石垣島の石碑・説明看板(郊外-2)  更新 2024.01.28

※今回は、No.6の追加を行いました。

ここでは石垣島の郊外(島の東部)にある石碑・説明看板について紹介します。
石垣島の市街地(石垣・登野城・大川・新川・新栄町・真栄里・八島町)にある石碑・説明看板については、別のページを参照してください。

No. 名 称 場 所
1. エジンバラ公訪問記念碑 白保
3. 真謝井戸* 白保
5. 安里屋ユンタ歌碑 白保
7.   
9. 「ゆがふみつ 大里農道」の碑 大里
11. 桃里恩田遺跡* 桃里
13. 入植者之碑 星野
15. 伊野田入植記念碑 伊野田
17. 入植記念碑(伊野田) 伊野田
19. 不発弾の薬莢の説明板 伊野田
No. 名 称 場 所
2. 舟溝開砕記念の塔* 白保
4. 柳田国男 歌碑* 白保
6. 交通安全之塔 白保
8. 旧盛山村跡の御嶽 盛山
10. 開拓之碑(大里) 大里
12. 入植記念碑(星野) 星野
14. マンゲー山説明看板 星野
16. 「愛せよ公民館 育てよ緑」の碑 伊野田
18. 八重山ゼロマラリア達成の碑 伊野田
 

地図1. 

1.エジンバラ公訪問記念碑

エジンバラ公訪問記念碑


船着き場前の東屋と碑の様子(奥側)


建立当時の碑の様子 (2016年以前)
WWF総裁
エジンバラ公フィリップ殿下
白保訪問記念
1992年3月3日


石垣新空港建設の建設地として、一時、白保海岸を埋立する計画がありました。この案が発表された後、海外の研究者等から白保のサンゴ礁の希少性が世界に紹介され、白保のサンゴ礁の保護運動が本格化しました。
こうした中、平成4 年(1992)3月3日にWWF (世界自然保護基金)の総裁として英国エジンバラ公フィリップ殿下が白保海域のサンゴなどを視察され、白保船着き場に植樹をされました。(総裁自らが新空港推進、反対で揺れる現地を視察するというのは、異例のことでした。)
その後平成12年(2000)4月に、白保集落内にWWF サンゴ礁保護研究センター(通称:しらほサンゴ村)が設置され、その開設10周年記念として記念碑が建てられました。


白保の素晴らしい海を守った証となるこの碑は、白保船着き場近接トイレ・東屋の建設に伴い2017年に現在地に移設されています。

2.舟溝開砕記念の塔

舟溝開砕記念の塔[表面]


同[裏面]


かつての設置状況 (2016年以前)


白保船着き場

【表側】
舟溝開砕記念の塔
    →
東北東800m地点

【裏側】
[上段]
寄付芳名

(以下省略)
[下段]
2010年6月修復
協力者名
(以下省略)

舟溝(ワタンジを越えて船が航行しやすいように掘られた溝)が切り開かれ、その場所がここの東北東800mの位置にあることが記されています。
因みにワタンジとは、浜から干潮時に海面上に現れるピー(リーフエッジ)まで続く浅瀬のことです。

この塔は1950年代に建てられましたが、2010年に修復されました。
その後、白保船着き場入口に建てられた東屋の横に2017年に移設されています。

3.真謝井戸

真謝井戸の碑


真謝井戸の碑 遠景


真謝井戸

真謝井戸はウリカー(降り井戸)です。
真謝井戸
真謝井戸の碑
寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のために壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
 真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に再掘して永く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。
 1966年4月23日 老人会建立   2006年6月 吉日改築
 撰文 喜舎場永珣 ・牧野清   寄贈 ヤマト工業(資)


※ 真謝井戸(マジャンガー)は、白保村に残存する唯一の古井戸(降り井戸)で、民謡「シンダスリ節」にも詠まれ、また村人の信仰の対象にもなっています。1950年代に、白保の各戸に水道が導入されるまでは飲料水の源として重要な役割を果たしていました。

4.柳田國男の歌碑

柳田國男の歌碑(表)

(裏)

(碑文:裏)


歌碑前の白保海岸

歌碑は、白保集落の北側の海岸線沿い(護岸先端から約100m北に行き、浜より少し上った所)にあります。海岸林内にあるためちょっと分かり難いかと思います。

【表面】
あらはまの

まさごに まじる
たから貝

むなしき
名さへ
なほ うもれつつ

石垣島にて
東京朝日新聞社記者 柳田國男

【裏面】
柳田國男は一八七五年(明治八)七月三十一日 兵庫県に生まれた 日本民俗学の創始者で 近代日本の代表的な思想家としても 各分野に大きな影響を与え続けている 柳田國男は大正十年 東京朝日新聞記者として来沖 この旅行は沖縄研究の扉を内外に開き 日本民俗学の形成に重要な意義をもった 「海南小記」はその記録である 石垣島に来島したのは同年一月二十四日で七日間の滞在だったが その後晩年に至るまで八重山の文化を紹介し 民俗・芸能の宝庫として全国に知らしめた また八重山出身の研究者も育てた 碑文の歌は石垣島を去った直後の二月一日地元の新聞に掲載された 大学生の時に愛知県伊良湖崎に流れ着いた椰子の実を見た体験と 沖縄で見た宝貝は その後大きなモチーフとなって 晩年の壮大な著作「海上の道」となった 椰子の実と宝貝は 日本民族の生活に思いをはせた柳田國男の民俗学を知るための重要なキーワードである
一九六二年(昭和三七)八月八日 八十八歳で死去した
 二〇〇一年(平成十三)十二月十六日
  柳田國男歌碑建立期成会
     揮毫 豊平峰雲
     刻字 崎山寛樹


日本民俗学の創始者・近代日本の代表的な思想家として知られる柳田國男を称えた碑です。彼は八重山文学の父・喜捨場永珣などとの親交も深く、多くの研究者に影響を与えました。
この碑は、彼が石垣島を訪れてから80年になる節目を記念して、2001年12月16日に、除幕式と記念式典が開かれました。柳田家親族の柳田富美子氏や民俗学者の谷川健一氏のほか、地域住民らが参加して歌碑建立を祝いました。

5.安里屋ユンタ歌碑

「安里屋ユンタ歌碑」碑文 表面[上段]


同表面[下段]


同 裏面


碑 表面外観


同 裏面外観

【表面・上段】
安里屋ユンタ歌碑


【表面・下段】
  安里屋ユンタ
  作詞:星迷鳥(星克)
  作曲:宮良長包
一. サー 君は野中の いばらの花か
   サーヨイヨイ
   暮れて帰えれば ヤレホンニ 引止める
    またハーリヌ
   チンダラ カヌシャマヨー
二. サー うれし恥かし 浮名を立てて
    サーヨイヨイ
   主は白百合 ヤレホンニ ままならぬ
    またハーリヌ
   チンダラ カヌシャマヨー
三. サー 田草取るなら 十六夜月夜
    サーヨイヨイ
   二人で気がねも ヤレホンニ 水入らず
    またハーリヌ
   チンダラ カヌシャマヨー
四. サー 染めて上げましょ 紺地の小袖
    サーヨイヨイ
   掛けておくれよ 情の襷
    またハーリヌ
   チンダラ カヌシャマヨー

【裏面】
碑文
 白保村の生んだ偉大な政治家・星克先生は一九〇五年(明治三十八)四月九日、宮良間切白保村で生まれた。
 大浜尋常高等小学校を卒業し、白良尋常高等小学校代用教員、白良尋常高等小学校訓導から大浜村収入役、同助役、大浜村消防組初代組頭、白保郵便局長、大浜町長、八重山民政議会議員、八重山群島議会議員、琉球政府企画統計局長、琉球政府立法院議員(六期)、同議長、みなす沖縄県議会議員、同議長、全琉球商事株式会社専務取締役を歴任し、一九七七年(昭和五十二)五月二十五日死去した。永年の功績により勲四等旭日小綬章の叙勲を受ける。
 星克先生は詩作にもその天賦の才を発揮して、八重山の歌心を深く刻んだ「安里屋ユンタ」等々を創作し社会音楽活動にも大きく貢献された。
 この安里屋ユンタには、純粋な農村の青年男女が田園生活における楽しい場面を歌ってある。
 安里屋ユンタの原曲そのものは八重山竹富島の民謡であるが、宮良長包先生が前奏を作曲して一九三四年(昭和九)九月、日本コロムビアが「沖縄民謡六十曲」をレコード化することになり、その一つに加えられて全国津々浦々に知れ渡った。
 ここに星克先生の偉業を讃えるため、有志の浄財をもってこの碑を建立する。
  建立 二〇一三年(平成二五)二月二十四日
  安里屋ユンタ歌碑建立期成会



※ この碑は白保公民館の北側に建てられています。

6.交通安全之塔

「交通安全之塔」 表面


同表面[下段]

【表面・上段】
交通安全之塔


【表面・下段】
交通安全を祈願し
此の塔を建立す
昭和五十年五月三日
二十周年記念事業
白保協議会



※ この碑は白保集落の北端に建てられています。

7.欠

地図2. 

8.旧盛山村跡の御嶽

旧盛山村跡の説明板


旧盛山村跡


石垣市指定文化財/史跡
City Designated Cultural Prorerty / Historical Site
旧盛山村跡の御嶽(きゅうもりやまむらあとのおん)
On of the Former Moriyama Village
平成21(2009)年3月30日指定
March 30, 2009 designated

 盛山村は1771年に八重山諸島を襲った明和大津波の後、竹富島から石垣島南西端の富崎に移住して出来た富崎村の人々が、1785年に桃里村の属地であった盛山に再移住して創建された村である。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、盛山村の人々が信仰した御嶽は、出身地である竹富島の御嶽の神を勧請したとされる。
 盛山村創建時の人口記録はないが、風土病やマラリヤや伝染病などにより、明治6(1873)年には戸数9戸、人口17人にまで減少している。明治10(1877)年には、白保・宮良・大浜の3村から23人を補充し、村の維持を図ったが人口減少は止まず、大正6(1917)年には集落が廃された。
 この御嶽は、かつてこの地にあった盛山村の歴史を物語る貴重な史跡である。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。
         平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
                         文化財課83-7269

The residents of the Fusaki village, who had originally migrated from Taketomi Island to the southwest Fusaki of Ishigaki, moved to Moriyama and created the Moriyama village in 1785 after the Giant Tsunami of Meiwa struck in 1771. It is said that the enshrined god of Moriyama village's On (sacred praying site) is a God from Taketomi Island. The population of the Moriyama village gradually decreased due to a local malaria epidemic, and the village was abandoned in 1917.



※ 旧盛山村跡は、市街地から南ぬ島石垣空港に向かい、空港ターミナル入口のすぐ手前の左手にあります。

地図3. 

9.「ゆがふみつ 大里農道」の碑

【上段】
ゆがふみつ
大里農道
【下段】
事業名 :県営一般農道整備事業
施工年度:昭和55年~平成9年度
施工延長:農道L-7.943m
幅員  :全幅 7.0m (有効6.0m) 
竣工  :1998年2月 竣工



※ この碑は、白保集落の先のカラ岳を過ぎた左手側(大里集落の手前)に建てられています。

10.開拓之碑(大里)

開拓之碑 表面


同裏面 碑文


大里共同売店
【表面・上段】
開拓之碑

【裏面】
開拓30周年記念事業として
昭和58年11月吉日建立する

 政府計画大里移民団
 1953年3月入植
団長 平良蔵康
(大宜味村謝名城)
 以下 入植者氏名省略
(大宜味村津波)
 以下 入植者氏名省略
(大宜味村喜如嘉)
 以下 入植者氏名省略
(羽地村源河)
 以下 入植者氏名省略
▲自由移民(1950年入植)
(城辺町七又) 
 以下 入植者氏名省略
(大宜味村田嘉里)
 以下 入植者氏名省略


嵩里清次
友利忠夫
与那覇恵信
洲鎌多呂吉


【側面】
碑   書 新崎長明
施工刻字 崎山寛治


※ この碑は大里共同売店の敷地内に建てられています。

11.桃里恩田遺跡

説明看板


同拡大


史跡指定碑


「桃里恩田遺跡」説明看板 遠景
【説明看板】
県指定記念物(史跡) 桃里恩田遺跡
                 平成2年2月2日指定
 桃里恩田遺跡は、現在の大里村から星野村に通ずる道路の海側にあって、通称ぺーフ山と呼称される小高い丘陵上に位置し、すべて古第3紀前記石灰岩(宮良層群)によって形成されている。この岩石はコンクリートの原料に適していることより砕石が行われ、これを免れた所にかろうじて遺跡が残っている。
 1981年、石垣市教育委員会によって範囲確認のための試掘調査が実施されている。
 この結果、中国製の白磁、青磁と黒褐釉陶器、須恵器、八重山式土器等のほか、石器、鉄器、古銭等が出土した。これらのうち特筆されるのは、後になって著名となった「ピロースクタイプ」と称される中国製白磁で、これはすでに当遺跡で出土していたことと、須恵器のなかでは裏面に青海波文様を有するがあり、これは県内における新資料とされ話題となった。
 八重山地域におけるいわゆる第三期の遺跡で14~15世紀の年代が与えられている。
 平成4年3月
    沖縄県教育委員会
    石垣市教育委員会
 当地区において、無断で文化財の現状を変更したり、保存に影響を及ぼす行為は、法律および条例で禁じられています。

【コンクリート柱】
県指定史跡 桃里恩田遺跡


※本遺跡指定碑等は、国道390号線沿い、新空港側からは大里集落を過ぎ星野集落の手前(通路川近く)で、採石場へ向かう小道に右折してすぐ左側にあります。(ちょっと分かりづらいです。)
遺跡は通称ペーフ山と呼ばれる小高い丘の頂上付近に形成されています。採石で大半が掘り返されたため、石垣市教育委員会が残る部分の発掘調査を行って遺跡を確認しました。1990年に沖縄県文化財(史跡)に指定されています。

地図4. 

12.入植記念碑(星野)

入植記念碑 表面


右 側面


左 側面


人魚の像

 この人魚の像は、星野共同売店脇のトイレの上に乗っています。野原﨑の人魚伝説にちなんだものだそうです。
[表面]
入植記念碑

[右側面]
題字 稲福定蔵
寄贈 崎山寛治


[左側面]
一九五〇年三月一六日 入植
一九七五年三月一六日 建立



※ 碑の下部には、「移住団第一次先遣隊」の方々の名前が記されていますが、風化が進みかなり読みづらい状況となっています。


この碑は星野共同売店のそばに建てられています。土台の部分には入植者の氏名等が刻まれています。
星野集落は、昭和25年3月に集団移住として、沖縄本島の大宜味村、玉城村、宮古島の城辺町の方々の入植によって形成された集落です。
集落名の由来は当時の大浜町長・星克氏の「星」と、八重山民政府知事・吉野高善氏の「野」を取って、「星野」と名づけられたそうです。

13.入植者之碑

入植者之碑 表面
入植者之碑

第一次大宜見先遣隊
 昭和二十五年三月十六日入植
 [以下17名:氏名省略]

第二次大宜見先遣隊
 昭和二十五年三月三十日入植
 [以下9名:氏名省略]

地元入植者
 [以下5名:氏名省略]

同 裏面
 星野集落は、一九五〇年三月集団移住による
開拓が行われ大宜味村に続き、玉城村と宮古島
からの入植者により、原生林を伐開、土地を切
り開き形成された集落です。
 星野の名称は、当時の大浜町長「星克」氏と
八重山民政府知事「吉野高善」氏の一文字を
取り「星野」と名付けられました。

    入植七十周記念事業
       建立 令和二年三月吉日
             星野自治公民館


※ この碑は、前項・入植記念碑の横にあります。

14.マンゲー山説明看板

マンゲー山説明看板


マンゲー山遠景


大マンゲー


  小マンゲー

石垣市指定文化財/天然記念物
Designated cultural asset/ natural monument of Ishigaki City

だい       しょう      ちゅう
大マンゲー・小マンゲー・中マンゲー
Large Mange/Small Mange, Medium Mange /大Mange・小Mange・中Mange

昭和47(1972)年5月8日指定(大・小マンゲー)
平成10(1998)年8月11日指定(中マンゲー)
Designated on May 8,1972 (Largeand Small Mange)
Designated on August 11,1998 (Medium Mange)

 マンゲー山は、大マンゲー(標高103m)、小マンゲー(同60m)、中マンゲー(同90m)からなり、高温多湿の亜熱帯の環境下で石灰岩が風化浸食を受けて形成された岩山で、円錐カルストと呼ばれる。
 これらは、古第三紀始新世宮良層石灰岩の岩石で、今から5500~6500万年前に石灰質の殻を持つ生物や石灰分が海底に沈積して出来た地層が、隆起により持ち上げられてできたものである。八重山諸島の代表的な地層である宮良層群は、石垣島の宮良付近に模式地(もしきち)(固有の名称で呼ばれる地層が特徴的に分布する地域のこと)があり、石垣島の中でも地域を特定して点在している。なお、宮良層は、石垣島のほかにも西表島や小浜島にも分布が確認されている。
 マンゲー山及び一体の地層からは、地層の年代を示す化石(示準(しじゅん)化石)としてペラティスピラやアステロサイクリナなどの大型有孔虫(おおがたゆうこうちゅう)の化石(貨幣石(かへいせき))が発見されている。これらの貨幣石は、古第三紀始新世の示準化石であるが、日本では石垣島や西表島、沖縄島など限られた地域にしか算出しない。
 石垣島の成り立ちをはじめ、琉球列島の地質構造や古生物を知るうえでも、マンゲー山は重要である。

 Mt.Mange consists of Large Mange (approximately 103 m above sea level), Small Mange (approximately 60 m above sea level), and Medium Mange (approximately 90 m above sea level), and is a rocky mountain (cone karst) that was formed through the weathering erosion of limestone in a high temperature and humid subtropical environment.
 These are rocky Miyara layer limstone mountains of the Paleogene Eocene age and were formed as a result of the upheavel of the layers that were created when organisms with calcareous shells and lime were devosited on the seabed 55 to 65 million years ago. The Miyara layers group, typical layers in Yaeyama Islands, has a distinctive geological formation in the vicinity of Miyara of Ishigaki Island, and is scattered to particular regions on Ishigaki Island.
 From Mt. Mange and layers of the whole area, the large foraminiferan fossils (nummulites), which are index fossils thqt show the age of the layer, have been discoverd. These nummulites are index fossils of the Paleogene Eocene age and have not been found in other areas of Japan besides Ishigaki Island, and Okinawa Island.
 Because Mt.Mange is also important to understand the geologgical structure and the life of past geological period of the Ryukyu Islands, including the origins of Ishigaki Island,it was designated as a natural moent.

【以下 省略】

平成29(2017)年3月 石垣市教育委員会
      文化財課 0980-83-7269

(参考) 旧マンゲー山説明看板


石垣市指定天然記念物
マンゲー山 (大マンゲー・小マンゲー)

 
マンゲー山は石垣市桃里伊野田165の1内にあって、大マンゲーの面積は79600㎡、標高80m、小マンゲーは面積39400㎡、標高60mの全山古第3紀前期石灰岩(宮良層群)からできている岩山である。
 この岩山は今から5500万年~6500万年前に出来た地層で、宮良村西方から後方にかれた一帯と大里村北方地帯、さらに屋良部半島南側山地等にも分布している。
 マンゲー山の植生はほとんどが亜熱帯性植物で占められている。
標高がそれほど高くないので、山麓から頂上に至る間の植生上の大きな変化はみられない。マンゲー山全体の占める面積の約60%はクロツグで占められており、その間に他の植物が点在している。岩山の頂上に近づくにしたがって、乾燥に強い植物が生育しているのが特徴である。
 マンゲー山は2枚貝やペラスペラの最も典型的化石が保存されていること、良質の方解石を有すること、中生代との関係や新第3紀以後との関係、土地の隆起と沈降などを知る資料のあること、古生物等の重要な資料が保存されていることとあわせ、周辺の植物群落を含め、石垣島の地質研究上重要な場所となっている。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
                       昭和62年10月
                       石垣市教育委員会


※ この説明看板は、星野共同売店前にあります。

地図5. 

15.伊野田入植記念碑

入植之碑(中央)


伊野田入植記念碑


「開拓の詩」の碑

入植之碑
 入植二十五周年記念

伊野田集落は1951年10月31日、琉球政府の計画移民として宮古島や竹富町、沖縄本島・大宜味村から21世帯が入植しました。それ以前には台湾からの自由移民もあったそうです。


入植五〇周年記念期成会事業
  二〇〇一年十月三十一日
 一九五〇年 居住十四世帯
  以下入植者氏名 省略
 一九五一年 第一次入植 二十一世帯
  以下入植者氏名 省略
 一九五二年 第二次入植 一三世帯
  以下入植者氏名 省略
 一九五三年以降一九六〇年までに入植 四十八世帯
  以下入植者氏名 省略


開拓の詩

  作詞 仲村喜信
  作曲 新城知子
一. 南野原入江より 北は玉取岬まで
  青き海原前にして その名うるわし伊野田村
二. もとはおそれし有病地 今は変わりてこの島も
  夜明さしこむ光うけ したいよりくる人もあり
三. 緑したたる原始林 拓き郷土をなさんとて
  はなうたまじりにくわをふる 励む我れらの楽しさよ
四. 後に連なる山々に 抱かれ育くむ我が郷土
  共に手をとり進まなん 永遠に幸あれ我が伊野田

16.「愛せよ公民館 育てよ緑」の碑

「愛せよ公民館 育てよ緑」の碑


同裏面


同遠景(右手奥)
愛せよ公民館育てよ緑
伊野田老人クラブ

植えよ育てよ花いっぱい

孫たちに緑と花をおくろう

美しいものを愛する豊かな心
昭和五十三年七月二十五日


※ この碑は伊野田集落センターの西側の鳥居横にあります。

17.入植記念碑(伊野田)

入植記念碑


遠景
入植記念碑


※ この碑は伊野田集落センターの西側の小高い丘の上にあります。
  (鳥居をくぐり階段を上った所)
  また、ここは御願所となっています。

18.八重山ゼロマラリア達成の碑

八重山ゼロマラリア達成の碑 表面


同 裏面

 
[表面]
八重山
ゼロマラリア
1962年達成


[裏面]
八重山ゼロマラリア達成の碑建立期成会
Team Yaeyama Zero Malaria
 竣工2022年8月20日 世界蚊の日
 八重山ゼロマラリア達成の碑 説明看板


碑ならびに説明看板の設置状況



※ 「八重山ゼロマラリア達成の碑」ならびに同説明看板は伊野田集落センターの西側にあります。これらは2022年に設置されました。

八重山ゼロマラリア達成の碑 Yaeyama Zero Malaria Monument 

八重山地方は400年以上ものあいだ風土病マラリアに苦しみ、ヤキーヌシマ(ヤキー=焼ける、高熱の病気マラリアの島)と呼ばれ、恐れられてきました。八重山では、琉球王国時代の重い人頭税、沖縄戦、戦後の米軍統治という困難な状況下でマラリアとの戦いを強いられました。戦後、官民と米軍当局が連携し、マラリア対策を行った結果、1962年に八重山地方のマラリアは、世界に先駆けて一掃されました。2022年、ゼロマラリア達成から60年を迎えました。
八重山の先人たちの努力を讃え、この地域で成し遂げられた偉業を次世代に継承し、世界に発信し、感染症のない平和を願って、ここに「八重山ゼロマラリア達成の碑」を建立しました。

八重山とマラリア
一説によると、1530年に西表島へ漂着したオランダ船から、八重山にマラリアが持ち込まれたと伝えられています。それから20世紀まで、八重山のマラリアは原因不明の風土病でした。1921年に初めてマラリア対策専門の行政組織「八重山島庁マラリア予防班事務所」ができましたが、継続的かつ根本的なマラリア対策は行われず、患者数は減少しませんでした。そのような状況下で、八重山でも沖縄戦をむかえることになります。

戦争マラリア
沖縄戦において、八重山で地上戦はありませんでした。しかし、空襲が激しくなると、住民たちは、日本軍の命令によりマラリアの有病地へと強制避難させられました。食料も薬もない中、住民の約半数にあたる 16,884名がマラリアに罹患し、3,647名の尊い命が奪われました。一方、戦闘行為による死者は 178名でした。この戦時下でのマラリア被害は「戦争マラリア」と呼ばれています。八重山出身の吉野高善博士(寄生虫研究者)は、保健所職員の黒島直規らとともに、戦時中のマラリア患者に関する細かなデータをとりました。これらの科学データは戦後のマラリア対策へとつながります。
戦後、吉野は八重山支庁長に、大濱信賢博士(八重山出身のマラリア研究者)は衛生部長に就任し、「マラリア撲滅に関する取締規則」を作成しました。この規則は罰金を伴う厳しいものでしたが、官民一体の対策が行われたことで、1949年にはマラリア患者数が17名まで減少し、死者数も激減しました。しかし、この時はまだゼロマラリアは達成されませんでした。

移民マラリアとウイラープラン
1950年、住民が選んだ新政権はマラリア対策予算を削り、開拓を推し進めました。他島から多くの「開拓移民」がマラリアの有病地に入植した結果、入植者を中心に「移民マラリア」と呼ばれるマラリアの再流行が起こりました。
1957年、GHQの医動物学者ウイラー博士は、USCAR(琉球列島米国民政府)の依頼により、八重山でマラリア対策計画「ウイラープラン」を作成しました。他国で科学的に効果が証明されていたDDT*の屋内残留噴霧を中心としたこの計画に特別予算が付けられ、現場の保健所職員が徹底した噴霧作業を行いました。この効果はすぐにあらわれ、住民も積極的に協力しました。この結果、1961年の西表島での患者を最後に、1962年、八重山でゼロマラリアを達成しました。 
 *DDT:安価で効果のある殺虫剤 危険性が指摘され、使用禁止となった

マラリアとは
マラリアは、マラリア原虫という寄生虫による感染症で、高熱と強烈な寒気を特徴とし、治療が遅れると死に至る病気です。マラリア原虫を持っている蚊(ハマダラカ 学名 Anopheles spp.)に刺された時、蚊の唾液の中に潜んでいる原虫が、人の体内に侵入し感染します。エイズ、結核と並び「世界三大感染症」の一つです。
八重山には、死亡率の高い熱帯性マラリア原虫を運ぶヤエヤマコガタハマダラカがジャングルの渓流に発生します。八重山からマラリアは無くなりましたが、アジア、アフリカなど低・中所得国を中心に、世界では年間60万人以上がマラリアで亡くなっています。(2020年)

伊野田と移民マラリア
1950年7月7日、マラリアが蔓延する伊野田地区で、住民手作りの「マラリア撲滅伊野田出張所」の開所式が執り行われ、伊野田部落が誕生しました。1951年10月、大宜味村から計画移民として21世帯が入植したのを皮切りに、伊野田には多くの入植者が開墾に来ました。しかし、伊野田を含む石垣島北部一帯で、入植者を中心にマラリアが大流行しました。伊野田出張所では治療、対策から教育普及など多岐にわたる業務が行われ、後に、北部地区のウイラープラン実施拠点となりました。その結果、1962年には八重山での年間マラリア患者発生がゼロとなりました。
こうして、八重山の400年以上の長きにわたるマラリアとの苦闘の歴史に、終止符がうたれました。

19.不発弾の薬莢の説明板

不発弾の薬莢の説明板


不発弾の薬莢
不発弾の薬莢(米国製250kg普通爆弾)

この不発弾の薬莢は、製造念は不明ではあり
ますが、信管や炸薬は撤去されていますので
爆発の危険性はなく安全なもので、不発弾の
平和な利用方法で伊野田第一売店の横で長
い間、時報の合図や緊急時の鐘として伊野田
住民の生活の一部として使用されてきたもので
す。


※ この説明板ならびに不発弾の薬莢は伊野田集落センターの広場西側にあります。


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