石垣島の石碑・説明看板(市街地-2)  更新 2018.07.07

今回は、No.12を追加しました。

ここでは石垣島の市街地(新栄町・真栄里・平得・美崎・浜崎・八島町)にある石碑・説明看板について紹介します。

No. 名 称 場 所
1. World Peace Flameの碑 新栄町
3. 世界平和の鐘 新栄町
5. 戦争放棄の碑 新栄町
7. 石垣市核廃絶平和都市宣言 新栄町
9. 宮良當壯の碑 新栄町
11. 新八重山音頭の碑 新栄町
13. 雪見灯篭の説明碑 新栄町
15. 仲よしの像 新栄町
17.
19. 真栄里節の碑* 真栄里
21. オウシマダニ撲滅之碑 真栄里
23. 高橋洋介顕彰碑 真栄里
25. 感謝の碑 平得
27. 月夜浜節* 平得
29. 新本井戸頌徳碑 平得
31. 暁之塔* 平得・開南
33. 大鷲像* 美崎町
35. 石垣市民憲章 美崎町
37. 石垣港・花蓮港 姉妹港締結記念碑* 浜崎町
39. 宮良長包記念像* 浜崎町
41. 尖閣列島開拓記念碑 八島町
43. 伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑 南ぬ浜町
No. 名 称 場 所
2. 石垣市・蘇澳鎮姉妹都市締結経緯碑 新栄町
4. ほほえみの鐘* 新栄町
6. いしがきアピールモニュメント 新栄町
8. 非核平和宣言都市の碑 新栄町
10. 石垣市非核平和都市宣言 新栄町
12. 弾痕の残る壁 新栄町
14. 徳川家康六十歳像 新栄町
16. 親善之碑* 新栄町
18. (旧)石垣空港の碑 真栄里
20. 真栄里アーンヌカー跡 真栄里
22. 開拓之碑(於茂登) 真栄里・於茂登
24. 種籾緊急増殖事業記念碑 真栄里
26. 平得アラスク村遺跡 平得
28. パイナーカー 平得
30. 八重山群島ミバエ根絶之碑* 平得・開南
32. 730(ななさんまる)の碑* 美崎町
34. 大鷲の像公園の由来 美崎町
36. 蘇澳鎮 石垣市 友好親善之碑* 美崎町
38. ふるさとの風にのせて 浜崎町
40. 大浜安伴生誕百年顕彰碑 浜崎町
42. 登野城漁港の碑 八島町
 

地図 (No.12の地図は未設定です。)

1.World Peace Flame

World Peace Flameの碑
World Peace Flame
石垣島 炎の祭典
  2000年7月15日
Life Foundation (英国)
Dr Mansuku Patel
この碑は新栄公園内にあります。
2000年のサミット開催に合わせ「炎の祭典」が開催されたことを記念するものです。

2.石垣市・蘇澳鎮姉妹都市締結経緯碑

石垣市・蘇澳鎮姉妹都市
締結経緯碑


同一部拡大
【上部左側】
石垣市・蘇澳鎮姉妹都市締結経緯
都市名 蘇澳鎮(台湾)
締結日 平成7年9月26日(1995年)

蘇澳鎮 概要
 台湾東北部太平洋側に位
置し漁業が盛んである。蘇
澳港は台湾3大漁港の一つ
で冷凍食品加工業が盛ん。
発泡性の冷泉はイタリアと
蘇澳鎮のみで冷泉祭が有名。

締結の経緯
 両市は歴史的には、古い時代から双方の漁民の往来が頻
繁に行われていた。また、戦時中に台湾に疎開していた八重
山の人々が蘇澳港から引き揚げる際に、蘇澳住民の世話に
なったという深いつながりがある。さらに、台湾との交流は
戦後、本市の嵩田地区を中心に集団移住がなされ、パインア
ップルの種苗と水牛の導入が図られ本市の基幹産業の振興
に大きく寄与した。
 1982年、蘇澳鎮青年商会と八重山青年会議所の間に姉妹
締結がなされて以来、人的、文化的交流を重ね相互交流が深
まる。その後、行政レベルでの交流も始まり、気候、風土、産
業等の類似点も多いことから、1995年9月にチャーター便
による国際線にて蘇澳鎮を訪問、姉妹都市締結盟約書に調
印がなされた。

【上部右側】

姉妹都市提携20周年にあたり
双方の更なる交流発展を祈念し
ここに記念碑を建立する。

【下部】
蘇澳鎮・石垣市姉妹都市提携20周年記念
宜蘭縣蘇澳鎮    沖縄県石垣市
鎮長 陳金麟    市長 中山義隆
碑 遠景

この碑は、新栄公園内にあります。

3.世界平和の鐘

「世界平和の鐘」の碑文
世界平和の鐘
 昭和29年(1954年)に戦争の悲惨さ、核廃絶、平和の尊さを訴えて、65カ国のコインやメダルなどで鋳造された「世界平和の鐘」は、日本から米国ニューヨークの国連本部に寄贈されました。
 世界の人々が「平和」を祈り、「平和」を考える日になることを願い、毎年国連総会開会の日-「国際平和の日」に全世界に向けて国連事務総長が鐘打します。
 世界の恒久平和は、美しい自然・かおり高い文化を誇る日本最南端の都市に住む私たち石垣市民のすべての願いです。
     昭和63年12月10日設置
     「世界平和の鐘の会」沖縄県支部
世界平和の鐘

日本では、「世界平和の鐘」の第1号鐘が日本最北端の稚内市に設置され、第2号鐘が、日本最南端の石垣市(新栄公園)に設置されています。

4.ほほえみの鐘

ほほえみの鐘の碑文

ほほえみの鐘
「世界平和の鐘」が設置された昭和63年(1985年)に、「ほほえみの鐘」も併せて設置されました。
 この鐘は「非核平和都市宣言」をした石垣市民の善意によって設置されたもので、未来を担う子ども達の幸せとすこやかな成長・世界の永遠の平和の祈りが込められています。
 私たち石垣市民は、市民ぐるみの子育てと平和を求める運動を進め、市民一人ひとりのたゆまぬ努力を誓います。
昭和63年12月10日設置
「世界平和の鐘の会」沖縄県支部


この鐘は、市民の募金活動で建立されました。大型の世界平和の鐘に手の届かない幼児などに配慮し、鐘のロープを低い位置に設定、家族で鐘を鳴らして平和・成長祈念ができるようにされています。
ほほえみの鐘

ほほえみの鐘は、新栄公園内にあります。、「世界平和の鐘」と併せて設置されました。

5.戦争放棄の碑

戦争放棄の碑

同 側面
[表面]
戦争の放棄

日本国憲法
第2章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

[裏面]
 憲法九条は、日本と世界の平和及び安全の道標であることを確信している。しかし、内外の諸情勢にはいぜん厳しいものがある。よって私たちは迷うことなく「憲法九条の碑」をここに設置し、改めて内外にその意義を闡明(せんめい)にする。
          2004年11月3日
     「憲法九条の碑」設置石垣市民の会
       会   長  森田孫榮
       デザイン  湖平正道
         書    豊平峰雲
戦争放棄の碑の
裏面


この碑は、新栄公園内にあります。
裏面には鳩が彫られています。

6.いしがきアピールモニュメント

いしがき
アピールモニュメント碑文

私たちのまち石垣市はエメラルドの海、コバルトブルーの空に囲まれ、年平均気温24.2度、年平均湿度が78%で温暖多湿な亜熱帯海洋性気候です。日本列島の最南端にあって、アジアのみならず広く太平洋に開かれた枢要の位置にあります。この小さな島がアジアの十字路として、地理的優位性とともに、様々な人、物、情報、文化の出会いを求めながら、国際拠点都市を目指し、国際社会に対応する魅力あふれるまちづくりを進めています。 我々青年会議所は、この地を訪れる方々に「出会えば皆兄弟」の精神でお迎えし、21世紀を担う私たちコア世代は新たな「ゆいまーる」(たすけあい)の心を構築し、地域とともに協働運動で「明るい豊かな社会」を目指しながら、この八重山諸島を国内外へアピール致します。
                              1998年3月25日 社団法人 八重山青年会議所
除幕者
石垣市長 大濱 長照       (社)日本青年会議所      1998年度  会 頭 新田 八朗
(社)八重山青年会議所      (社)日本青年会議所 沖縄地区協議会  会 長 仲宗根 康人
1997年度 理事長 新 賢次   (社)日本青年会議所 沖縄ブロック協議会 会 長 上原睦人
1998年度 理事長 大城 一能 アピールモニュメント建設実行委員会   委員長 西玉得 敦
このモニュメントは、多くの石垣市民のご協力を得て建立いたしました。
モニュメント全景

このモニュメントは、新栄公園内にあります。

7.石垣市核廃絶平和都市宣言

石垣市核廃絶平和
都市宣言の碑

[表面]
石垣市核廃絶平和都市宣言
 私たち石垣市民は、第二次世界大戦の広島と長崎で原爆の恐ろしさ、悲惨さ、残酷さを知りました。
 そして、沖縄戦や八重山戦争マラリアでは何十万もの尊い命が奪われたことも決して忘れてはいません。
 私たち石垣市民は、地球上からあらゆる戦争やテロがなくなることを願い、全ての核兵器の廃絶と世界の恒久平和を希求します。
 また、人類の存在を脅かす核兵器の開発につながる一切の核実験の禁止を切望し、同時に原発に頼らない社会を実現します。
 私たち石垣市民は、次の世代も、またその次の世代の子どもたちも安心して住み慣れた土地で幸せに暮せるよう核兵器廃絶を強く訴え、世界一平和で幸せなまちを目指す石垣市から「核廃絶平和都市」を宣言します。
      平成二十三年(二〇一一年)十二月二十七日制定
この碑は、新栄公園内にあります。
[裏面]
Ishigaki Peace City Declaration calling for the Abolition of Nuclear Weapons

We, the citizens of Ishigaki , have learned the horror, misery, and cruelty of the atomic bombing through Hiroshima and Nagasaki during World War Ⅱ.
Moreover, we will always remember that hundreds of thousands of precious lives were lost in the Battle of Okinawa and due to the malaria in the Yaeyama War.
We, the citizens of Ishigaki, pray that all wars and terrorism will disappear from the Earth,
and we long for the total abolition of nuclear weapons and the realization of lasting world peace.
We also aspire to see a global ban on nuclear tests that may lead to the development of nuclear weapons, the greatest threat to mankind, and strive to realize a society independent of nuclear energy.
We, the citizens of Ishigaki, strongly appeal for the abolition of nuclear weapons to ensure that children and future generations can live in their hometowns feeling safe. Ishigaki City aims to become the world's happiest city and hereby declares it to be a "Peace City calling for the Abolition" of Nuclear Weapons"
 Establishment : December 27, 2011

8.非核平和宣言都市の碑

非核平和宣言都市の碑

非核平和宣言文
[表面]
石垣市
非核平和宣言都市
The City Which Declares Nonnuclear Peace

[裏面]
 人類の生存と平和をおびやかす核軍備を人類社会から追放、廃絶させ、真の恒久平和を確立することは、全世界の人々がひとしく希求するところである。
 しかしながら、通常兵器はもとより、核兵器による軍備拡大競争、並びに世界各地における局地的紛争は依然として続き、世界情勢は一段と厳しく憂慮すべき事態にある。
 このことは、我々がかつて経験した太平洋戦争の悲劇を忘却した暴挙であり、国際協調と平和を理念とするわが国憲法の精神、並びに地方自治の本旨からして看過できない。
 従って、平和で豊かな自然文化都市を目ざす石垣市は、わが国憲法の崇高な理念に基づき、非核三原則の完全実施を求めるとともに、平和を愛する全世界の人々と相携えて、すべての核兵器の廃絶を強く訴え、ここに石垣市が永久に非核平和都市建設に邁進せんことを高らかに宣言する。
  1984・3・29 宣言
裏面より碑全景

この碑は、新栄公園内にあります。

9.宮良當壯の碑

宮良當壯の碑(表面)

同 (裏面)

 宮良當壯は、明治二六年(一八九三)一二月一日現在の石垣市字大川で生まれ 昭和三九年(一九六四)三月一日七〇歳で天寿を全うした 八重山島高等小学校を卒業し明治四二年七月 一七歳で出郷 那覇で人力車の後押しなどをして旅費を工面し上阪 帝国吃後矯正会に入って生来の吃音矯正に努め かたわら音声学を学ぶ その後上京し新聞配達や納豆売りなどをして明治四四年八月郁文館中学校二年に編入学し 大正八年國学院大学に進学 前田太郎 金田一京助 折口信夫に師事し方言学や民俗学を学んだ 卒業後は柳田國男の推挙で宮内省図書寮に勤務 芳賀矢一 上田萬年 新村出 市河三喜らの推薦によって大正一四年から帝国学士院より研究費補助を受け 昭和二一年まで国際音声記号を用いて前人未踏の全国方言調査研究に従事した 昭和一八年には図書寮編修官を辞し 日本方言研究所を創設して所長となり 方言の調査研究に専念 その研究業績が認められ 昭和二八年一二月「琉球諸島言語の国語学的研究」で 母校の國学院大学から文学博士の学位を受けた 昭和二九年武蔵野女子学院短期大学国文化主任教授となり 後進の指導育成につとめた
 當壯は、生涯を方言研究一筋に打ち込み 苦学力行の末 遂に「採訪南島語彙稿」「日本方言彙編」などの全集二二巻を著し 日本方言研究に先駆的な業績をのこした
 ここに 生誕百年に当たり 博士の不朽の偉業を讃えるため 内外の有志の浄財をもってこの碑を建立した
  平成五年(一九九三)一二月一日
  宮良當壯博士生誕百年記念事業期成会
碑の全景

碑の側面

この碑は、新栄公園内にあります。

10.石垣市非核平和都市宣言

石垣市非核平和都市
宣言の碑
[表面]
石垣市非核平和都市宣言
 人類の生存と平和をおびやかす核軍備を人類社会から追放、廃絶させ、真の恒久平和を確立することは、全世界の人々がひとしく希求するところである。
 しかしながら、通常兵器はもとより、核兵器による軍備拡大競争、並びに世界各地における局地的紛争は依然として続き、世界情勢は一段と厳しく憂慮すべき事態にある。
 このことは、我々がかつて経験した太平洋戦争の悲劇を忘却した暴挙であり、国際協調と平和を理念とするわが国憲法の精神、並びに地方自治の本旨からして看過できない。
 従って、平和で豊かな自然文化都市をめざす石垣市は、わが国憲法の崇高な理念に基づき、非核三原則の完全実施を求めるとともに、平和を愛する全世界の人々と相携えて、すべての核兵器の廃絶を強く訴え、ここに石垣市が永久に非核平和都市建設に邁進せんことを高らかに宣言する。
昭和五十九年(一九八四年)三月二十九日 制定
この碑は、新栄公園内にあります。
[裏面]
Ishigaki Nuclear-Free Peace City Declaration
A common desire of people around the world is to expel and abolish nuclear weapons, which threaten the survival of mankind, from the face of the earth and establish lasting peace.
However, the arms race, including nuclear and conventional arms, and local conflicts continue, and a tougher and more alarming world situation lies ahead.
Such a world situation resulted from the fact that the tragedy of the Pacific War we once experienced has been forgotten, a fact that is almost a serious act of violence to humanity and that should not be overlooked in light of the spirit of the Constitution of Japan, the basic principle of which lies in international cooperation and peace, and the of local governments.
Therefore, Ishigaki City which aims to become to become a peaceful, affluent cultural city blessed with rich nature, calls for the full implementation of the three non-nuclear principles based on the noble principles of the Japanese constitution; therefore, we appeal, together with people in the world who love peace, for the abolition of all nuclear weapons and hereby declare that Ishigaki City will make an eternal effort toward the realization of a nuclear-free peace city.
Establishment : March 29, 1984

11.新八重山音頭の碑

新八重山音頭の碑 表面
【表面】
新八重山音頭

 作詞  翁長千代
 補作詞 森田孫栄
 作曲  黒島健

一、あかい梯梧が ぱっと咲き
   そらに映えれば 若夏きたよ
  燃ゆる炎に あこがれ托し
   老いも若きも 輪になろう
  八重山 八重山の
   心を結ぶ 心を結ぶ
二、あおい海原 かがやいて
   揺れる波間に 七色珊瑚
  潮のしぶきを いっぱいうけて
   海の公園 島めぐり
  八重山 八重山の
   海すみわたる 海すみわたる
三、キビやパインを 積み込んで
   汗をぬぐえば 大本岳のすそ野
  ダムがとどろき 水巻きおとし
   牧場のサイロに 茜さす
  八重山 八重山の
   ゆたかさ拓く ゆたかさ拓く
四、月のまひるま うつくしや
   並木通りが すずしく濡れる
  ビルの谷間に ユンタも流れ
   そろい絣で 音頭とる
  八重山 八重山の
   なさけのみやび なさけのみやび
寄贈者
 石垣市大川一三五番地
 翁長 常勇


【裏面】
二千一年十月吉日建立
新八重山音頭の碑 裏面

この碑は新栄公園内にあります。

12.「弾痕の残る壁」の碑

「弾痕の残る壁」説明碑
「弾痕の残る壁」
この壁は、もともと石垣島地方気象台(旧石垣島測候所)
にありました。建設は、戦前の1928(昭和3)年2月。
太平洋戦争当時、空襲中でも観測を続けていたことから、
米軍に狙われ、測候所南側の壁には爆撃を受けた弾痕が
数多く残りました。その後、施設老朽化に伴って壁の改
修が決まり、現地保存が困難になってしまいました。
ここにある壁の一部は、平和学習の資料となるよう、
2007年3月に移設されたものです。
  石垣市教育委員会文化財課 文責
「弾痕の残る壁」

この碑は新栄公園内にあります。

13.雪見灯篭の説明碑

雪見灯篭の説明碑

雪見灯篭
 この雪見灯篭は、石垣
市と岡崎市が昭和四十
四年二月十九日親善都
市提携を宣言、以来、
両市の親善交流が続き
本年は提携二十周年に
あたり、これを記念し
て両市の永遠の友情を
願い贈るものである。
平成元年二月吉日
岡崎市長 中根鎮夫

親善都市友好記念
岡崎市制70周年記念
贈 岡崎石工業株式会社
遠景

この碑は新栄公園の西側にある公園内にあります。

14.徳川家康六十歳像

徳川家康六十歳像 表側
【表面】
徳川家康六十歳像
親善都市提携
40周年記念
岡崎市
昭和21年11月7日

【裏面】
寄贈 2009.05
岡崎南ライオンズクラブ
岡崎南ロータリークラブ
徳川家康六十歳像 裏側

この碑は新栄公園の西側にある公園内にあります。

15.仲よしの像

仲よしの像 表面
【表面】
仲よしの像
親善都市
石垣市 岡崎市

【裏面】
贈 親善都市
岡崎市長 中根鎮夫
昭和62年5月吉日
仲よしの像 裏面

この碑は新栄公園の西側にある公園内にあります。

16.親善之碑

親善之碑
【表面】
親善之碑

 岡崎市長 大田光二

【裏面】
昭和四十三年八月
奥殿学区第一訪問団
 深津 釥一郎


親善之碑は、愛知県岡崎市と石垣市の友好親善都市提携を記念したもので、1969年に建立されました。戦時中、大浜に駐屯していた将兵が、戦後、八重桜会を結成して大浜小に図書を贈ったのが交流のきっかけです。同小と岡崎市の奥殿小が姉妹校の縁を結び、市同士の親善都市に発展しました。米国統治で財政力の乏しかった石垣市に対し、岡崎市は文化・福祉など多用途の建物建設を支援し、岡崎会館として市民に親しまれました。
碑の裏面

この碑は新栄公園の西側にある公園内にあります。

17.欠

18.(旧)石垣空港の碑

石垣空港の碑
石垣空港
ISHIGAKI AIRPORT


この碑は旧石垣空港への進入道路沿いに設置されています。(2015.11確認)
碑の設置場所(左側)

19.真栄里節の碑

真栄里節歌碑(上部)


真栄里節歌碑(下部)
[上部]
真栄里節

だんぢゅ豊まりる
真栄里ぬ村や
中村ゆくさでぃ
作場前なし

うやふあ睦ましく
夫婦たちしゅらさ
村中肝揃ろ
てぃ
情けばかり

[下部]
この歌は明治の中期 最後の真栄里首里大屋子職松茂氏宮良當意翁が作詞作曲され 真栄里村を象徴する民謡として 村民に愛唱されてきた
 村民の精神的支柱として 永く後世に歌い継がれることを願って 茲にこの歌碑を建立した
 平成五年十月
  真栄里節歌碑
   建立実行委員会


この碑は真栄里公民館の東南角(道路隔てた向かい側)にあり、1993(平成5)年、歌碑建立実行委員会によって建立されました。当初は、同公民館敷地内にありましたが2010(平成22)年の公民館の新築に伴い、現在地に移設されました。歌碑の隣はアーンヌカーと呼ぶ村の共同井戸の跡地で、井戸をイメージした水落としも併設され、地域の文化的象徴として後世に残されています。
真栄里節歌碑 遠景

20.真栄里アーンヌカー跡

真栄里アーンヌカー跡の碑
   真栄里アーンヌカー跡
 ここに「アーンヌカー」と呼ばれる真栄里村のウブカー(共同井戸)があった
 この井戸は古文書によると首里王府番所(オーセ)直営製糖家(シートーヤ)の水源としても利用されたという
 太平洋戦争中「軍の防空壕」として使用され戦後埋められた
 真栄里地域にはいくつかの井戸があったが水道の普及などによってそのほとんどが消失している
 公民館改築に伴って真栄里節の碑を移設するとともに井戸をイメージし水落しを設けた
 真栄里節・「アーンヌカー」を真栄里地域の文化的象徴として後世に残す
 二〇一〇年五月一五日
  真栄里公民館建設事業期成会
真栄里節の碑(中央)および
アーンヌカー跡の碑(左)

この碑は真栄里公民館のそばにあります。

21.オウシマダニ撲滅之碑

オウシマダニ撲滅之碑

オウシマダニ撲滅之碑
碑文


[表面]
八重山群島
オウシマダニ撲滅之碑
初代沖縄開発庁長官 山中貞則書


[裏面]

 碑文

 八重山群島では 古くから牧畜を盛んに営んでいたが オウシマダニ
が媒介する法定伝染病であるピロプラズマ病の猛威によって莫大な損耗

を被ってきた 更には 郡 県外への牛の移動制限を余儀なくされ 地
域畜産振興の大きな阻害要因となっていた
 かかる実情に鑑み 昭和四六年度(一九七一)から国庫補助による沖
縄牧野ダニ対策として駆除 清浄化撲滅 清浄維持事業を継続し実施
してきた
 我々は 「一頭もれなく」を合い言葉に 打って一丸となった生産農
家の努力により二八年間に亘る一三億七千万円余の巨額と延べ三〇六万
頭に及ぶ薬浴 プアオン法によつてオウシマダニとピロプラズマ病を完
全に撲滅し 牛の移動制限が解除された
 ここに この世界的な先人達のオウシマダニ撲滅に挑んだ功績を子々
孫々に伝え 併せて八重山群島の畜産業の飛躍的発展を祈念し この碑
を建立する
 平成一二年二月十日
  沖縄県知事
    稲嶺 恵一


 沖縄県では復帰後、三大撲滅事業が進められました。マラリア、ミバエ、最後がオウシマダニでした。オウシマダニは一匹で3ミリリットルくらいの牛の血を吸い、血液のたん白質を 摂取することで成長します。子牛は貧血になったり栄養失調になり、例えば黒島では、子牛10頭のうち2頭は死亡、2頭は発育不良で商品価値がなくなり、まともに育つのは6頭程度と言われていました。オウシマダニは法定伝染病のバベシア原虫を病原体とするピロプラズマ病を伝染し、2週間の潜伏期を経て牛の赤血球を破壊し、感染牛は激しい貧血、黄疸症状を起こし死亡します。
 オウシマダニの駆除は 草地のダニと牛に付着したダニの両面作戦で行なわれました。草地は薬剤散布、牛体は牧場などに薬浴施設を設け、駆除が進められました。
八重山家畜市場

オウシマダニ撲滅之碑は、八重山家畜市場入口の左手にあります。

22.開拓之碑(於茂登)

開拓之碑
【表面】
開拓之碑
【裏面】
開拓25周年記念事業として
昭和57年10月吉日建立する

先発者
昭和三十二年五月十九日入地
 …以下(入植者名)略・・・

この開拓之碑は、於茂登岳の麓、登山道入口前の広場(公園内)にあります。
於茂登岳は標高526m、石垣島の最高峰だけでなく沖縄県の最高峰でもあります。
碑の裏面

23.高橋洋介氏顕彰碑

高橋洋介氏顕彰碑
[上段]

岩手 絆 石垣
高橋洋介氏の功績を讃える
平成25年1月26日
碑の裏面から
(右側が該当)

[同 下段]
 岩手と石垣島の交流は今年20年の節目を迎えました。
 交流のきっかけとなった平成5年、岩手が大冷害に襲われた際に石垣島において種籾増殖事業の指揮を執ったのが当時、岩手県農政部長の高橋洋介さんでした。盛岡農業改良普及所の菅原那典上席普及員を石垣島に派遣し事業を成功に導きました。新品種は「かけはし」「ゆめさんさ」と名付けられ、岩手と石垣の交流の象徴となりました。
 岩手・沖縄かけはし交流は、今や沖縄県の農業技術向上をはじめ石垣島マラソンや高橋さんの古里の北上マラソン、岩手県立盛岡第四高校と沖縄県立八重山高校の姉妹校提携等、幅広い民間交流に結実しています。
 平成23年3月11日の東日本大震災は三陸海岸に未曽有の被害をもたらしました。沖縄・石垣島の方々には物心両面にわたって多大な支援を頂きました。高橋さんは感謝の意を示しながら同年8月9日に他界しました。
 岩手と石垣島の交流発展に尽力した高橋洋介さんの功績をしのび、ここに顕彰碑を建立します。
 平成25年1月26日
 岩手・石垣 高橋洋介顕彰碑建立期成会

24.種籾緊急増殖事業記念碑

種籾緊急増殖事業記念碑
[上段]

岩手県出納品種『かけはし』
種籾緊急増殖事業記念碑
菅原那典君を讃えて
平成21年1月24日 建立
碑の表面から
(右側が該当)

[同 下段]
 平成5年、岩手県の水稲作況指数は僅か『30』という未曽有の大冷害に襲われました。このため、岩手では翌年度の種籾の確保が困難になりました。
 そこで、当時開発中のオリジナル品種『かけはし』を石垣島で栽培し、収穫したお米を種籾として使う緊急増殖事業が計画されたのです。幸い、この事業は、石垣島の農家の皆さんをはじめ、沖縄県や石垣市などの関係する方々の暖かいご協力により、見事に成功いたしました。
 その間現地に常駐し、『かけはし』の栽培指導に当ったのが菅原邦典君でした。事業の成功の陰には、菅原夫妻の遠隔の地での並大抵でない苦労があったのです。その努力が現在もかけはし交流となって、岩手と沖縄の交流に実を結んでいます。
 私達は15年を経た今、両県の交流が末永く続くことを願い、さらに平成20年6月に他界した菅原君の功績を後世に伝えるため、この記念碑を建立し、かけはし交流の証とします。
 岩手・沖縄かけはし交流会
 会長 高橋 洋介     石垣支部長 大濱長照

「かけはし」の種籾増殖事業の詳細については、以下を参照して下さい。
いわて純情米需要拡大推進協議会サイトの「夢のかけはし物語」
 この碑は次項の碑と一体化され、真栄里運動公園の東側に設置されています。
 元はJAライスセンターにありましたが、その後現在地に移設されました。

25.感謝の碑

感謝の碑

同碑文

碑遠景


【表面・上部】
感謝の碑

【表面・下部】
碑文

 多良間島は一七七一年(明和八年)に大
津波と二度にわたる暴風によって大きな
被害を受け飢餓状況に陥り多数の
餓死者を出していた。
 そのような状況の中で二百人余の住民は
食糧を求めて宮古島に渡る途中時化に遭い
石垣島に漂着した。またくり舟で石垣島に渡り
救助を求めたりした。
 当時石垣島も被害は甚大で食糧事情も
厳しいものがあったと言われている。
 それでも石垣島の皆さんは人命尊重の
思いから多くの人々を手厚く保護された上
島に残っている住民への食糧支援まで
して頂いた。
 こうした言葉に言い尽くせないご厚情を
受け多良間島の住民は生きる力と勇気を
得てその後の歩みを切り拓くことができた。
 そこで多良間村制施行百周年の佳節に
碑を建立し感謝の意を表すものである。
 二〇一四年(平成二十六年)三月吉日
 多良間村長 伊良皆光夫
 多良間村民一同
 八重山在多良間郷友会

【裏面プレート】
石材寄贈
 山川朝源
揮毫
 羽北正弘
刻字
 崎山寛樹
裏面

裏面プレート拡大

この碑は石垣市中央運動公園・屋内練習場の南側にあります。

26.平得アラスク村遺跡

平得アラスク村遺跡の
説明板

平得アラスク村遺跡
県指定史跡
昭和56年8月13日
 平得部落の北東1.5Kmの琉球石灰岩地帯に形成された八重山編年第Ⅲ期(15・16世紀)に相当する遺跡で 石囲いの遺構内に多量の中国製陶磁器 八重山式土器等が散見され かたわらには降り井戸が残っている。
 伝承によると 本遺跡はアラスク村と称されていたようで 今日みる平得部落の前身だといわれている 平得部落は ペーギナー村(熱帯農業研究センター北側の平喜名遺跡)から当遺跡へ さらに南側のウィスズ村(ウィヌスズ遺跡) ナカンドゥ村(仲本村遺跡群)を経て 現在の平得に定着されたと伝えられており 村落変遷を知るうえで貴重な資料を残している
 当遺跡は本来 土塊を含む石垣等を有し かなりの規模を誇っていたが 近隣の圃場整備により 中心部のみが残っている
  昭和61年3月
  石垣市教育委員会
  沖縄県教育委員会


(注) 平得アラスク村遺跡は八重山家畜市場の西に位置しており、遺跡への道は、細い農道となっています。 本説明板の前には車が止められる程度のスペースはありますが、 広くはありません。
平得アラスク村遺跡
周辺光景


平得アラスク村遺跡の北側には牛舎等があり、周辺には私有地も多いので近隣の方々に迷惑のかからないように注意して下さい。

27.月夜浜節

月夜浜節の碑(表面)
【表面】
月夜濱節 (現代訳)
月夜濱だぎに
岸ぬ浦ぬ木綿
木綿花 作くてぃ
木綿かしかきら
くりかえし 返し
指はぢき 見あぎりば
筋むつぃぬ 美らさ
ゆみ美らさあむぬ
吹かば飛ぶ手巾
しゅて待ちゅら
月夜の浜のように真っ白い
岸の浦の木綿畑
木綿の花を作って
木綿糸を作りましょう
 繰り返し 返し
指で解いてみたら
糸筋も美しく
ゆみ糸もよく揃って美しい
吹けば飛んでしまうような 最上品の手巾を
織って 里前(彼氏)が来るのを待ちましょう

【参考】
(1)  「岸ぬ浦」とは、石垣市登野城から伊原間方向へ約24km先の金武岳の南方の肥沃な土地で、別名、「南の浦(ハイノウラ)」とも言います。海岸に断崖があるので、「岸」と言われており、これに続いている土地であることから「岸ぬ浦(岸の浦)」と称されていたようです。
(2)  木綿からは木綿布を作ります。人頭税時代には、各部落ごとに一箇所で共同栽培していて、平得村は、岸の浦で綿花栽培を共同で行っていたようです。綿花の共同栽培は、婦女子に課せられた人頭税である「御用布」を織る原料を得るための重要な仕事でした。
(3)  「指はつぃき」は、綿花を採って来て乾燥させ、木製の大弓の絃を棒ではじいて解し、つむぐことを言います。
(4)  「吹かば飛ぶ手巾(てぃさじ)」は、吹いたら飛ぶくらいの極細上の手巾のことです。ここでは恋人に捧げるために心をこめて織り、彼を待つ思いが想像できます。この歌は「究極の恋の唄」といってもよいでしょう。

【裏面】

 平得村新本家の祖先は篤農の士で、田
畑農耕の他に遠く大野岳の麓、南風の浦
(岸の浦)の地を村人たちと開拓し、自らも
広く木綿を栽培していた、
 満月の夜、一面に満開し真白に輝い
ている綿花の情景が、あたかも月夜の砂
浜の如くであることを、月夜浜ユンタとして
詠み歌った、このユンタは平得村内に愛唱
されていた、
 その頃(宝暦八年、一七五八)平得村与人で
あった黒島当応は、月夜浜ユンタをもと
に月夜浜節を採譜し工工四に載せて
いる、
 以来、八重山の古典音楽として広く唄い
つがれている、 此に新本家祖先の遺徳
を偲ぶとともに、平得の弥栄を祈念し
て歌碑を建立する、

 平成十八年(二〇〇六)十一月二十三日
         月夜浜節歌碑建立期成会
              揮壱 田本ひろえ
              篆刻 崎山寛樹
(裏面)

 この歌碑は平得大阿母御嶽東側のお祭り広場にあります。2006年11月23日に建立されました。

 「月夜浜節」は平得の新本家の祖先が、田畑耕作の傍ら、遠く離れた大野岳(伊野田集落の北側)の麓を開拓して綿を栽培し、その真っ白な綿の花が満開した情景を見て、「満月の夜の浜辺に似ている」と胸を打たれ「月夜浜ユンタ」に詠み歌いました。
 1758年、平得村与人(村長)だった黒島当応が「月夜浜ユンタ」をもとに改作改曲し、工工四に載せたそうです。世間からは、この新「月夜浜」を歌う様になり、新本家のユンタは歌われなくなったそうです。

28.パイナーカー

パイナーカーの
説明板

石垣市指定文化財/史跡
City Designated Cultural Property Historical Site
パイナーカー
Painaka/Paina 井
昭和55(1980)年10月31日指定
October 31, 1980 designated

 この井戸は、長さ約20m、40段の石段があるウリカー(降り井戸)である。ウリカーとは直接水面まで降りて水をくむ井戸のことで、琉球石灰岩の岩盤を削って作られている。
 平得村の伝承によると、年代は明らかではないが、井戸のある場所付近がナカントゥと呼ばれていた頃、ウーリヤー(宇里家)に武勇に優れた7兄弟がいて、昼間は彼らが井戸を掘り、夜は神が掘って、この井戸が完成したといわれている。
 平得村の共同井戸として、一般家庭へ水道が普及されるまで大切に利用された。また、井戸の周辺からは多くの鉄滓や土器が見つかっており、パイナーカー遺跡としても知られる。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。

 Painaka is a descending well (Urika) that was made by digging through a base rock of Ryukyu limestone, and has a depth of 20 meters and a 40 step stone stairway. According to the oral tradition of Hirae, this well was dug by the seven Uriya brothers during the day and by a God at night. Painaka is a public well of the Hirae district, and it was carefully used before tap water became prevalent.
  平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
               文化財課 83-7269
パイナーカー

 パイナーカーは平得の沖縄県警察安全運転学校八重山分校の南西側(国道370号線南側)にあります。

29.新本井戸頌徳碑

新本井戸頌徳碑
【正面】

【左側面】

【裏面】
【正面】
新本井戸頌徳碑


【左側面】
頌徳碑建設委員長 東山当肝名
宇里家一門代表   宇里州弘
平得部落会長    田本信正
頌徳碑文起草者   喜舎場永珣
設計工事大工    鳩間石●
碑文彫刻大工    田場由佳
碑文字謹書者    宮良保●

【裏面】
平得村ハ十五世紀ノ中葉頃宇里家ノ祖ニ当ル七人兄弟ニヨツテ仲本村カラ現地ニ移転シ茲
ニ平得村平池ノ土台ガ据エラレタノデアルコレ七人兄弟ノ祈願ト努力ノ賜モノト言ワナケ
レバナラナイ創建ニ際シ村ノ生命ト●●水ノ供給ニ非常ナ困苦ヲナメサセラレダノデ兄弟
ハソノ旨ヲ神ニ祈願シタトコロ新本家ノ宅内ニ霊示ガ印サレタノデ兄弟ハ神託ノママニ
工事ヲ始メタガ神霊ノ加護ニヨツテ見事ニ竣工シ新本井戸ト命名サレタコレ●●平得村ニ
於ケル掘抜井戸ノ始メデアルコレニヨツテ水難ハ解消セラレ村人ノ喜ブコト限リナク以来
新本井戸ヲ神泉トシテ●●シ生命泉トシテ感謝シテ来タノデアルコノダビ平得部落民コゾ
ツテ七人兄弟ノ偉業ヲ称エ神徳ヲ崇神スルノ●止ミ●ク●ニ部落浄財ヲモツテ新本井戸ノ
井桁ト土台ヲ改修シ碑ヲ建テ以テソノ頌徳ヲ永ク後世ニ残ス次第デアル
 一九五四年          昭和二十五庚寅年十一月三日吉日

【右側面】
神力無限

※ ●は風化により判別不能な文字です。
【右側面】

碑 遠景

新本井戸

この碑は宇部御嶽の西側、産業道路から石垣市運動公園・東端に向う道の右側にあります。

30.八重山群島ミバエ根絶之碑

ミバエ根絶之碑

八重山群島
ミバエ根絶之碑
衆議院議員 中山貞則書


この碑は、農作物に大きな被害を与える害虫のウリミバエ・ミカンコミバエを根絶したことを記念したものです。県道87号線沿いの平得の開南ヘリポート(かつて防除剤や不妊虫投下に活躍したへり基地)のそばにあり、1995(平成7)年2月21日に除幕式が行なわれました。
八重山では1919(大正8)年、ミバエ類の発生が確認されて以来、植物防疫法で農産物の移動が禁止もしくは制限され、農業振興の障害となりました。このため本土復帰の1972年から特殊病害虫特別防除事業がスタートし、ウリミバエ・ミカンコミバエを根絶させました。
駆除は、ウリミバエは「雄除去法」によって、ミカンコミバエは「不妊虫放飼法」によって根絶されました。発生から根絶まで74年、約39億円と、延べ93,000人の労力が投じられました。
現在でも
、東南アジア等の発生地域からの侵入の可能性があることから「不妊虫放飼法」による再侵入防止防除や、警戒用の誘引トラップによるモニタリングが続けられています。
今日、ゴーヤなどの沖縄県産野菜が内地で食べられるのも、ミバエの根絶がなされたことによるものです。
ミバエ誘引トラップ

この写真のトラップは、県農林水産部が西表島に設置したものです。

31.暁之塔

暁之塔 碑文
暁之塔
横井忠男謹書

第二十八師団第三野戦病院跡

銘記
第二次世界大戦中昭和十九年十月我が第二十八
師団第三野戦病院々長陸軍々医大尉横井忠男
指揮石垣国民学校に病院業務開設間もなく八重山
高女並に八重山農業学校生徒を始め八重山在住の老若男
女数十名を臨時召集内外共筆舌に盡し難き恊力を得
て業務続行中戦況は昼夜を分たぬ空爆艦砲射撃の苛
烈を極め上旨に依り一部同校に残り主力を此の地開南部
落に一部を於茂登山腹に分散し事実上三ケ所業務の止む
なきに至り本土との航行通信は遮断され糧秣は愈々
無く伝染病と栄養失調を克服しつつ在島各部隊の
傷病将兵を収容看護の任に当る間敵弾に倒れ又
己の疾病もかえりみずついに不帰の人となりし
霊並びに軍民をとはず八重山の地に於て戦禍
に倒れし諸霊を合祀せる塔にして当病院生
存者の会(石垣会)有志並に在島有志各位
の浄財と多大なる奉仕によって建立し祖
国永遠の平和の礎と成し諸霊の尊き功
績をたたえ特に戦中倒れし我が病院勤務
の将兵準看護婦をここに記す
 戦没者(イロハ順)
  ・・・【以下略】・・・

この碑は、石垣市堆肥センター近くの第28師団第3野戦病院本部跡地に1975年に建立されました。旧日本軍は1944年、石垣国民学校に病院を開設し、八重山高等女学校や八重山農学校の生徒をはじめ住民数十人を臨時召集しました。しかし、昼夜の空爆、艦砲射撃が激しさを増したため国民学校、開南、於茂登の3カ所に分散、負傷兵士やマラリア患者の手当てを行いました。同病院での戦没者は11人で、16歳で准看護婦として看護に当っていた八重高女子生徒もマラリアで死亡しました。
暁之塔 遠景

この碑は、市街地から県道87号線を北上し、県道211号線と交差する所(開南入口)の西側にあります。

32.730(ななさんまる)の碑

730の碑 [表面


同 [裏面]


【730記念碑説明版】
【730の碑】
[表面]
730

石垣島

[裏面]
昭和五十三年七月三十日午
前六時を期して行なわれた
沖縄県交通方式変更の歴
史的事業を記念し 明るく
安全な毎日のために みん
なで交通道徳を守り 日
本一交通安全な地区にな
ることを祈念して ここに
碑を建立する
 昭和五十三年九月
 八重山地区安全運転管理者協議会


【730記念碑説明版】
730記念碑
 「730(ナナ・サン・マル)」とは、沖縄が本土に復帰して6年後の1978(昭和53)年7月30日に行われた道路交通方法の一斉変更の歴史的な日を指している。それまで沖縄県の交通方法は、アメリカ統治の名残で「人は左、車は右」であったが、この日を境に、本土と同様に「人は右、車は左」へと移行した。
 この大々的な変更は午前6時に一斉に実施され、変更前日の29日午後10時から県内は特別交通規制に入り、わずか8時間の間に県内すべての道路標識や表示の切り替え作業が行われた。
 同年9月には、この歴史的事業を記念し後世に伝えるべく、この「730記念碑」が建立された。そして、その日からちょうど30年後の2008(平成20)年7月30日、交通安全を記念して獅子を置き、碑の周辺を憩いある小公園として整備した。

 The 730 Monument (Pronounced "nana-san-maru") commemorates the day when road traffic in Okinawa underwent a historic change on July 30, 1978, six years after the reversion of Okinawa to Japanese control. Until then, traffic in Okinawa Prefecture followed the rules that existed under the U.S. occupation, with "people passing on the left and cars on the right side" of the road. This day marked the abrupt shift to the Japanese style of traffic with "people on the right and cars on the left." This dramatic change took place throughout Okinawa at 6 a.m. In preparation for the following day's change, special traffic restrictions were implemented in Okinawa from 10 p.m. on the 29th, and all the traffic signs in the prefecture were switched in just eight hours. In September that year, this 730 Monument was erected to commemorate this historic event and to ensure that this remains in the memories of generations to come.
On July 30, 2008, exactly 30 years later, a pair of Shiisa (Okinawan lion-dog) statues was placed next to the monument to pray for traffic safety, and the area around the monument was turned into a small, relaxing park.


この「730の碑」は、1978(昭和53)年7月30日の「交通方法変更」を記念し、交通安全の街づくりを祈念して建立されました。
1972(昭和47)年5月15日に本土復帰した沖縄は、ドルから円の通貨交換はしたものの、その後もアメリカ統治下時代のまま「人は左、車は右」という交通規則が行われていました。しかし、道路交通に関する条約(ジュネーブ条約:1949年制定)遵守の立場から、復帰6年後の1978年7月30日をもって沖縄県内全域で左側通行に変更されることになりました。
交通方法変更は、世界的にも例のない歴史的事業で、車のライトも全て無償交換し、石垣島では午前6時、一斉に実施されました。米軍統治で左ハンドル、右側通行に慣れていたドライバーも、切り替え当初はなかなか慣れるのに大変だったようです。また、公共交通機関の一つであるバスは、乗降口を車両の右側から左側に変更するなど、その対応も大変だったようです。
なお、青・白・赤のシンボルの絵は、右から左へと交通方法の変更がなされたという意味を表しています。
730交差点

この碑のある交差点は、通称「730交差点」と呼ばれています。

33.大鷲像

大鷲像(表面)

同(裏面)
【表面】
躍進

【裏面】
綾翅ば生らしようり
びる翅ば産だしようり
正月ぬすとむで
元旦ぬ朝ばな
東かい飛びつけ
てだばかめ舞ひつけ
綾なす羽の鷲の子を 産み
美しく艶やかな羽の鷲の子を 孵し
正月の 早朝に
元日の 朝まだき(早朝)に
東のほうへ 飛んで行きなさい
太陽を戴いて 舞って行きなさい

 これは八重山民謡の代表的曲として有名な「鷲の鳥節(ばすぃぬとぅるぃぶし)」で、正月やあらたまった席ではじめに歌われる祝宴歌です。鷲は「カンムリワシ」のことで、元日の朝に上がり始めた太陽に向かって飛び立とうとする若い鷲の姿を歌ったものです。

【側面1】
石垣港建設諸工事の竣工を記
念してこの像を建てる
一九六七年三月 石垣市
大鷲像寄贈 石垣港竣工記念大鷲像建立委員会
大鷲像彫刻 日展評議員  圓鍔 勝三
大鷲像鋳造           高原四郎
題    字           大浜信泉
工    事  合資会社   国場組

【側面2】
省略


大鷲の像は、1967(昭和46)年の美崎町埋め立て、石垣港諸工事整備を記念して建てられました。像は東に向って羽ばたいているように建てられています。飛躍への願いを込めたデザインで、石垣市ではこの後、石垣・登野城両漁港整備事業と併せて新栄、浜崎、八島町、新港地区など次々と埋め立てが進み、広大な面積の街が形成されていきました。
同(側面1)

同(側面2)

 この像は石垣港離島ターミナル前、ホテルミヤヒラの南側の公園、通称「大鷲の像公園」内にあります。

34.大鷲の像公園の由来

大鷲の像公園の由来
の説明看板


 (通称)大鷲の像公園の由来
八重山を代表する民謡「鷲の鳥節」は、
大きなアコウ木の枝に巣つくりした
カンムリワシが卵から綾羽根をかえし
正月の朝早く東の太陽を目指して
飛び立つという雄大な叙情詩で
祝宴で最初に歌われるめでたい歌である。
一九六七年(昭和四二)、美崎町埋立。
石垣港請工事の完成を祝い、石垣市の
躍進を念願してこの公園を建設した。
大鷲の像

「大鷲の像公園」は南の美ら花ホテルミヤヒラの前にあります。

35.石垣市民憲章

石垣市民憲章の碑

石垣市民憲章
 石垣市民憲章 (昭和52年10月22日制定)

 私たちは、黒潮と太陽にはぐくまれ、
詩の国、うたの国 郷土石垣市に誇りを
持ち、みんなで明るい豊かな住みよい町
をつくるために、この憲章を定めます。
一. 私たちは、互いに敬愛し、社会のきま
  りを守り「平和な町」「親切な町」づくり
  にはげみます。
一.私たちは、対話を深め、スポーツを盛
 んにし「教育の町」「健康の町」づくりに
 はげみます。
一.私たちは、美しい自然と郷土文化を守
 り育て「文化の町」「観光の町」づくりに
 はげみます。
一.私たちは、力をあわせて働き、黒潮と
 太陽の恵みにこたえ「産業の町」「美しい
 町」づくりにはげみます。
石垣市役所

この碑は玄関手前、正面に向って左手にあります。

36.蘇澳鎮 石垣市 友好親善之碑

友好親善之碑
【上側・碑文】
蘇澳鎮 石垣市 友好親善之碑

【下側・碑文】
蘇澳鎮石垣市姉妹都市提携10周年記念 友好親善之碑
蘇澳鎮と石垣市は、1995年9月26日に恒久なる友好を樹立するため姉妹都市盟約を交わし、以降、教育・文化・産業・観光などの幅広い交流を通じて友好関係を築き上げてきた。相互の交流は、有形無形の財産として様々な分野で地域活性化に大きな成果をもたらし、これらに携わってきたすべての人々に心から感謝の意を表明する。我々は、この姉妹都市提携10周年を機に、両市民を挙げてさらなる親善の促進と友情を深め、友好を礎として、より一層の友好親善の絆を深めていく決意を新たにする。ここに両市の友好と繁栄に貢献することを希求し、友好親善の証として、この碑を建立する。
 2005年6月9日
 蘇澳鎮長 李 坤山  石垣市長 大濱長照

石垣市と蘇澳鎮は、八重山青年会議所と蘇澳鎮青年会館の姉妹締結、民間交流が行政同士の交流に発展、1995年に姉妹都市の縁を結びました。
碑は高さ1.7m、碑文は石垣市出身の書芸家・茅原南龍氏の揮毫です。
石垣市役所

この碑は市役所玄関手前、正面に向って左手にあります。

37.石垣港・花蓮港 姉妹港締結記念碑

石垣港・花蓮港 姉妹港
締結記念碑

石垣港
花蓮港 姉妹港締結記念

                      2001年10月25日

石垣港港湾管理者      花蓮港務局局長
石垣市長 大浜長照     黎克恕

※黎克恕は、「れいかつじょ」と読みます。

花蓮港は台湾・東北部の花蓮市にあり、台湾四大国際港の一つです。締結式には、石垣市や石垣港振興協会の関係者らが台湾に渡り、2001年10月25日付で締結の共同宣言を行いました。記念石碑の左右には大きな錨が設置され、姉妹港締結を表しています。
同 遠景

この碑は石垣港ターミナルビル入口の正面中庭に設置されています。

38.ふるさとの風にのせて

ふるさとの風にのせての碑
ふるさとの
 風にのせて


制作 西村貞雄



沖縄彫刻会の第一人者・西村貞雄さんのブロンズ像の作品名として記されています。
そばに、風に吹かれて美しく立つ女性と犬の像が設置されています。
ブロンズ像 遠景

この碑は市民会館裏の公園内にあります。

39.宮良長包記念像

宮良長包記念像の碑

宮良長包
 記念像


 宮良長包は1883年字新川で生まれ、1907年沖縄県師
範学校を卒業した。現登野城小学校に着任し、音楽教育
を開始した。1995年沖縄師範付属小学校へ転任、のち沖
西・小禄両小学校長を歴任して1921年沖縄師範に迎えら
れた。以来、精力的な作曲活動を展開、当時国家主義偏
重と郷土文化蔑視のさなか敢然と沖縄音楽の良さを主張
かたわら『楽即童心』を力説しつつ珠玉の名曲をつぎつぎ
と発表した。1939年56歳で没。その不朽の偉業と遺徳を
称え、ここに記念像を建立する。
2003年12月28日
宮良長包生誕120周年記念事業期成会
碑 全景

この碑は市民会館裏の公園内にあります。
なお、新川の舟蔵公園には八重山青年会議所が宮良長包生誕百周年記念事業で建立した「音楽家宮良長包 顕彰碑」があります。

40.大浜安伴生誕百年顕彰碑

大浜安伴生誕百年顕彰碑
【表面】

同裏面
【表面】
大濱安伴生誕
百年顕彰碑

あたら島歌
たんでい磨きついけ
我がけーら肝ゆ
すらし給り
  大濱安伴

平成二十四年十月七日建立
揮壱 茅原南龍書

【裏面】
大濱安伴は大正元年十月四日石垣市で出生し平成十三年三月五日九十歳を
一期に那覇市で他界。昭和四年八重山古典民謡を天久用立師に師事し師の上覇後は
石垣喜保師に師事。同二十二年海南時報社主催第一回八重山全島とぅばらーま大会で
優勝。同年八重山民謡研究所を開設。同三十一年八重山文化協会より師範称号を受ける。
同三十五年上覇し八重山民謡研究所を主宰して子弟育成に尽力。
同四十一年演奏と完全に一致する初の教本『八重山民謡三味線工工四』を発刊。
同四十九年系洌長良氏編著『レコード付八重山古典民謡全集』所収の全曲を
みね夫人と共に収録。同五十一年『声楽譜附八重山古典民謡工工四』を上梓。
同年石垣市で八重山古典民謡音楽研究所が結成され名誉会長に推載される。
同五十四年師主宰の八重山古典民謡音楽研究所を発展的に解消し
八重山古典民謡保存会として名称変更。
同年七月那覇支部を結成、翌五十五年関東支部、平成十年に東海支部を結成した。
同五十七年石垣市文化功労者表彰。
同五十八年八重山古典民謡の沖縄県無形文化財指定に伴い、保持者に認定。
同五十九年勲五等瑞宝章、同六十二年八重山毎日文化賞、平成四年沖縄県功労者表彰、
同五年那覇市市制功労者表彰等数々の賞を受賞。
師は実演家、工工四編纂者、指導者として余人の及ばぬ金字塔を打ち立てた。
その陰にはみね夫人の献身的な支えがあった。
生誕百年の節目に当り師の偉業を称えるためこの碑を建立した。

八重山古典民謡保存会 平成二十四年十月七日建立
大濱安伴生誕百年記念事業実行委員会
大浜安伴生誕百年顕彰碑
遠景


この碑は市民会館裏の公園内にあります。

41.尖閣列島開拓記念碑

古賀辰四郎尖閣列島
開拓記念碑 遠景

碑の上部は魚釣島を模ったものになっています。そこに「古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑」と記されています。

同 碑文と地図

古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑

碑文
 古賀辰四郎は福岡県の人 廃藩置県の明治十二年来県 同年那覇で古賀商店を 十五年石垣島大川村海岸近くに八重山支店を開設した  明治二十九年日本政府の許可を得て尖閣列島魚釣島 南小島 北小島 久場島で海陸物産の開拓に心血を注ぎ 生産物資は外国にも輸出 国 県の経済 社会に大きく貢献 明治四十二年藍綬褒章を授与された 子息善次は昭和七年右四島を国より払下げを受け その没後は妻花子がこれを管理した 
  戦後古賀家の遺産は遺言により埼玉県の実業家栗原國起がこれを継承 財団法人古賀協会を創立 沖縄県のスポーツ振興面に貢献しつつある 絶海の無人島に私財を投じ 父子二代の生涯をかけた開拓事業であった この度先覚者の偉業を記念するため支店旧地に近いこの地にこの碑を建立した    -平成七年十二月-
  那覇市西一丁目二〇番地の一
    財団法人古賀協会 会長 栗原佐代子
    碑文並に揮毫        牧野 清
碑文

地図

尖閣列島開拓記念碑は、登野城漁港の先の八島緑地公園の中に建っています。
 

42.登野城漁港の碑

登野城漁港の碑
登野城漁港

この碑は国道390号バイパス道路から第一船揚場に左折する交差点の西側にあります。隣には登野城漁港施設配置図も設置されています。
登野城漁港施設配置図

43.伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑

伊舎堂用久中佐と
隊員の顕彰碑


同裏面
【表面 上段】
大日本帝國陸軍
 第八飛行師団誠第一七飛行隊
伊舎堂用久中佐と
 隊員の顕彰碑


【表面 下段】
石垣島から出撃した特攻隊員
誠第十七飛行隊
 以下氏名略
独立飛行第二十三中隊
 以下氏名略
飛行第十七戦隊
 以下氏名略
飛行第一〇五戦隊
 以下氏名略
飛行第十九戦隊
 以下氏名略
計三十一名

【裏面 右側】
碑文
 大東亜戦争終結六十八年を経たわが国は、戦後の荒廃を乗
り越え、平和で豊かな生活を送ることが出来ています。現代のわが
国の平和と繁栄は、国家存亡の危機に殉じた英霊と戦争の犠牲
となった多くの方々の礎によってもたらされたことを心に留め、その史
実を後世に伝えていかなければなりません。大東亜戦争末期、戦
況の打開を図るべく、大日本帝國陸軍は特別攻撃隊を編成し
石垣島にあった特別攻撃隊の基地からも、鎮護の任に当たるべく、
若者達が身命を擲って出撃し、千尋の海に散華しました。
 大日本帝國陸軍第八飛行師団誠第十七飛行隊長であっ
た石垣島出身の伊舎堂用久大尉率いる伊舎堂隊四機と直掩
機六機は、昭和二十年三月二十六日午前四時に、石垣島白
保にあった基地より陸軍特別攻撃隊の先陣を切って出撃し、慶
良間列島西方海上の敵空母群に特攻を行い、その戦果は全国に
大々的に報じられました。
 郷土と国を愛し、悠久の大義に生きる精神により散華した伊
舎堂用久中佐(特別攻撃後、二階級特進)と隊員の遺功を後
世に伝え、これからの時代に於いても、郷土と国を護る崇高な精
神を育み、恒久平和を希求する為、伊舎堂用久中佐と隊員の
顕彰碑をここに建立します。 平成二十五年八月十五日
  遺詠 伊舎堂用久 中佐
 指折りつつ 待ちに待ちたる機ぞ来る
      千尋の海に散るぞたのしき

【裏面 中央】
特攻機 誠第十七飛行隊
 以下氏名略
直掩機 独立飛行隊第二十三中隊
 以下氏名略

【裏面 左側】
伊舎堂用久中佐と隊員の
  顕彰碑建立期成会
会 長  三木 巌
揮 毫  豊平 峰雲
石提供  大島 彦成
碑 遠景

この碑はサザンゲートブリッジを渡った南ぬ浜町の南側公園内にあります。
  

 Page Topへ戻る   八重山の石碑・説明看板 に戻る   八重山豆辞典 に戻る    HOME へ戻る


Copyright (c) 2008.8 yaeyama-zephyr

写真の無断転載・使用を禁じます。利用等をご希望される場合はメールでご連絡下さい。