石垣島の石碑・説明看板(市街地-2)  更新 2020.09.12

今回は、地図の修正を行いました。

ここでは石垣島の市街地(石垣・新川)にある石碑・説明看板について紹介します。

No. 名 称 場 所
1. 桃林寺仁王像 石垣
3. 権現堂* 石垣
5.
7. 八重守之塔 石垣・バンナ
9. 八重山音楽先師顕彰碑* 石垣・バンナ
11. 八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑 石垣・バンナ
13. 名蔵配水池 石垣・バンナ
15. 石垣氏庭園 新川
17. 八重山キリシタン事件 殉教の地 新川
19. ナータジーカーの頌徳碑 新川
21. ハンナーカーラ 新川
23. 尖閣列島戦時遭難死没者 慰霊之碑 新川・真喜良
25. 冨崎観音堂 新川・冨崎
27. 米軍飛行士慰霊碑 新川・冨崎
29. 喜舎場永珣 顕彰碑* 新川・冨崎
31. 唐人墓 新川・冨崎
No. 名 称 場 所
2. 桃林寺創建400年記念碑 石垣
4. 長山長弘氏頌徳碑 石垣
6. 長延翁頌徳碑 石垣・バンナ
8. 鎮魂の碑 石垣・バンナ
10. 魂魄之碑 石垣・バンナ
12. 大川山 石垣・バンナ
14.
16. 宮良長包生誕地の碑 新川
18. 新生井戸之碑 新川
20. 牛馬之碑* 新川
22. 宮良長包顕彰碑* 新川・真喜良
24. 石垣永将頌徳碑* 新川・奈良佐
26. 御誕生記念造林の石碑* 新川・冨崎
28. 平和祈願之碑 新川・冨崎
30. 平和祈念碑 新川・冨崎

地図1


1.桃林寺仁王像

桃林寺仁王像 説明書き


金剛力士立像 説明ブレート


桃林寺の門


同 遠景
【上段】
重要文化財(美術-彫刻)
桃林寺仁王像 二
元文二年(西紀一七三七年)文明氏久手堅仁屋昌忠の作。補佐役は上官氏川平仁屋正肖及び松茂氏小濱仁屋當明の両人。用材は八重山産ドシヌ(おがたまの木)である。
本像は戦前斯道の権威鎌倉芳太郎氏及び伊東忠太博士によってその芸術的価値を斯界に紹介された。
像は向って右は密迹力士、左は金剛力士である。
一.所在地 石垣市字二八五番地 桃林寺山門
一.文化財指定 一九五六年二月二十二日
一.管理者 桃林寺
社団法人 八重山観光協会



【下段】
沖縄県指定文化財124
金剛力士立像
久手堅仁屋昌忠・川平仁屋正肖・小浜仁屋當明作
琉球・第二尚氏時代 乾隆2年(1737)
沖縄県石垣市・桃林寺

Okinawa Prefectural Property
Standing Vajrapani Guardians (J.,Kongo Rikishi)
By Kudeken'niya Shochu (n.d.), Kabiraniya Shosho (n.d.) and Kohamaniya Tomei (n.d.)
Second Sho Dynasty, Ryukyu Kingdam dated 1737 (Qianlong2)
Torinji Temple, Okinawa


日本最南端寺院、八重山桃林寺の仁王像。現地産オガタマノ木を用いた寄木造りで琉球の人によって制作された現存最古の仏像。そのみなぎる力は堂々たるものである。


これらの説明書きやプレートは、吽形像の左側の壁に取り付けられています。

吽形像:密迹力士

口を閉じた像です。

阿形像:金剛力士

口を開いた像です。

2.桃林寺創建400年記念碑

桃林寺創建400年 記念碑[表面]


[裏面]


碑の遠景
[表面]
4百年記念碑
法燈連綿
南海山桃林寺

[裏面]
南海山桃林寺は薩摩の申し入れ
を受け 「仏法興隆者 本是
朕夙志也」 とする琉球国王
尚寧の命によって西暦一六一四
年に創建された、 八重山初の
仏教寺院で、起伏の多い歴史を
のりこえ今日に至っている

開山四〇〇年大祭
記念事業奉賛会
現住 昌道
前住 禅秀
平成二十六
甲子歳 清秋建立
花園 ●●●

●は判読不能


法燈連綿について
「法燈」とは、仏法がこの世の闇を照らすことを光に例えたもので、
「連綿」は途絶えずに続いていく様子を意味するものです。


桃林寺は、石垣島では初めての仏教寺院です。
かつて八重山に社寺がなかったため、琉球に進攻した薩摩藩が尚寧王に進言して慶長19年(1614)に創建されました。祭神は熊野権現を勧請したもので、八重山における寺社建立の初めであり、貴重な文化遺産となっています。

3.権現堂

権現堂の碑文


権現堂

権現堂(ごんげんどう)
     重要文化財
     国指定 昭和56年6月

 薩摩藩が尚寧王に寺社の建立を進言したことから1614年(慶長19)桃林寺と同時に創建された 祭神は熊野権現を勧請したもので 八重山における寺社建立のはじめであり 貴重な文化遺産である 切妻造りの薬医門 室内に土間を取り込み両脇に祭壇を配した拝殿 棟上の火焔宝珠 竜頭等細部手法に特色をもつ神殿からなり それぞれが軸線上に建造されている 御神木の宝鏡は銅製で琉球最古のものといわれ ほかに木彫りの仏像も併祀されている 1771年(明和8)の大津波により潰滅したが 1786年(天明6)に再建された その後 1882年(明治15)神殿を改建 1910年(同43)に一部修復された 太平洋戦争で大破したが1947年(昭和22)に修復 1973年(同48) 1978年(同53)に部分修理を加え 1985年(同60) 薬医門 拝殿 扉絵を含む神殿及び石牆を修理した
     昭和61年1月吉日
     石垣市教育委員会


琉球を支配した薩摩が八重山の土地を調査した際、当地に寺社がないことを琉球国王に進言して建てられたものです。祭神は真言宗の教えをもつ熊野大権現を分神したものです。
1981年に国の重要文化財(建造物)に指定されました。


権現堂は市内・字石垣にあり、隣は桃林寺です。

地図2


4.長山長弘氏頌徳碑

長山長弘氏顕彰碑 [正面]


[裏面]


顕彰碑周辺

[正面]
わが愛するふる里
この島ヽを憂い
こゝに静かに眠る
長弘拝


[裏面]
平成二十七年八月十八日
故長山長弘氏頌徳碑
法名 弘建宗泰居士
平成二十七年八月吉日建立
故長山長弘氏頌徳碑建立期成会


この碑は、沖縄県の建設業界で活躍された長山長弘氏を称え建立されたものです。

この碑は八重泉酒造の東側の道沿いにあります。

5.欠

地図3


6.長延翁頌徳碑

碑の外観 [正面]

[碑の裏面]


[碑の右側]


[碑の左側]
[正面]
長延翁頌徳碑

[裏面]
宮平長延翁ハ山陽姓第四世ノ偉人ニシテ西歴一六七四年八月廿日黒島首里大屋子長孝ノ二男トシテ誕生シ一七四九
年十一月十三日永眠セラル享年七十六歳 翁ハ天資英邁豪放磊落貧家ヨリ身ヲ越シ青年時代石垣頭ノ侮辱ヲ受ケテ
発憤シ蹶然立ツテ立身ノ方向ヲ替ヘ首里ニ遊学十年間苦学勉励其間?? 辱知ト学友ノ友愛ニ浴シ以テ将来スル有
意義ナル政治的背景を獲得セリ彼ハ蛍雪ノ功空シカラス若父子ヨ 黒島目差ヘ昇進シテ錦衣帰郷更ニ脇筆首仮脇引
差花城与人築登之座敷ト累進シ五十三歳ニハ黒島首里大屋子ヲ拝命シ黄冠御下賜ノ栄誉ヲ荷ヒ一七三二年五十九歳
ノ特八重山最高行政官タル大浜頭ノ栄職ニ敍任セラシ曽ツテ傲岸タリシ石垣頭ヲシテ愕然?若タラシム 一七三八
年八重山ノ林政並ニ治水土木工事ノ指揮監督官兼在番筆者島袋里之子親雲上カ越任セルヲ幸ニ翁ハ祖業ヲ継承スヘ
ク上國シテ今帰仁按司並ニ新道ノ権威者蔡温ヨリ林致学ト治水土木法トヲ学ヒ帰郷シテ島袋監督官ト共ニ造林計画
ト村別山境界図面及ヒ治水土木工事ノ設計図面等ヲ調製シ杣山機樹ヲ創設シテ役人ヲ配置シ山林原野ノ土地測量ヲ
完了シ林政ノ大事業二百年の計ヲ樹テ名蔵川白保川作原川等ノ治水土木工事ヲ断行シ以テ水利ヲヨクシ宝庫ノ開拓
ト生産増強ニ全魂ヲ打チ込ミタリ然ルニ此ノ難工事ニ要スル天役ハ巳定ノ数ニテハ目的達成ノ不可能ナルヲ知レル
翁ハ在番監督官ト協議ノ結果上司ヨリノ許可ノ未着前ニ更ニ天役ノ増加シ工事ヲ進行シ今日ノ良林相ヲ見ルニ至ル
噫翁ヲ讃ヘテ八重山ノ蔡温ト称ス又故アル哉 川良山道ハ祖父長重翁カ一六四九年頃私財ヲ投シ万難ヲ排シ開通サ
レシ大土木工事ニシテ之ノ川良山道ノ嚆矢タリナント年月ノ流レ先ニ道路ノ破損甚シク通行不能ナリシタメ翁ハ祖
父ノ素志ヲ貫徹スヘク一七四二年頃此ノ山道改修ノ大工事ヲ竣工シテ通行運輸ノ便ヲ計リ以テ今日アルモ得タル也
一七四五年翁ハ勲功ニ依リ尚敬王ヨリ表彰状並ニ賞品拝領ノ光栄ヲ得又一七四六年奥州ノ漂流者共ヲ厚ク介抱シテ
無事帰還セシメタル故ニ松平陸奥守ヨリ感謝状ト銀子三枚ヲ拝領セリ 翁ノ政治的聲望ヲ討シ常ニ凝視セル政敬等
ハ翁ヲ中傷シテ遂ニ政治的致命傷ヲ与ヘタ 翁ハ無実ノ罪ヲ負ハシ縲紲ノ身トナリ牢屋生活中死ノ勝利ヲ頌悟諦観
サレ無罪釈放ノ公報到ル寸前獄中ニ於テ自決セラル噫痛マシキ哉サント正義ハ永遠ニ亡ヒス萬古翁ノ血流を汲ム子
孫ヲ昌ヘシメ以テ翁ノ遺烈ヲ顕彰セシム天理ノ妙運命ノ綾絲凡智推量ノ外ニアリト云フヘシ 嗚呼時代ノ太陽ト讃
仰サレシ翁ノ偉業高潔ナル人格高邁具眼経世済民ノ鴻業ハ山林治水土木工事ニ光芒陸離潔然タリ 翁ノ遺徳ハ右
昆ノ亀鑑ト欽仰シテ惜カサル所以ナリ茲ニ山陽姓一門碑ヲ建テ其ノ高徳ヲ鎮ス
一九五一年昭和二十六年八月吉日


[右面]
頌徳碑建設者山陽姓
一門代表者医学士  宮良長詳
碑文起草者 喜捨場永珣
工事設計監督者 花城善箸

[左面]
碑文謹書者 宮良保備
碑文彫刻者 持増光雄
頌徳碑世話人 宮良高伴



この長延翁頌徳碑は、バンナ公園南入口近くに建てられています。

7.八重守之塔

八重守之塔碑文


合祀碑文


八重守之塔説明プレート


八重守之塔


八重守之塔遠景

右側が八重守之塔碑文で、左側が合祀碑文です。

八重守之塔説明プレート 遠景

八重守之塔説明プレートは道路沿いにあります。
八重守之塔碑文
独立混成第45旅団隷下の各部隊は海軍の警備隊とともに八重山群島同胞と相携えて米軍の本土進攻に備えこの島に鉄壁の守備を整う。 昭和20年4月米軍沖縄本島に上陸するや孤立無援となり間断なき砲爆撃のもと食料等の補給全く杜絶しあまつさえマラリアのしょうけつ苦しき中に全将兵並びに関係住民は渾然一体となり堅忍不抜の意気に燃え死生を超越してよくその任を全うせり。 ここに南方同胞援護会の助成を得て碑を建て戦陣にたおれし勇士670柱の霊を慰め永くその功を世に伝う。
 昭和42年8月
 八重守之塔建立委員会

合祀碑文
昭和44年慰霊の日を卜してここに日露戦役より太平洋戦争に至る各戦役において戦陣に散華された八重山群島出身軍人軍属戦闘協力者ならびに学徒隊の英霊壱千余柱の八重守之塔合祀を奉告し謹んで慰霊の誠を捧げもって殉國の偉勲を永く世に伝う 冀くば世界平和の礎となりて安らかに鎮まり給わんことを
 昭和44年6月23日
 八重山市町村会
 財団法人 沖縄遺族連合会八重山支部


八重守之塔(やえもりのとう)
八重守之塔は1967年(昭和42年)3月、八重守之塔建立委員会が南方同胞援護会の援助を得て戦没者670柱の慰霊を慰めるために建立されました。その後、1969年(昭和44年)6月23日、八重山市町村会と沖縄県遺族連合会八重山支部により日露戦争から太平洋戦争にいたる八重山群島出身の軍人軍属戦没者1,000余柱が合祀されました。
        石垣市



※ これらはいずれもバンナ公園南入口にあります。
  毎年慰霊の日に戦没者慰霊祭が行なわれています。

8.鎮魂の碑

鎮魂の碑


同 【中・下段】
【上段】
球第六四六三部隊
鎮魂
徳島県知事 三木中三書

【中段】
祈平和
石垣市長 内原英郎

【下段】
球第六四六三部隊は
昭和十九年六月二十九日
輸送船富山丸の撃沈で
先遣隊が壊滅し
同年八月徳島で編成され
た歩兵大隊で同年九月
十四日本土防衛のために
ここ石垣島に上陸し
現地召集の者を併せて
二十一年一月まで駐屯し
ました
その間激しい空襲と
マラリアで多くの戦友
が亡くなりました
この痛ましい事実を
忘れぬために沖縄県と
本土の戦友たちが協力
して
戦死者の慰霊と
永遠の平和を願い
この碑を建てました
  昭和六十年六月二十三日
  球第六四六三部隊戦友会



この碑は、バンナ公園南入口近く、「八重山音楽先師 顕彰碑」の隣に建てられています。

9.八重山音楽先師 顕彰碑

八重山音楽先師 顕彰碑


碑 【中段】


碑 【下段】
【上段】
八重山音楽先師 顕彰碑

【中段】

先 師

真謝与人  用  格
高那与人  英  任
崎山与人  用  宗
小浜与人  英  暢
野底与人  英  普
真謝与人  英  敬
大浜仁屋  英  成
若文子    英  恕
講談師匠  安室孫師
当銘仁屋  由  教
石垣大首里大屋子 大浜用能
石垣仁屋  信  演



【下段】
この碑は
八重山古典三味線音楽
先師の業績を永く
後世に顕彰するため
建立したものである
昭和四十五年二月十日
顕彰会建立期成会
会 長    糸数用著
副会長   漢那 長助
副会長   大濱 津呂
事務局長 桃原 用知



八重山音楽先師 顕彰碑は、「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」の隣に建てられています。


碑 裏面


同 拡大


碑 側面
【右側】
昭和四十五年二月十日建立
平成十二年五月二十三日移転建立

【左側】
喜舎場英整  宮良信光
波照間永端  小渡長知
波照間孫講  浦添為良
宮城常行    大浜当温
喜舎場孫知  玉代勢秀喜
宮良長次    天久用立
石垣喜保    宮良高董
森田永船



【側面】
昭和四十五年七月二日死去
八十才
大浜津呂

漢那長助
昭和六十年十一月十二日没
九十二才

宮良長定
平成二十四年三月二十九日 没


この碑は真謝与人用格や石垣大首里大屋子・大浜用能ら12人の 八重山古典三味線音楽先師の業績を永く後世に顕彰するため、昭和45(1970)年に顕彰会建立期成会が建立したものです。大浜用能流の基礎を築き、八重山育ちや新港節、新ションカネーを作曲した副会長・大濱津呂はこの年に亡くなりました。

10.魂魄之碑

魂魄之碑


同 裏面
【表面】
魂魄之碑

【裏面】
宮田部隊戦友會
二〇〇一年十月十五日建立



この碑は、バンナ公園南入口近くに建てられています。

11.八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑

八重山戦争マラリア 犠牲者慰霊之碑の碑文


碑 遠景


八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑


同 遠景
八重山戦争マラリア犠牲者
慰霊之碑

 太平洋戦争の末期、沖縄県八重山地域においては軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ、過酷な生活の中で相次いでマラリアに罹患し、三千余名が終戦前後に無念の死を遂げるに至った。
 国は、終戦から五十年を経た平成八年度に、これら犠牲者の御霊を慰めるため、沖縄県へ「八重山地域マラリア死没者慰霊事業」の助成を行った。
 この碑は同事業の一環として遺族等からなる「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」の協力を得て建立されたものであり、遺族がその思いを込めて御霊の名を小石に記し碑の中に納めてある。
 この碑が八重山の戦争マラリア犠牲者の御霊を慰め、その悲惨さを後世に永く伝え、世界の恒久平和創造への礎となることを祈る。
平成九年三月二十九日
沖縄県知事 大田昌秀
協力 沖縄県強制疎開マラリア犠牲者援護会
     会長 篠原 武夫
意匠      潮平 正道
揮毫      玻名城 泰雄



八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑は、バンナ公園南入口近くに建てられています。

地図4


12.大川山

大川山の碑


同 遠景
大川山

三等三角点

 緯度  24°22′20″70
 軽度 124° 9′49″52
 標高         230.08m

 ここに設置されている標石は三角点と言い、地球上の位置(軽度
緯度)が高い精度で求められています。
 三角点は、私たちのくらしにも密接な関わりがあり、地震予知や
地図作りを始め、いろいろな測量の基礎となる重要なものです。

建設省国土地理院沖縄支所
八重山地区測量設計業協会
平成5年 測量の日建立



大川山とは、「バンナ岳」のことです。各社のTVアンテナが設置されています。


この碑は、「エメラルドの海を見る展望台」の近くの、電波塔のフェンスの内側にあります。

13.名蔵配水池

名蔵配水池の碑 [表面]


[裏面]


碑遠景
[表面]
名蔵配水池
石垣市水道課

[裏面]
 平成三年二月八日建立



名蔵配水池は、石垣市の環境配慮型水道施設の第一号です。バンナ森林公園の丘陵部に貯水タンクを埋め込み、赤瓦の小屋を建ててボンプ機器などが収容されています。(右の写真を参照)
一見、芝生の張られた公園のようですが、盛土や緑化などにより施設が極力隠され、自然景観を妨げないように工夫されています。


この碑は、北口管理棟から「ふれあい子供広場(Eゾーン)」への道の途中、左手にあります。

14.欠

地図5

15.石垣氏庭園

石垣氏庭園の碑


石垣氏邸門


同上(逆方向)


石垣氏庭園



石垣氏庭園
                        国指定名勝 昭和58年10月27日指定
 この庭園は、わが国の日本庭園のうち最南西の位置にある庭園で沖縄の名園のひ
とつです。
 1800年頃八重山の大浜間切頭職の地位にあった石垣家の祖先である大浜親雲
上のときにつくられたと伝えられています。庭園は琉球石灰岩を主な材料とし、五
つの集団石組を北から南へと順に低く築いてあります。これらを石段や石橋をつな
ぎ、所によって枯れ滝を落し、岩島を配しています。
 のき下の左手には一群の石組み、右手には砂岩の手水鉢が置かれています。庭園
の背後にはフクギ、築山にはソテツを植え込むなど、日本庭園の伝統様式を踏まえ
ながらも、地方色豊かな枯山水庭園として独特の趣をみせています。
 この庭園は、八重山における近世上層階級の屋敷構えと庭園を知る上でも貴重で
あるばかりでなく、日本庭園の伝播をみる上でも価値のあるものです。
 平成2年3月   文部省
            沖縄県教育委員会


石垣氏庭園は石垣市字新川にあり、1983年に国より名勝に指定されました。
かつて、琉球の邸宅及び庭園等はその家柄の位階等によって格式が規定されていました。この庭園は石垣家の祖先大浜親雲上(おおはまペーちん)長演が大浜間切の頭職(八重山の最高の役職)当時、首里の庭園師城間親雲上(ぐすくまぺーちん)の構図・設計監督により日本石山の法式をもって創建したものとされています。庭園師城間親雲上は宮良殿内の設計を行ったことで知られています。
地元の琉球石灰岩を使用し、フクギやソテツなども利用した庭園は、宮良殿内とともに八重山の二大名園で、枯山水の日本庭園の様式を取り入れつつも、八重山独自の様式の庭園を知る上で貴重なものとなっています。


石垣氏庭園は桃林寺の北150mの所にあります。

16.宮良長包生誕地の碑

宮良長包生誕地の碑


碑 遠景
[正面]
宮良長包生誕地

[側面]
石垣市教育委員会
二〇〇三年六月建立



この碑は新川の食事処「森の賢者」の隣(北側)にあります。

17.八重山キリシタン事件 殉教の地

「八重山キリシタン事件
 殉教の地」の碑


赤い琉球瓦の祠


よく整備された庭
八重山キリシタン事件 殉教の地
 一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ嘉善姓一門を中心にひろまったが国禁であるキリスト教を信仰したとして「八重山キリシタン事件」と呼ばれるキリシタン弾圧事件がおこった。
 一六二四年、宮良親雲上永将は首謀者として当地(オンナー)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、宮古島に流された。ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
 一六二九年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟宮良頭の永弘や大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行された。永弘は渡名喜島へ流刑となり、一六三五年に焚刑に処せられるが、安師は慶良間島へ流刑となった後に赦されて帰島する(一六四二年)。
 さらに、一六三八年には宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとして永将同様当地(オンナー)で焚刑に処せられた。
 この一連の事件は薩摩侵入(一六〇九年)後の琉球唯一のキリシタン弾圧による殉教事件である。
 本宮良の主と呼ばれた永将翁が処刑されるときに歌ったとされるのが「大野ダキアヨウ」である。
 祠の中の霊石は、焚刑に処せられた本宮良の主永将翁と宮良与人永定翁のものと伝えられる。永将翁の紋所「四つ巴」は心の字数を表しているといわれる。
 二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)
                      嘉善姓一門会



この事件をきっかけに、スペイン・ポルトガル船の来航を排除する海防体制が強化されました。また、薩摩藩・徳川幕府による琉藩支配が一段と厳しくなり、琉球王国が被支配者であることがより明確となっていきました。

この碑は桃林寺の西方(79線沿い(新川54番地)にあります。

18.新生井戸之碑

新生井戸之碑


碑文


裏面


新生井戸


新生井戸外観

[上段]
新生井戸之碑


[下段]
往時 長崎家の祖が漁猟のためこの杜の辺りを往還するたび樹々の間に怪しい火の明滅をみたので杜にわけ入り光の発するところを尋ねたところそこには夫婦石があつた。 思うにこの石は神のよりましの霊石にちがいないと考え爾来この霊之日参し礼拝信仰した。
ある年八重山は農作物の不作で収穫のほとんどない凶作であったが不思議なことには独り長崎家の農作物ばかりは豊かに稔ったので日頃篤く崇う杜の神のあらたかな霊験だとし初穂神酒を供えその恵みの感謝を捧げた。
この話を伝え聞いた村人はこぞって聖なる杜に額づくようになりひとしく神の霊徳に浴したので一社を建立益々信仰を深めるに至った。 ここがすなわち八重山御嶽七山の一つとして崇められる長崎御嶽である。 さるほどにこの杜への神降臨があったのち霊石の鎮まり給う西方に突然美しい霊泉の涌出があった。 人々はまさに神のみわざだと喜びこれを掘り下げ井戸を築き神に手向ける浄水を汲む井とし新生井戸(アラマリナー)と称した。
宝暦七年(一七五七)石垣村から新川村が分村したときこの新しく生れた井戸の名前を村名にして新川村と命名したと伝承されている。
 昭和五十四年(西暦一九七九)六月廿三日建立
 新川字会長 冨田孫秀謹書


[裏面]
碑建立実施者
神司 長崎初
仝 崎枝キヨ
仝 我謝 初
仝 黒島 薫
聖域寄贈 宮良長和
新川出身
工事提供 上原長義
協賛   新川字会



新生井戸は長崎御嶽の西方の少し離れた場所にあります。周囲は緑の木々に囲まれています。

19.ナータジーカーの頌徳碑

ナータジーカーの頌徳碑

 
同 碑文


ナータジーカー
[上段]
頌徳碑

[下段]
この井戸は古来凡そ貮百年前
に大工家の祖先が住民のため飲
料水用として掘り出された由緒ある
井戸(ナータッカー又はインヌカー)と
呼ばれ石垣市上水道の出来るまで
使用されてきた井戸であります
そこで祖先の偉業を永遠に讃えここに
頌徳碑を建立す
昭和五拾参年六月
井戸主 大工安五郎
発起人 大江高英
外親族一同



ナータジーカーは市街地から川平に向う79号線沿い(新川地区)にあります。

地図6


20.牛馬之碑

牛馬之碑


正面


左側


右側


裏側
【上段】
牛馬之碑

 字新川

【下段】
牛馬之碑 港内整備
字会長 照屋玄
副会長    
(以下3名略)
部長     
(以下4名略)
工事施工者 
(以下2名略)
平成十二年(二〇〇〇年)九月二十八日竣工

【右側】 【左側】 【裏側】
この景勝地
 フツクニムルは
南に真喜良
 北に阿香花
ここに新川字
 の永遠の
発展と畜産
 振興の根源
たる牛馬の
 魂を祭り
永遠に畜産
 の守護神
として見守り
 給えと祈る
昭和四六年六月
    若夏
嵩本正宜
真喜良が丘
 別名フツクニムル
牛馬之碑建立
 坪数 一六〇坪
 竣工昭和四六年
  六月十五日
土地寄贈(道路の分)
 屋嘉部長悦
協力者
 (以下氏名略)
工事施工者
 大底清起
 石垣市
 新川字民一同
新川字会長
 石垣利男
副会長
 屋嘉部長悦
 平良恵清
祭事係
 譜久盛信正
(一~五)町内会長・副会長
 (以下氏名略)
外役員一同
老人クラブ会長
 西川方助
副会長
 石川正松


 この碑の前で、新川字会が毎年「牛馬祭」を行い、牛馬の安全祈願をしています。
 伝承によれば、疫病で新川の牛馬が次々と死んでいったのに対し、大嵩屋(フータキヤー)の牛馬は健康でした。そのわけを村人が尋ねると、大嵩屋は「牛馬の安全と繁盛を祈願しているから」と答えました。それから村人も祈願するようになったそうです。当初は、ジィーダカと呼ばれていた地でシィサシィスクムリィから運んできた石を神体としていたようです。



牛馬之碑は「あやぱにボウル」の西側の丘上にあります。

フツクニムルの坂道から東側の眺め

フツクニムルから前勢岳方向の眺め

21.ハンナーカーラ

ハンナカーラの説明板


ハンナカーラ

ハンナカーラ
 ここはハンナカーラとよばれ、清冽な湧泉による小川で、戦前までは通行人の水のみ場であり、いこいの場所であった。
 一帯は田原またはハンナー原とよばれ、附近には稲作や雨乞い神事の祭場、集団苗代、牧場ゆかりの牛の御嶽、川平への一黒塚などがあり、新川村の重要な農牧地であった。
また明和大津波(一七七一)後の八重山の復興に力をつくされた与那覇在番の宿舎も、すぐ東の安高原にあった。
 ハンナーという地名は、一七世紀に連続四代も石垣頭職を排出した名門ハンナー家ゆかりの命名のようで、石垣四ケ村から川平への県道は、この水のみ場の前を西北方に向かっていた。
  昭和六三年二月三日建立
  創価学会



ハンナカーラは県道79号線沿いの、八重山文化会館の近くにあります。

22.宮良長包顕彰碑

音楽家 宮良長包顕彰碑


同碑文



舟蔵公園
[表面]
音楽家宮良長包
顕彰碑

[裏面・上段]
宮良長包は 明治十六年三月現在の石垣市字新川に生まれる 明治三十五年三月八重山島高等小学校卒業 明治四十年三月沖縄県師範学校卒業 同年四月現在の登野城小学校訓導に任命され 大正四年四月沖縄県師範学校附属小学校へ転任 その後 沖西 小禄両小学校長を歴任して 大正十年四月沖縄県師範学校音楽教師に迎えられる 以来十七年間音楽教育に専念する傍 作曲活動に精進し幾多の名曲を発表する 昭和十四年六月那覇市で病死 享年五十六歳 長包は生来感受性強く音楽的天分に恵まれ 沖縄の教育音楽の基礎づくりと発展のために生涯を捧げ 多くの優れた人材を育成するとともに 当時郷土文化に対する蔑視と差別的風潮の中にあっていち早く伝統的郷土音楽の優秀性を確認してその神髄を極め 郷土の情緒と旋律を基調とした格調高い 個性豊かな宮良音楽を生みだした 彼の創作した幾多の名曲は広く大衆の中に普及浸透し 郷土への限りない愛着を人びとの魂に深く刻み込んだ
 暖かい愛情と感性豊かな教育者
 沖縄の教育音楽の先覚的指導者
 沖縄の心を発掘昇華した愛郷の芸術家
ここにその輝かしい偉業を讃え 生誕百周年を記念して顕彰碑を建てる

[裏面・下段]
建立
1983年3月18日
宮良長包生誕百周年記念事業期成会
社団法人 八重山青年会議所


「えんどうの花」など数多くの名曲を作曲し、沖縄を代表する音楽家・宮良長包の顕彰碑は、1983(昭和58)年、生誕百周年を記念して新川の舟蔵公園(旧児童公園)に建てられました。長包は1883(明治16)年、石垣市新川生まれ。師範学校卒業後、教鞭をとりながら郷土色豊かな作曲活動を行いました。郷里の後輩の面倒をよくみて、教え子は長包を親のように慕ったそうです。碑は偉業を後世に伝えようと、八重山青年会議所が中心となり、野外ステージとともに建設されました。

この碑は、舟蔵公園、通称、児童公園内にあります。公園の向かいには竹富島がよく見えます。

23.尖閣列島戦時遭難死没者 慰霊之碑

尖閣列島戦時遭難死没者 慰霊之碑


同 説明碑


碑 遠景1


碑 遠景2
【上段】
尖閣列島戦時遭難死没者
 慰霊之碑
【下段】
 死没者名 略 (80名)

【説明碑】
尖閣列島戦時遭難死没者
 慰霊之碑
 太平洋戦争末期の1944年7月、日本軍は台湾航路の制海空権が米英車に掌握されていたにもかかわらず、石垣町民に台湾疎開を命じた。1945年6月30日、最後の疎開船、第一千早丸と第五千早丸は老人・婦女子180名余を乗せて午後9時過ぎ石垣港を出港し、西表船浮港を経由して台湾へ向けた。7月3日午後2時頃、尖閣列島近海を航行中に米軍機に発見されて機銃掃射を浴びた。船上は阿鼻叫喚のるつぼと化し、銃撃死、溺死と多数の死者が出た。第五千早丸は炎上沈没、第一千早丸は機関故障で航行不能となったが乗組員の必死の修理で魚釣島に漂着することができ、九死に一生を得た。
 約1か月近くの集団生活で食糧も底をつき、餓死者も出るなど極限状態となった。頼みの千早丸も流失して連絡手段を失った人々は小舟をつくり、決死隊を編成し8月12日午後5時過ぎ石垣島へ向けて出発し、同14日午後7時頃、川平の底地湾に到着した。この救助要請によって生存者が救助され、同19日石垣港へ到着した。
 魚釣島は無人島で遠隔地であることから、現地での慰霊を行うのは困難な為、この地に慰霊牌を建立し、御霊を慰め、併せてこの悲惨な戦時遭難事件を後世へ伝え、人類の恒久平和を祈念する。
                       2002年7月3日
                 尖閣列島戦時遭難死没者
                 慰霊之碑建立期成会



この碑は、新川の「舟蔵の里」の東側の海岸沿いにあります。

24.石垣永将頌徳碑*

石垣永将頌徳碑


同遠景
【上段】
石垣永将翁
頌徳碑

【下段】
風化が進み、説明文は判読不明


嘉善姓第5世石垣永将は新川村の生まれで、役人の最高官である親雲上の役職につき、南蛮貿易や八重山の政治経済に貢献しました。しかし1624年にスペイン船が石垣島に漂着、その船に乗っていたルエダ神父を石垣永将が牛数十頭を贈るなどして歓待したところ、それが首里王府の知るところとなり、永将は首里に連行され、取り調べを受けました。その結果、1613年に全国的に禁止の命令が出されていた国禁のキリスト教を信仰しているとの疑いをかけられ有罪となり、渡名喜島に流罪の処分をうけたとされています。
一方、ルエダ神父も粟国島に遠島となりましたが、後に別の島へ移されることになり、その途中、海上で殺害されたとされています。
その後、その事件は、薩摩の知るところともなり、1634年(崇禎7)に改めて薩摩からの処分があり、永将は翌1635年に渡名喜島で火刑になったとされています。(伝承では、永将は、字新川にあるオンナーといわれている場所で処刑されたとされ、嘉善姓一門の墓のある場所は、永将が洗礼を受けた地とされています。)
なお、この碑は嘉善姓一門が1968年にその遺徳を称えて建立したものです。



この碑は、市街地から観音堂に向かって進み、石垣リゾートグランヴィリオホテルの先にある八重山厚生園に向かう坂道の途中・左手にあります。

嘉善姓門中墓遠景


同敷地内
石垣永将頌徳碑のすぐ隣(西側)にある嘉善姓門中墓は総坪数186坪もある古墳です。墓の門は拱門式唐破風石造り、頂には火焔宝珠があります。

永将は南蛮語も中国語も学び、会話もできたと伝えられます。新川・奈良佐にあるその門中墓において禁教キリスト教の洗礼を受け、その家族、親戚、知己などにもすすめて帰依せしめたそうです。

門中は父系出自につながる共通の先祖をもち,姓を共有し清明祭(せいめいさい)に代表される定期的な祖先祭祀を行います。

地図7


25.冨崎観音

冨崎観音堂 説明板


同遠景



冨崎観音堂 石碑
        石垣市史跡
        昭和62年3月26日指定

 冨崎観音堂は、乾隆(1742)年、順天氏第4世西表直香が冨崎原に堂宇を造営して観音像3体を奉安し、庶民の航海安全祈願所としたことに由来する。
 表直香が無役のころ、宰領役に隋って上国したその途次、中国福州へ漂着した際に、かって八重山で介護したことのある中国人某に出会い、観音像2体を守護仏として贈られる奇縁に恵まれた。一方、夫の無事を案じていた妻真鶴が美崎御嶽や権現堂に日参しているのを知った桃林寺住持は、観音像1体を真鶴に与えた。まもなく表直は無事帰島し、観音像3体を自宅に安置し篤く信仰した。
 その後、大浜村「かやんに」に小堂を建て観音像を移したが、のち託宣があったとして新川村「ふっこんに」へ、さらに経塚のある冨崎原へと移転した。乾隆46(1784)年、6世直達らが、瓦葺きに改築し道光17(1837)年には在番知念親雲上政行が本堂を造営した。その後、明治から昭和にかけて改築や再建がくり返されているが、周辺の植生とあわせ名所となった観音堂は、海上交通安全と無病息災の祈願所として庶民の信仰は極めて篤い。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。

  昭和62年10月
  石垣市教育委員会



冨崎観音堂にはお正月に大勢の島の人々が参拝に訪れます。

26.御誕生記念造林の碑

御誕生記念造林の碑


冨崎観音堂の参詣石階段

奉祝 今上天皇陛下第一子
    照宮成子内親王殿下 御誕生記念造林
       帝國在郷軍人会八重山郡聯合分会


この碑は昭和4(1929)年ごろ、帝国在郷軍人会八重山郡聯合分会が建立したものです。
裏面には「皇室の御慶事を記念して在郷軍人会八重山郡聯合分会は此の霊地観音堂境内に三カ年継続事業として松造林を計画し昭和二年一月三日第一回植樹、昭和四年一月之を完成す」と記し、聯合会長や石垣町・大浜村の分会長の名前が記されています。
このことから、観音堂の巨木・琉球松群の樹齢は90年近くになるものと思われます。


この碑は新川・冨崎観音堂の石灯ろうが林立する参詣石階段の西側にあります。

27.米軍飛行士慰霊碑

米軍飛行士慰霊碑


邦文


英文

碑文
 太平洋戦争末期の昭和20年4月15日の朝、石垣島に来襲した米空母マカースレイトの雷撃機グラマンTBFアヴェンジャー編隊の1機が、日本海軍警備隊の地上砲火で撃墜された。 パラシュートで大浜沖合に落下した3名の飛行士は海軍兵士に逮捕され、捕虜となり、警備隊本部のあるバンナ岳麓で瀕死の暴行を受け、同日夜処刑された。 捕虜の虐待は「捕虜の待遇に関する条約」(通称「ジュネーブ条約」昭和4年)で禁止されていた。 ティボ中尉とタグル兵曹は軍刀で斬首、ロイド兵曹は多数の兵士達の銃剣による刺突で無残にも殺害された。 これは戦争がもたらした非常に悲しい事件であった。
 バーノン・ローレンス・ティボ中尉(機長,イリノイ州出身,28歳)
 ウォーレン・エイチ・ロイド兵曹(通信手,カンザス州出身,24歳)
 ロバート・タグル・ジュニア兵曹(砲手,テキサス州出身,20歳)
 人道上から日米が協力して、無念のを死遂げた米兵士の御霊を慰めるため、ここ石垣島に慰霊碑を建立する。
 碑が日米の平和、友好の発展に寄与し、かつ人間として持つべき平和を希求する心と、決して戦争があってはならないという固い誓いを後世に正しく伝え、世界の恒久平和の実現に寄与することを祈る。   平成13年8月15日
 米軍飛行士慰霊碑建立期成会

On the morning of April 15,1945,in the closing days of World War Ⅱ,a Grumman.TBF Avenger,assigned to the carrier USS Makassar Strait,was shot down off the coast of Ishigaki Island by the Imperal Japanese Navy. The three aviators parachuted in to the water near Ohama and swam to a coral reef,where they were captured by Japanese sailors. After being interrogated and tortured,they were executed during the night at the foot of Mount Banna,at the Imperial Navy Headquarters. The torture of prisoners of war was a violation of the Geneva Convention,the rules of war signed by the international community in 1923. Vernon L.Tebo and Robert Tuggle,Jr.were beheaded. Warren H,Loyd was beaten and stabbed with bayonets by numerous of sailors and soldiers.
This incident was a tragedy which took place during war.
 Lt,Verson L.Tebo, 28,a Navy pirot,of Illinois
 Aviation Radioman 1st Class Warren H.Loyd, 24.of Kansas
 Aviation Ordnanceman 1st Class Robert Tuggle,Jr., 20, of Texas
To console the spirits of the three fallen American servicemembers and honor their deaths,we jointly dedicate this monument in the hope that this memorial stone will contribute to the everlasting peace and friendship between Japan and the United States,and that this monument will serve as a cornerstone to convey to future generations our keep desire for eternalpeace in the world and our determination to renounce war.
August 15,2001
The Joint Committee of Japanese and American Citizens to Honor the Three Fallen American servicemembers During World War Ⅱ



この碑は「平和祈願之碑」の隣にあります。

28.平和祈願之碑

平和祈願之碑 碑文


平和祈願之碑遠景

人類の歴史上 いまほど世界平和が叫ばれ そしてそれが現実のものとなりつつある時代はないでしょう  それは東西の政治的な接近がもたらしたものですが 根源には交通手段 経済活動 情報網の地球的な広がりがあるのは周知のとおりであります  そして我々地球市民がこの次に乗り越えなければならない壁は異なる文化をもつ民族間の真の融和であり それには国家を越えた民間交流が重要な役割を果たすのです
今十周年を迎えた八重山青年会議所と蘇澳国際青年商会との姉妹締結は正にその第一歩であることは間違いありません
願わくはこの交流を通して両国のそして世界の恒久平和を希求し ここに平和祈願の碑を建立致します
   一九九一年八月一日
     八重山青年会議所
        理事長 宮城 隆
     蘇澳国際青年商会
        会長 陳 信光



この碑は「唐人墓」の隣(南東側)にあります。

29.喜舎場永珣 顕彰碑

喜舎場永珣 顕彰碑全景


喜舎場永珣 顕彰碑


説明碑文


同拡大
[顕彰碑 碑文]
 八重山研究の父
 喜舎場永珣
 顕彰碑

[同説明碑文]
 喜舎場永珣は明治十八年(一八八五)石垣市登野城で生まれ 昭和四十七年(一九七二)八十八歳の天寿を全うした
 明治三十八年沖縄県師範学校簡易科を卒業 教職に在ること二十七年 その間伊波普猷 柳田國男との出会いがあり郷土研究への強い影響をうけた
 昭和七年四十八歳で教職を退いた後は郷土の歴史 民俗 文化等の調査研究 資料収集 記録等に専心努力し幾多の著述を世に送り その中の「八重山古謡」は日本民俗学研究者最高の栄誉とされる柳田賞に輝いた
 かくてその先駆的業績は戦後沖縄学の形成に寄与 広く南島研究面に先導的役割を果たし また後進の研究や郷土史の教育 さらに八重山の伝統文化芸能の育成発展に測り難い影響を与えた
 彼は豪放磊落 記憶力抜群で 是非曲直にきびしい性格であった
 また郷土八重山の自然や文化をこよなく愛し「汝のたつ所を深く掘れ甘き泉あり」を座右の銘として「甘泉」と号し郷土の発展を期すために郷土研究の必要性を唱導
 自らその実践開拓に生涯を捧げ「八重山研究の父」と仰がれた
 ここに生誕百年に当たり 限りないその郷土愛と 偉大な研究業績を讃えるため 有志の浄財をもってこの碑を建立した
   建立 昭和六十年(一九八五)十一月三十日
   喜舎場永珣生誕百年記念事業期成会



「八重山学の父」とも呼ばれる喜捨場永珣の顕彰碑です。喜捨場は明治18年生まれで、八重山郡内各小学校で教鞭をとりましたが、沖縄学の父・伊波普猷から「教育者はまず郷土の歴史を知り、郷土に即して教えるのが真の教育者」と言われ、終生研究に没頭します。岩崎卓爾の紹介で日本民俗学の創始者・柳田国男などと親交があり、柳田の勧めで「八重山島民謡誌」を出版、また郡の歴史を体系化しました。この碑は生誕百年記念で建立されたものです。

この碑は唐人墓に隣接して建てられています。
ちなみに、日本コロムビアの要請を受けて宮良長包らに八重山の名歌を推薦したり 「安里屋ユンタ」 を全国に知らしめるきっかけを作った事でも有名です。
翁は、石垣市名誉市民です。

30.平和祈念碑

平和記念碑文


平和記念碑遠景
人間が人間を差別し 
憎悪と殺戮がくりかえされることのない
人類社会の平和を希い
この地に眠る異国の
人々の霊に敬虔な祈りを捧げる
一九七一年九月二十八日
琉球政府
行政主席 屋良朝苗



この碑は唐人墓のすぐ隣にあります。

31.唐人墓

唐人墓の碑文


唐人墓近景


唐人墓遠景
石垣市唐人墓
この唐人墓には中国福建省出身者一二八人の霊が祀られている  中国人労働者(苦力)は、一六世紀以降世界各地に多数送り出されていた  一八五二年二月 厦門(モイ)で集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次 辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起 船長等七人を打殺した  船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁 三八〇人が下船した  八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した  しかし米英の兵船が三回にわたり来島 砲撃を加え 武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った  中国人等は山中に逃亡したが銃撃 逮捕され あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった  琉球王朝と蔵元は人道的に対応 中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し 島民も深く同情 密かに食糧などを運び給した  しかし疫癘による病死者も続出した  死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた  この間 関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌一八五三年九月 琉球の護送船二隻で生存者一七二人を福州に送還して終結した  中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた  ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が 戦後まで数多く点在していた   一九七〇年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため 唐人墓建立委員会を結成 当市よりの補助 とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援 および琉球住民 在琉華僑諸賢のご芳志をもって一九七一年これを完成した
茲 に唐人墓の来歴を記すに当り 関係各面のご協力に対し 謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である
  一九九二年三月三十一日  石垣市長   半 嶺 當 泰


(以下、中国語文:省略)



唐人墓は新川・冨崎にあります。
中国人労働者を殺戮するために石垣島に来島した米軍艦サラトガ号は、2年後に他の3隻の軍艦と共に、浦賀の沖合いに来航しました。

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