石垣島の石碑・説明看板(郊外-4) 更新 2024.09.29
※今回は、No.33.の追加を行いました。
ここでは石垣島の郊外(西部地区・嵩田以北)にある石碑・説明看板について紹介します。
No. |
名 称 |
場 所 |
1. |
開拓之碑 |
嵩田 |
3. |
開拓之碑 |
吉原 |
5. |
開拓之碑 |
米原 |
7. |
荒川のカンヒザクラ自生地 |
桴海 |
9. |
肥田埜勝美 句碑* |
桴海 |
11. |
尖閣神社の碑 |
桴海 |
13. |
野底浄水場の碑 |
野底 |
15. |
入植之碑 |
野底・下地 |
17. |
開拓の碑 |
栄 |
19. |
玉取崎園地の説明看板 |
伊原間 |
21. |
明石開拓之碑 |
明石 |
23. |
開拓之碑 |
久宇良 |
25. |
アイナマ石* |
久宇良 |
27. |
平久保のヤエヤマシタンの碑 |
平久保 |
29. |
欠 |
|
31. |
開拓之碑 |
平野 |
33. |
安良村跡の御嶽(大底御嶽) |
平久保 |
|
No. |
名 称 |
場 所 |
2. |
欠 |
|
4. |
仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林 |
吉原 |
6. |
米原のヤエヤマヤシ群落* |
桴海 |
8. |
平和友好の碑 |
桴海 |
10. |
浦底農道完工記念碑 |
桴海 |
12. |
開拓之碑 |
伊土名 |
14. |
欠 |
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16. |
入植之碑 |
兼城 |
18. |
久松五勇士上陸之地* |
伊原間 |
20. |
大浦ダムの碑 |
伊原間 |
22. |
地の利は人の和に如かず |
明石 |
24. |
入植記念碑 |
久宇良 |
26. |
平久保地区農地開発事業完了之碑 |
平久保 |
28. |
平久保サガリバナ植樹の森 |
平久保 |
30. |
平久保遠見台 |
平久保 |
32. |
多良間田跡 |
平久保 |
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地図1.
1.開拓之碑
大嵩集落・開拓之碑
同裏面
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【表面】
躍進
開拓之碑
【裏面】
開拓者名簿
団長 島尻景勇
(以下氏名省略)
大嵩集落は、昭和27年(1952年)に自由移民の方々によって形成された集落です。
この碑は大嵩公民館前の広場に設置されています。
|
2.欠
3.開拓之碑(吉原)
開拓之碑 表面
同裏面
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【表面】
開拓之碑
アララガマ魂
【裏面】
開拓団員名簿
団長 下地豊吉
教師 池間昌二
他47名(氏名省略)
公民館役員
氏名省略:6名
協力者
氏名省略:4名
協力会社
会社名省略:2社
平成二十五年六月吉日建立
記された「アララガマ魂」からも分かるように、移民団の出身地は宮古島の方々でした。地区名は、団長の名前から「吉」の字をもらい、当時の地名であった「山原(ヤマバレー)」の「原」の字と合わせ「吉原」と名づけたそうです。
入植当時の周囲は密林で、道路は山道一つしかなく、開拓には大変な苦労を伴ったそうで、作物は土壌の殆どが砂であった為にうまく育たず、台風の被害にも翻弄されたそうです。このため下地団長は「畜産」で村を維持することを決意し、以降、畜産農業を行い村を興してきたとのことです。
移民団は当初、228名だったそうです。
この碑は吉原公民館の隣にあります。 |
4.仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林
【説明板】
【コントリート柱】
碑の遠景
亜熱帯海岸林内
亜熱帯海岸林外縁
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【説明板】
県指定天然記念物
仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林
昭和47年5月12日
仲筋村ネバル御嶽は、廃村になった仲筋村の拝所です。
この御嶽林は、海岸の砂丘地に発達した海岸林です。これまで信仰
によって保護されてきたため、うっそうとした森林となっています。
高木層は、高さ10m前後のクワノハエノキ、クサミズキ、ハスノ
ハギリ、クロヨナ、タブノキ、オオバイヌビワなどからなり、林内に
はアコウネッタイラン、ヤエヤマクマガイソウ、キイレツチトリモチ
などが見られます。この林は樹種も多く、亜熱帯の海岸林の特徴をよ
く示し、各術上貴重な存在てす。
なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で
禁じられています。
所在地 石垣市川平ヒゥッタ1195番地
面積 41184㎡
平成7年3月
沖縄県教育委員会
石垣市教育委員会
【コントリート柱】
県指定天然記念物
仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林 |
地図2.
5.開拓之碑(米原)
開拓之碑
同拡大
入植者名の碑
同上部拡大
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【左手石碑】
開拓之碑
【右手石碑】
入植者
1952年8月入植
(以下、入植者名省略)
※この碑は米原公民館横の広場の隅にあります。
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6.米原のヤエヤマヤシ群落
「米原のヤエヤマヤシ群落」
説明看板
天然記念物指定石柱 (右)
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[説明看板]
天然記念物 米原のヤエヤマヤシ群落
昭和47年5月15日指定
ヤエヤマヤシ Satakentia liukiuensis (Hatusima) H.E.Mooreは世界中で石垣島、西表島だけに自生する1属1種のヤシです。かつては小笠原諸島のノヤシと同属と考えられていましたが、1964年に初島住彦氏によってノヤシ属の新種として記載されました。その後、H.E.Moore氏がヤエヤマヤシ属を新設し、この属に移しました。属名Satakentiaはヤシの研究家であった佐竹利彦氏の名前を記念しています。本種の近縁種は中国や、フィリピンには分布せず、地理的に遠いニューギニア周辺に分布しています。
本種最大の自生地であるこの群落には多数のヤエヤマヤシが生育しており、中には樹高15~20m、胸高直径30cmに達する見事なものもあります。また、この群落内にはヤエヤマヤシの他に、ハマイイヌビワ、コニシイヌビワ、ホソバムクイヌビワ、ショウベンノキ、リュウキュウガキ、アカテツ、フクギ、ハブカズラ、コミノクロツグ、クワズイモ、ミカワリシダ、オオクサボク、トウツルモドキなどの植物が見られます。
なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
文部科学省
沖縄県
[石柱]
天然記念物 米原のヤエヤマヤシ群落
昭和四十七年五月十五日国指定
ヤエヤマヤシは、かつては「ビンロー」・「ノヤシ」と呼ばれていました。1959年に琉球政府の天然記念物に指定され、本土復帰後に国指定の天然記念物になりました。ここ米原のヤエヤマヤシは400~500本自生していると言われ、自生地としては国内最大規模です。
この説明看板と石柱はヤシ群落入口横(左手)にあります。
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「西表石垣国立公園」 説明看板
米原ヤエヤマヤシ群落
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西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago,
Iriomote-Ishigaki National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands,
Sekisei Lagoon (the coral sea between the two main islands), and several smaller
islands. Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests,
provides ideal habitats for various rare wild animals including the endangered
Iriomote wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs
in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages can
be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and Kuro.
Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It features
clusters of subtropical forests, which cover its highest peak, Omotodake, at the
center of the island. The shores of Ishigaki, including Shiraho Beach, which has
one of the largest blue coral colonies in the northern hemisphere, offer
breathtaking views to divers.
米原園地 Yonehara area
米原ヤエヤマヤシ群落・イシガキニイニイ生息地保護 Yonehara Yaeyama Palm Tree Green / Platypleura
albivannata M. Hayashi Cicada Natural Habitat Conservation Area
沖縄県最高峰の於茂登岳(526m)の麓にあり、発達した亜熱帯極相林が広がります。八重山諸島固有種のヤエヤマヤシ群落が分布し、絶滅危惧種であるイシガキニイニイの生息地でもあり、学術的にも非常に貴重な場所となっています。振り返ると、二重になった珍しいサンゴ礁の眺望が楽しめます。
A lush subtropical climax forest spreads around the foot of Mt. Omotodake,
the highest peak in Okinawa Prefecture, rising 526 meters above sea level
with groves of Yaeyama palm trees endemic to the Yaeyama islands and also
as the habitat of the Platypleura albivannata M. Hayashi cicadas, an endangered
species, this area is extremely valuable from a scientific standpoint as
well. Look behind you to enjoy the view of a rare double reef,
ヤエヤマヤシ
八重山諸島固有のヤシで、自生地はこの米原と西表島2カ所の計3カ所にしかなく、いずれも国の天然記念物となつています。世界でも珍しい1属1種のヤシで、高くなると根元のまわりに赤みを帯びた不定根とよばれるものをたくさん出して、木を支えるようになります。
米原ダブルリーフ
名前のとおり、リーフが二重で、沖のリーフはとても珍しく丸い形をしています。ダイビングポイントとしても、利用頻度が高く、その海中景観は多種多様な魚類が生息し、枝状ミドリイシやユビエダハマサンゴの群落が観察できるサンゴ礁が素晴らしい海中景観として楽しめます。
崎枝鬼(サキダウン)
正体が鬼である姉を持った弟の話。浦底湾にある岩穴は、弟を追う鬼の姉が引っ掛かって動けなくなった場所で鬼家(ウンヌヤー)と呼ばれています。
禁止事項
絶滅危惧種イシガキニイニイの重要な生息地・生育環境を保全するため、生息地保護区では開発行為や木の伐採等が禁止されています。さらに、立入制限区においては、通年人の立ち入りも禁止されています。
この説明看板はヤシ群落入口前の駐車場横にあります。
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「ヤエヤマヤシ」説明看板
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ヤエヤマヤシ(ヤシ科ヤエヤマヤシ属)
【 Satakentia liukiuensis (Hatusima) H.E.Moore 】
石垣島と西表島にのみ自生する1属1種のヤシです。果実は長さ約1.3cmと小ぶりですが、幹は直立して高さ20m以上にも達し、まとまった群落を形成します。米原のヤエヤマヤシ群落は最も大きなヤエヤマヤシの自生地で、桴海於茂登岳の山麓の限られた場所にのみ生育していることから、昭和47年に国指定天然記念物に指定されました。また、平成19年には西表石垣国立公園の特別保護地区に指定され、動植物の採取などは一切禁止されております。
Yaeyam a-yashi palm colony of Yonehara.
The Yaeyama-yashi palm is endemic to Ishigaki and Iriomote Islands.Only
this species exists in the Genus Satakentia.
Its height reaches over 20 meters. This palm colony was designated as a national natural monument in 1972 and become a special protection zone of Iriomote-Ishigaki National Park in 2007.
この説明看板はヤシ群落内にあります。
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「ギランイヌビワ・イシガキニイニイ」 説明看板
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ギランイヌビワ(クワ科イチジク属) 【 Ficus variegata Blume 】
熱帯地方の多湿な森林に生育し、八重山諸島では、マングローブの背後地や石灰岩地帯に見られ、ガジュマルと同じ仲間です。幹の高さは8~15mで大きくなると「板根」と呼ばれる板状の根が発達します。また、「幹生果」といって、太い幹から短い枝を出し、直接花や実をつけることがあり、ヤエヤマオオコウモリが好んで食べることで知られています。
This tree, which is in the banyan family, grows in humid tropical forests.
In the Yaeyama Islands it is found near mangroves and in limestone-rich
soils. When the trunk of the tree reaches 8-15 meters, distinctive plank-shaped
roots called "root plates" develop. The thick trunks of the tree
send out short branches from which flowers and berries directly emerge.
The Yaeyama flying fox is fond of eating the figs profuced by the tree.
米原イシガキニイニイ生息地保護区
イジキニイニイは、世界でここ米原のヤシ林周辺のみに生息するセミです。成虫は6月から7月頃に現れますが、数が少なくめったに姿を見ることはできません。
種の保存法の国内希少野生動植物種に指定され、捕獲は禁止されており、一帯は生息地保護区となっています。
These Yonehara palm forests are the only place in the world where the cicada
Platypleura albivannata lives. Adults emerge around June and July but since
the population is small, they are rarely spotted. Because the cicada is
protected as a National Endangered Species in the Law for the Conservation
of Endangered Species of Wild Fauna and Flora, its capture is prohibited.
This region is also protected as a national Natural Habitat Conservation Area.
この説明看板もヤシ群落内にあります。 |
7.荒川のカンヒザクラ自生地 天然記念物指定碑
荒川のカンヒザクラ自生地の説明看板
天然記念物指定石柱
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[説明看板]
天然記念物 荒川のカンヒザクラ自生地
昭和47年5月15日指定
カンヒザクラは台湾、中国、石垣島に自生する落葉の高木であります。カンヒザクラは荒川の上流地帯、川に沿った所に点々とあって稚樹がほとんどなく老木が多い。
この地域のカンヒザクラの花は2月頃咲き色は沖縄島のものより幾分淡いようです。
周辺の植物は、ハマイヌビワ、クズノハガシワ、フクギ、ハクサンボク、エゴノキ、カキバカンコノキ、リュウキュウモクセイ、フカノキ、ヒカゲヘゴ、クロツグ、リュウビンタイ、ツルアダン、などがあります。
この一帯は、基盤が花崗岩で桜の生育には適地であり、また琉球列島における桜の自生地がほとんど失われた今日、この地域のカンヒザクラの自生地は貴重であります。
なお、この地域において許可を得ることなく、現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
文部省
沖縄県
[指定石柱]
天然記念物 荒川のカンヒザクラ自生地
昭和五十年三月三十日建立
※カンヒザクラは、日本で最も早く開花する桜のひとつで、沖縄では1~2月に開花します。
沖縄や奄美諸島で桜と言えばこの種ですが、開花は北から始まり南へ進むという特徴があります。
普通の桜の花に比べて赤色が濃く、釣鐘状の形をしています。
名前は寒い時期に咲く緋色の桜という意味です。ヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ばれることもありますが、ヒガンザクラ(彼岸桜)と聞き間違いやすいので、カンヒザクラの呼び方が標準になっています。
この碑は荒川橋の傍(北側)にあります。 |
8.平和友好の碑
平和友好の碑
於茂登トンネル
|
平和友好の碑
日本と台湾は現在国交のない不幸な状態に置かれてい
るが 曽ては 明治以降の五十年間同胞としての歴史と
運命を共有していた 緊密な間柄であった。
特に我が八重山と台湾は 最も近い隣人として格別な
親交関係で結ばれていた。
然し 両国間の一衣帯水の海上には 領土の証としての
国境線が厳然と存在することは否定できない歴史的現実
である。 我我にはこの両国間の親近と冷厳の特殊な
歴史的関係を確かめるとともに 相互の立場を尊重する
責務がある。 そこから信頼が生れ友好が実現する。
思えば 八重山青年会議所が台湾 蘇澳港青年商会と
姉妹締結をして六年 その間様様の民間交流を通じて多
くの成果を積み重ねてきた。 また、四十二年前 敗戦の
混沌た激動の中を八重山出身の多くの引揚者がスオウ
港から帰還した際 数数の温かい援助を受け無事帰国し
た 忘れ得ない恩恵である。
この温情に報いるために双方の地を訪れ 両地域の人々
が戦争の無益と恒久の平和を語り、祈願する。 この歴史
的会合を記念して 「平和の木」を植えて末長く伝える。
青年会議所の目的とする 人間の開発と社会の開発の二
つの理念に基づいて 青年会議所の姉妹締結のきずなを
益々堅め新たな未来への指標として この平和友好の
記念碑を建てる。
一九八七年(昭和六二年)八月二日
蘇澳港 国際青年商会会長 廖 大慶
国際委員長 簡 弘遠
(社) 八重山青年会議所理事長 山森 康二
対外交流委員長 井上信吉
この碑は於茂登トンネルの北側出口の西側の公園内にあります。石板を横に置いた状態で設置されていますので少々分かりづらいです。 |
9.肥田埜勝美 句碑
肥田埜勝美 句碑表面
裏面
|
[表面]
青葉木菟
遠し
二羽とも
谺とも
勝美 |
青葉木菟(アオバズク):フクロウ目フクロウ科アオバズク属に分類される鳥です。一般には冬季になると東南アジアへ渡り越冬する夏鳥とされていますが、南西諸島では留鳥です。
谺:こだま
|
[裏面]
平成六年陽春建立
肥田埜勝美先生句碑
俳誌 阿吽 石垣支部� |
この碑は、於茂登トンネル北側出口すぐの西側(小公園内)にあります。
俳誌主宰・肥田埜(ひだの)勝美氏の句です。全国に会員を有する俳誌「阿吽」の5周年を記念し、文芸文化の啓発と俳句への関心を高めようと1994年に建立されました。
八重山郡内では地元以外の文学碑は珍しく、この句碑建立には同会員の故・具志堅紘氏が尽力されました。
※ 俳人、肥田埜勝美(ヒダノ カツミ)は、大正12年に埼玉県に生まれています。 |
地図3.
10.浦底農道完工記念碑
浦底農道完工記念碑 表面
同 裏面
|
[表面]
事業完工記念碑
[裏面]
浦底農道完工記念碑
本農道は、古くは山越道として浦底越地(クイツ)と
呼ばれ、東部と西部を結ぶ重要な道路であった。
事 業 名:県営一般農道整備事業
事業目的:伊野田と野底地域の農用地を結ぶ唯一の産業道路として
農業交通の合理化と農村地域の活性化を図ることを目的とする。
事業内容:事業量 3,989m 事業費:1,792,776千円
受益面積 450ha
工期 昭和54年度~昭和63年度
事業主体:沖縄県
管理主体:石垣市
平成元年3月吉日
この碑は星野集落北部から浦底湾へ抜ける農道脇に設置されています。 |
11.尖閣神社の碑
地図4.
12.開拓之碑(伊土名)
開拓之碑
周辺の様子
伊土名公民館
|
【上段】
入植50周年記念
開拓之碑
平成18年11月25日 伊土名公民館
※この碑は伊土名公民館裏手の丘にあります。 |
13.野底浄水場の碑
野底浄水場の碑
|
【上段】 野底浄水場
【下段右】
2001年3月竣工
【下段右】
施工者
(以下省略)
※この碑は野底集落の南側、伊土名集落の東側の山の手にあります。 |
14.欠
地図5.
15.入植之碑(野底・下地)
入植之碑
入植者名プレート
|
【上段】
入植之碑
【下段】
先遣隊入植者
一九五四年(昭和二十九年)六月五日
(以下、入植者名省略)
※この碑は野底集落内にあります。 |
16.入植之碑(兼城)
入植之碑
同裏面
入植者名プレート
|
[表面] 入植之碑
[裏面]
兼城開拓団入植者名
一九五四年(昭和二九年)六月二十一日 入植
(以下、入植者出身地・氏名省略)
建立 二〇〇四年(平成十六年)六月二〇日
揮壱 志喜屋 清 |
17.開拓の碑(栄)
開拓の碑
入植者名プレート
|
【上段】
開拓
【下段】
一九五四年六月二十一日 先遣隊入植者
(以下、入植者名省略)
※この碑は栄公民館前の広場にあります。 |
地図6.
18.久松五勇士上陸之地
久松五勇士上陸之地の碑
同裏面(東側)より
|
久松五勇士
上陸之地
元陸軍大将荒木貞夫書
五勇士名
垣花 善
垣花 清
與那覇 蒲
與那覇 松
與那覇 蒲
(裏面)
明治三十八年五月日露戦争の時ロシヤのバルチック艦隊宮古島沖通過の事を一刻も早く大本営に通報すべく時の宮古島島司橋口軍六の命により久松出身の五人の青年漁師は刳船に乗り九〇浬の荒波を力漕に力漕をつづけ石垣島にたどりつき「敵艦見ゆ」の打電をなし大任を果した この五人の青年の愛国心勇猛心責任感をたたえ永く記念するために此の碑を建てた
一九六六年九月
久松五勇士顕彰碑建立期成会
この碑は伊原間の牛そばで有名な「新垣食堂」の北側すぐの交差点を東側こ曲がり海岸方向に行くとあります。
※ 日露戦争時の明治38年5月25日、宮古島東方を北上しているロシアのバルチック艦隊を発見したという情報が宮古島司(地方行政官)に入り、大本営と連合艦隊に報告することとなりました。しかしながら当時、電信局は石垣島にしかなかったため、その報告を届けるよう依頼された宮古島・久松の漁師5人は、石垣島まで約170kmの荒波の中を刳舟(サバニ)で15時間こぎ続け、ここ伊原間の浜に到着しました。その後、陸上を5時間かけて石垣島電信局まで走り電報を発信しました。
しかし、電報が連合艦隊に達したのは、信濃丸の「敵艦見ゆ」の報告よりも1時間遅れとなり、当時はあまり評価されることもありませんでした。
なお、宮古島の久松にもこの五勇士を讃える顕彰碑が建てられています。
碑文は漁師(青年)らの功績を称えていますが、当時市内北部に入植し苦難の日々を送っていた宮古島出身開拓者を勇気づけ、結束を願う意味合いを持つものだそうです。期成会が組織され、建立の資金を調達したそうです。 |
19.玉取崎園地の説明看板
玉取崎園地の説明看板
同拡大 (左側)
同拡大 (右側)
東屋
玉取崎展望台からの眺望 (北東側光景)
(南東側光景)
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西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago, Iriomote-Ishigaki
National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands, Sekisei Lagoon
(the coral sea between the two main islands), and several smaller islands.
Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests, provides
ideal habitats for various rare wild animals including the endangered Iriomote
wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs
in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages
can be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and
Kuro. Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It
features clusters of subtropical forests, which cover its highest peak,
Omotodake, at the center of the island. The shores of Ishigaki, including
Shiraho Beach, which has one of the largest blue coral colonies in the
northern hemisphere, offer breathtaking views to divers.
玉取崎園地 Tamatorizaki area
平久保半島・野底・玉取崎 Tamatorizaki, Nosoko, hirakubo Peninsula
玉取崎は平久保半島の基部、金武山の東方に位置する岬です。南方には民謡「月夜浜節」に謡われた「岸の浦(キシヌーラ)」または「南の浦(ハイノーラ)」と呼ばれる場所があります。展望台からは、山並みや牧野、自然海岸とエメラルドのリーフの雄大な連なりが一望できます。平久保半島の付け根、約200mのくびれた箇所は「船越(フナクヤー)」と言われ、かつては、海から海へと舟を担いで渡していたと言われています。
Tamatorizaki is a promontory to the east of Kimbudake, a mountain located
at the base of the Hirakubo Peninsula. To the south of the promontry is
a renowed beach referred to as Kishinura or Hainora in the traditional
folksong Tsukiyohamabishi ( song of the moonlit beach ). The Tamatorizaki
observation deck commands a panoramic view of mountains, meadows, natural
beaches and emerald coral reefs. The peninsula to only about 200 meters
across near its base, and the local fishermen used to carry their boats
across this narrow strip ( called Funakuya, or boat passage ), rather than
row all the way around the peninsula.
野底マーペー
西方に望む、とがった形が特徴の野底岳は、この山にまつわる、悲恋の物語のヒロインの名前をとって「野底マーペー」とも呼ばれます。過去の移住政策によって、恋仲をさかれたマーペーという娘が、黒島の恋人を思って野底岳に登ったが、於茂登岳にさえぎられて島の姿さえ見えず、絶望のあまり石になってしまったと言います。
船越(フナクヤー)
伝統の舟かつぎ船越(フナクヤー)は、旧暦5月4日に航海安全と豊漁を祈願する伝統行事「フナクヤー海神祭(ハーリー)」で再現されます。
月夜浜節
1 月夜濱だぎに
岸ぬ浦ぬ木綿
木綿花作てぃ
木綿かしかきら
2 くりかえし 返えし
指はぢき 見上ぎりば
筋むつぃぬ 美らさ
ゆみ美らさあむぬ
吹かば飛ぶ手巾
玉取崎園地周辺は昔、綿花の畑が一帯に広がっていました。この歌は、畑に真っ白に咲き誇る木綿の花はまるで月夜の浜辺のようだ。真っ白な綿花を摘み、糸を紡ぎ、愛しいひとのために、極上の手巾を織りさしあげましょう、という内容です。
玉取崎の名前の由来は、その昔、この岬の沖で海難事故が多く、「魂を取られる」ことが多かったことから、「玉取」の名がついたそうです。 |
20.大浦ダムの碑
大浦ダムの碑 [表面]
[同裏面]
碑文
ダム遠景
|
[表面・上段]
大浦ダム
[表面・下段]
位置 石垣市伊原間地内
河川名 大浦川
流域面積 1.65km2
総貯水量 1,190,000m3
有効貯水量 1,170,000km3
満水 面積 127,600km2
満水位標高 EL 46.70m
設計洪水位 EL 48.10m
堤体型式 中心コア型ゾーン式フィルダム
堤高 35.5m
堤長 214m
堤体積 234,000m3
余水吐流入型式 側溝流入式
減勢工方式 静水池
設計洪水量 110.0m3/S
取水設備型式 ドロップインレット型
取水位標高 EL 25.20m
仮排水路型式 標準馬蹄型
工期 着工 昭和51年8月
完了 昭和58年12月
[裏面・上段]
発注者 沖縄県農林水産部耕地課
沖縄県八重山農林土木事務所
[裏面・下段]
施工者 前田建設工業(株)
西里建設(株) 共同企業体
この碑は大浦ダムの堰堤脇(右岸側)にあります。 |
地図7.
21.明石開拓之碑
開拓之碑
(同裏面)
開拓の詩の碑
開拓の像
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(開拓之碑裏面)
明石開拓団
昭和30年4月12日入植
入植30周年記念む事業として
昭和60年11月吉日建立
[以下]入植者の記載あり
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開拓の詩(うた)
一.みどりの資源 海の幸
未開の沃土 地下の富
琉球の宝庫 八重山
二.産声高く 明石に
集う我等は 開拓移民
世紀の波に 今乗らん
三.未開の歴史 返り見て
開ける道を 示さんと
故郷を離れてはるばると
四.逢えば 一つの水心
宝庫を開く 無限の力
欲を忘れて一手一つ
五.若い血潮は みなぎりて
共にひらかん ねむれる資源
真実つくす時ぞ 今
六.スクラムくんで 開発に
地の利を生かす その時に
永遠の楽土は築かれん |
明石集落は戦後、主に沖縄本島の大宜味村や読谷村などから政府計画移民として入植された方々によって形成された集落です。集落名は入植当時、「赤石」でしたが、入植団によって「赤」を「明」に変え命名されたそうです。
この像は入植20周年を記念して制作されたものです。
いずれも公民館脇の庭に設置されています。 |
22.地の利は人の和に如かず
「地の利は人の和に如かず」の碑
碑の遠景
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地の利は人の和に如かず
この碑は、明石集落への入口(公民館&共同売店前)にあります。
言葉は、「孟子・公孫丑下」からのもので、意味は、『いかに土地の形勢が有利であっても、一致団結している人々の力には及ばない。』ということですが、逆説的に「
どのように土地の形勢が不利であっても、堅固な人心の和合団結によって乗り越えられる。」という、開拓の困難に立ち向かう入植者精神を表したものと思われます。 |
地図8.
23.開拓之碑(久宇良)
開拓之碑 表面
同 裏面
碑 遠景
同 裏面より
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【表面】
開拓之碑
【裏面】
久宇良開拓団
入植四十周年記念事業
「昭和三十一年十月二十七日入植」
開拓者氏名
大宜味村
(以下入植者氏名略)
名護市
読谷村
勝連町
那覇市
北谷町
宜野湾市
浦添市
那覇市
大里村
知念村
玉城村
石垣市
平成八年十月吉日建立
この碑は久宇良公民館の広場内にあります。 |
24.入植記念碑(久宇良)
入植記念碑 表面
同 裏面
寄附者名碑板 表面
同 裏面
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入植記念碑
【表面】
入植記念碑
【裏面】
十周年記念建立
一九五六年三月廿七日
寄附者名碑板
【表面】
入植十周年記念事業於
寄附者氏名
(寄附金額 略)
大宜味村字塩屋部落会
大宜味村有志一同
大宜味村議会議員一同
北谷村役所
玉城村役所
宮原食品株式会社
八重山食品株式会社
沖縄缶詰株式會社
【裏面】
石垣島製糖株式會社
八重山製糖株式会社
山城興常
沖縄食糧商事株式会社
第一化学工業株式会社
漢那酒造所
徳村商店
具志堅商会
この碑は久宇良公民館の広場内にあります。 |
25.アイナマ石
アイナマ石の説明看板
アイナマ石
アイナマ石への道標
アイナマ石の遠景
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アイナマ石
アイナマとは可愛い花嫁のことです。
昔、川平村の美しい娘が平久保村に嫁に行くことになりました。
平久保村と川平村は遠く離れており、行き来するにはジャングルのけもの道や干潮時に海浜沿いに歩かねばならず、二日がかりでした。
親の勤めで、仕方なく承諾したものの、娘にとっては気の進まぬ結婚でした。
嫁入りのため平久保村に向かう途中、花嫁は用足しにといって茂みのなかへ姿をかくしました。
なかなか戻らないので、お供の者があたりを探しましたが、花嫁の姿はなく、昼なお暗い山奥には花嫁に似た冷たい石がひっそりと立っているばかりでした。
いつしか人びとは、この石のことをアイナマ石と呼ぶようになりました。
娘が悲嘆のあまり石化した伝説は他にもあり、石になった花嫁と呼ばれるアイナマ石の伝説も人頭税制度下で苦しんだ農民や女性たちのやりばのない悲しみと怒りが石を通して伝わってきます。
※ アイナマ石は久宇良・新垣牧場東側の県道沿い(北上する時は右手側)に入り口があります。道路が上り坂になる辺りに小さな案内板がありますので、ここを右折して山道を少し上ります。すると右上の写真の道標がありますので、ここに車を止め少し(150m程度)山道を歩くと辿り着きます。 |
地図9.
26.平久保地区農地開発事業完了之碑
平久保地区 農地開発事業完了之碑
同裏面
碑の遠景
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[表面]
平久保地区
農地開発事業完了之碑
[裏面]
平久保土地改良区
理事長 大松 久吉 東風平正金
副 川田 文夫 平良 玄栄
平良 辰男 島尻 昇
監事 大松 正昭 伊波 清孝
事業期間 昭和62年3月 ~
平成10年3月
施工者 西里建設株式会社
この碑は平久保集落を北方向に過ぎた右手側にあります。 |
27.平久保のヤエヤマシタンの碑
平久保のヤエヤマシタンの碑
碑の遠景
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[表面]
天然記念物 平久保のヤエヤマシタン
[表面]
昭和四十七年五月十五日 国指定
平久保集落東北方の山裾に、幹周2.3mと1.9m、推定樹齢が170年~200年とみられている2本のヤエヤマシタン(八重山紫檀)が生えています。ヤエヤマシタンは、マメ科の植物で、中国南部、インドから東南アジアまで広く分布していますが、国内では石垣島のみに自生しててい、1972(昭和47)年5月15日の本土復帰と同時に国の天然記念物に指定されました。かつて、ヤエヤマシタンは、島の各地に多く生育していましたが、木肌が美しく、光沢があることなどから家具材として、また建築用材として使われていました。そのため乱伐されて、その数が急激に少なくなり、絶滅が心配されています。
※ 今回は指定を受けた実際の樹木までは辿りつけませんでした。
いずれ機会をみて訪れてみたいと思っています。
この碑は、平久保集落の東北側、山間部への入口にあります。 |
28.平久保サガリバナ植樹の森
29.欠
地図10.
30.平久保遠見台
平久保遠見台の説明看板
平久保遠見台
看板の周辺の様子
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国指定史跡
先島諸島火番盛 遠見番所
ひらくぼとおみだい
平久保遠見台
平成19(2013)年3月23日 指定
遠見番所とは、琉球王朝時代、海上交通の監視や通報機能を担った施設です。火番盛とは、いわゆる遠見台(遠見番所)の別称ですが、八重山では遠見台のことを火番盛と呼ぶ傾向があります。琉球王国の正史『球陽(きゅうよう)』には、船(主に異国船)が見えた時に素早く王府に情報を伝える手段として、1644年に烽火の制度を創設したと記されています。背景には、江戸幕府の鎖国政策や、琉球に進駐していた薩摩の要請があったと考えられます。当時、中国における明清交代や
スペインのフィリピン進出などにより、東アジアでは国際的な緊張が高まっていました。琉球列島の西端に位置する先島諸島(宮古・八重山)は、異国船の侵入路になり得るため、各地に遠見番所が設置されました。石垣島では、平久保と川平のほか、白保のカラ岳に置かれました。
平久保遠見台は、石垣島の北端に位置し、北方から近づく船を最も早く見つけることができます。船影を確認後、平久保であげた烽火は川平火番盛で確認され、その情報を蔵元(首里王府の出先機関:現在の八重山博物館付近)へ伝えたとされます。川平では、「平久保で烽火があがったら、直ちに応火し、船の見えるのを待ち、どのような船であるか確認して村役人の書き付けを持ち、パチケー、パチケー(早使いの意)と連呼しながら馬を全速力で走らせて蔵元へ行き、その状況を報告した」と伝えられています。一方、平久保と川平は遠距離であり、その間を中継する施設があったのではないかとする意見もあります。
石垣島の平久保遠見台や川平火番盛も含め、宮古島市・多良間村・石垣市・竹富町・与那国町の15の島々に所在する、19カ所の遠見番所が、「先島諸島火番盛 遠見番所」として、一括して国の史跡に指定されています。
平成28(2016)年6月
石垣市教育委員会 文化財課 83-7269
この看板は、平久保灯台下のトイレの裏手(遠見台への登り口)にあります。なお、現在は遠見台への登山道は立ち入り禁止です。 |
31.開拓之碑(平野)
開拓之碑 表面
同 裏面
碑 遠景
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[表面]
開拓之碑
[裏面 上段]
平野開拓団
昭和三十二年七月一日入植
入植三十周年記念事業
昭和六十二年八月吉日建立
先遣隊団長 大嶺徳太郎
先遣隊氏名
(以下入植者氏名略)
多良間村
上野村
下地町
平良市
伊江村
石川市
勝連村
北谷村
北中城村
具志川村
胡差市
玉城村
知念村
豊見城村
那覇市
[裏面 下段]
碑 書 天久朝源
碑石寄贈 根間重機リース
制作刻字 石垣島石材
この碑は平野公民館の広場にあります。 |
地図11.
32.多良間田跡
多良間田跡の説明看板
説明看板の遠景
多良間田跡の遠景
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たらまだーあと
多良間田跡
多良間田跡は平久保半島の北端にある平野集落
から南東へおよそ1.6kmの場所にある田圃跡(たんぼあと)です。
この田圃跡(たんぼあと)の由来は、1752年に編纂された「宮古
島記事」に伝承として記載があり、多良間の人々
が平久保に通って米を作っていた時期はさらに古く
遡ると考えられています。
この田圃跡(たんぼあと)は、谷間に連なる緩斜面が利用されて
います。伐採すると今でも階段状となったテラス状
の遺構を長さ100m、幅40mの範囲に確認できます。
テラス状の遺構は、三日月状で連なり11面あります。
また、谷間には崎山川(サッキャンカーラ)と呼ば
れる小川が流れ、この川の水を利用したと考えられ
ています。
周辺には多良間浜、多良間津口など多良間に関係
すると考えられる呼称も見られます。
また、この地には、島内の人々も通い稲作をして
いた時期があり、近年までは牧場として利用され、
放牧牛の追い込み場なども所在しています。
この地での先人たちの苦労に思いを馳せ、彼らの
知恵を学ぶためにも重要な地であり、関係者により
「心の拠り所」として大切に残されています。
多良間田跡は、平久保半島北部の東側の崎山川(サキャンガーラ)に近い市有地内にあります。
現在は草木に覆われて見えなくなっていますが、石垣市・市史編集課が1989年に撮影した写真からは畝の跡が確認できます。 また、2011年3月に発行された「石垣島の風景と歴史」では導水路の跡も残っているようです。
この説明看板は平久保半島北部の牧場の中にあり、2017年4月に設置されました。 |
地図12.
33.安良村跡の御嶽(大底御嶽)
平久保エコロードの「安良村跡の御嶽」への案内板
海岸から「安良村跡の御嶽」への入口看板
「安良村跡の御嶽」の注意看板
「安良村跡の御嶽」の説明看板
イビ門前の広場
イビ門と祠
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[案内板]
石垣市指定有形民俗文化財
Designated cultural asset/
Tangible fork cultural asset of Ishigaki City
やすらむらあと オン
安良村跡の御嶽 0.6km Onn in the Yasura Village Sit 中文略
石垣市教育委員会文化財課 0980-83-7269
[入口看板]
石垣市指定有形民俗文化財
Designated cultural asset/
Tangible fork cultural asset of Ishigaki City
やすらむらあと オン
安良村跡の御嶽
Onn in the Yasura Village Site/中文略
石垣市教育委員会文化財課 0980-83-7269
[注意看板]
注意
御嶽及び周辺にある酒瓶や陶磁器の
破片等は、この場所で祭祀や信仰が継続
されてきたことを示す大切な物証です。
ゴミではありませんので、持ち帰ること
がないよう、ご注意ください。
石垣市教育委員会 文化財課 83-7269
[説明看板]
石垣市指定文化財
Designated cultural asset/ tangible fork cultural asset of Ishigaki City
やすらむらあと オン
安良村跡の御嶽
Onn in the Yasura Village Site/中文略
平成19(2007)年5月25日指定
Designated on May 25, 2007
安良村が創建されたのは、1753年のことである。石垣島の伊原間村から48人、白保村から100人、竹富島から200人、合計348人を移住して村建てされた。その後、1761年に411人と記録され、人口の増加が確認できる。しかし、1771年に八重山諸島を襲った明和大津波では、当時の人口482人の95.6%にあたる461人が犠牲になった。大津波後、平久保村から51人を移住させて村を再建したが、風土病マラリアや飢饉などで人口は年々減少し、1873(明治6)年には戸数8、人口は26人まで減った。1912(明治45)年、最後まで村に残っていた住民が平久保村に移住し、安良村は廃村となった。
安良村跡にあるこの御嶽は、廃村になった後も安良村の関係者や平久保の人々によって信仰が続いている。御嶽にはイビ(神域)や拝殿、境内を取り囲む石積みも現存し、ハスノハギリを中心とした御嶽林も良好な状態で守られている。安良村跡には、屋敷の石積みや建物の礎石、井戸も残され、御嶽とともに、廃村となった旧村落の歴史を知ることができる。
なお、御嶽は、地域の方々の信仰・祭祀行事に深く関わる場所であることから、見学には十分な配慮が必要である。
Yasura Village was founded in 1753. A total of 348 people (48 people from
Ibaruma Village, 100 people from Shiraho Village of Ishigaki Island, and
200 people from Taketomi Island) moved to found the village. later in 1761,
411 people seemed to have lived there, thus, an increase in population
can be confirmed. However, in 1771 the Great Tsunami of Meiwa hit the Yaeyama
Islands and 461 people, 95.6% of the 482 inhabitants at the time, were
killed. After the tsunsmi, 51 people from Hirakubo Village were relocated
to rebuild the village. However, the population decreased every year because
of malaria and famine, etc. to be reduced to 26 people among 8 houses in
1873. In 1912, the people who had remained in the village finally moved
to Hirakubo Village, and Yasura Village ceased to exist.
This Onn (sacred site) in the Yasura Village site is continuously worshipped
by the people who have a connection with Yasura Village and by the pepole
of Hirakubo even after the village creased to exist. The Onn has an Ibi
(sanctuary) and a hall of worship, and masonry surrounding the premise,
and an Onn forest with lots of jack-in-a-boxes (Hernandis sonora) has also
been protected in good condition. In the Yasura Village site, since masonry
of homesteads, building cornerstones, and wells remain as well, together
with the Onn, you can see the history of an old village which ceased to
exist.
Also, because Onns are places where the spiritual and religious service
events of the local people are deeply involved, please be extremely considerate
on the tour.
以下中文省略
平成29(2017)年3月 石垣市教育委員会
文化財課 0980-83-7269
安良村は1753年に創建され、1912(明治45)年に最後まで村に残っていた住民が平久保村に移住し、安良村は廃村となりました。
安良村跡にあるこの御嶽は、廃村になった後も安良村の関係者や平久保の人々によって信仰が続いています。御嶽にはイビ(神域)や拝殿、境内を取り囲む石積みも現存し、ハスノハギリを中心とした御嶽林も良好な状態で守られています。
この御嶽は創建当時大浜村の大底御嶽を勧進奉還したので「大底御嶽」の名で呼ばれています。 また大浜の「崎原御嶽」より豊作の神として分神を迎え大城村(現大浜集落北部にあった集落)で創建されたという伝えもあります。
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