石垣島の石碑・説明看板(郊外-1)  更新 2017.04.01

今回は、No.8の追記を行いました。

ここでは石垣島の郊外(島の東部)にある石碑・説明看板について紹介します。
石垣島の市街地(石垣・登野城・大川・新川・新栄町・真栄里・八島町)にある石碑・説明看板については、別のページを参照してください。

No. 名 称 場 所
1. オヤケアカハチ之像* 大浜
3. 古乙婆之碑* 大浜
5. 魚供養之碑* 大浜
7. 大浜町役所跡の碑 大浜
9. 入植五十周年記念碑 大浜・川原
11. 「和」の碑 大浜・三和
13. 赤馬主の墓 宮良
15. 畜魂碑 宮良
17. 宮良橋頌徳碑* 宮良
19. 宮良川のヒルギ林 天然記念物指定碑 宮良
21. 詩碑 仰高徳の碑 宮良
23. 宮良公民館憲章の碑* 宮良
25. 鳥獣魂供養の碑* 宮良
27. エジンバラ公訪問記念碑 白保
29. 柳田国男 歌碑* 白保
31. 安里屋ユンタ歌碑 白保
33. 「ゆがふみつ 大里農道」の碑 大里
35. 桃里恩田遺跡* 桃里
37. マンゲー山説明看板 星野
39. 「愛せよ公民館 育てよ緑」の碑 伊野田
No. 名 称 場 所
2. オヤケアカハチ顕彰碑 大浜
4. 史跡 フルスト原遺跡 大浜
6. 大浜公民館憲章 大浜
8. 南十字星観測時刻の説明板 大浜
10. 真栄里ダムの碑 大浜・於茂登
12.
14. 畜産大賞之碑* 宮良
16. 東・西嘉和良嶽の由来 宮良
18. 明和大津波遭難者慰霊之塔 宮良
20. 赤馬の由来* 宮良
22. アタドゥーナー 宮良
24. 底原ダムの碑* 宮良
26. 鎮(琉第六四六一部隊慰霊碑) 宮良
28. 真謝井戸* 白保
30. 舟溝開砕記念の塔* 白保
32. 旧盛山村跡の御嶽 盛山
34. 開拓之碑(大里) 大里
36. 星野入植記念碑 星野
38. 伊野田入植記念碑 伊野田
40. 入植記念碑(伊野田) 伊野田

地図


1.オヤケアカハチ之像

オヤケアカハチ之像の碑


オヤケアカハチの像

オヤケアカハチ之像
 西暦一五〇〇年(明応九年)、当時の琉球王府に年貢を拒否、反旗を翻動した驚天動地のアカハチの乱の主人公・オヤケアカハチの銅像。その人物像は体つきが人並みはずれた大男、抜群の力持ち、髪は赤茶けて日本人ばなれのした精悍な顔つきの若者-と伝えられている。
 正義感が強く、島民解放のため先頭に立って権力にたち向い、大浜村の人々から太陽と崇められ信望を一身に集めていた。
 爾来、今日まで英傑・オヤケアカハチの道徳は大浜村の人々に「アカハチ精神」として受け継がれている。
 この銅像はイメージ像をもとに現代の手法を駆使して製作したものである。
 オヤケアカハチ五〇〇年実行委員会
 西暦二〇〇〇年十月吉日建立


オヤケアカハチの像は大浜小学校の北側(崎原道路沿い)にあります。

オヤケアカハチ没500年記念事業としては、この銅像建立のほか、公民館建設や村誌発刊などが行なわれました。像は、アカハチが日本人ばなれした大男だったと伝えられているため、2mの高さとされました。なお、大浜地区では毎年旧暦3月3日に慰霊祭が執り行なわれています。

オヤケアカハチの像裏面

ここには次のように記されています。
台石寄贈 友寄 英朝
像名揮毫 前津 榮一
施工業者 やえやま石材
       前津 榮功

2.オヤケアカハチ顕彰碑

オヤケアカハチ顕彰碑

この碑は、「津波大石」のある大浜公園内にあります。

碑文
 オヤケアカハチは一名ホンガワラアカハチとも稱した豪勇衆にすぐれ群雄割拠のその当時大浜村を根拠として酋長に仰がれていた 文明十八年(一四八六)中山尚真王は使者を八重山に特派してイリキヤアモリの祭祀を淫祠邪教として厳禁したところ島民は信仰への不当なる弾圧だとしていたく憤慨した ここにおいてアカハチは島民の先頭に立って反旗をひるがえし朝貢を両三年壟断して中山の反省を求めたが尚真王は大里王子を大将とし副将並びに神女君南風らと共に精鋭三千人を兵船四十六隻で反乱鎮圧に派遣した アカハチは大いに防戦奮闘したが衆募敵せず恨みをのんで底原の露と消えた 時は明応九年(一五〇〇)今から四五四年前のことである アカハチは封建制度に反抗して自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義観をもって戦ったのである 戦いは利あらず敗れたけれどもその精神と行動は永く後世に光芒を放つことであろう ここに碑をもってその偉徳を讃えるゆえんである
 一九五三年四月十六日
  オヤケアカハチ顕彰碑建立
     委員長 廣田禎夫
     撰  文 喜舎場永玽

(裏面)
オヤケアカハチ五〇〇年祭実行委員会
二〇〇〇年(平成十三年)八月吉日転記
揮毫者 委員長 前津 栄一
彫刻者 司やえやま石材
同裏面

3.古乙婆之碑

古乙婆之碑

古乙婆之碑は、オヤケアカハチ顕彰碑の右隣に建てられています。

 

古乙婆之碑

古乙婆(クイツバ)は、長田大王、真乙婆(マイツバ)の妹で、英雄時代の乱世に生きた不遇の女性です。オヤケアカハチに嫁ぎ、首里王府に忠誠を誓った兄・姉と戦う反逆者の妻となりました。
元は石垣中学校の南側にある真乙婆御嶽境内に墓がありましたが、それはツダミ墓(蝸牛墓)と呼ばれ、踏みつけてもよいとされていました。
古乙婆の墓は2000年に、大浜のオヤケアカハチ500年祭実行委員によって崎原公園内の「オヤケ赤蜂之碑」の隣に移転し、碑は夫婦寄り添うように建てられています。
碑遠景

4.史跡 フルスト原遺跡

史跡 フルスト原遺跡碑文

同 遠景
史跡 フルスト原遺跡
  昭和52年 国指定
 この遺跡は、崖上に連なる石積み障壁、四囲に石積みを繞らした郭状の区画、北東部に築かれた城門跡のほか墓および御嶽を内容とします。
 グスク時代の石垣島は、沖縄本島の勢力に対して独立性を保ちながら内部は複数の有力者が分割的に地域支配を行なっていたものと思われ、その有力者たちの拠点となったところが遺跡として残っていますが、15世紀の遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の居城といわれるフルスト原遺跡はその内でも規模・構造ともに秀れています。
 フルスト原遺跡は、沖縄本島等にある城(ぐすく)跡と多くの点で共通する半面、郭状遺構の配置等に独自の性格を見出し得るものであり、沖縄県の歴史を理解する上できわめて貴重な遺跡です。
 沖縄県教育委員会
 昭和53年3月31日

フルスト原遺跡は石垣空港の北側に位置し、南北900m、東西200mの敷地に石塁が築かれています。言い伝えでは、オヤケ アカハチの居館跡だと言われています。
史跡 フルスト原遺跡

石柱には「史跡 フルスト原遺跡 昭和53年3月3日 国指定」と記されています。

5.魚供養之碑

魚供養之碑
海の安全
魚供養之碑
昭和六十三年五月吉日

大浜集落の東海岸に建てられている碑です。
この碑は「大浜の海岸を守る会」が建立したもので、命を育む海と、生きる糧となる魚介類に感謝、安全を祈願しています。
「大浜の海岸を守る会」は1988年頃に結成され、海岸清掃や地域活動を積極的に行っているそうです。
左の写真で、碑の後方の芝を敷き詰めたような緑色のものは、干潮になると遠くリーフ辺りまで埋め尽くされる、海草のアーサです。

6.大浜公民館憲章

大浜公民館憲章の碑
大浜公民館憲章

私たちは 大浜村に誇りを持ち 先人の偉業
に学び 平和で豊かな活力ある村をつくるため
この顕彰を定めます
一 私たちは 自然と伝統文化を守り育て
 美しい村をつくります
一 私たちは 互いに敬愛し アカハチの遺徳を
 重んじる村をつくります
一 私たちは 結いの心を大切にし
 人情豊かであたたかい村をつくります
一 私たちは きまりを守り 共に生きる心を育み
 健康で明るい村をつくります
一 私たちは 知恵をだし 汗を流し 心を合わせて
 住んでよかった大浜村をつくります
大浜公民館 外観

この碑は大浜公民館入口の左側に建てられています。

7.大浜町役所跡の碑

大浜町役所跡の碑

同拡大

碑文上部には 大浜町章が記されています。
大浜町役所跡の碑
 この地は昭和三十九(一九六四)年六月一日に石垣
市と合併した大浜町の役所が置かれていた所である。
 大浜町は平得・真栄里・大浜・宮良・白保・盛山・
桃里・野底・伊原間・平久保の十箇字からなり、石垣
島の東・北部を行政区域とする自治体であった。
 歴史をたどると、首里王府時代、かつての大浜町域
は大浜間切、宮良間切と行政的に区画されていた。沖
縄県設置後の明治二十九年には八重山全域が八重山郡
となり、同四十一年、沖縄県及島嶼町村制によって一
郡一村となった。
 その後、八重山村は大正三年に石垣・大浜・竹富め
与那国の四箇村に分村し、大浜村が誕生した。大浜村
は、戦後の昭和二十二年に町制を施行して大浜町へと
昇格した。
 それから十七年、地味肥沃な土壌に恵まれ、農業と
畜産の盛んな土地柄として発展してきた大浜町であっ
たが、新たな進展を開くべく石垣市と合併することと
なり、自治体としての歴史を閉じた。
 大浜町と石垣市が合併して五十年、半世紀の時の流
れと共に大浜町の名が人々の記憶から次第に遠くなり
つつある今日、ここに町名を刻み、永く後世に伝える
ものである。
 平成二十六年(二〇一四)年六月一日
                   石垣市

碑 遠景

この碑は「JAおきなわ大浜」の北側にあります。

8.南十字星観測時刻の説明板

南十字星観察時刻の看板
南十字星観測時刻(南中時±2時間)  大浜から南十字星を見る会
                            (大浜公民館有志/在神オヤケアカハチ会有志)
 月・日  1月15日 2月1日 2月15日 3月1日 3月15日 4月1日 4月15日 5月1日 5月15日 6月1日 6月15日
 南中時刻  午前5時 午前4時 午前3時 午前2時 午前1時 午前0時 午後11時 午後10時 午後9時 午後8時 午後7時
[以下、水平線上の南十字星周辺の星座(ケンタウルス座、南十字星)を記載]
那覇(N26°10′)水平線
大浜(N24°20′)水平線

2008.11.15

9.入植五十周年記念碑

記念碑 表面
【表面】
入植五十周年記念碑

【裏面・上段】
入植者
昭和16年9月入植
団長 上原重秀
 他14名 氏名略

【裏面・下段】
記念事業期成会
1991年9月21日
期成会長 上原重次郎
 他 氏名略
同 裏面

ここは大浜・川原地区で、パインの産地として有名なところです。

10.真栄里ダムの碑(大浜)

真栄里ダムの碑

[表面]
【上段】
真栄里ダム
【下段】
沖縄開発庁
竣工 昭和57年9月


裏面]
施工者 清水建設(株)
    八重山興業(株)共同企業体
同 裏面

この碑は真栄里ダムの左岸にあります。

11.和の碑(三和)

「和」の碑

裏面(一部)
[表面]
和 創設60周年

[裏面]
建立委員
  (建立委員氏名 略)
 二〇一〇年十一月建立

創設者
 一九五〇年創設
  (創設者氏名 略)
碑 遠景

この碑は三和公民館の敷地内にあります。

12.欠

13.赤馬主の墓

赤馬主の墓の説明板

赤馬主の墓

同拡大
石垣市指定文化財/建造物
City Designated Cultural Property Structure
赤馬主(アカンマシュー)の墓
The Tomb of Akanmashu
平成24(2012)年12月20日
December 20,2012 designated

 赤馬主の墓は、字宮良ナーバカ原の標高40mの緩斜面
に位置する。17世期後半の築造とされ、墓は横穴式の墓室
部と石垣で囲まれた庭部からなる。墓室は、露頭した礫岩
の岩盤に方形状の横穴を掘り込んだ独特の形状で、墓口は
大小6個の整形された岩石で塞がれている。庭部は琉球石
灰岩の野面積みでほぼ方形状に囲われ、正面に入口が設け
られている。
 この墓には、赤馬主と称される人物が葬られているとい
う。赤馬主とは、文珪姓(ブンケイセイ)4世の大城師番(1671~1750)
で、八重山を代表する民謡「赤馬節(アカウマブシ)」の作者とされる。墓
の築造沿革に関する記録はないが、伝承では、師番が飼育
していた名馬・赤馬の評判が琉球王府に伝わり、赤馬は国
王に献上されたが、王府の調教師に従わなかったため、国
王の不興をかうところとなり、師番は王府へ召喚されるこ
とになった。死を覚悟した師番は出発前に自らの墓を築い
たとされ、それが当墓といわれる。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更
し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文
化財保護条例で禁じられています。
平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
               文化財課 83-7269

The Tomb of Akanmasyu is located in the place
of 40 meter above sea level, and burial chamber is
the cave which dug a conglomerate. The entrance
of the tomb is enclosed by 6 rocks of various sizes,
exhibiting unique design. It is said that tfis tomb
was built in the second half of the 17th Century,
and that Akanmashu, the composer who
composed the Yaeyama folk song "Akanmabushi",
is buried here. It is also said that he built this
grave himself when he was alive.

(中文省略)

平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
               文化財課 83-7269
赤馬主の墓 遠景

この碑は「なごみの里特別養護老人ホーム」の西側の傾斜地にあります。

14.畜産大賞之碑

畜産大賞之碑 【表面】

【表面】
畜産大賞之碑
(社)中央畜産会会長 山中貞則書

【裏面】
碑文
有史以来八重山群島は牧を
中心に旧態依然とした肉用
牛の経営がなされてきた
牧場の牧養力向上と畜産
振興上の阻害要因であった
オウシマダニ撲滅の功績が
中央畜産会から認められ
平成十一年度畜産会大賞を
受賞した これを記念に
この碑を建立する
 平成十三年十二月吉日
  八重山支庁
  支庁長 鳩間洋征


八重山には古くから家畜の法定伝染病を媒介する牧野ダニ(オウシマダニ)が生息していました。このため1977年から郡外への牛の移動が制限され、家畜振興の大きな障害となっていましたが、1971から国庫補助で薬剤散布などの対策を28年間続け、完全駆除に成功しました。
この長い間、八重山郡民を悩ませていたオウシマダニの撲滅功労で、1999年、沖縄県八重山家畜保健衛生所に中央畜産会から畜産大賞が贈られました。碑はこれを記念して2002年、市内宮良の八重山畜産保健衛生所に建立されたものです。
同  【裏面】

この碑は宮良の八重山畜産保健衛生所内にあります。

15.畜魂碑

畜魂碑

畜魂碑


この碑も前項の「畜産大賞之碑」と同じく八重山畜産保健衛生所の敷地内にあります。
八重山畜産保健衛生所
のゲート


この碑も前項とともに、宮良にあります。

16.東・西嘉和良嶽の由来

東・西嘉和良嶽の碑

同 遠景

由来
 昔、八重山に二人の兄弟がいた。兄を西嘉和
良(いんなーら)、弟を東嘉和良(あんなーら
)といった。兄弟共に性質温好で仲が良く、住
民とむつまじく暮らしていた。兄弟は初め水嵩
に住んでいたが、のち普太良間に移り、その後
さらに兄は宮良に、弟は白保に移り住んだ。
 その頃の住人は、まだ居所が定まらず、各地
に点在して相争い略奪し合っていたが、西嘉和
良兄弟だけはそれぞれ家を構え、安らかに楽し
く暮らしていた。まもなく近辺の住民がその徳
を慕い続々と集まってきたので遂に二つの村が
生れた。そこで兄弟は共に相はかり、猪や牛馬
が農作物を食い荒すのを防ぐ為垣を築くことに
した。村人も協力して白保東の川下から宮良西
の高山に至るまで、初めて石垣を築いた。高さ
五尺、長さ2里余の長大な猪垣である。それ以
後、猪害をこうむることはなく、五穀は稔り、
民は安らかに暮らすことができた。
  昭和六十三年十二月 宮良公民館


これより宮良が兄村で、白保が弟村であることが分かり、このことから弟の白保は兄の宮良よりも先に収穫の喜びを祝うことを遠慮しているようです。こうした言い伝えもあってか、白保と宮良は昔からあまり仲がよくないように言われています。
宮良公民館

この碑のすぐ隣に宮良公民館が建っています。

17.宮良橋頌徳碑

頌徳碑
同 裏面

この頌徳碑は市街地側から宮良橋を渡り宮良集落に向ってすぐの右手側(海側)にあります。
裏面拡大
裏面下側
[表面]
 尊由書
頌徳碑

[裏面・碑文]
夫宮良川ハ産業交通ノ要衝ニ當レルガ橋梁ノ架設ナキタメ交通事故ノ頻発シ剰サヘ幾多ノ尊キ生霊ヲ失フノ惨劇ヲ見ルニ至レリ
山陽姓第二世ノ偉人頭宮良親雲上長重翁ハ此ノ災厄ヲ痛感哀愍シ衆生済度ノ本願ヲ立チ尚質王世代明暦三丁酉年ニ上國シ
架橋請願ノ允許ヲ得翌萬治元戊戊年私財ヲ投ジ萬難ヲ排シ茲ニ長八十尋幅三尋高三尋ノ大土木工事ヲ竣功セリ之レ宮良
川ニ於ケル橋梁架設ノ創業ニシテ八重山架橋工事ノ權興タリ翁ノ偉業ニヨリ交通土木史上ニ劃期的記録ヲ作リ交通産
業上稗益スル所甚大ナリシカ屡々風禍ニ遭ヒ破損セシヲ以テ寛永元甲申年銘可路在番ノ時橋底ニ巨石ヲ敷設シテ基礎ヲ
一層鞏固ニシ碑文ヲ創建シ以テ由来ヲ闡ニセリ而シテ架橋後百十三年ノ長キ星霜ヲ閲シ来リシニ適明和八年ノ大津波
ニ崩潰セラレ赫々タル翁ノ大勲偉績ハ絢爛タル八重山ノ文化ト共ニ鳥有ニ歸スルニ至レリ然カジテ自然ノ威力ニ苛嘖サレシ島民ハ
疲弊困憊ニ陥リ災害復興ニ餘力ナク荏苒九十年ノ長キ済月ヲ徒費スルノ止ムナキニ至レリ翁ハ名門ニ生レ正保四丁亥年宮良頭ニ
叙セラレ一意専心島治ニ鞅掌シ餘暇土木工事ト闘ヒ大念佛具ヲ備ヘ念佛講ヲ始メテ設ケ諸儀式並葬祭ノ法式ヲ教ヘ百
姓ニ霊牌ヲ安置セシメ風俗ヲ御國元風ニ矯正シ星見石ヲ各村ニ創設シテ稲ノ播種期ヲ一定シ用水池ヲ要處ニ堀ラシメ以テ
農村振興ニ没頭スル等一生ヲ社會奉仕事業ニ捧ゲテ職ニ殉シタル高士也
仲尾次政隆翁ハ文化七庚午年那覇泉寄リ素封家ニ生ル大宗ハ大和血統ニシテ翁ハ其後胤也宗教界ノ偉人ト讃仰サレシ趣
味ノ人也翁ハ天保六年那覇筆者ヲ筆頭ニ冠船寄筆者御共具當大和横目那覇総横目ト仕官サレ羽地間切仲尾次地頭職ノ重
任ヲ負ヒ前途ヲ翹望サレツ丶不運ニモ法難ニ遭ヒ安政二年八重山ヘ遠島ノ刑ニ處セラレ従容トシテ師教ノ恩致ヲ感謝シツ丶翌三
年配所ノ真栄里村ニ寓居セリ曩キニ天変地異ノ惨禍ニ遇ヒシ島民ハ塗炭ノ苦ヲ未ダニ脱シ得ズ従ツテ宮良橋モ再建復興ニ餘裕
ナク哀レ昔日ノ憂ヲ繰返ス逆境ニ立チ至レリ斯ノ如ク悽愴タル災禍ニ憤慨セル翁ハ敢然ト救済ノ發願ヲ致シ身ヲ犠牲ニシ家貲
ヲ投シテ橋梁再建ニ遭遇セリ蔓延元庚申年竣成セル橋ハ襲来セル颱風ニ破壊サレタルニヨリ再度巨費ヲ投ジ勇ヲ皷シテ翌文久
元年修復工事ヲ断行シ泥ニ其ノ英姿ノ偉観ヲ再現スルニ至レリ翁ノ成願成就ニ多大ノ犠牲ヲ拂ヒ以テ貢献セル普請係筆者ノ
瀬名波仁屋宮良仁屋興那仁屋石垣仁屋田里仁屋同係役花域興人真士謝興人等ハ翁ノ偉業完成ニ興ツテ力アリシ大恩人タリ文久
二年萬民感謝報恩ノ結晶ハ赦免請願書ノ申請トナリ翁ノ大心願ハ酬ヒラレテ王朝ノ特赦ヲ蒙リ慶應元年謫所ノ八重山ヲ辞シ十
年振リ再ヒ墳墓ノ地ヲ踏ムノ法悦ヲ得タリ無位無官ノ翁ハ歸郷後再ヒ仕官サレ親雲上ノ重位ニ陞叙セラレ餘命ヲ國家ニ捧ケ明
シテ以テ其ノ高潔ナル人格豪遭ナル識見大慈大悲ノ鴻業ハ宮良原願ニ光輝ヲ放チ永劫ニ燦然タリ斯ノ如ク讃仰ト禮讃
ヲ浴ヒシ両翁ノ偉徳ハ後毘ノ亀鑑トナリ無言ノ教育者ト欽仰ルヲ措カザル所以也茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ高徳ヲ頌ス
現鉄筋混凝土ノ橋梁ハ花城直俊氏ノ大濱村長時代ニ創建セシ大事業ニシテ昭和七年九月一日起工同八年三月三十一日竣功月
ヲ閲スル七ケ月國庫ノ補助ヲ費スコト壹万五千五百五拾九圓村民ノ労力奉仕ヲ仰グコト三千二百二十一圓延人員六千四百四十二
久實貨ノ堅牢ト結構ノ壮麗ハ真ニ本村ノ一美観ヲ添ヘ永ク昭和昭代ノ記念タルベキ也
皇紀二千五百九十五年  昭和十年?次乙亥八月穀旦  嘉善姓喜舎場永珣謹記  戴長姓喜壽大濱景貞敬書

[裏面・碑文]

昭和拾年八月建立
後援者 石垣町有志
山陽姓一門
仲尾次一門
大濱村有志
世話人 宮良長詳
喜捨場永珣
藤井深遠
渡久山長善
設計監督者 井上清太郎

 宮良川の河口付近には、17世紀中頃から交通の要として架橋が行われてきました。当初は石積みの橋で、架設に重要な役割を果たした人物として、元宮良頭職・宮良長重の名が伝えられています。その後、石積みの橋は木橋に架け替えられますが、以降、何度も災害で破壊され、その度に補修、架橋建設が繰り返されてきました。しかし、明和の大津波(1771年)で破壊された後は橋が架けられる事は無く、人々は干潮時を見計らって浅瀬を伝って渡るなど不便を余儀なくされたそうです。
 明治を迎える7年ほど前に、禁制の真宗の信徒であるとして今帰仁から無期流罪を言い渡され、石垣島に流刑され真栄里に滞在していた「仲尾次政隆」が私財を投げ打って木橋を架けました。しかし、その翌年、台風によって破壊された為、再度、私財を投じ架橋を復興させました。島人と蔵元役人は仲尾次氏の赦免請願書を王府に提出、その功績により1864年に赦免されたということです。人びとは橋の完成を喜び「宮良川節」という民謡を作り仲尾次氏を称えました。
 宮良橋が鉄筋コンクリート製になったのは昭和8年です。同工事の竣工祝賀式典は同10年に行なわれ、その際には、架橋の沿革などを刻んだ「頌徳碑」が橋畔に建立されました。
 現在の橋は、1997(平成9)年に架けられたものです。

18.明和大津波遭難者慰霊之塔

明和大津波
遭難者慰霊之塔の碑文


碑文
 八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち たちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
 津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半潰あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した
 こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作 飢饉 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし その影響はまことに計り難いものがあった この天災から二一二年 狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した

 一九八三年(昭和五八)四月二四日
 明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会


※ 「古記録大波之時各村之形行書」は、「おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ」と読みます。

明和大津波
遭難者慰霊之塔


同拡大写真

明和大津波
災害関係諸記録抜粋の碑文


明和大津波災害関係諸記録抜粋
地震の規模と位置(東京天文台編理科年表による) M(マグニチュード)7.4 震源地東経一二四.三度 北緯二四度 「八重山地震津波」と記録 (石垣島白保崎南南東四〇キロメートルと測定される)
津波の状況(大波之時各村之形行書による
石垣島で「潮揚高貮拾八丈(八四.八メートル) 或貮拾丈(六〇.六メートル) 或貮拾五(七五.七~七八.七メートル)貮 参文(六~九メートル) 沖ノ石陸へ寄揚 陸ノ石並大木根乍被引流」とある
災害の状況(大波之時各村之形行書 御手形写御間合控等による
した村 石垣島の真栄里 大浜 宮良 白保 仲与銘 伊原間 安良 屋良部の計八村
半壊した村 石垣島の大川 石垣
 新川 登野城 平得 離島の黒島 新城の計七村
遭難死亡者 総計九三一三人(群島人口の三二.二二%に当る) 内 石垣島八八一五人(九四.七%) 在番 頭職等の公職者八八人及び蔵元の公用で離島からきて遭難死亡した三七六人を含む) 黒島二九三人(三.一%) 新城島二〇五人(二.二%)
住家の全潰 総計二一七六戸 浸水一〇〇三戸 田畑の流出 総計一六四二町四反五畝一二歩
作物被害 田畑総計一七九五町二反六畝一〇歩
その他の流潰流出 蔵元庁舎 村番所一三棟
会所四棟 御嶽一四棟 橋梁六座 桃林寺及び同寺の仁王像二体 権現宮 貢納米等


右: 明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文
左: 明和大津波災害関係諸記録抜粋
明和大津波遭難者慰霊之塔は、宮良地区のタフナー原に建てられています。

19.宮良川のヒルギ林 天然記念物指定碑

天然記念物指定碑


宮良川のヒルギ林の
説明看板

(説明看板より)
天然記念物 宮良川のヒルギ林
昭和47年5月15日指定
「宮良川のヒルギ林」は宮良川の河口から上流の両岸1,500mにわたって発達し、その面積225haで、メヒルギ、オヒルギそしてヤエヤマヒルギなどの種類を中心としたヒルギの大群落であります。
 また、指定地内には前記の種以外にハマナツメ、カカツガユ、ヒメガマ、オキナワシャリンバイ、サルカケミカン、アダンなどもみられます。
 ヒルギ林は熱帯から台湾、沖縄を経て鹿児島県まで分布し、海岸や河口などの泥地に成林する特異的な群落です。
 本地域は石垣島の代表的なヒルギ林として指定してあります。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                              文部省
                              沖縄県
設置場所の光景

これらは宮良橋の右岸・下流側の欄干下にあります。

20.赤馬の由来

赤馬の由来の碑


赤馬の像


赤馬の由来
文珪氏四世の大城師番(一六七一~一七五〇)は仲筋村番所に在勤中 名蔵湾で不思議な子馬に出合った 師番は子馬に愛情を注ぎ 手塩にかけて育てたところ 群鶏の一鶴という言葉のように大きく気品にみちた名馬に成長した 赤毛の駿馬は赤馬の愛称で呼ばれ広く内外に知られるようになった 折りしも琉球王府は国王の乗馬を探し求めていて 早速 馬見利役が遣わされ まさしく意に叶う馬として献上させられることになった 師番は御料馬に出世した赤馬とともに自分も育ての親として名誉この上もないことだと喜び 晴れの門出を祝って 村人たちと送別の宴を催した 席上愛馬へのはなむけとして歌ったのが次の句といわれている
 赤馬ぬ いらすざ 足四ちゃぬどうきにゃく
 生りる甲斐 赤馬 産でぃる甲斐足四ちゃ
 沖縄主に 望まれ 主ぬ前に見のふされ
この地は村人の赤馬を見送った所で馬見岩(ンマミイシ)の名が残っている


この赤馬は、八重山を代表する民謡の一つ、「赤馬節」に歌われているものです。伝承によれば、宮良村に住んでいた役人・大城師番が名蔵シィーラ原の海沿いで、海から上がってきた不思議な子馬を見つけ、大切に育てました。馬は赤馬と呼ばれる名馬に成長しました。国王に献上され、船に乗せられた赤馬を見送ったのがこの碑のある場所です。赤馬節の歌詞はその時に師番が即興的に歌ったものとされます。赤馬は他人にはなつかず、後に師番とともに再び石垣島に戻りました。
赤馬公園 遠景

「赤馬公園」は、市街地から国道390号線を北上し宮良橋を渡り、宮良集落手前の坂道の途中の海側にあります。

21.詩碑 仰高徳の碑

詩碑 仰高徳の碑


【左側】


【右側】


【裏面・上段】
(上段が赤馬節)


【裏面・全景】

【表面】
詩碑
仰高徳

【左側】 【右側】
碑文調整  喜舎場永珣
        喜友名英文 

謹書者   石堂博一
        池村英可

●二者   豊川善祥
        池城永利

一九五五年乙末九月六日竣工

建立者  新城●保

後援者  大濱●可
       宇根底亀千代
       外 文珪氏一同
       
宮●●落会
       東●廣光●
       宮良小学校
       半嶺當吉
       外 宮良部落民一同

(注)の文字は判読できず。   

【裏面・上段】
赤馬節
    (其の一)
赤馬ぬ いらすざ
 足四ちゃぬどうきにゃく
生りるかい 赤馬
 産でぃるかい 足四ちゃ
沖縄主に 望まれ
 主ぬ前に見のふされ
句の意味]
赤馬の、ああ 羨ましいことよ
 足四ちゃ(赤馬)の冥加なことよ
生まれ甲斐ある 赤馬よ
  育てる甲斐のある 赤馬よ
琉球国王に望まれ
  琉球藩主のお召馬になった
    (其の二)
いらさにしゃ 今日ぬ日
   (ヒア-ルガヒ)
どきさにしゃくかに日
ばんすでる今日だら
   (ヒア-ルガヒ)
羽生いるだきだら

ああ よろこばしい 今日の日よ

とてもうれしい 黄金の日よ
私は生まれかわった位  嬉しい今日の日よ
羽が生えて飛び立つ位 うれしいよ

【裏面・下段】

 馬見岡名稱ト赤馬節ノ由来
赤馬節発生ノ場所「馬見岡」ハ今ヨリ二六四年前文珪氏第四世大城
師番ガ仲筋村ニ若文子職ヲ勤務当時康熙四十一年壬午(元禄一五年
一七〇二)俗稱赤マラー小堀海辺ニ得テ愛育中ノ赤馬ノ名聲廣マル
ヤ琉球中山尚貞王ノ上聞ニ達スルトコロトナリ康熈五十三年白保目
差役在勤中コレヲ所望サレ献上シ見送レル處ニシテ赤馬節ノ起源ハ
ソノ愛馬ヲ黙送スルニ忍ビズ村人共ニ宮良村入口高キ岩壁ノ頂上ニ
登リ去リ行ク馬ヲ見送リシ師番ノ祖訓仁愛ノ道ヲ踏ミタガワズ義ニ
篤ク慈愛深キ温厚ナル性質ニ人畜ヲ分タヌ美シキ精神ハ別離ノ情モ
タシ難ク曳カレ行ク馬ヲ我ガ子ヲ見送ルガ如ク其ノ一ノ詩ヲ謡ヒ叫
ビ讃メ稱エタルコトガ赤馬節ノ発語ニシテ、後ニ至リ献上セル赤馬
ハ荒狂エタルコトノ王城ヨリノ呼寄セニ驚キ如何テ斯クナリタラン
行キテ我ガ乗リ得ズンバ斬罪ハ明カナリトテ中山ニ登城王前ニ至リ
愛馬ニ再開縛縄ヲ解キ手綱モ取ラズ庭ニ畏マレバ赤馬ハ四ツ足折リ
テ坐シ乗馬ヲ待チ師番ガ乗ルヤ徐ニ立上リ庭ヤ城壁ノ上ヲ駆ケ廻リ
ケレバ王モ賞賛 噂ノ如キ師番ノ非凡ナル神技ニ驚愕シ馬ヲ臾エテ
「慈愛ニ富シ徳高キ者ナレバコノ斯カル妙技モ成シ得シ天人ト呼ブ
モ宣ナリ」ト感嘆サレ大主ノ名ヲ賜ワリ「高徳」の賞句ヲモ贈ラレ
感激ノ餘リ其ノニノ詩ヲ御前ヲモ忘レテ歌ヒ踊リタルヲ以テ赤馬節
ハ続詠サレタリト偁ウ。
                              (氏家伝説ヨリ) 


※以下、読みやすいように「ひらがな」に置き換え記載します。

馬見岡名称と赤馬節の由来

赤馬節発生の場所「馬見岡」は今より264年前文珪氏第4世大城師番が仲筋村に若文子職を勤務当時康熙41年壬午(元禄15年:1702)俗称赤マラー小堀海辺に得て愛育中の赤馬の名声広まるや琉球中山尚貞王の上聞に達するところなり康熈53年白保目差役在勤中これを所望され献上し見送れる処にして赤馬節の起源はその愛馬を黙送するに忍びず村人共に宮良村入口高き岩壁の頂上に登り去り行く馬を見送りし師番の祖訓仁愛の道を踏みたがわず義に篤く慈愛深き温厚なる性質に人畜を分たぬ美しき精神は別離の情もたし難く曳かれ行く馬を我が子を見送るが如く其の一の詩を謡び叫び讃め称えたることが赤馬節の発語にして後の至り献上せる赤馬は荒狂えたることの王城よりの呼寄せに驚き如何て斯くなりたらん行きて我が乗り得ずんば斬罪は明かなりとて中山に登城王前に至り愛馬に再開縛縄を解き手綱も取らず庭に畏まれば赤馬は四ツ足折りて坐し乗馬を待ち師番が乗るや徐に立上り庭や城壁の上を駆け廻りければ王も賞賛 噂の如き師番の非凡なる神技に驚愕し馬を臾えて「慈愛に富し徳高き者なればこの斯かる妙技も成し得し天人と呼ぶも宣なり」と感嘆され大主の名を賜わり「高徳」の賞句をも贈られ感激の余り其のニの詩を御前をも忘れて歌ひ踊りたるを以て赤馬節は続詠されたりと言う。
                                       (氏家伝説より) 









































 大城師番は公職を退いた後も宮良村に住み、「赤馬大王」または「高徳の人」として仰がれ、寛延三年(1750年)1月27日に80歳の高齢で亡くなったそうです。
 彼が作った「赤馬ぬいらすざ」に始まる一連の詩句と「いらさにしゃ今日ぬ日」に始まる一連の詩句は、その後これを合わせて「赤馬節」と呼ばれ、広く人々に愛唱されるようになりました。
 赤馬節は八重山を代表する民謡の一つとして、現在でも祝い事などの目出度い時に歌われています。赤馬節は別名「いらさにしゃー」とも言われていますが、「いらさにしゃー」とは方言で「あー、うれしい」という意味です。心から嬉しさが込み上げてきて、飛び上がりたいくらいの気持ちを表わす島言葉です。

22.アタドゥーナー

アダドゥーナー説明板
アダドゥーナー
                    石垣市史跡
                    昭和55年10月31日指定
 この井戸は人と水とのかかわりを知るうえで大切な遺跡である。
宮良むらの由緒あるウリカー(降り井戸)として、昔から人びとの信
仰を集めている。ウリカーとは、直接水面まで降りて水を汲む井戸
のことで、傾斜する降り道には40段の石段が設けられている。
 「八重山旧記」に「安多手井」と記されているこのアダドゥーナー
は、宮良むらの歴史とかかわりの深い「下又屋敷遺跡」(しいむぬか
くいせき)の内にあって、下の村創設のころ、神に願立てして水脈
を掘りあてたという伝承がある。以来、神の水として崇信され、
共同井戸としても広く利用されてきた。
 近年は各自の井戸や貯水タンクが普及したことや、上水道が敷設
されたことにより、共同井戸としての利用はなくなったが、アダド
ゥー願いは今でも続けられている。
 また、周辺には外本御嶽があり、磁器や陶器、鉄滓などの遺物も
出土している。井戸の深さは12m、斜道21mである。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁
止されています。
                    昭和62年10月
                    石垣市教育委員会

アダドゥーナー

アダドゥーナーは、石垣市街地より宮良集落に入ってすぐの所を右折し下った所にあります。

23.宮良公民館憲章の碑

宮良公民館憲章の碑
宮良公民館憲章
 私たちは 礼節と協調の精神を尊ぶ郷土宮良村に誇りを持ち 
村の伝統を正しくうけつぎ みんなで 明るく 清潔で
活力ある村をつくるためにこの憲章を定めます

一.私たちは 目上の人を敬い 礼儀をおもんずる村 をつくります
一.私たちは 教育を大事にし 伸びゆく村 をつくります
一.私たちは きまりを守り 明るく住みよい村 をつくります
一.私たちは 感謝のこころをもち 働く村 をつくります
一.私たちは みんなで助けあい ともに栄えゆく村 をつくります


1984(昭和59)年、公民館紋章とともにこの憲章が制定されました。この時期は復帰後の各種基盤整備、観光産業の発展などで島内経済は急速に成長しました。豊かになる一方で心の荒廃が社会問題となり、これを危惧した公民館が委員会を設置して村民像、宮良村像などの基本像を決め、1985年に憲章碑を建立しました。
この碑は、宮良公民館の東側に建っています。

24.底原ダムの碑

「底原ダム」の碑

同[裏面]






「世果報の水」の碑

同[裏面]


同遠景
[表面]
【上段】

底原ダム
参議院議員 岡部三郎 書
【下段】
定礎
昭和59年11月
沖縄総合事務局長 小谷宏三

[裏面]
底原ダム概要
 本ダムは、かんがい用水を補給する目的で石垣島最大の河川である
宮良川支流の底原川上流に建設されたゾーン型フィルダムである。
型式 ゾーン型フィルダム    流域面積 直接5.04Km2(間接4.82Km2)
堤   高     29.5m     満水面積 1.38Km2    
堤 頂 長    1331m      取水型式 斜樋
堤 体 積   3228千m2     利用目的 農業用水
総貯水量   13000千m2     施工期間 S57~H元
有効貯水量 12850千m2     総事業費 180億円
設計洪水量  300m2/sec    事業名 国営宮良川農業水利事業
常時満水位  EL39.5m     事業主体 沖縄総合事務局


[表面]
【上段】

世果報の水
国務大臣沖縄開発庁長官 伊江朝雄 書
【下段】
国営宮良川農業水利事業完工碑

[裏面]
碑文
 於茂登連山に源を発するダム湖の恵みの水が、大地を潤し稔り豊かな五穀豊穣の地として、
この地が永遠に栄えるよう「世果報の水」と刻し、二一世紀農業の架け橋としたい。

事業概要
 本事業は石垣島中央部以南に広がる3460haの耕地を対象とするものであり、その大部分はなだらかな丘陵地にあり、かんがい施設は皆無に近い状況であって用水は天水に依存している。このため、昭和46年に連続干天日数191日を記録したのをはじめ毎年のごとく干ばつの被害を受けている状況にあり、恒久的な用水対策を必要としている。
 本事業はこれらの耕地にかんがい用水を供給するため水源を宮良川に求め、この上流に真栄里ダム、底原ダムを建設し、これから放流された水を上流及び中流部にある二又堰、平喜名堰により取水を行い、石垣ダム及び各地区の配水池へ圧送する。ここから自然圧によって各圃場へパイプラインにより送水するものである。
 受益面積 3460ha(水田300ha、畑3160ha)
 総事業費 390億円
 工  期 昭和50年~平成4年
 主要工事 ダム3ケ所、堰 2ケ所、用水路延長58Km
        揚水機場 5ケ所、配水池 5ケ所
 平成4年11月建立 沖縄県総合事務局石垣農業水利事務所

堰堤(北側)
【上段】
沖縄総合事務局
石垣農業水利事業所
竣工 平成3年3月
【下段】
前田建設工業株式会社
清水建設株式会社
西里建設株式会社
堰堤(南側)

底原ダム完工記念
石垣市
平成4年11月吉日
堰堤(北側)

堰堤(南側)


底原ダムは、国営宮良川農業水利事業の最大施設です。本土復帰前の大干ばつで郡内の農家は収入を絶たれ、離農や農地売却の大きな要因となりました。石垣市や竹富町は乱開発を防ぐため農振法の網をかぶせ、農地の買い戻し交渉を進めつつ国に雨乞い農業からの脱却、機械化農業の実現を訴えました。また石垣市の100年の大計事業で、さらに国営名蔵川水利事業も展開されました。

25.鳥獣魂供養の碑

鳥獣魂供養の碑
[表面]
鳥獣魂供養の碑
[裏面]
猟友会八重山支部
平成十三年二月建立

この碑は底原ダムの北側(周回道路沿い)、大里地区と御茂登トンネルを結ぶ市道沿いにあります。猟友会八重山支部が2001(平成13)年に建立したものです。
沖縄は開発が進み、狩猟場所は本島北部、石垣島、西表島となっており、猟友会員も八重山が多くなっています。毎年11月15日から翌年2月15日までが狩猟期間と定められていますが、年間を通じてイノシシのほか鳥類による農作物被害も少なくありません。このため市や県の要請で有害鳥獣駆除も行われています。この碑はこれら鳥獣の魂を供養するものです。
同[裏面]

26.鎮(琉第六四六一部隊慰霊碑)

鎮の碑



[慰霊碑表面]

[同裏面]
[鎮の碑]


[慰霊碑表面]
海碧き南国のこゝ八重山の地に
万斛の涙をのんで散華した
五十七柱の戦友の御霊よ
とこしえに安かれと祈りをこめて
  昭和五十九年四月吉日
   琉第六四六一部隊
    沖縄県・香川県戦友会建之
 戦没者名
  沖縄県  香川県
  (以下 略)

※ 万斛の涙:「ばんこくのなみだ」=とめどなく流れる涙のこと。

[同裏面]
 慰霊碑建立の経緯
 今から想えば、悪夢としか言いようのない
太平洋戦争末期の熾烈な沖縄攻防戦のさなか
 ひたすら祖国日本の平和を願いつつ、散華
された五十七柱の戦友たちが静かに眠るここ
石垣島に 香川県から戦友代表が訪れたのは
 昭和五十四年八月、戦争が終ってから実に
三十四年の歳月が流れていました。
 これを契機に、現地の戦友や住民の方々と
の心温まる交流が始まり、戦後始めて訪れた
際 粗末な慰霊碑を建立いたしましたが、激
しい風雨に傷みましたので、このたび念願の
碑を再建する運びになりました。
 この碑を建立するにあたり、終始ご援助を
賜りました多数の戦友 石垣市関係諸機関な
らびに現地住民の方々のご協力に対し、満腔
の感謝を捧げます。
 この慰霊碑が、沖縄・香川両県を結ぶ心の
架橋となり、子々孫々にいたるまで末永く、
護持されることを固く信じます。
     昭和五十九年四月吉日
     沖縄県戦友会代表 瀬戸 弘
     香川県戦友会代表 大高保一
碑遠景


碑全景


この慰霊碑は、海上保安部通信所と石垣電波方位測定所との間の道路の、ほぼ中間地点の北側の丘にあります。

27.エジンバラ公訪問記念碑

エジンバラ公訪問記念碑

碑の後ろの木がエジンバラ公が植樹をされたものです。
WWF総裁
エジンバラ公フィリップ殿下
白保訪問記念
1992年3月3日


石垣新空港建設の建設地として、一時、白保海岸を埋立する計画がありました。この案が発表された後、海外の研究者等から白保のサンゴ礁の希少性が世界に紹介され、白保のサンゴ礁の保護運動が本格化しました。
こうした中、平成4 年(1992)3月3日にWWF (世界自然保護基金)の総裁として英国エジンバラ公フィリップ殿下が白保海域のサンゴなどを視察され、白保船着き場に植樹をされました。(総裁自らが新空港推進、反対で揺れる現地を視察するというのは、異例のことでした。)
その後平成12 年(2000)4月に、白保集落内にWWF サンゴ礁保護研究センター(通称:しらほサンゴ村)が設置され、その開設10周年記念として記念碑が建てられました。


この碑は白保船着き場入口にあります。碑の後ろは、ハーリー船の置き場となっています。

28.真謝井戸

真謝井戸の碑


真謝井戸の碑 遠景

真謝井戸
真謝井戸の碑
寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のために壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
 真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に再掘して永く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。
 1966年4月23日 老人会建立   2006年6月 吉日改築
 撰文 喜舎場永珣 ・牧野清   寄贈 ヤマト工業(資)


※ 真謝井戸(マジャンガー)は、白保村に残存する唯一の古井戸(降り井戸)で、民謡「シンダスリ節」にも詠まれ、また村人の信仰の対象にもなっています。1950年代に、白保の各戸に水道が導入されるまでは飲料水の源として重要な役割を果たしていました。
真謝井戸


真謝井戸 遠景

真謝井戸はウリカー(降り井戸)です。

29.柳田國男の歌碑

柳田國男の歌碑(表)

(裏)

(碑文:裏)

(表側)
あらはまの

まさごに まじる
たから貝

むなしき
名さへ
なほ うもれつつ

石垣島にて
東京朝日新聞社記者 柳田國男

(裏側)
柳田國男は一八七五年(明治八)七月三十一日 兵庫県に生まれた 日本民俗学の創始者で 近代日本の代表的な思想家としても 各分野に大きな影響を与え続けている 柳田國男は大正十年 東京朝日新聞記者として来沖 この旅行は沖縄研究の扉を内外に開き 日本民俗学の形成に重要な意義をもった 「海南小記」はその記録である 石垣島に来島したのは同年一月二十四日で七日間の滞在だったが その後晩年に至るまで八重山の文化を紹介し 民俗・芸能の宝庫として全国に知らしめた また八重山出身の研究者も育てた 碑文の歌は石垣島を去った直後の二月一日地元の新聞に掲載された 大学生の時に愛知県伊良湖崎に流れ着いた椰子の実を見た体験と 沖縄で見た宝貝は その後大きなモチーフとなって 晩年の壮大な著作「海上の道」となった 椰子の実と宝貝は 日本民族の生活に思いをはせた柳田國男の民俗学を知るための重要なキーワードである
一九六二年(昭和三七)八月八日 八十八歳で死去した
 二〇〇一年(平成十三)十二月十六日
  柳田國男歌碑建立期成会
     揮毫 豊平峰雲
     刻字 崎山寛樹


日本民俗学の創始者・近代日本の代表的な思想家として知られる柳田國男を称えた碑です。彼は八重山文学の父・喜捨場永珣などとの親交も深く、多くの研究者に影響を与えました。
この碑は、彼が石垣島を訪れてから80年になる節目を記念して、2001年12月16日に、除幕式と記念式典が開かれました。柳田家親族の柳田富美子氏や民俗学者の谷川健一氏のほか、地域住民らが参加して歌碑建立を祝いました。

歌碑前の白保海岸

歌碑は、白保集落の北側の海岸線沿い(護岸先端から約100m北に行き、浜より少し上った所)にあります。海岸林内にあるためちょっと分かり難いかと思います。

30.舟溝開砕記念の塔

舟溝開砕記念の塔

舟溝開砕記念の塔
    →
東北東800m地点

舟溝(ワタンジを越えて船が航行しやすいように掘られた溝)が切り開かれ、その場所がここの東北東800mの位置にあることが記されています。
因みにワタンジとは、浜から干潮時に海面上に現れるピー(リーフエッジ)まで続く浅瀬のことです。

この塔は1950年代に建てられましたが、2010年に修復されました。裏面には建設に協力した人々の名前が記されています。

白保船着場

この塔は白保船着場の前にあります。

31.安里屋ユンタ歌碑

安里屋ユンタ歌碑
碑文 表面[上段]

同表面[下段]

同 裏面

【表面・上段】
安里屋ユンタ歌碑


【表面・下段】
  安里屋ユンタ
  作詞:星迷鳥(星克)
  作曲:宮良長包
一. サー 君は野中の いばらの花か
   サーヨイヨイ
   暮れて帰えれば ヤレホンニ 引止める
    またハーリヌ
   チンダラ カヌシャマヨー
二. サー うれし恥かし 浮名を立てて
    サーヨイヨイ
   主は白百合 ヤレホンニ ままならぬ
    またハーリヌ
   チンダラ カヌシャマヨー
三. サー 田草取るなら 十六夜月夜
    サーヨイヨイ
   二人で気がねも ヤレホンニ 水入らず
    またハーリヌ
   チンダラ カヌシャマヨー
四. サー 染めて上げましょ 紺地の小袖
    サーヨイヨイ
   掛けておくれよ 情の襷
    またハーリヌ
   チンダラ カヌシャマヨー

【裏面】
碑文
 白保村の生んだ偉大な政治家・星克先生は一九〇五年(明治三十八)四月九日、宮良間切白保村で生まれた。
 大浜尋常高等小学校を卒業し、白良尋常高等小学校代用教員、白良尋常高等小学校訓導から大浜村収入役、同助役、大浜村消防組初代組頭、白保郵便局長、大浜町長、八重山民政議会議員、八重山群島議会議員、琉球政府企画統計局長、琉球政府立法院議員(六期)、同議長、みなす沖縄県議会議員、同議長、全琉球商事株式会社専務取締役を歴任し、一九七七年(昭和五十二)五月二十五日死去した。永年の功績により勲四等旭日小綬章の叙勲を受ける。
 星克先生は詩作にもその天賦の才を発揮して、八重山の歌心を深く刻んだ「安里屋ユンタ」等々を創作し社会音楽活動にも大きく貢献された。
 この安里屋ユンタには、純粋な農村の青年男女が田園生活における楽しい場面を歌ってある。
 安里屋ユンタの原曲そのものは八重山竹富島の民謡であるが、宮良長包先生が前奏を作曲して一九三四年(昭和九)九月、日本コロムビアが「沖縄民謡六十曲」をレコード化することになり、その一つに加えられて全国津々浦々に知れ渡った。
 ここに星克先生の偉業を讃えるため、有志の浄財をもってこの碑を建立する。
  建立 二〇一三年(平成二五)二月二十四日
  安里屋ユンタ歌碑建立期成会
碑 表面外観

同 裏面外観


この碑は白保公民館の北側に建てられています。

32.旧盛山村跡の御嶽

旧盛山村跡の説明板
石垣市指定文化財/史跡
City Designated Cultural Prorerty / Historical Site
旧盛山村跡の御嶽(きゅうもりやまむらあとのおん)
On of the Former Moriyama Village
平成21(2009)年3月30日指定
March 30, 2009 designated

 盛山村は1771年に八重山諸島を襲った明和大津波の後、竹富島から石垣島南西端の富崎に移住して出来た富崎村の人々が、1785年に桃里村の属地であった盛山に再移住して創建された村である。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、盛山村の人々が信仰した御嶽は、出身地である竹富島の御嶽の神を勧請したとされる。
 盛山村創建時の人口記録はないが、風土病やマラリヤや伝染病などにより、明治6(1873)年には戸数9戸、人口17人にまで減少している。明治10(1877)年には、白保・宮良・大浜の3村から23人を補充し、村の維持を図ったが人口減少は止まず、大正6(1917)年には集落が廃された。
 この御嶽は、かつてこの地にあった盛山村の歴史を物語る貴重な史跡である。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。
         平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
                         文化財課83-7269

The residents of the Fusaki village, who had originally migrated from Taketomi Island to the southwest Fusaki of Ishigaki, moved to Moriyama and created the Moriyama village in 1785 after the Giant Tsunami of Meiwa struck in 1771. It is said that the enshrined god of Moriyama village's On (sacred praying site) is a God from Taketomi Island. The population of the Moriyama village gradually decreased due to a local malaria epidemic, and the village was abandoned in 1917.
旧盛山村跡



旧盛山村跡は、市街地から南ぬ島石垣空港に向かい、空港ターミナル入口のすぐ手前の左手にあります。

33.「ゆがふみつ 大里農道」の碑

【上段】
ゆがふみつ
大里農道
【下段】
事業名 :県営一般農道整備事業
施工年度:昭和55年~平成9年度
施工延長:農道L-7.943m
幅員  :全幅 7.0m (有効6.0m) 
竣工  :1998年2月 竣工
※この碑は、白保集落の先のカラ岳を過ぎた左手側(大里集落の手前)に建てられています。

34.開拓之碑(大里)

開拓之碑 表面

同裏面 碑文
【表面・上段】
開拓之碑

【裏面】
開拓30周年記念事業として
昭和58年11月吉日建立する
 政府計画大里移民団
 1953年3月入植
団長 平良蔵康
(大宜味村謝名城)
 以下 入植者氏名省略
(大宜味村津波)
 以下 入植者氏名省略
(大宜味村喜如嘉)
 以下 入植者氏名省略
(羽地村源河)
 以下 入植者氏名省略
▲自由移民(1950年入植)
(城辺町七又) 
 以下 入植者氏名省略
(大宜味村田嘉里)
 以下 入植者氏名省略
大里共同売店

この碑は大里共同売店の敷地内に建てられています。

35.桃里恩田遺跡

説明看板

史跡指定碑
【説明看板】
県指定記念物(史跡) 桃里恩田遺跡
                 平成2年2月2日指定
 桃里恩田遺跡は、現在の大里村から星野村に通ずる道路の海側にあって、通称ぺーフ山と呼称される小高い丘陵上に位置し、すべて古第3紀前記石灰岩(宮良層群)によって形成されている。この岩石はコンクリートの原料に適していることより砕石が行われ、これを免れた所にかろうじて遺跡が残っている。
 1981年、石垣市教育委員会によって範囲確認のための試掘調査が実施されている。
 この結果、中国製の白磁、青磁と黒褐釉陶器、須恵器、八重山式土器等のほか、石器、鉄器、古銭等が出土した。これらのうち特筆されるのは、後になって著名となった「ピロースクタイプ」と称される中国製白磁で、これはすでに当遺跡で出土していたことと、須恵器のなかでは裏面に青海波文様を有するがあり、これは県内における新資料とされ話題となった。
 八重山地域におけるいわゆる第三期の遺跡で14~15世紀の年代が与えられている。
 平成4年3月
    沖縄県教育委員会
    石垣市教育委員会
 当地区において、無断で文化財の現状を変更したり、保存に影響を及ぼす行為は、法律および条例で禁じられています。

【コンクリート柱】
県指定史跡 桃里恩田遺跡

※本遺跡指定碑等は、国道390号線沿い、新空港側からは大里集落を過ぎ星野集落の手前(通路川近く)で、採石場へ向かう小道に右折してすぐ左側にあります。(ちょっと分かりづらいです。)
遺跡は通称ペーフ山と呼ばれる小高い丘の頂上付近に形成されています。採石で大半が掘り返されたため、石垣市教育委員会が残る部分の発掘調査を行って遺跡を確認しました。1990年に沖縄県文化財(史跡)に指定されています。
桃里恩田遺跡
説明看板 遠景




説明看板が新しくされていました。

 

36.星野入植記念碑

入植記念碑 表面


右 側面
[表面]
入植記念碑

[右側面]
題字 稲福定蔵
寄贈 崎山寛治


[左側面]
一九五〇年三月一六日 入植
一九七五年三月一六日 建立


※ 碑の下部には、「移住団第一次先遣隊」の方々の名前が記されていますが、風化が進みかなり読みづらい状況となっています。


この碑は星野共同売店のそばに建てられています。土台の部分には入植者の氏名等が刻まれています。
星野集落は、昭和25年3月に集団移住として、沖縄本島の大宜味村、玉城村、宮古島の城辺町の方々の入植によって形成された集落です。
集落名の由来は当時の大浜町長・星克氏の「星」と、八重山民政府知事・吉野高善氏の「野」を取って、「星野」と名づけられたそうです。
左 側面


人魚の像

 この人魚の像は、星野共同売店脇のトイレの上に乗っています。野原﨑の人魚伝説にちなんだものだそうです。

37.マンゲー山説明看板

マンゲー山説明看板


マンゲー山遠景
石垣市指定天然記念物
マンゲー山 (大マンゲー・小マンゲー)

 マンゲー山は石垣市桃里伊野田165の1内にあって、大マンゲーの
面積は79600㎡、標高80m、小マンゲーは面積39400㎡、標高60mの
全山古第3紀前期石灰岩(宮良層群)からできている岩山である。
 この岩山は今から5500万年~6500万年前に出来た地層で、宮良村
西方から後方にかれた一帯と大里村北方地帯、さらに屋良部半島南
側山地等にも分布している。
 マンゲー山の植生はほとんどが亜熱帯性植物で占められている。
標高がそれほど高くないので、山麓から頂上に至る間の植生上の大
きな変化はみられない。マンゲー山全体の占める面積の約60%はク
ロツグで占められており、その間に他の植物が点在している。岩山
の頂上に近づくにしたがって、乾燥に強い植物が生育しているのが
特徴である。
 マンゲー山は2枚貝やペラスペラの最も典型的化石が保存されて
いること、良質の方解石を有すること、中生代との関係や新第3紀
以後との関係、土地の隆起と沈降などを知る資料のあること、古生
物等の重要な資料が保存されていることとあわせ、周辺の植物群落
を含め、石垣島の地質研究上重要な場所となっている。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁
止されています。
                           昭和62年10月
                           石垣市教育委員会
大マンゲー


小マンゲー



 この説明看板は、星野共同売店前にあります。

38.伊野田入植記念碑

伊野田入植記念碑


(開拓の詩)


開拓の詩
  作詞 仲村喜信
  作曲 新城知子
一. 南野原入江より 北は玉取岬まで
  青き海原前にして その名うるわし伊野田村
二. もとはおそれし有病地 今は変わりてこの島も
  夜明さしこむ光うけ したいよりくる人もあり
三. 緑したたる原始林 拓き郷土をなさんとて
  はなうたまじりにくわをふる 励む我れらの楽しさよ
四. 後に連なる山々に 抱かれ育くむ我が郷土
  共に手をとり進まなん 永遠に幸あれ我が伊野田


伊野田集落は1951年10月31日、琉球政府の計画移民として宮古島や竹富町、沖縄本島・大宜味村から21世帯が入植しました。それ以前には台湾からの自由移民もあったそうです。初期入植者の名を刻んだ入植50周年記念碑が2001年10月31日に建立されています。
入植之碑(中央)

中央の尖った石碑は、入植25周年を記念して建てられたものです。

39.「愛せよ公民館 育てよ緑」の碑

「愛せよ公民館 育てよ緑」
の碑


同裏面
愛せよ公民館育てよ緑
伊野田老人クラブ

植えよ育てよ花いっぱい

孫たちに緑と花をおくろう

美しいものを愛する豊かな心
昭和五十三年七月二十五日


※この碑は伊野田集落センターの西側の鳥居横にあります。
同遠景(右手奥)

40.入植記念碑(伊野田)

入植記念碑
入植記念碑

※この碑は伊野田集落センターの西側の小高い丘の上にあります。
  (鳥居をくぐり階段を上った所)
 また、ここは御願所となっています。
遠景
 

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