石垣島の石碑・説明看板(郊外-1) 更新 2020.06.13
※今回は、地図の修正、一部写真の入替えを行いました。
ここでは石垣島の郊外(島の東部・宮良まで)にある石碑・説明看板について紹介します。
石垣島の市街地(石垣・登野城・大川・新川・新栄町・真栄里・八島町)にある石碑・説明看板については、別のページを参照してください。
No. |
名 称 |
場 所 |
1. |
大浜町役所跡の碑 |
大浜 |
3. |
南十字星観測時刻の説明板 |
大浜 |
5. |
大浜公民館憲章 |
大浜 |
7. |
津波大石の碑と説明看板 |
大浜 |
9. |
オヤケ赤蜂之碑と古乙婆之碑* |
大浜 |
11. |
入植五十周年記念碑 |
大浜・川原 |
13. |
記念植樹の碑 |
大浜・三和 |
15. |
宮良橋頌徳碑* |
宮良 |
17. |
詩碑 仰高徳の碑 |
宮良 |
19. |
東・西嘉和良嶽の由来 |
宮良 |
21. |
畜産大賞之碑 |
宮良 |
23. |
赤馬主の墓 |
宮良 |
25. |
鎮(琉第六四六一部隊慰霊碑) |
宮良 |
27. |
底原ダムの碑* |
宮良 |
|
No. |
名 称 |
場 所 |
2. |
魚供養之碑* |
大浜 |
4. |
史跡 フルスト原遺跡 |
大浜 |
6. |
オヤケアカハチ之像* |
大浜 |
8. |
オヤケアカハチ顕彰碑 |
大浜 |
10. |
欠 |
|
12. |
「和」の碑 |
大浜・三和 |
14. |
宮良川のヒルギ林 天然記念物指定碑 |
宮良 |
16. |
赤馬の由来* |
宮良 |
18. |
アタドゥーナー |
宮良 |
20. |
宮良公民館憲章の碑* |
宮良 |
22. |
畜魂碑 |
宮良 |
24. |
明和大津波遭難者慰霊之塔 |
宮良 |
26. |
真栄里ダムの碑 |
大浜・於茂登 |
28. |
鳥獣魂供養の碑* |
宮良 |
|
地図1.
1.大浜町役所跡の碑
大浜町役所跡の碑
同拡大
碑 遠景
|
大浜町役所跡の碑
この地は昭和三十九(一九六四)年六月一日に石垣
市と合併した大浜町の役所が置かれていた所である。
大浜町は平得・真栄里・大浜・宮良・白保・盛山・
桃里・野底・伊原間・平久保の十箇字からなり、石垣
島の東・北部を行政区域とする自治体であった。
歴史をたどると、首里王府時代、かつての大浜町域
は大浜間切、宮良間切と行政的に区画されていた。沖
縄県設置後の明治二十九年には八重山全域が八重山郡
となり、同四十一年、沖縄県及島嶼町村制によって一
郡一村となった。
その後、八重山村は大正三年に石垣・大浜・竹富め
与那国の四箇村に分村し、大浜村が誕生した。大浜村
は、戦後の昭和二十二年に町制を施行して大浜町へと
昇格した。
それから十七年、地味肥沃な土壌に恵まれ、農業と
畜産の盛んな土地柄として発展してきた大浜町であっ
たが、新たな進展を開くべく石垣市と合併することと
なり、自治体としての歴史を閉じた。
大浜町と石垣市が合併して五十年、半世紀の時の流
れと共に大浜町の名が人々の記憶から次第に遠くなり
つつある今日、ここに町名を刻み、永く後世に伝える
ものである。
平成二十六年(二〇一四)年六月一日
石垣市
碑文上部には旧大浜町章が記されています。
※ この碑は「JAおきなわ大浜」の北側にあります。
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2.魚供養之碑
魚供養之碑
|
海の安全
魚供養之碑
昭和六十三年五月吉日
大浜集落の東海岸に建てられている碑です。
この碑は「大浜の海岸を守る会」が建立したもので、命を育む海と、生きる糧となる魚介類に感謝、安全を祈願しています。
「大浜の海岸を守る会」は1988年頃に結成され、海岸清掃や地域活動を積極的に行っているそうです。
左の写真で、碑の後方の芝を敷き詰めたような緑色のものは、干潮になると遠くリーフ辺りまで埋め尽くされる、海草のアーサです。 |
3.南十字星観測時刻の説明板
南十字星観察時刻の看板
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南十字星観測時刻(南中時±2時間) 大浜から南十字星を見る会
(大浜公民館有志/在神オヤケアカハチ会有志)
月・日 |
1月15日 |
2月1日 |
2月15日 |
3月1日 |
3月15日 |
4月1日 |
4月15日 |
5月1日 |
5月15日 |
6月1日 |
6月15日 |
南中時刻 |
午前5時 |
午前4時 |
午前3時 |
午前2時 |
午前1時 |
午前0時 |
午後11時 |
午後10時 |
午後9時 |
午後8時 |
午後7時 |
[以下、水平線上の南十字星周辺の星座(ケンタウルス座、南十字星)を記載]
那覇(N26°10′)水平線
大浜(N24°20′)水平線
2008.11.15 |
4.史跡 フルスト原遺跡
史跡 フルスト原遺跡碑文
「史跡 フルスト原遺跡」の碑
同 遠景
|
[碑文]
史跡 フルスト原遺跡
昭和52年 国指定
この遺跡は、崖上に連なる石積み障壁、四囲に石積みを繞らした郭状の区画、北東部に築かれた城門跡のほか墓および御嶽を内容とします。
グスク時代の石垣島は、沖縄本島の勢力に対して独立性を保ちながら内部は複数の有力者が分割的に地域支配を行なっていたものと思われ、その有力者たちの拠点となったところが遺跡として残っていますが、15世紀の遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の居城といわれるフルスト原遺跡はその内でも規模・構造ともに秀れています。
フルスト原遺跡は、沖縄本島等にある城(ぐすく)跡と多くの点で共通する半面、郭状遺構の配置等に独自の性格を見出し得るものであり、沖縄県の歴史を理解する上できわめて貴重な遺跡です。
沖縄県教育委員会
昭和53年3月31日
[石柱]
史跡 フルスト原遺跡
昭和五十三年三月三日 国指定
昭和五十三年三月三十一日 建立
※ この碑文と石柱は、大浜の「大城御嶽(ウフスクオン)」の北西・約150mの所にあります。
フルスト原遺跡は旧石垣空港の北側に位置し、南北900m、東西200mの敷地に石塁が築かれています。言い伝えでは、オヤケ アカハチの居館跡だと言われています。
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5.大浜公民館憲章
大浜公民館憲章の碑
大浜公民館 外観
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大浜公民館憲章
私たちは 大浜村に誇りを持ち 先人の偉業
に学び 平和で豊かな活力ある村をつくるため
この顕彰を定めます
一 私たちは 自然と伝統文化を守り育て
美しい村をつくります
一 私たちは 互いに敬愛し アカハチの遺徳を
重んじる村をつくります
一 私たちは 結いの心を大切にし
人情豊かであたたかい村をつくります
一 私たちは きまりを守り 共に生きる心を育み
健康で明るい村をつくります
一 私たちは 知恵をだし 汗を流し 心を合わせて
住んでよかった大浜村をつくります
※ この碑は大浜公民館入口の左側に建てられています。 |
6.オヤケアカハチ之像
7.津波大石の碑と説明看板
津波大石の碑
津波大石
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国指定天然記念物
石垣島東海岸の津波石群
津波大石(つなみうふいし)
平成25(2013)年3月27日指定
「津波大石」という名称は、郷土史家である故牧野清[まきのきよし]によって命名されました。当初、牧野は、1771年に石垣島を中心に大きな被害を出した、明和大津波による津波石と考えていたようです。
しかし、表面に付着しているサンゴの年代測定の結果から、約2000年前の先島津波によって現在の場所に打ち上げられたものであるということが分かってきました。また、古地磁気を専門とする研究では、明和大津波の際、この石は大きくは動かなかったものの、波の力によって回転するなどして地磁気が動いている可能性が指摘されています。
このようにして、科学的な検証を重ねた結果、津波石であることは間違いなく、また、明和大津波以前にも大きな津波がこの地を襲ったという、教訓的な要素もある貴重な津波石だということが分かりました。
この津波大石のほか、石垣島の東側に所在する、津波によって打ち上げられた、または移動したとされる、高[たか]こるせ石[いし](大浜)、あまたりや潮荒[すうあり](桃里)、安良大[やすらうふ]かね(平久保)、バリ石[いし](伊原間)と呼ばれる計5つの巨石が、「石垣島東海岸の津波石群」として、国の天然記念物に指定されています。
なお、津波大石以外の4つの巨石は、古文書『大浪之時各村之形行書[おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ]』の記述や、年代測定等の科学分析の結果により、1771年の明和大津波による津波石であることが分かっています。
平成28(2016)年6月
石垣市教育委員会 文化財課 83-7269
※ この碑は津波大石のすぐそばにあります。
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説明看板
同設置状況
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津波大石(Large Tsunami Rock)
「津波大石」という名称は、郷土史家である故牧野清によって命名されました。当初、牧野は、1771年に石垣島を中心に大きな被害を出した、明和大津波による津波石と考えていたようです。しかし、表面に付着しているサンゴの年代測定の結果から、約2000年前の先島津波によって現在の場所に打ち上げられたものであるということが分かってきました。また、古地磁気を専門とする研究では、明和大津波の際、この石は大きくは動かなかったものの、波の力によって回転するなどして地磁気が動いている可能性が指摘されています。
このようにして、科学的な検証を重ねた結果、津波石であることは間違いなく、また、明和大津波以前にも大きな津波がこの地を襲ったという、教訓的な要素もある貴重な津波石だということが分かりました。この津波大石のほか、石垣島の東側に所在する、津波によって打ち上げられた、または移動したとされる、高こるせ石(大浜)、あまたりや潮荒(桃里)、安良大かね(平久保)、バリ石(伊原間)と呼ばれる計5つの巨石が、「石垣島東海岸の津波石群」として、国の天然記念物に指定されています。
なお、津波大石以外の4つの巨石は、古文書「大波之時各村之形行書」の記述や、年代測定等の科学分析の結果により、1771年の明和大津波による津波石であることが分かっています。
平成28(2016)年6月 石垣市教育委員会 文化財課
Tsunami Ufu-ishi (Large Tsunami Rock)
The name “Large Tsunami Rock” was given by the late local historian Kiyoshi Makino. It appears that he first
thought that this rock was moved here by the Great Tunami of Meiwa, which brought considerable damage upon Ishigaki and other
Yaeyama islands in 1771. However, after dating the coral
attached to its surface, it became clear that it was brought to its
current location approximately two thousand year ago by what is now
called the Sakishima islands Tunami. Also, while paleomagnetism
research has pointed out that this rock did not really move in
the Great Tsunami of Meiwa, it might have, for example,
rolled over due to geomagnetic changes.
In this way, as a result of scientific tests, it has become clear that this rock was actually moved here by tsunami, as
well as that another large tsunami struck this area before the
Great Tsunami of Meiwa. In this way, it is a valuable rock with
lessons to teach us.
In addition to this tsunami rock, there are four other massive rocks located on the eastern side of Ishigaki island
thought to have been brought up from the ocean or moved in a
tsunami: the Takakoruse ishi (Ohama), Amatariya Suare, Yasuraufu
Kane (Hirakubo), and Bari ishi (Ibaruma). Collectively these
five rocks are designated as a National Natural Monument under the
title “Ishigaki East Coast Tsunami Rocks”
Accounts in a report written for the Rukyu Kingdom’s government (Onami no toki kaku mura no nariyuki sho ), and
scientific analysis (such as dating) have made clear that these
four other massive rocks appeared in their current location
as a result of the 1771 Great Tsunami of Meiwa.
Cultural Asset Division Ishigaki City Board of Education
June 2016
※ この説明看板は崎原公園の端(津波大石側)に設置されています。
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8.オヤケアカハチ顕彰碑
オヤケアカハチ顕彰碑
同裏面
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碑文
オヤケアカハチは一名ホンガワラアカハチとも稱した豪勇衆にすぐれ群雄割拠のその当時大浜村を根拠として酋長に仰がれていた 文明十八年(一四八六)中山尚真王は使者を八重山に特派してイリキヤアモリの祭祀を淫祠邪教として厳禁したところ島民は信仰への不当なる弾圧だとしていたく憤慨した ここにおいてアカハチは島民の先頭に立って反旗をひるがえし朝貢を両三年壟断して中山の反省を求めたが尚真王は大里王子を大将とし副将並びに神女君南風らと共に精鋭三千人を兵船四十六隻で反乱鎮圧に派遣した アカハチは大いに防戦奮闘したが衆募敵せず恨みをのんで底原の露と消えた 時は明応九年(一五〇〇)今から四五四年前のことである アカハチは封建制度に反抗して自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義観をもって戦ったのである 戦いは利あらず敗れたけれどもその精神と行動は永く後世に光芒を放つことであろう ここに碑をもってその偉徳を讃えるゆえんである
一九五三年四月十六日
オヤケアカハチ顕彰碑建立
委員長 廣田禎夫
撰 文 喜舎場永玽
(裏面)
オヤケアカハチ五〇〇年祭実行委員会
二〇〇〇年(平成十三年)八月吉日転記
揮毫者 委員長 前津 栄一
彫刻者 司やえやま石材
※ この碑は、「津波大石」のある大浜公園内にあります。 |
9.オヤケ赤蜂之碑と古乙婆之碑
オヤケ赤蜂之碑と古乙婆之碑
同 遠景
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オヤケ赤蜂之碑
古乙婆之碑
※ オヤケ赤蜂之碑と古乙婆之碑は、オヤケアカハチ顕彰碑の右隣に建てられています。
古乙婆(クイツバ)は、長田大王、真乙婆(マイツバ)の妹で、英雄時代の乱世に生きた不遇の女性です。オヤケアカハチに嫁ぎ、首里王府に忠誠を誓った兄・姉と戦う反逆者の妻となりました。
元は石垣中学校の南側にある真乙婆御嶽境内に墓がありましたが、それはツダミ墓(蝸牛墓)と呼ばれ、踏みつけてもよいとされていました。
古乙婆の墓は2000年に、大浜のオヤケアカハチ500年祭実行委員によって崎原公園内の「オヤケ赤蜂之碑」の隣に移転し、碑は夫婦寄り添うように建てられています。 |
10.欠
地図2.
11.入植五十周年記念碑
記念碑 表面
同 裏面
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【表面】
入植五十周年記念碑
【裏面・上段】
入植者
昭和16年9月入植
団長 上原重秀
他14名 氏名略
【裏面・下段】
記念事業期成会
1991年9月21日
期成会長 上原重次郎
他 氏名略
※ ここは大浜・川原地区で、パインの産地として有名なところです。 |
12.和の碑(三和)
「和」の碑
裏面(一部)
碑 遠景
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[表面]
和 創設60周年
[裏面]
建立委員
(建立委員氏名 略)
二〇一〇年十一月建立
創設者
一九五〇年創設
(創設者氏名 略)
※ この碑は三和公民館の敷地内にあります。 |
13.記念植樹の碑
記念植樹の碑
同 裏面
|
[表面]
記念植樹
農業土木学会
全国農地保全研究部会沖縄大会
平成元年10月26日
[裏面]
寄贈(有)伊良部砕石
※ この碑は209号線の、三和公民館前交差点から少し北側に行った左手にあります。 |
地図3.
14.宮良川のヒルギ林 天然記念物指定碑
天然記念物指定碑
宮良川のヒルギ林の説明看板
設置場所の光景
|
(説明看板より)
天然記念物 宮良川のヒルギ林
昭和47年5月15日指定
「宮良川のヒルギ林」は宮良川の河口から上流の両岸1,500mにわたって発達し、その面積225haで、メヒルギ、オヒルギそしてヤエヤマヒルギなどの種類を中心としたヒルギの大群落であります。
また、指定地内には前記の種以外にハマナツメ、カカツガユ、ヒメガマ、オキナワシャリンバイ、サルカケミカン、アダンなどもみられます。
ヒルギ林は熱帯から台湾、沖縄を経て鹿児島県まで分布し、海岸や河口などの泥地に成林する特異的な群落です。
本地域は石垣島の代表的なヒルギ林として指定してあります。
なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
文部省
沖縄県
※ これらは宮良橋の右岸・下流側の欄干下にあります。 |
15.宮良橋頌徳碑
頌徳碑
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同 裏面
※ この頌徳碑は市街地側から宮良橋を渡り宮良集落に向ってすぐの右手側(海側)にあります。 |
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裏面拡大
|
裏面下側
|
[表面]
尊由書
頌徳碑
[裏面・碑文]
夫宮良川ハ産業交通ノ要衝ニ當レルガ橋梁ノ架設ナキタメ交通事故ノ頻発シ剰サヘ幾多ノ尊キ生霊ヲ失フノ惨劇ヲ見ルニ至レリ
山陽姓第二世ノ偉人頭宮良親雲上長重翁ハ此ノ災厄ヲ痛感哀愍シ衆生済度ノ本願ヲ立チ尚質王世代明暦三丁酉年ニ上國シ
架橋請願ノ允許ヲ得翌萬治元戊戊年私財ヲ投ジ萬難ヲ排シ茲ニ長八十尋幅三尋高三尋ノ大土木工事ヲ竣功セリ之レ宮良
川ニ於ケル橋梁架設ノ創業ニシテ八重山架橋工事ノ權興タリ翁ノ偉業ニヨリ交通土木史上ニ劃期的記録ヲ作リ交通産
業上稗益スル所甚大ナリシカ屡々風禍ニ遭ヒ破損セシヲ以テ寛永元甲申年銘可路在番ノ時橋底ニ巨石ヲ敷設シテ基礎ヲ
一層鞏固ニシ碑文ヲ創建シ以テ由来ヲ闡ニセリ而シテ架橋後百十三年ノ長キ星霜ヲ閲シ来リシニ適明和八年ノ大津波
ニ崩潰セラレ赫々タル翁ノ大勲偉績ハ絢爛タル八重山ノ文化ト共ニ鳥有ニ歸スルニ至レリ然カジテ自然ノ威力ニ苛嘖サレシ島民ハ
疲弊困憊ニ陥リ災害復興ニ餘力ナク荏苒九十年ノ長キ済月ヲ徒費スルノ止ムナキニ至レリ翁ハ名門ニ生レ正保四丁亥年宮良頭ニ
叙セラレ一意専心島治ニ鞅掌シ餘暇土木工事ト闘ヒ大念佛具ヲ備ヘ念佛講ヲ始メテ設ケ諸儀式並葬祭ノ法式ヲ教ヘ百
姓ニ霊牌ヲ安置セシメ風俗ヲ御國元風ニ矯正シ星見石ヲ各村ニ創設シテ稲ノ播種期ヲ一定シ用水池ヲ要處ニ堀ラシメ以テ
農村振興ニ没頭スル等一生ヲ社會奉仕事業ニ捧ゲテ職ニ殉シタル高士也
仲尾次政隆翁ハ文化七庚午年那覇泉寄リ素封家ニ生ル大宗ハ大和血統ニシテ翁ハ其後胤也宗教界ノ偉人ト讃仰サレシ趣
味ノ人也翁ハ天保六年那覇筆者ヲ筆頭ニ冠船寄筆者御共具當大和横目那覇総横目ト仕官サレ羽地間切仲尾次地頭職ノ重
任ヲ負ヒ前途ヲ翹望サレツ丶不運ニモ法難ニ遭ヒ安政二年八重山ヘ遠島ノ刑ニ處セラレ従容トシテ師教ノ恩致ヲ感謝シツ丶翌三
年配所ノ真栄里村ニ寓居セリ曩キニ天変地異ノ惨禍ニ遇ヒシ島民ハ塗炭ノ苦ヲ未ダニ脱シ得ズ従ツテ宮良橋モ再建復興ニ餘裕
ナク哀レ昔日ノ憂ヲ繰返ス逆境ニ立チ至レリ斯ノ如ク悽愴タル災禍ニ憤慨セル翁ハ敢然ト救済ノ發願ヲ致シ身ヲ犠牲ニシ家貲
ヲ投シテ橋梁再建ニ遭遇セリ蔓延元庚申年竣成セル橋ハ襲来セル颱風ニ破壊サレタルニヨリ再度巨費ヲ投ジ勇ヲ皷シテ翌文久
元年修復工事ヲ断行シ泥ニ其ノ英姿ノ偉観ヲ再現スルニ至レリ翁ノ成願成就ニ多大ノ犠牲ヲ拂ヒ以テ貢献セル普請係筆者ノ
瀬名波仁屋宮良仁屋興那仁屋石垣仁屋田里仁屋同係役花域興人真士謝興人等ハ翁ノ偉業完成ニ興ツテ力アリシ大恩人タリ文久
二年萬民感謝報恩ノ結晶ハ赦免請願書ノ申請トナリ翁ノ大心願ハ酬ヒラレテ王朝ノ特赦ヲ蒙リ慶應元年謫所ノ八重山ヲ辞シ十
年振リ再ヒ墳墓ノ地ヲ踏ムノ法悦ヲ得タリ無位無官ノ翁ハ歸郷後再ヒ仕官サレ親雲上ノ重位ニ陞叙セラレ餘命ヲ國家ニ捧ケ明
シテ以テ其ノ高潔ナル人格豪遭ナル識見大慈大悲ノ鴻業ハ宮良原願ニ光輝ヲ放チ永劫ニ燦然タリ斯ノ如ク讃仰ト禮讃
ヲ浴ヒシ両翁ノ偉徳ハ後毘ノ亀鑑トナリ無言ノ教育者ト欽仰ルヲ措カザル所以也茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ高徳ヲ頌ス
現鉄筋混凝土ノ橋梁ハ花城直俊氏ノ大濱村長時代ニ創建セシ大事業ニシテ昭和七年九月一日起工同八年三月三十一日竣功月
ヲ閲スル七ケ月國庫ノ補助ヲ費スコト壹万五千五百五拾九圓村民ノ労力奉仕ヲ仰グコト三千二百二十一圓延人員六千四百四十二
久實貨ノ堅牢ト結構ノ壮麗ハ真ニ本村ノ一美観ヲ添ヘ永ク昭和昭代ノ記念タルベキ也
皇紀二千五百九十五年 昭和十年?次乙亥八月穀旦 嘉善姓喜舎場永珣謹記 戴長姓喜壽大濱景貞敬書
[裏面・碑文] 昭和拾年八月建立
後援者 |
石垣町有志
山陽姓一門
仲尾次一門
大濱村有志 |
世話人 |
宮良長詳
喜捨場永珣
藤井深遠
渡久山長善
|
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設計監督者 |
|
井上清太郎 |
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宮良川の河口付近には、17世紀中頃から交通の要として架橋が行われてきました。当初は石積みの橋で、架設に重要な役割を果たした人物として、元宮良頭職・宮良長重の名が伝えられています。その後、石積みの橋は木橋に架け替えられますが、以降、何度も災害で破壊され、その度に補修、架橋建設が繰り返されてきました。しかし、明和の大津波(1771年)で破壊された後は橋が架けられる事は無く、人々は干潮時を見計らって浅瀬を伝って渡るなど不便を余儀なくされたそうです。
明治を迎える7年ほど前に、禁制の真宗の信徒であるとして今帰仁から無期流罪を言い渡され、石垣島に流刑され真栄里に滞在していた「仲尾次政隆」が私財を投げ打って木橋を架けました。しかし、その翌年、台風によって破壊された為、再度、私財を投じ架橋を復興させました。島人と蔵元役人は仲尾次氏の赦免請願書を王府に提出、その功績により1864年に赦免されたということです。人びとは橋の完成を喜び「宮良川節」という民謡を作り仲尾次氏を称えました。
宮良橋が鉄筋コンクリート製になったのは昭和8年です。同工事の竣工祝賀式典は同10年に行なわれ、その際には、架橋の沿革などを刻んだ「頌徳碑」が橋畔に建立されました。
現在の橋は、1997(平成9)年に架けられたものです。 |
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16.赤馬の由来
赤馬の由来の碑
赤馬の像
赤馬公園 遠景
|
赤馬の由来
文珪氏四世の大城師番(一六七一~一七五〇)は仲筋村番所に在勤中 名蔵湾で不思議な子馬に出合った 師番は子馬に愛情を注ぎ 手塩にかけて育てたところ 群鶏の一鶴という言葉のように大きく気品にみちた名馬に成長した 赤毛の駿馬は赤馬の愛称で呼ばれ広く内外に知られるようになった 折りしも琉球王府は国王の乗馬を探し求めていて 早速 馬見利役が遣わされ まさしく意に叶う馬として献上させられることになった 師番は御料馬に出世した赤馬とともに自分も育ての親として名誉この上もないことだと喜び 晴れの門出を祝って 村人たちと送別の宴を催した 席上愛馬へのはなむけとして歌ったのが次の句といわれている
赤馬ぬ いらすざ 足四ちゃぬどうきにゃく
生りる甲斐 赤馬 産でぃる甲斐足四ちゃ
沖縄主に 望まれ 主ぬ前に見のふされ
この地は村人の赤馬を見送った所で馬見岩(ンマミイシ)の名が残っている
この赤馬は、八重山を代表する民謡の一つ、「赤馬節」に歌われているものです。伝承によれば、宮良村に住んでいた役人・大城師番が名蔵シィーラ原の海沿いで、海から上がってきた不思議な子馬を見つけ、大切に育てました。馬は赤馬と呼ばれる名馬に成長しました。国王に献上され、船に乗せられた赤馬を見送ったのがこの碑のある場所です。赤馬節の歌詞はその時に師番が即興的に歌ったものとされます。赤馬は他人にはなつかず、後に師番とともに再び石垣島に戻りました。
※ 「赤馬公園」は、市街地から国道390号線を北上し宮良橋を渡り、宮良集落手前の坂道の途中の海側にあります。 |
17.詩碑 仰高徳の碑
18.アタドゥーナー
アダドゥーナー説明板
アダドウナー石碑
アダドウナー遠景
アダドゥーナー
|
【アダドゥーナー説明板】
石垣市史跡
昭和55年10月31日指定
この井戸は人と水とのかかわりを知るうえで大切な遺跡である。
宮良むらの由緒あるウリカー(降り井戸)として、昔から人びとの信
仰を集めている。ウリカーとは、直接水面まで降りて水を汲む井戸
のことで、傾斜する降り道には40段の石段が設けられている。
「八重山旧記」に「安多手井」と記されているこのアダドゥーナー
は、宮良むらの歴史とかかわりの深い「下又屋敷遺跡」(しいむぬか
くいせき)の内にあって、下の村創設のころ、神に願立てして水脈
を掘りあてたという伝承がある。以来、神の水として崇信され、
共同井戸としても広く利用されてきた。
近年は各自の井戸や貯水タンクが普及したことや、上水道が敷設
されたことにより、共同井戸としての利用はなくなったが、アダド
ゥー願いは今でも続けられている。
また、周辺には外本御嶽があり、磁器や陶器、鉄滓などの遺物も
出土している。井戸の深さは12m、斜道21mである。
なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁
止されています。
昭和62年10月
石垣市教育委員会
この説明板には以前はタイトルとして「アダドゥーナー」の記載があったのですが現在のものにはそれがありません。
【アダドウナー石碑】
アダドウナー
※ アダドゥーナーは、石垣市街地より宮良集落に入ってすぐの所を右折し下った所にあります。 |
19.東・西嘉和良嶽の由来
東・西嘉和良嶽の碑
同 遠景
|
由来
昔、八重山に二人の兄弟がいた。兄を西嘉和
良(いんなーら)、弟を東嘉和良(あんなーら
)といった。兄弟共に性質温好で仲が良く、住
民とむつまじく暮らしていた。兄弟は初め水嵩
に住んでいたが、のち普太良間に移り、その後
さらに兄は宮良に、弟は白保に移り住んだ。
その頃の住人は、まだ居所が定まらず、各地
に点在して相争い略奪し合っていたが、西嘉和
良兄弟だけはそれぞれ家を構え、安らかに楽し
く暮らしていた。まもなく近辺の住民がその徳
を慕い続々と集まってきたので遂に二つの村が
生れた。そこで兄弟は共に相はかり、猪や牛馬
が農作物を食い荒すのを防ぐ為垣を築くことに
した。村人も協力して白保東の川下から宮良西
の高山に至るまで、初めて石垣を築いた。高さ
五尺、長さ2里余の長大な猪垣である。それ以
後、猪害をこうむることはなく、五穀は稔り、
民は安らかに暮らすことができた。
昭和六十三年十二月 宮良公民館
これより宮良が兄村で、白保が弟村であることが分かり、このことから弟の白保は兄の宮良よりも先に収穫の喜びを祝うことを遠慮しているようです。こうした言い伝えもあってか、白保と宮良は昔からあまり仲がよくないように言われています。
※ この碑は旧宮良公民館があった場所の東側に建っています。 |
20.宮良公民館憲章の碑
宮良公民館憲章の碑
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宮良公民館憲章
私たちは 礼節と協調の精神を尊ぶ郷土宮良村に誇りを持ち
村の伝統を正しくうけつぎ みんなで 明るく 清潔で
活力ある村をつくるためにこの憲章を定めます
一.私たちは 目上の人を敬い 礼儀をおもんずる村 をつくります
一.私たちは 教育を大事にし 伸びゆく村 をつくります
一.私たちは きまりを守り 明るく住みよい村 をつくります
一.私たちは 感謝のこころをもち 働く村 をつくります
一.私たちは みんなで助けあい ともに栄えゆく村 をつくります
1984(昭和59)年、公民館紋章とともにこの憲章が制定されました。この時期は復帰後の各種基盤整備、観光産業の発展などで島内経済は急速に成長しました。豊かになる一方で心の荒廃が社会問題となり、これを危惧した公民館が委員会を設置して村民像、宮良村像などの基本像を決め、1985年に憲章碑を建立しました。
※ この碑は、宮良公民館の東側に建っています。 |
21.畜産大賞之碑
畜産大賞之碑 【表面】
同 【裏面】
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【表面】
畜産大賞之碑
(社)中央畜産会会長 山中貞則書
【裏面】
碑文
有史以来八重山群島は牧を
中心に旧態依然とした肉用
牛の経営がなされてきた
牧場の牧養力向上と畜産
振興上の阻害要因であった
オウシマダニ撲滅の功績が
中央畜産会から認められ
平成十一年度畜産会大賞を
受賞した これを記念に
この碑を建立する
平成十三年十二月吉日
八重山支庁
支庁長 鳩間洋征
八重山には古くから家畜の法定伝染病を媒介する牧野ダニ(オウシマダニ)が生息していました。このため1977年から郡外への牛の移動が制限され、家畜振興の大きな障害となっていましたが、1971から国庫補助で薬剤散布などの対策を28年間続け、完全駆除に成功しました。
この長い間、八重山郡民を悩ませていたオウシマダニの撲滅功労で、1999年、沖縄県八重山家畜保健衛生所に中央畜産会から畜産大賞が贈られました。碑はこれを記念して2002年、市内宮良の八重山畜産保健衛生所に建立されたものです。
※ この碑は宮良の八重山畜産保健衛生所内にあります。 |
22.畜魂碑
畜魂碑
八重山畜産保健衛生所のゲート
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畜魂碑
この碑も前項の「畜産大賞之碑」と同じく八重山畜産保健衛生所の敷地内にあります。 |
地図4.
23.赤馬主の墓
赤馬主の墓の説明板
赤馬主の墓
同拡大
赤馬主の墓 遠景
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石垣市指定文化財/建造物
City Designated Cultural Property Structure
赤馬主(アカンマシュー)の墓
The Tomb of Akanmashu
平成24(2012)年12月20日
December 20,2012 designated
赤馬主の墓は、字宮良ナーバカ原の標高40mの緩斜面
に位置する。17世期後半の築造とされ、墓は横穴式の墓室
部と石垣で囲まれた庭部からなる。墓室は、露頭した礫岩
の岩盤に方形状の横穴を掘り込んだ独特の形状で、墓口は
大小6個の整形された岩石で塞がれている。庭部は琉球石
灰岩の野面積みでほぼ方形状に囲われ、正面に入口が設け
られている。
この墓には、赤馬主と称される人物が葬られているとい
う。赤馬主とは、文珪姓(ブンケイセイ)4世の大城師番(1671~1750)
で、八重山を代表する民謡「赤馬節(アカウマブシ)」の作者とされる。墓
の築造沿革に関する記録はないが、伝承では、師番が飼育
していた名馬・赤馬の評判が琉球王府に伝わり、赤馬は国
王に献上されたが、王府の調教師に従わなかったため、国
王の不興をかうところとなり、師番は王府へ召喚されるこ
とになった。死を覚悟した師番は出発前に自らの墓を築い
たとされ、それが当墓といわれる。
なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更
し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文
化財保護条例で禁じられています。
平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
文化財課 83-7269
The Tomb of Akanmasyu is located in the place
of 40 meter above sea level, and burial chamber is
the cave which dug a conglomerate. The entrance
of the tomb is enclosed by 6 rocks of various sizes,
exhibiting unique design. It is said that tfis tomb
was built in the second half of the 17th Century,
and that Akanmashu, the composer who
composed the Yaeyama folk song "Akanmabushi",
is buried here. It is also said that he built this
grave himself when he was alive.
(中文省略)
平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
文化財課 83-7269
※ この碑は「なごみの里特別養護老人ホーム」の西側の傾斜地にあります。 |
24.明和大津波遭難者慰霊之塔
明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文 [表面]
同 [裏面]
明和大津波遭難者慰霊之塔 遠景
拡大写真
慰霊之塔
同拡大写真
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[表面]
碑文
八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち たちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半潰あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した
こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作 飢饉 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし その影響はまことに計り難いものがあった この天災から二一二年 狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した
一九八三年(昭和五八)四月二四日
明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会
※ 「古記録大波之時各村之形行書」は、「おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ」と読みます。
[裏面]
明和大津波遭難者慰霊之碑建立期成会
(以下、氏名は省略)
会長
副会長
副会長
理事
監事
工事監理者
期成会結成 昭和五十七年(一九八二)四月二十七日
着 工 昭和五十八年(一九八三)六月十六日
落 慶 式 典 昭和五十八年(一九八三)十月十六日
※ 明和大津波遭難者慰霊之塔は、宮良地区のタフナー原に建てられています。
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明和大津波災害関係諸記録抜粋の碑文
碑文遠景
右: |
明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文 |
左: |
明和大津波災害関係諸記録抜粋 |
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明和大津波災害関係諸記録抜粋 地震の規模と位置(東京天文台編理科年表による) M(マグニチュード)7.4 震源地東経一二四.三度 北緯二四度 「八重山地震津波」と記録 (石垣島白保崎南南東四〇キロメートルと測定される)
津波の状況(大波之時各村之形行書による)
石垣島で「潮揚高貮拾八丈(八四.八メートル) 或貮拾丈(六〇.六メートル) 或貮拾五(七五.七~七八.七メートル)或貮 参文(六~九メートル) 沖ノ石陸へ寄揚 陸ノ石並大木根乍被引流」とある
災害の状況(大波之時各村之形行書 御手形写御間合控等による)
全壊した村 石垣島の真栄里 大浜 宮良 白保 仲与銘 伊原間 安良 屋良部の計八村
半壊した村 石垣島の大川 石垣 新川 登野城 平得 離島の黒島 新城の計七村
遭難死亡者 総計九三一三人(群島人口の三二.二二%に当る) 内 石垣島八八一五人(九四.七%) 在番 頭職等の公職者八八人及び蔵元の公用で離島からきて遭難死亡した三七六人を含む) 黒島二九三人(三.一%) 新城島二〇五人(二.二%) 住家の全潰 総計二一七六戸 浸水一〇〇三戸 田畑の流出 総計一六四二町四反五畝一二歩
作物被害 田畑総計一七九五町二反六畝一〇歩
その他の流潰流出 蔵元庁舎 村番所一三棟
会所四棟 御嶽一四棟 橋梁六座 桃林寺及び同寺の仁王像二体 権現宮 貢納米等
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明和の大津波慰霊碑 説明看板
同説明文拡大
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この看板は慰霊碑の隣に建てられていて、近年の観光客増加に伴い、和文・英文を併記して明和の大津波を説明しているものです。
明和の大津波慰霊碑
Memorial Monument for the Great Tsunami of Meiwa
八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば、乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり、それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき、間もなく外の瀬まで潮が干き、東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ちたちまち島々村々を襲った。波は三度もくりかえした。史上有名な八重山の明和大津波である。
津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ、全半壊あわせて一三村のほかに黒島、新城二村が半壊し、遭難死亡者は九三一三人に達した。
こうして群島の政治、経済、文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ、加えてその後の凶作飢餓、伝染病などによる飢餓者、病死者も続出して人工は年年減少の一途をたどり、人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとしその影響はまことに計り難いものがあった。
この天災から二一二年、狂瀾怒濤のなかで落命した人々のことを思うとき、いまなお断腸の念を禁ずることができない。このたび有志相謀り、群島全遭難者のみたまを合祀してその冥福を祈り、あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し、島内外各面の浄財と石垣市、竹富町、与那国町並びに諸機関団体の御協力を仰いでここにこの塔を建立した。
一九八三年(昭和五八)四月二四日
明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会
According
to an ancient Yaeyama record written for the Rukyu Kingdom’s government (Onami no toki kaku mura no nariyuki sho), at around 8:00 a.m. on April 24th, 1771 (during the Meiwa period) there was a major earthquake, followed by a sound to the east of Ishigaki island similar to the roar of thunder.
Shortly thereafter, the tide receded to the outer shallows, and a giant wave appeared looming in the northeast and southeast parts of the ocean, like a black cloud. Suddenly, it struck Yaeyama’s islands and villages, and was then followed by two more.
This was the famous Great Tsunami of Meiwa.
The tsunami was terribly destructive on the east and south coast of Ishigaki island. A total of thirteen villages were partially
or fully destroyed. A village on Kuroshima island and one on Aragusuku island were also partially destroyed. A total of 9,313 people died.
In this way, Ishigaki island – the Yaeyama archipelago’s political economic, and cultural center – received a devastating blow.
People subsequently died due to starvation from poor harvests as well as various diseases, reducing the population every year.
This made things even more difficult for Yaeyama society, which was poll-tax based. The tsunami’s effects were
truly unfathomable.
Even 212 years after this natural disaster, it’s hard not to be heartbroken wen one thinks of all the people that lost their lives in this raging tsunami. This monument was created to enshrine the spirits of the decreased from the archipelago, praying for their happiness and hoping that the history of what was an unprecedented disaster will be transmitted to future generations for many years to come. It was constructed by a group of
interested individuals with the support of donations from people on Ishigaki and elsewhere, as well as the cooperation of Ishigaki City, Taketomi Town, Yonaguni Town, and various agencies and organizations.
Association for the Construction of a Monument Memorializing Those Who Died in the Great Tsunami of Meiwa.
April 24th, 1983 |
25.鎮(琉第六四六一部隊慰霊碑)
鎮の碑
[慰霊碑表面]
[同裏面]
碑遠景
碑全景
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[鎮の碑]
鎮
[慰霊碑表面]
海碧き南国のこゝ八重山の地に
万斛の涙をのんで散華した
五十七柱の戦友の御霊よ
とこしえに安かれと祈りをこめて
昭和五十九年四月吉日
琉第六四六一部隊
沖縄県・香川県戦友会建之
戦没者名
沖縄県 香川県
(以下 略)
※ 万斛の涙:「ばんこくのなみだ」=とめどなく流れる涙のこと。
[同裏面]
慰霊碑建立の経緯
今から想えば、悪夢としか言いようのない
太平洋戦争末期の熾烈な沖縄攻防戦のさなか
ひたすら祖国日本の平和を願いつつ、散華
された五十七柱の戦友たちが静かに眠るここ
石垣島に 香川県から戦友代表が訪れたのは
昭和五十四年八月、戦争が終ってから実に
三十四年の歳月が流れていました。
これを契機に、現地の戦友や住民の方々と
の心温まる交流が始まり、戦後始めて訪れた
際 粗末な慰霊碑を建立いたしましたが、激
しい風雨に傷みましたので、このたび念願の
碑を再建する運びになりました。
この碑を建立するにあたり、終始ご援助を
賜りました多数の戦友 石垣市関係諸機関な
らびに現地住民の方々のご協力に対し、満腔
の感謝を捧げます。
この慰霊碑が、沖縄・香川両県を結ぶ心の
架橋となり、子々孫々にいたるまで末永く、
護持されることを固く信じます。
昭和五十九年四月吉日
沖縄県戦友会代表 瀬戸 弘
香川県戦友会代表 大高保一
琉第六四六一部隊は通称・毛木部隊とも呼ばれ、そのことからこの碑も「毛木部隊慰霊碑とも呼ばれています。
毎年6月には慰霊祭が執り行われています。
※ この慰霊碑は、海上保安部通信所と石垣電波方位測定所との間の道路の、ほぼ中間地点の北側の丘にあります。
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地図5.
26.真栄里ダムの碑(大浜)
真栄里ダムの碑
同 裏面
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[表面]
【上段】
真栄里ダム
【下段】
沖縄開発庁
竣工 昭和57年9月
[裏面]
施工者 清水建設(株)
八重山興業(株)共同企業体
※ この碑は真栄里ダムの左岸にあります。 |
27.底原ダムの碑
「底原ダム」の碑
同[裏面]
「世果報の水」の碑
同[裏面]
同遠景
堰堤(北側)
堰堤(南側)
|
[表面]
【上段】
底原ダム
参議院議員 岡部三郎 書
【下段】
定礎
昭和59年11月
沖縄総合事務局長 小谷宏三
[裏面]
底原ダム概要
本ダムは、かんがい用水を補給する目的で石垣島最大の河川である
宮良川支流の底原川上流に建設されたゾーン型フィルダムである。
型式 ゾーン型フィルダム 流域面積 直接5.04Km2(間接4.82Km2)
堤 高 29.5m 満水面積 1.38Km2
堤 頂 長 1331m 取水型式 斜樋
堤 体 積 3228千m2 利用目的 農業用水
総貯水量 13000千m2 施工期間 S57~H元
有効貯水量 12850千m2 総事業費 180億円
設計洪水量 300m2/sec 事業名 国営宮良川農業水利事業
常時満水位 EL39.5m 事業主体 沖縄総合事務局
[表面]
【上段】
世果報の水
国務大臣沖縄開発庁長官 伊江朝雄 書
【下段】
国営宮良川農業水利事業完工碑
[裏面]
碑文
於茂登連山に源を発するダム湖の恵みの水が、大地を潤し稔り豊かな五穀豊穣の地として、
この地が永遠に栄えるよう「世果報の水」と刻し、二一世紀農業の架け橋としたい。
事業概要
本事業は石垣島中央部以南に広がる3460haの耕地を対象とするものであり、その大部分はなだらかな丘陵地にあり、かんがい施設は皆無に近い状況であって用水は天水に依存している。このため、昭和46年に連続干天日数191日を記録したのをはじめ毎年のごとく干ばつの被害を受けている状況にあり、恒久的な用水対策を必要としている。
本事業はこれらの耕地にかんがい用水を供給するため水源を宮良川に求め、この上流に真栄里ダム、底原ダムを建設し、これから放流された水を上流及び中流部にある二又堰、平喜名堰により取水を行い、石垣ダム及び各地区の配水池へ圧送する。ここから自然圧によって各圃場へパイプラインにより送水するものである。
受益面積 3460ha(水田300ha、畑3160ha)
総事業費 390億円
工 期 昭和50年~平成4年
主要工事 ダム3ケ所、堰 2ケ所、用水路延長58Km
揚水機場 5ケ所、配水池 5ケ所
平成4年11月建立 沖縄県総合事務局石垣農業水利事務所
堰堤(北側)
【上段】
沖縄総合事務局
石垣農業水利事業所
竣工 平成3年3月
【下段】
前田建設工業株式会社
清水建設株式会社
西里建設株式会社 |
堰堤(南側)
贈
底原ダム完工記念
石垣市
平成4年11月吉日 |
底原ダムは、国営宮良川農業水利事業の最大施設です。本土復帰前の大干ばつで郡内の農家は収入を絶たれ、離農や農地売却の大きな要因となりました。石垣市や竹富町は乱開発を防ぐため農振法の網をかぶせ、農地の買い戻し交渉を進めつつ国に雨乞い農業からの脱却、機械化農業の実現を訴えました。また石垣市の100年の大計事業で、さらに国営名蔵川水利事業も展開されました。 |
28.鳥獣魂供養の碑
鳥獣魂供養の碑
同[裏面]
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[表面]
鳥獣魂供養の碑
[裏面]
猟友会八重山支部
平成十三年二月建立
この碑は底原ダムの北側(周回道路沿い)、大里地区と御茂登トンネルを結ぶ市道沿いにあります。猟友会八重山支部が2001(平成13)年に建立したものです。
沖縄は開発が進み、狩猟場所は本島北部、石垣島、西表島となっており、猟友会員も八重山が多くなっています。毎年11月15日から翌年2月15日までが狩猟期間と定められていますが、年間を通じてイノシシのほか鳥類による農作物被害も少なくありません。このため市や県の要請で有害鳥獣駆除も行われています。この碑はこれら鳥獣の魂を供養するものです。 |
Copyright (c) 2008.8 yaeyama-zephyr
写真の無断転載・使用を禁じます。利用等をご希望される場合はメールでご連絡下さい。
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