落の西側にある「なたつ橋」を渡って、川平方面に少し行くと左手側にナータジィカー(名立井戸)があります。
ナータジィカーは、200年ほど前に大工家の祖先が住民のために掘削した経緯があり、傍には頌徳碑が建立されています。直径1m、高さ30cmの円形井戸です。
村落の西方にあるのでインヌカー(西の井戸)とも呼ばれますが、この井戸は、石垣市に水道が出来る昭和28年まで利用されていたそうで、新川村の人たちだけでなく、冨崎、名蔵などに向う人々の飲み水としても利用されていました。石垣市が「まちなか親水広場整備事業」で整備した5つの井戸のなかの一つです。
 

(5)ハンナーカーラ (ハンナー井戸)
ハンナカーラは県道79号線沿いの、新川の創価学会八重山文化会館の近くにある湧き水です。 左の説明板の内容は以下のとおりです。
ハンナーカーラ

 ここはハンナーカーラとよばれ、清冽な湧泉による小川で、戦前までは通行人の水のみ場であり、いこいの場所であった。
 一帯は田原またはハンナー原とよばれ、附近には稲作や雨乞い神事の祭場、集団苗代、牧場ゆかりの牛の御嶽、川平への一黒塚などがあり、新川村の重要な農牧地であった。
また明和大津波(1771)後の八重山の復興に力をつくされた与那覇在番の宿舎も、すぐ東の安高原にあった。
 ハンナーという地名は、17世紀に連続4代も石垣頭職を排出した名門ハンナー家ゆかりの命名のようで、石垣四ケ村から川平への県道は、この水のみ場の前を西北方に向かっていた。
湧き水の出ている様子が見えます。 奥から道路側を眺めた様子です。
 

(6)マージィ屋の井戸
石垣中学校のグランド南側の道路を北西方向に少し行った南側にある井戸です。 個人宅の井戸で、現役で活躍しているように思われますが、詳細については不明です。
 

(7)石垣小学校内(南西側)の井戸
この井戸は、石垣小学校内の南西側にあります。 この井戸の傍には石碑が建てられています。
碑には「上善は水の如し」2007年8月」と記されています。
またその下にはプレートが埋め込まれ、右のように記されています。
本校の創立百二十六周年を記念し井戸を復元する
 (井戸の深さ 約十四メートル)
 資金提供 故大浜正良氏の遺志にて
 謹書 学校長 花城正美
  
  
(8)ソーソーマカー
宮鳥御嶽前の十字路から南島側の奥まった所(字石垣のナータジラバカ)にある井戸で、宮鳥御嶽の神に捧げる水を汲んだ井戸です。屋敷と屋敷の間にあるので、別名「フタナカカー」とも呼ばれます。
ソーソーマカーとは、清水の湧くカー(井戸)と言う意味です。
石垣の古謡にこの井戸が掘られた時の様子が歌われており、「神が宮鳥御嶽の近くに井戸を掘る場所を示し、昼間は人間が掘り、夜は宮鳥御嶽の神が手を貸し、つまり神人の協力によって掘られ、清水が湧き出した」と伝えられています。
八重山における掘り抜き井戸の始まりとされています。
   
  
  
9)マイミジィカー(前水井戸)
八重泉酒造の南西側の道路沿いにあります。井戸の周囲はきれいに環境整備がされています。井戸前には、香炉の台座が置かれ、現在も信仰の対象となっています。 新川集落の水元として信仰され、雨乞いの際にはこの井戸を拝んでいました。また、旧暦6月に行われるユーニガイ(世願い)では、水元の神に対する「ミシャグパーシィ(神酒奉納)」を真乙姥御嶽より演唱しています。
  
 
(10)アーンノカー(東ヌ井戸)
アーンノカーは、大川の宮良眼科医院の東側丁字路に掘られた共同井戸です。井戸はこの交差点の右手奥側にあります。 ここは大川の海星学園小学校の南西の位置になります。この井戸も道路の真ん中にあります。
別名は、トラヌファカー(寅ぬ方井戸)です。
井戸は大川村の崎原当貴翁が大川目差(助役)のとき、村の発展・繁栄を計るために村の東北方向の空き地に共同井戸を掘らせたと伝えられています。 その時の井戸堀りの様子が民謡・東ヌ井戸節に歌われています。
なお、井戸は現在は蓋がされ使用されていません。
  
 
(11)フーガーカー
大川の地名は、その昔の旱魃の時に、フガイン(黒犬)が湧き水を見つけ、その場所がフガナー(黒犬のわき水)と呼ばれ、それにちなんで村の名前がフーガームラ(大川村)と称されたという伝承があります。
大川・西ノハカ(インヌハカ)の古い民家の庭にはフーガーカーと呼ばれる井戸が今でも残されています。
この井戸は琉球石灰岩の一枚岩をくりぬいて造られ、他の井戸には見られない特徴があります。
(この井戸の場所はなかなか見つけるのに苦労し、最後は地元の方に教えて頂きました。)
 
 
(12)パイナーカー
パイナーカーの井戸底までの急勾配の通路(掘り幅)は約1mで、長さは約20m。地表から垂直に約11mの深さで底に達します。 掘削年代は明らかではありません。


パイナーカーという名称は、この井戸が
(1)ムラの南東(パイ)に位置することから、
(2)通路が急勾配のため張縄を利用したことから、
(3)通路が急勾配で這うようにして水汲みをしたから
という3つの由来が伝えられているそうですが、どれが正しいかは定かではないそうです。

石垣市指定文化財/史跡
City Designated Cultural Property Historical Site
パイナーカー
Painaka/Paina 井
昭和55(1980)年10月31日指定
October 31, 1980 designated

 この井戸は、長さ約20m、40段の石段があるウリカー(降り井戸)である。ウリカーとは直接水面まで降りて水をくむ井戸のことで、琉球石灰岩の岩盤を削って作られている。
 平得村の伝承によると、年代は明らかではないが、井戸のある場所付近がナカントゥと呼ばれていた頃、ウーリヤー(宇里家)に武勇に優れた7兄弟がいて、昼間は彼らが井戸を掘り、夜は神が掘って、この井戸が完成したといわれている。
 平得村の共同井戸として、一般家庭へ水道が普及されるまで大切に利用された。また、井戸の周辺からは多くの鉄滓や土器が見つかっており、パイナーカー遺跡としても知られる。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。

 Painaka is a descending well (Urika) that was made by digging through a base rock of Ryukyu limestone, and has a depth of 20 meters and a 40 step stone stairway. According to the oral tradition of Hirae, this well was dug by the seven Uriya brothers during the day and by a God at night. Painaka is a public well of the Hirae district, and it was carefully used before tap water became prevalent.
  平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
               文化財課 83−7269
 
 
(13)アラントゥカー(新求め井戸)

平得のウブオン(宇部御嶽)の西側にある井戸です。
現在の平得村ができる以前、平得村の多くの人々は、ナカンドゥムラ(仲本村)に住んでいました。
言い伝えでは、その頃、ウブオン近くにウーリヤー(宇里家)という家があり、その家には7人の兄弟がいて、その7人の兄弟は、力を合わせて井戸を掘ったそうです。その井戸の水はとても美味しく、その水を求めてナカンドゥムラから人々が移り住むようになり、現在の平得村が誕生したそうです。

井戸の名前は、アラントゥカー(新求め井戸)といい、平得村で最初に掘られた掘り抜き井戸と言われています。
昔の人々が水を大切にし、それを求めて移動したことを形として物語っている貴重な井戸だそうです。
傍には「新本井戸頌徳碑」と記された碑があります。 裏面には井戸の由来などが記されているようですが、相当の年月経過のため判読困難です。。
 
 
(14)ホーラザーオンヌカー(大阿母御嶽の井戸)
大阿母(大安母とも書き、「おおあも」または「ウフアム」とも読みますが、八重山では、ホーラザーと呼びます。)御嶽の南側にある井戸です。
オヤケアカハチの乱で勝利した長田大主は国王により八重山の頭職に任じられ、妻の真乙姥は神職である大阿母職を賜りましたが、これが八重山の頭職および大阿母職の始まりとされています。(なお真乙姥は大阿母職を固辞します。)
真乙姥が大阿母職を固辞した結果、八重山初代の大阿母職は平得村の多田屋遠那理(タダヤブナリ(オナリ))が任命されます。
多田屋遠那理は安南ホーラザーとも 呼ばれ、彼女は首里王府からの帰途暴風にあい、安南(現在のベトナム)に到着し、同国から五穀の種子をもらいうけて来たという伝承があります。
 
 
(15)美崎御嶽内の井戸
この井戸は美崎御嶽の拝殿の左手側にあります。 海のすぐ近くなので塩分濃度が高く飲用には不向きで、恐らく祭事用に使われたのではないかと思われます。
 
 
(16)アコーバルカー(赤生原井戸)
登野城の仲筋給油所の北方にあります。アコーバルカーは登野城村のウキマシィヤー(請桝屋、上地家)の犬が掘り当てたとも言われ、インヌカーとも呼ばれています。当初は自然のわき水を利用する降り井戸(ウリカー)だったそうですが、のちに釣り井戸として整備されました。アコーバルとは、「アコウ(の木)」「原(バル)」という地名ではないかと思われます。 近くには村の鍛冶屋があったことから飲料水のほか、工業用水としても利用されました。
道路拡張工事に伴い、アコーバルカーは道路からはみ出すことになりましたが、公民館(住民)の要望によって、道路の真ん中にそのまま残されています。

 

 
 
 
(17)キナヤヌカー
キナヤヌカーは登野城の住宅(アパート)の前庭にあります。 石垣市が「まちなか親水広場整備事業」で整備した5つの井戸のなかの一つです。
 
 
(18)マツムトゥヤカー
「まつむとぅ家」さんは、くぎを使わない梁組みや台湾ヒノキを使った柱・竹で編んだ屋根裏や床など、今ではなかなか見られない建築技法が施されている昔ながらの古民家を利用したそば屋さんです。店名はこの家の屋号「まつむとぅ家」から名付けられているそうです。 井戸は左の写真の左手に位置しています。庭奥(左の写真の右手奥)には、1771年の明和大津波で運ばれてきた大きな津波石があり、地域の観光コースにもなっています。
石垣市が「まちなか親水広場整備事業」で整備した5つの井戸のなかの一つです。
 
 
(19)大浜郵便局横の井戸
大浜集落の郵便局の隣に位置する井戸です。
(大浜郵便局は前泊商店の北側に移転しています。)
石垣市が「まちなか親水広場整備事業」で整備した5つの井戸のなかの一つです。
 
  
(20)カンヌカー(神の井戸)
大浜・崎原公園の津波大石の西側にある井戸です。大浜集落の北に位置しているため、別名は、ニスヌカー(北の井戸)です。 大浜に鉄製農具を伝え、崎原御嶽とゆかりの深いヒルマクイ・幸地玉金兄弟が使ったという伝承があります。
地域飲料水の貴重な井戸として使用されてきました。
直径90cm、高さは70cmです。
正月の飲み水はこの井戸から各御嶽に供えられたと伝えられています。
 
 
(21)ウーニンガー(宇根の井戸)
大浜の水潤御嶽(ミズオン)の西北西方向、フルスバル遺跡のがけ側の茂みの中にある1m60cmほどの長方形の下り井戸です。毎年旧暦10月にウーニンガーニガイ(宇根の井戸の願い)が行なわれているそうです。 この「ウーニンガー」は、ピィース(ひよどり)が湧き水で水遊びをしているのを通りがかった宇根主という人が見つけ、井戸を掘ったという言い伝えがあるそうです。そしてこの井戸は大干ばつの時でも水が枯れることはなく、大浜村の非常用飲料水として重宝がられたそうです。
 
 
(22)アダドゥナー
市街地から「南ぬ島石垣空港」に向かい、宮良集落に入るところの道を海側に下った所にある井戸です。 井戸は鬱蒼と茂ったガジュマル林の中にあります。
   
アダドゥーナー       石垣市史跡
                 昭和55年10月31日指定
 この井戸は人と水とのかかわりを知るうえで大切な遺跡である。 宮良むらの由緒あるウリカー(降り井戸)として、昔から人びとの信仰を集めている。ウリカーとは、直接水面まで降りて水を汲む井戸のことで、傾斜する降り道には40段の石段が設けられている。
 「八重山旧記」に「安多手井」と記されているこのアダドゥーナーは、宮良むらの歴史とかかわりの深い「下又屋敷遺跡」(しいむぬかくいせき)の内にあって、下の村創設のころ、神に願立てして水脈を掘りあてたという伝承がある。以来、神の水として崇信され、共同井戸としても広く利用されてきた。
 近年は各自の井戸や貯水タンクが普及したことや、上水道が敷設されたことにより、共同井戸としての利用はなくなったが、アダドゥー願いは今でも続けられている。
 また、周辺には外本御嶽があり、磁器や陶器、鉄滓などの遺物も出土している。井戸の深さは12m、斜道21mである。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
                  昭和62年10月
                  石垣市教育委員会

  
 
(23)マジャンガー(真謝井戸)
白保にある南北方向に細長い素掘りの縦穴の井戸で、長径は約9.5m、幅は1〜1.5mの大きさです。縦穴の周囲には長径約10.5m、幅約3〜3.5mの石垣が設けられています。井戸の底はほぼ円形で、直径は約1.5mあります。
地表面から井戸の底までの深さは約9.7mです。
1771年に発生した明和の大津波に襲われた際に土砂で埋まってしまったものの、その後、再び掘り返され利用できるようにされたそうです。
真謝井戸は、白保に残存する唯一のウリカー(降り井戸)です。
  
真謝井戸
真謝井戸の碑
寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のために壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
 真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に再掘して永く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。
 1966年4月23日 老人会建立   2006年6月 吉日改築
 撰文 喜舎場永c ・牧野清   寄贈 ヤマト工業(資)

 
 
(24)トゥンジヌケー
白保集落の北西に位置する井戸です。 現在は宮良長栄さん所有の土地にありますが、公民館が管理を行い、きれいに保存されています。
 
 
(25)オーセヌカー(川平)
旧オーセー(番所)の敷地が川平公園前の駐車場になり、オーセヌカー(番所の井戸)は駐車場の隅にそのまま残されました。 ここに井戸があることはあまり知られていないかと思います。
 
 
(26)インヌカー(伊原間)
伊原間で最も古い井戸である「インヌカー」です。
伊原間中学校体育館北側にあります。
明和の大津波(1771年)の後に作られたものだそうです。
犬が知らせてくれた水たまりであったとも言われますが、地下水が豊富で水が湧き出ていたようです。この井戸は集落内の他の井戸よりも水位が高く、つるべが無くても汲めたそうです。
 

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