石垣島の石碑・説明看板(市街地-1)  更新 2017.07.08

今回は、No.4の追加を行いました。

ここでは石垣島の市街地(石垣・登野城・大川・新川)にある石碑・説明看板について紹介します。

No. 名 称 場 所
1. 桃林寺仁王像 石垣
3. 権現堂* 石垣
5.  欠  
7. 八重守之塔 石垣・バンナ岳
9. 八重山音楽先師顕彰碑* 石垣・バンナ岳
11. 鎮魂の碑 石垣・バンナ岳
13. 名蔵配水池 石垣・バンナ岳
15. 八重山島蔵元跡 登野城
17. 人頭税廃止百年記念の碑* 登野城
19. 大濱信泉像* 登野城
21. 牧志宗得銅像* 登野城
23. 天川御嶽 登野城
25. 仲道の三番アコウ* 登野城
27. 波多宮之碑 登野城
29. 臺灣農業者入植顕彰碑 登野城
31. ゆとり 登野城
33. 波照間高康頌徳碑* 大川
35. 旧宮良殿内* 大川
37. 旧和宇慶家墓 大川
39. 牛馬之碑* 新川
41. 新生井戸之碑 新川
43. ハンナーカーラ 新川
45. 尖閣列島戦時遭難死没者 慰霊之碑 新川・真喜良
47. 米軍飛行士慰霊碑 新川・冨崎
49. 平和祈願之碑 新川・冨崎
51. 喜舎場永珣 顕彰碑* 新川・冨崎
53. 御誕生記念造林の石碑* 新川・冨崎
No. 名 称 場 所
2. 桃林寺創建400年記念碑 石垣
4. 長山長弘氏頌徳碑 石垣
6. 八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑 石垣・バンナ岳
8. 長延翁頌徳碑 石垣・バンナ岳
10. 魂魄之碑 石垣・バンナ岳
12. 大川山 石垣・バンナ岳
14. 命の尊さの碑 登野城
16. 道路元標 登野城
18. デンサの歌碑 登野城
20. 大濱信泉先生生誕之地* 登野城
22. 通水記念碑* 登野城
24. なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑* 登野城
26. 米為御嶽 登野城
28. 石垣ダムの碑・石垣ダム竣工記念碑 登野城
30. 名蔵ダムの碑・慈雨豊穣の碑 登野城
32. まきしの丘 登野城
34. 鷲ぬ鳥節 発祥の地* 大川
36. 大濱信光詩碑* 大川
38. 八重山キリシタン事件 殉教の地 新川
40. ナータジーカーの頌徳碑 新川
42. 石垣氏庭園 新川
44. 宮良長包生誕地の碑 新川
46. 宮良長包顕彰碑* 新川・真喜良
48. 唐人墓 新川・冨崎
50. 平和祈念碑 新川・冨崎
52. 冨崎観音堂 新川・冨崎
54. 石垣永将頌徳碑* 新川・奈良佐

地図

1.桃林寺仁王像

説明書き
吽形像:密迹力士

口を閉じた像です。
阿形像:金剛力士

口を開いた像です。
重要文化財(美術-彫刻)
桃林寺仁王像 二
元文二年(西紀一七三七年)文明氏久手堅仁屋昌忠の作。補佐役は上官氏川平仁屋正肖及び松茂氏小濱仁屋當明の両人。用材は八重山産ドシヌ(おがたまの木)である。
本像は戦前斯道の権威鎌倉芳太郎氏及び伊東忠太博士によってその芸術的価値を斯界に紹介された。
像は向って右は密迹力士、左は金剛力士である。
一.所在地 石垣市字二八五番地 桃林寺山門
一.文化財指定 一九五六年二月二十二日
一.管理者 桃林寺
社団法人 八重山観光協会


日本最南端寺院、八重山桃林寺の仁王像。現地産オガタマノ木を用いた寄木造りで琉球の人によって制作された現存最古の仏像。そのみなぎる力は堂々たるものである。
桃林寺の門


2.桃林寺創建400年記念碑

桃林寺創建400年
記念碑[表面]

[裏面]

[表面]
4百年記念碑
法燈連綿
南海山桃林寺

[裏面]
南海山桃林寺は薩摩の申し入れ
を受け 「仏法興隆者 本是
朕夙志也」 とする琉球国王
尚寧の命によって西暦一六一四
年に創建された、 八重山初の
仏教寺院で、起伏の多い歴史を
のりこえ今日に至っている

開山四〇〇年大祭
記念事業奉賛会
現住 昌道
前住 禅秀
平成二十六
甲子歳 清秋建立
花園 ●●●

●は判読不能

法燈連綿について
「法燈」とは、仏法がこの世の闇を照らすことを光に例えたもので、
「連綿」は途絶えずに続いていく様子を意味するものです。
碑の遠景

桃林寺は、石垣島では初めての仏教寺院です。
かつて八重山に社寺がなかったため、琉球に進攻した薩摩藩が尚寧王に進言して慶長19年(1614)に創建されました。祭神は熊野権現を勧請したもので、八重山における寺社建立の初めであり、貴重な文化遺産となっています。

3.権現堂

権現堂の碑文

権現堂(ごんげんどう)
     重要文化財
     国指定 昭和56年6月

 薩摩藩が尚寧王に寺社の建立を進言したことから1614年(慶長19)桃林寺と同時に創建された 祭神は熊野権現を勧請したもので 八重山における寺社建立のはじめであり 貴重な文化遺産である 切妻造りの薬医門 室内に土間を取り込み両脇に祭壇を配した拝殿 棟上の火焔宝珠 竜頭等細部手法に特色をもつ神殿からなり それぞれが軸線上に建造されている 御神木の宝鏡は銅製で琉球最古のものといわれ ほかに木彫りの仏像も併祀されている 1771年(明和8)の大津波により潰滅したが 1786年(天明6)に再建された その後 1882年(明治15)神殿を改建 1910年(同43)に一部修復された 太平洋戦争で大破したが1947年(昭和22)に修復 1973年(同48) 1978年(同53)に部分修理を加え 1985年(同60) 薬医門 拝殿 扉絵を含む神殿及び石牆を修理した
     昭和61年1月吉日
     石垣市教育委員会

琉球を支配した薩摩が八重山の土地を調査した際、当地に寺社がないことを琉球国王に進言して建てられたものです。祭神は真言宗の教えをもつ熊野大権現を分神したものです。
1981年に国の重要文化財(建造物)に指定されました。
権現堂

権現堂は市内・石垣地区にあり、隣は桃林寺です。

4.長山長弘氏頌徳碑

長山長弘氏顕彰碑 [正面]

[裏面]
[正面]
わが愛するふる里
この島ヽを憂い
こゝに静かに眠る
長弘拝


[裏面]
平成二十七年八月十八日
故長山長弘氏頌徳碑
法名 弘建宗泰居士
平成二十七年八月吉日建立
故長山長弘氏頌徳碑建立期成会

この碑は、沖縄県の建設業界で活躍された長山長弘氏を称え建立されたものです。
顕彰碑周辺

この碑は八重泉酒造の東側の道沿いにあります。

5.欠

6.八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑

八重山戦争マラリア
犠牲者慰霊之碑の碑文


碑 遠景
八重山戦争マラリア犠牲者
慰霊之碑

 太平洋戦争の末期、沖縄県八重山地域においては軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ、過酷な生活の中で相次いでマラリアに罹患し、三千余名が終戦前後に無念の死を遂げるに至った。
 国は、終戦から五十年を経た平成八年度に、これら犠牲者の御霊を慰めるため、沖縄県へ「八重山地域マラリア死没者慰霊事業」の助成を行った。
 この碑は同事業の一環として遺族等からなる「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」の協力を得て建立されたものであり、遺族がその思いを込めて御霊の名を小石に記し碑の中に納めてある。
 この碑が八重山の戦争マラリア犠牲者の御霊を慰め、その悲惨さを後世に永く伝え、世界の恒久平和創造への礎となることを祈る。
平成九年三月二十九日
沖縄県知事 大田昌秀
協力 沖縄県強制疎開マラリア犠牲者援護会
     会長 篠原 武夫
意匠      潮平 正道
揮毫      玻名城 泰雄
八重山戦争マラリア
犠牲者慰霊之碑




八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑は、バンナ公園南入口近くに建てられています。

7.八重守之塔

八重守之塔碑文

合祀碑文


八重守之塔説明プレート
八重守之塔碑文
独立混成第45旅団隷下の各部隊は海軍の警備隊とともに八重山群島同胞と相携えて米軍の本土進攻に備えこの島に鉄壁の守備を整う。 昭和20年4月米軍沖縄本島に上陸するや孤立無援となり間断なき砲爆撃のもと食料等の補給全く杜絶しあまつさえマラリアのしょうけつ苦しき中に全将兵並びに関係住民は渾然一体となり堅忍不抜の意気に燃え死生を超越してよくその任を全うせり。 ここに南方同胞援護会の助成を得て碑を建て戦陣にたおれし勇士670柱の霊を慰め永くその功を世に伝う。
 昭和42年8月
 八重守之塔建立委員会

合祀碑文
昭和44年慰霊の日を卜してここに日露戦役より太平洋戦争に至る各戦役において戦陣に散華された八重山群島出身軍人軍属戦闘協力者ならびに学徒隊の英霊壱千余柱の八重守之塔合祀を奉告し謹んで慰霊の誠を捧げもって殉國の偉勲を永く世に伝う 冀くば世界平和の礎となりて安らかに鎮まり給わんことを
 昭和44年6月23日
 八重山市町村会
 財団法人 沖縄遺族連合会八重山支部


八重守之塔(やえもりのとう)
八重守之塔は1967年(昭和42年)3月、八重守之塔建立委員会が南方同胞援護会の援助を得て戦没者670柱の慰霊を慰めるために建立されました。その後、1969年(昭和44年)6月23日、八重山市町村会と沖縄県遺族連合会八重山支部により日露戦争から太平洋戦争にいたる八重山群島出身の軍人軍属戦没者1,000余柱が合祀されました。
        石垣市


※ これらはいずれもバンナ公園南入口にあります。
  毎年慰霊の日に戦没者慰霊祭が行なわれています。
八重守之塔

八重守之塔遠景

右側が八重守之塔碑文で、左側が合祀碑文です。

八重守之塔説明プレート

八重守之塔説明プレートは道路沿いにあります。

8.長延翁頌徳碑

碑の外観 [正面]

[碑の裏面]


[碑の右側]


[碑の左側]
[正面]
長延翁頌徳碑

[裏面]
宮平長延翁ハ山陽姓第四世ノ偉人ニシテ西歴一六七四年八月廿日黒島首里大屋子長孝ノ二男トシテ誕生シ一七四九
年十一月十三日永眠セラル享年七十六歳 翁ハ天資英邁豪放磊落貧家ヨリ身ヲ越シ青年時代石垣頭ノ侮辱ヲ受ケテ
発憤シ蹶然立ツテ立身ノ方向ヲ替ヘ首里ニ遊学十年間苦学勉励其間?? 辱知ト学友ノ友愛ニ浴シ以テ将来スル有
意義ナル政治的背景を獲得セリ彼ハ蛍雪ノ功空シカラス若父子ヨ 黒島目差ヘ昇進シテ錦衣帰郷更ニ脇筆首仮脇引
差花城与人築登之座敷ト累進シ五十三歳ニハ黒島首里大屋子ヲ拝命シ黄冠御下賜ノ栄誉ヲ荷ヒ一七三二年五十九歳
ノ特八重山最高行政官タル大浜頭ノ栄職ニ敍任セラシ曽ツテ傲岸タリシ石垣頭ヲシテ愕然?若タラシム 一七三八
年八重山ノ林政並ニ治水土木工事ノ指揮監督官兼在番筆者島袋里之子親雲上カ越任セルヲ幸ニ翁ハ祖業ヲ継承スヘ
ク上國シテ今帰仁按司並ニ新道ノ権威者蔡温ヨリ林致学ト治水土木法トヲ学ヒ帰郷シテ島袋監督官ト共ニ造林計画
ト村別山境界図面及ヒ治水土木工事ノ設計図面等ヲ調製シ杣山機樹ヲ創設シテ役人ヲ配置シ山林原野ノ土地測量ヲ
完了シ林政ノ大事業二百年の計ヲ樹テ名蔵川白保川作原川等ノ治水土木工事ヲ断行シ以テ水利ヲヨクシ宝庫ノ開拓
ト生産増強ニ全魂ヲ打チ込ミタリ然ルニ此ノ難工事ニ要スル天役ハ巳定ノ数ニテハ目的達成ノ不可能ナルヲ知レル
翁ハ在番監督官ト協議ノ結果上司ヨリノ許可ノ未着前ニ更ニ天役ノ増加シ工事ヲ進行シ今日ノ良林相ヲ見ルニ至ル
噫翁ヲ讃ヘテ八重山ノ蔡温ト称ス又故アル哉 川良山道ハ祖父長重翁カ一六四九年頃私財ヲ投シ万難ヲ排シ開通サ
レシ大土木工事ニシテ之ノ川良山道ノ嚆矢タリナント年月ノ流レ先ニ道路ノ破損甚シク通行不能ナリシタメ翁ハ祖
父ノ素志ヲ貫徹スヘク一七四二年頃此ノ山道改修ノ大工事ヲ竣工シテ通行運輸ノ便ヲ計リ以テ今日アルモ得タル也
一七四五年翁ハ勲功ニ依リ尚敬王ヨリ表彰状並ニ賞品拝領ノ光栄ヲ得又一七四六年奥州ノ漂流者共ヲ厚ク介抱シテ
無事帰還セシメタル故ニ松平陸奥守ヨリ感謝状ト銀子三枚ヲ拝領セリ 翁ノ政治的聲望ヲ討シ常ニ凝視セル政敬等
ハ翁ヲ中傷シテ遂ニ政治的致命傷ヲ与ヘタ 翁ハ無実ノ罪ヲ負ハシ縲紲ノ身トナリ牢屋生活中死ノ勝利ヲ頌悟諦観
サレ無罪釈放ノ公報到ル寸前獄中ニ於テ自決セラル噫痛マシキ哉サント正義ハ永遠ニ亡ヒス萬古翁ノ血流を汲ム子
孫ヲ昌ヘシメ以テ翁ノ遺烈ヲ顕彰セシム天理ノ妙運命ノ綾絲凡智推量ノ外ニアリト云フヘシ 嗚呼時代ノ太陽ト讃
仰サレシ翁ノ偉業高潔ナル人格高邁具眼経世済民ノ鴻業ハ山林治水土木工事ニ光芒陸離潔然タリ 翁ノ遺徳ハ右
昆ノ亀鑑ト欽仰シテ惜カサル所以ナリ茲ニ山陽姓一門碑ヲ建テ其ノ高徳ヲ鎮ス
一九五一年昭和二十六年八月吉日


[右面]
頌徳碑建設者山陽姓
一門代表者医学士  宮良長詳
碑文起草者 喜捨場永珣
工事設計監督者 花城善箸

[左面]
碑文謹書者 宮良保備
碑文彫刻者 持増光雄
頌徳碑世話人 宮良高伴


この長延翁頌徳碑は、バンナ公園南入口近くに建てられています。

9.八重山音楽先師 顕彰碑

八重山音楽先師 顕彰碑

【上段】
八重山音楽先師 顕彰碑

【中段】

先 師

真謝与人  用  格
高那与人  英  任
崎山与人  用  宗
小浜与人  英  暢
野底与人  英  普
真謝与人  英  敬
大浜仁屋  英  成
若文子    英  恕
講談師匠  安室孫師
当銘仁屋  由  教
石垣大首里大屋子 大浜用能
石垣仁屋  信  演
【下段】
この碑は
八重山古典三味線音楽
先師の業績を永く
後世に顕彰するため
建立したものである
昭和四十五年二月十日
顕彰会建立期成会
会 長    糸数用著
副会長   漢那 長助
副会長   大濱 津呂
事務局長 桃原 用知



八重山音楽先師 顕彰碑は、「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」の隣に建てられています。
碑 裏面

同 拡大
【右側】
昭和四十五年二月十日建立
平成十二年五月二十三日移転建立

【左側】
喜舎場英整  宮良信光
波照間永端  小渡長知
波照間孫講  浦添為良
宮城常行    大浜当温
喜舎場孫知  玉代勢秀喜
宮良長次    天久用立
石垣喜保    宮良高董
森田永船

【側面】
昭和四十五年七月二日死去
八十才
大浜津呂

漢那長助
昭和六十年十一月十二日没
九十二才

宮良長定
平成二十四年三月二十九日 没
碑 側面
この碑は真謝与人用格や石垣大首里大屋子・大浜用能ら12人の 八重山古典三味線音楽先師の業績を永く後世に顕彰するため、昭和45(1970)年に顕彰会建立期成会が建立したものです。大浜用能流の基礎を築き、八重山育ちや新港節、新ションカネーを作曲した副会長・大濱津呂はこの年に亡くなりました。

10.魂魄之碑

魂魄之碑

【表面】
魂魄之碑

【裏面】
宮田部隊戦友會
二〇〇一年十月十五日建立
同 裏面

この碑は、バンナ公園南入口近くに建てられています。

11.鎮魂の碑

鎮魂の碑



【上段】
球第六四六三部隊
鎮魂
徳島県知事 三木中三書

【中段】
祈平和
石垣市長 内原英郎

【下段】
球第六四六三部隊は
昭和十九年六月二十九日
輸送船富山丸の撃沈で
先遣隊が壊滅し
同年八月徳島で編成され
た歩兵大隊で同年九月
十四日本土防衛のために
ここ石垣島に上陸し
現地召集の者を併せて
二十一年一月まで駐屯し
ました
その間激しい空襲と
マラリアで多くの戦友
が亡くなりました
この痛ましい事実を
忘れぬために沖縄県と
本土の戦友たちが協力
して
戦死者の慰霊と
永遠の平和を願い
この碑を建てました
  昭和六十年六月二十三日
  球第六四六三部隊戦友会

この碑は、バンナ公園南入口近く、「八重山音楽先師 顕彰碑」の隣に建てられています。

12.大川山

大川山の碑

大川山

三等三角点

 緯度  24°22′20″70
 軽度 124° 9′49″52
 標高         230.08m

 ここに設置されている標石は三角点と言い、地球上の位置(軽度
緯度)が高い精度で求められています。
 三角点は、私たちのくらしにも密接な関わりがあり、地震予知や
地図作りを始め、いろいろな測量の基礎となる重要なものです。

建設省国土地理院沖縄支所
八重山地区測量設計業協会
平成5年 測量の日建立


大川山とは、「バンナ岳」のことです。各社のTVアンテナが設置されています。


この碑は、「エメラルドの海を見る展望台」の近くの、電波塔のフェンスの内側にあります。

13.名蔵配水池

名蔵配水池の碑
[表面]


[裏面]
[表面]
名蔵配水池
石垣市水道課

[裏面]
 平成三年二月八日建立



名蔵配水池は、石垣市の環境配慮型水道施設の第一号です。バンナ森林公園の丘陵部に貯水タンクを埋め込み、赤瓦の小屋を建ててボンプ機器などが収容されています。(右の写真を参照)
一見、芝生の張られた公園のようですが、盛土や緑化などにより施設が極力隠され、自然景観を妨げないように工夫されています。
碑遠景

この碑は、北口管理棟から「ふれあい子供広場(Eゾーン)」への道の途中、左手にあります。

14.命の尊さの碑

命の尊さの碑

[裏面]
[表面]
人一人の
いのち
地球より
重い


二〇〇二年四月
石垣市長
大濱長照


[裏面]
「健康都市いしがき21」宣言
青い空 碧い海に恵まれたわたしたちは
健康都市をめざし つぎのことを宣言し
ます
一.健康は希望を生み 生きがいとなり
  人生をゆたかにします
一.日常生活を見直し
  正しい生活習慣を身につけます
一.一に予防 二に検診を心がけ
  健康長寿をめざします
一.誘い合い 励まし合い
  運動することを喜びとします
一.人も自然も島もみな元気
  健やかな仲間づくりの輪をひろげます
         二〇〇二年四月一日
                   石垣市
命の尊さの碑 遠景

この碑は石垣市健康福祉センターの玄関前にあります。

15.八重山島蔵元跡

八重山島蔵元跡の説明看板

八重山島蔵元跡
Yaeyamajima kuramoto Historic Site
蔵元とは、首里王府が地方統治のために創設した政庁で、八重山のほかに宮古島と久米島に置かれていた。八重山島蔵元は、1524年、当時の八重山役人の最高職(頭職(カシラショク))を王府から任命された西塘(ニシトウ)が、出身地の竹富島に開庁したのが始まりとされる。しかし、交通の不便さや土地の狭さなどの理由から、のちに石垣島の大川村に移転し、1633年に、八重山キリシタン事件で処刑された本宮良(ムトゥメーラ)頭石垣永将(エイショウ)の屋敷跡である現在地に移転した。
 その後、1771年の「明和の大津波」で被害に遭い、大川村の高台の文嶺(ブンニ)に移転し、1775年には元の大川村のフンナに移り、1815年には、港と一体となった政治・経済・交通の中心地であった現在地に再び戻った。1879(明治12)年の廃藩置県後もなお存続し機能していたが、1897(明治30)年に廃止となり、八重山島蔵元としての370年余りの歴史を閉じた。
 その後、沖縄県の出先機関である旧八重山支庁など、近年まで行政庁がこの地に置かれていた。現在も、地中には石積み、礎石、柱穴など八重山島蔵元の遺構が残されている。


Kuramoto was a government office established by the Ryukyu Kingdom in order to govern Yaeyama and other areas. Government offices were also established on Miyako-jima and Kume-jima islands. The Yaeyama Islands Kuramoto is said to have its origins in the opening of a government office in 1524 by Nishito, who had been appointed by the kingdom to be the highest-ranking official of Yaeyama. This office was opened on Taketomi, the island of his birth. But because this site was inconvenient for travelling and the grounds were too small, the office was later relocated to Okawa-mura village on Ishigaki Island, and in 1633, was moved to the site of the former residence of Ishigaki Eisho, the head of Mutumera who was executed during the Yaeyama Christian purge. Following this, the structure was damaged by the Great Meiwa Tsunami in 1771, and was relocated to high grounds of Bunni in Okawa village. The office was returned to its former site in Okawa village in 1775,and in 1815,it was again relocated to return to this present site. Integrated with the harbor, this area was the political, economic, and transportation center of Ishigaki. Even after the new administrative policy for establishment of prefectures and abolishment of the domain system was adopted in 1879, this structure remained and continued to function. However, in line with the challenging times, the building was abandoned in 1897, putting an end to its over 370-year history as the Yaeyama islands Kuramoto. Following this, government administration offices such as the former Yeyama branch office of the government of Okinawa Prefecture were located here until just recently. Even now, masonry, corner stones, pillar holes, and other relics of the Yaeyama Islands Kuramoto still remain on the grounds.
八重山島蔵元跡の外観

八重山島蔵元跡は八重山博物館の西側にあります。

16.道路元標

道路元標の碑

この道路元標は、八重山島蔵元跡の碑のすぐそばにあります。
道路元標
Zero Milestone
道路元標とは、道路の起終点等の基準位置を定めた標石である。1920(大正9)年に施行された旧道路法で、各市町村に一つ置くこととされていたが、法改正により、その役割を終え徐々に姿を消していった。
 国内に現存する道路元標は、そのほとんどが戦前に設置され、法に基づき高さ60センチほどの四角柱状の石材に文字が彫られているのに対し、この道路元標は、コンクリート化粧仕上げのオベリスク型の標柱に銅製のプレートを組み込んだ形となっている。これは、戦後の米軍統治下に置かれていた八重山諸島政府の創立1周年を記念して設置されたものを復元したもので、その様式にはアメリカなどの影響が見られ、大変珍しく貴重なものとされている。
 また、設置当時の銅製のプレートには「1951年11月7日」の日付と「八重山群島政府」の名が刻まれており、戦後の行政機構の変遷を物語るものとなっている。
 なお、設置当時のプレートは、石垣市立八重山博物館に保管されている。

A zero milestone is a zero mile marker that indicates the position of the start or end of roads. The old road law that came into effect in 1920 made it mandatory for each municipality to have one milestone. But the role of milestones came to an end with the revision of this law, and one by one they started to disappear. Almost all of the zero milestones that still exist throughout Japan today were erected before World War Ⅱ, and based on the old law, take the form of a rectangular pillar made of stone standing about 60 centimeters high with letters engraved on the surface. In contrast, this zero milestone has a bronze plate embedded on an obelisk-shaped foundation made of decorative concrete. This zero milestone is a duplication of the milestone erected to commemorate the first anniversary of the Yaeyama Islands Government, which was established under the U.S. occupation after the war. Because American influences can be seen in the style of the milestone, it is said to be very exceptional and of high value. The date "November 7, 1951" and the words "Yaeyama Islands Government," which were engraved on the bronze plate when the milestone was erected, are testament to the changes in the administrative structure following the end of the war. The original bronze plate is now kept at the Ishigaki municipal Yaeyama Museum.
道路元標プレート(レプリカ)


オベリスク型の標柱

写真中央部に、道路元標を埋め込んだオベリスク型の標柱が見えます。
八重山諸島政府時代の
道路元標(オリジナル)

八重山諸島政府時代の道路元標
 道路元標は道路の起点を示す工作物で、旧道路法では市町村にひとつという位置づけで各所に設けられた。道路法が改正されると、道路元標はその役割を終え、徐々に姿を消していった。
 この道路元標は、旧八重山支庁内にあったものである。1951年、八重山群島政府発足から1周年の記念日にモニュメントが建てられ、「道路元標」と記された銅板が埋め込まれた。沖縄本島では、沖縄市(美里)や読谷村(喜名)にも残されているが、石垣のものとは異なり、板状に加工した石に文字が刻まれている。
このプレートは、石垣市立八重山博物館の展示室(入ってすぐ左手)に保管されています。

17.人頭税廃止百年記念の碑

人頭税廃止百年記念の碑

同 裏面
八重山人頭税廃止百年記念の碑
 近世から明治の後期に至るまで両先島(宮古・八重山)には、各個人に頭割りに課した人頭税があり、私たちの先人はその不合理で苛酷な税制のもとで苦境にあえいでいた。
 宮古島における先覚者らによる人頭税廃止請願運動の盛り上がりと、沖縄県土地整理事業の完了により明治二六年(1903)一月一日から新税法に移行し、人頭税は廃止となった。それを記念して八重山では群民あげての祝賀会が催された。
 人頭税廃止百年に当たり、先人の苦労を後世に伝えると共に、その歴史的意義に鑑み、ここに記念碑を建立する。
 2003年(平成15)一月一日
 八重山人頭税廃止百年記念碑事業期成会


【碑 裏面】
きゆぬぴぬ さにしや
くがにぴぬ さにしや
うもだくとぅ かなしょうり
にごうだくとぅ しなしょうり


八重山博物館前庭に建つこの記念碑は、2003年、苦難の歴史を後世に残そうと、人頭税廃止100年を記念して建立されたものです。碑は竹富島ンブフル、与那国島なんた浜にもあります。
石垣市立八重山博物館

人頭税廃止百年記念の碑は博物館正面左側にあります。

18.デンサ節の歌碑(作詩作曲益茂第五代目宮良里賢生家)

デンサ節 歌碑
歌碑
          作詩作曲
          益茂姓五世宮良里賢
デンサ節                        
意味
一.上原ヌ デンサ
  昔カラヌ デンサ
  島ヌ アルマディヤ
  イチィン 変ラヌ デンサ
上原のデンサ節は
昔から言い伝えらている教訓歌で
島のあるかぎり
いつまでま変わらないものである
一.デンサ節 作リ
  童子ケニ 言ザシ
  世間ヌ戒 シミナルスドウ
  バンヤ 願ユル デンサ
デンサー節を作って
子どもたちに詠ませ(歌わせ)
世間の戒めになるのを
願っている
一.車ヤ三寸ヌ 楔シドウ
  千里ヌ道ン 通ユル
  人ヤ三寸ヌ 舌シドウ
  大体ヤ 食イシティ デンサ
車は芯棒にある三寸の楔(くさび)で
千里の道も進む
人は三寸の舌で
大きな体を食べてしまう(身を滅ぼす)
一.言イザバ 慎シミ
  口ヌ外出タスナヨ
  出シカラ マタン
  含ミヤ ナラヌ デンサ
ものを言うなら慎め
口の外に出すなよ
出してから二度も
飲むことはできない
一.親子カイシャ 子カラ
  兄弟カイシヤ 弟カラ
  家内持チイ カイシヤ
  嫁ヌ子カラ デンサ
親子のよい関係は子供から(話を聞き)
兄弟のよい関係は弟から
家庭でのよい関係は
嫁の方から
デンサ節 歌碑全景

この歌碑は、桟橋通り沿いにある「サータアンダギーのサヨコの店」の角を東側に少し進んだ所にあります。
歌碑の横の角柱には、「デンサ節作詩作曲益茂第五代目宮良里賢生家」と記されています。

19.大濱信泉像

大濱信泉像

[表面下段]

[裏面]
[表面上段]
大濱信泉像

[表面下段]
大濱信泉 訓

人の価値は
生まれた場所によって
決まるものではない
いかに努力し
自分を磨くかによって
決まるものである
末次一郎書


[裏面]

大浜寛詳

第七代早稲田大学総長
大濱信泉 生誕百年
記念事業 期成会

大濱信泉氏は登野城出身の石垣市名誉市民です。早稲田大学総長、沖縄問題等懇談会会長、日本プロ野球コミッショナー、沖縄国際大学設立理事会長など数々の要職を歴任しました。佐藤栄作首相のブレーンとして沖縄の本土復帰、海洋博の実現など沖縄問題の解決に尽力しました。胸像は大浜信泉記念会館のほか、海洋博記念公園、沖縄国際大学に建立され、八重山高校には立像があります。それぞれの台座には同氏の言葉である「 人の価値は生まれた場所によって決まるものではない」と刻んであります。
大濱信泉 記念館

大濱信泉記念館は登野城の美崎御嶽の南側、国道307号線沿いにあります。

20.大濱信泉先生生誕之地

大濱信泉先生生誕之地の碑

[右標柱]
大濱信泉先生生誕之地


[左プレート]
この碑は沖縄復帰促進に功績のあった 元早稲田大学総長大濱信泉先生を永遠に称える為寄贈したものである
沖縄協会々長  茅 誠司

大濱信泉先生の生家

先生の生家は登野城26番地、美崎御嶽の近くにあります。

21.牧志宗得銅像

牧志宗得氏之像

同下段プレート拡大

[表面]
初代社長
牧志宗得氏之像


[裏面上段]
贈 勲四等瑞宝章叙勲記念
1967年11月3日
八重山電力株式会社

[裏面下段]
 牧志宗得社長は、明治十九年九月一九日、那覇市に生まれ、明
治四十三年、東京私立日本医学校を卒業、大正二年、石垣市に牧
志医院を開業、五十有余年の長期に亘って八重山住民の医療保健
に尽くされた。昭和二十三年、戦後第一回の公選において、石垣
市長に当選就任、爾来三期十有余年に亘って市制を担当し、幾多
の功績を残された。特に上水道事業の完成と、電気事業の統合並
びに民間移管は、石垣市の歴史に特筆大書される輝かしい金字塔
であり、更に、昭和三十四年五月、八重山電力株式会社の初代社
長として、住民福祉に貢献された。昭和四十二年秋、多年の地方
自治行政に対する功績によつて勲四等に叙せられ、瑞宝章を授与
された。茲にその栄誉を讃え、胸像を建立して、その功績を永く
後世に伝えるゆえんである。
昭和四十四年二月四日 八重山電力株式会社


[側面]
 牧志宗得氏は、昭和三十三年石垣市長に当選され 三期十二年の長期に亘り
石垣市制の発展に尽くされた。 特に水道、電気の二大事業の実現は、石垣市の
歴史に残る大事業であった。胸像は昭和四十二年の秋の叙勲で勲四等に叙せられた
際に八重山電力株式会社が建立した。沖縄の本土復帰とともに電気事業の一元化に
伴って、沖縄電力に移管され、胸像も移転を余儀された。
 大濱長照石垣市長は水道事業に関わりのある、牧志宗得元市長の胸像移転を
石垣浄水場に移転することを積極的に進め、平成十四年二月胸像の移転が実現
された。
  平成十四年二月二十二日 石垣市長 大濱長照
  胸像移転実行委員長 石垣信亨


この銅像は、登野城・北上原(ニシィウイバル)の石垣市浄水場入り口に設置されています。
牧志宗得は石垣市のインフラ整備に尽力し、大きな功績を残すとともに、市発展の基盤を築きました。
雨水や井戸水に頼っていた当時は、子どもたちに皮膚疾患も多かったのですが、上水道の整備により衛生面の飛躍的な向上が図られました。銅像は1969(昭和44)年、勲四等瑞宝章受賞を記念して建てられました。
裏面

側面

22.通水記念碑

上水道通水記念碑

同 上部拡大
[上段]
上水道通水記念碑

[下段]
MOMORIAL
FOR
INITIATION OF WATER SERVICE




登野城・北上原(ニシィウイバル)の石垣市浄水場の構内に設置されています。上水道の通水4周年を記念し、1957(昭和32)年6月に建てられました。当初は、市消防隊前広場(現海那銀行八重山支店敷地)に噴水とセツトで建てられていましたが、道路拡張に伴って現在の場所に移設されました。碑文は、英文と和文で刻まれています。当時の除幕式は盛大に行われ、八重山主席民政官ブローナー少佐や琉球政府代表、市関係者など大勢が参列したそうです。
上水道通水記念碑 裏面

元は裏面にも2カ所プレートがあったようですが、剥離・脱落して何と書かれていたかは不明です。

23.天川御嶽

天川御嶽 説明板

天川御嶽
     Ama-on Sacred Site / 天川御嶽
 天川(アーマー)とは、この地一帯の称で、古くは天川原(アーマーバル)と呼ばれていた。また、御嶽(オン)とは、村人の健康や村の繁栄などを祈願する聖地である。
 天川御嶽の歴史は古く、「八重山島由来記」(1705年頃)にも記されている。
登野城(トゥヌスク)村の伝承では、新城家(アーマーヤー)の祖先で霊験(セジ)高く篤農家でもあった野佐真(ヌサマ)が天川原の霊石(イビ)を信仰していたことから毎年豊作・豊漁に恵まれ、そのため村人たちにもその霊石を尊信するようになり、豊作・豊漁の神として信仰するようになった、といわれている。
 首里王府時代には、沖縄本島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する七嶽(ナナオン)(美崎[ミシャギ]・宮鳥[メートゥル]・長崎[ナースク]・天川[アーマー]・糸数[イトゥカズ]・名蔵[ノーラ]・崎枝[サキダ])の一つとされていた。
現在でも折々の祈願のほか、旧暦六月には豊作への感謝と来る年の豊穣を祈る豊年祭が古式豊かに執り行なわれている。

"Ama" is the name of this region, and in times of old, it wa called Ama-baru. "On" is a sacred place where prayers are given for the health of the villagers and the prosperity of the village. The history of Ama-on goes back many years, and it is mentioned in the Yaeyama shimayuraiki (Origins of Yaeyama Islands, circa 1705). According to stories passed down over generations in Tunusuku village, Nusama an ancestor of the Amaya clan who was a hard-working farmer with spiritual ability to work miracles, worshipped the stone of Ama-baru, and because of this he always had abundant crops and big catches of fish. The villagers also came to believe in this spiritual stone and large fish catchers worshipped this as the god of plentiful harvests and fishing. During the era of the Ryukyu Kingdom, it became one of the seven sacred spots to pray for the safety of officials who boarded ships bearing tributes to the main island of Okinawa. The other sacred places were Mishagi, Metoru, Nasuku, Itukazu, Nora. and Sakida. Even today, people come here to pray for various things, and in June of the old lunar calendar, the ritual Hounensai, or harvest festival, is held to express thanks for the rich harvest and pray for a plentiful one in the following year.
天川御嶽 説明板

2010年6月に135年ぶりに建替えられました。

24.なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑

なかどぅ道ぬ
とぅばらーま歌碑
同裏面


同側面

【歌碑・表面】
なかどう道から
ななけーら
かようけ
仲筋かぬしゃま
そうだんぬ
ならぬ


(歌碑の意味)
なかどう道から七回通うけれども、仲筋家の愛しいあの娘は話を聞いてくれない。(縁組が叶わない)

※ 八重山の代表的な郷土芸能の一つでもある「とぅばらーま」の発祥地と言われる、「なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑広場」に、この碑はあります。
 「仲道道(ナカドゥミチィ)」とは、昔、登野城村から真栄里村に通じる道の呼名です。現在では仲道給油所あたりから真栄里集落入口の三番アコウの木に至ります。八重山を代表する「とぅばらーま」の歌詞の一節で、美人と評判の仲筋家のカヌシャマを目当てに通い詰め、相手にされなかった四カ字の若者らの嘆きを歌っています。若者らはカヌシャマを呼び出すためにフクギの実を投げ、一晩で仲筋家の庭はそのフクギの実でいっぱいになったというエピソードも伝えられています。


【裏面】 【側面】
流れる才月
移りゆく人の心
大阿香の下に昔を
偲ぶよすがとして
この碑を建てる
 昭和五十五年九月
  登野城
  平得
  真栄里
碑文揮毫 佐久本省吾
碑石寄贈 山川朝源
刻   字 崎山寛治

この碑は、時代を超えて広く歌い継がれている八重山民謡の代表歌・「とぅばらーま」を後世に伝えようと1980年、真栄里入口にある三番アコウの木のそばに建立されました。しかしアコウの木の根が大きくなり、生育に影響が出たため、碑は2006年に同じ敷地内の東側(現在地)に移設されました。
この広場では1990年から誰でも唄うことのできる石垣市主催の「とぅばらーま大会前夜祭」が催されるようになり、今日では「なかどぅ道のとぅばらーま祭」に発展改称しています。
三番アコウの木

右手奥に「なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑」が見えます。

25.仲道の三番アコウ

仲道の三番アコウの碑
 石垣市指定文化財/史跡
 City Designated Cultural Property Historical Site
 仲道の三番アコウ (なかどうのさんばんアコウ)
 The Third Akou Tree of Nakado
                 平成3(1991)年11月13日
                 November 13, 1991 designated
 この巨樹は、三番アコウと呼ばれ親しまれて推定樹齢200から250年のオオバアコウである。
 仲道とは字登野城の小字名で、三番アコウが生えるこの場所は、登野城から平得、真栄里への道路の分岐点にあり、古くから道しるべとして、また、アコウが作る心地よい木陰は、農作業帰りや行商の人々の憩いの場として親しまれてきた。かつては、三番アコウから西100mの道路の分岐点に二番アコウ、さらに西100mの分岐点に一番アコウが生えていたが、現在は三番アコウのみが残っている。
 三番アコウの側には、八重山を代表する民謡「トゥバラーマ」の歌碑が建っており、仲道にゆかりのある歌詞が刻まれています。
          平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
                      文化財課 83-7269

A giant tree (Ficus caulocarpa) estimated to be about 200-250 years old, it is located at the crossroad that leads to the Hirae and Maezato districts from the Tonoshiro district. Since long ago, this tree has been a landmark for the local people and a familiar spot for relaxation. There used to be one tree at the junction on the east end of a road in the Tonoshiro district and second tree at a junction 100 meters east of the first, but both trees have withered and died. Next to the Akou tree is a monument inscribed with a poem "Tubarama", a lyrical song that represents Yaeyama, and lyrics related to Nakado is carved.


かつての一番・二番アコウの木は枯死しました。現在、この三番アコウは石垣市の指定文化財(史跡)となっています。古くからこの木は、大きな木陰をつくり道行く人や行商人の憩いの場として親しまれてきました。
三番アコウの木

26.米為御嶽

米為御嶽の説明板

米為御嶽のイビ門
 石垣市指定文化財/有形民俗文化財
 City Designated Cultural Prorerty / Tangible Fork Cultural Property
 米為御嶽(いやなすおん)
 Iyanasu On
              平成3(1991)年11月13日指定
              November 13, 1991 designated

 米為御嶽は、八重山にはじめて稲作を伝えたとされる兄タルファイ、妹マルファイのうちマルファイの墓とされ、のちの人々が稲作を伝えた神として尊崇し、御嶽として信仰されるようになったといわれる。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、米為御嶽は字登野城の御嶽として信仰されている。また、タルファイの墓も同様に尊崇され、大石垣御嶽(ウシャギオン)として字大川の人々に信仰されている。
 伝承によれば、タルファイ・マルファイは安南(現在のベトナム)のアレシンという所から稲種子を持って来島し、登野城の小波本原(クバントゥバル)に住居し、水田を開いて島民に稲作を指導したとされる。登野城の種子取祭や豊年祭などの農耕儀礼は、この御嶽と兄妹の住居跡とされる小波本御嶽を中心に、現在でも古式豊かに執り行なわれている。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。
              平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
                          文化財課83-7269

Tai phi and Mal phi are two siblings who were the first to introduce rice growing to the Yaeyama region. It is said that the Iyanasu On (sacred praying site) is grave of Mal phi that became worshiped by the future generations. The grave of the Tal Phi is similarly worshiped by the local people as the Ushagi On.
米為御嶽の遠景

米為御嶽は石垣市中央運動公園の西側に位置しています。

27.波多宮之碑

波多宮之碑(正面)

同拡大

説明石碑
【表面】
波多宮之碑
入植五十周年記念

【裏面】
入植者
(省略)
わらび会会員
(省略)

[説明石碑]
 バラビドーの地は波照間島(波)多良間島(多)、宮古島(宮)から移り住んで、この地を切り拓いた。
 私たちは入植五十周年記念を迎え、後世にその歴史を伝承し、バラビドーの発展を願い、ここに、波多宮之碑を建立する。
  二〇〇〇年十一月
  バラビドー住民一同

[建立日碑]
二〇〇〇年十一月二十六日建立

バラビドーの名前の由来
 昔、この辺りには、ワラビが沢山生えていたそうで、その中に道を通した事からワラビの道(ドー)と呼ばれ、それが今日では、バラビドーになったそうです。
(因みにワラビを石垣島の方言でバラビと言うそうです。)
波多宮之碑(裏面)

入植者プレート

この碑はバラビドー観光農園の近く(北西方向:バンナ公園北口への道沿い)にあります。

28.石垣ダムの碑・石垣ダム竣工記念碑

石垣ダムの碑

諸元プレート
【上段】
石垣ダム

【下段】
区分 名称 諸元
一般 位置
河川名
沖縄県石垣市字登野城平得
磯辺川
貯水池 流域面積
総貯水量
有効貯水量
設計洪水位
常時満水位
満水面積
     1.54 Km2
  420,000 m2
  480,000 m2
 EL 53.00 m
 EL 52.00 m
    0.065 Km2
堤体 型式
堤頂標高
堤高
堤頂長
堤頂幅
傾斜コア型アースフィルダム
 EL 55.00 m
    18.50 m
    65.00 m
     5.00 m
洪水吐・取水工 設計洪水量
取水型式
設計取水量
取水口径
    65.00 m3/sec
スルースゲート|門斜樋
    0.981 m3/sec
    Φ 600 mm

【石垣ダム竣工記念碑】
石垣ダム竣工記念碑
ダムの高さ 16.18m
ダムの長さ 61.00m
満水面積  7.80ヘクタール
最大推進  14.18m
貯水量    571.768m3
灌漑面積  137.200ヘクタール
建設工事  1961年5月より1962年4月まで
発注者    琉球政府
施工者    西里建設 西里松次郎

石垣ダム竣工記念碑


石垣ダムは、石垣島内に5つあるダムの内、唯一返還前の琉球政府によって建設されたものです。(その後、改修済)

29.臺灣農業者入植顕彰碑

臺灣農業者入植顕彰碑
【表面中央】

同【裏面1】

同【裏面2】
【表面】
臺灣農業者入植顕彰碑

【裏面右プレート】
顕彰碑高額寄付者
(以下、省略)

【裏面左プレート】
建立 台湾農業者入植顕彰碑建立期成会
会長 伊波剛
竣工 2012年8月1日(パイナップルの日)
揮毫 豊平峰雲
碑石寄贈 福本秋語
施工 崎山石材


【隣の説明石碑:表面
パイナップル産業と水牛導入の功績を称える
 台湾中部の台中や員林地方の大同パイングループは、一九三五年(昭和一〇年)、パイン生産の新たな活路を求め石垣島の名蔵・嵩田地区に入植しました。林発氏らを中心に大同拓殖株式会社を設立、六〇戸、三三〇人を呼び寄せ、幾多の困難を乗り越えパイン生産に成功し、一九三八年夏、初めて缶詰を本土に出荷しました。しかし戦時体制下でパイン栽培は禁止となり、工場も日本軍の兵舎にとられ、敗戦で廃業しました。
 工場を失った林発氏や廖見福氏らは、パイン産業を再興するため秘かに保存していたパイン種苗の普及を図り、家内加工による缶詰生産を再開します。時の琉球政府のパイン奨励、日本政府の輸入関税免除で、栽培は飛躍的に広大、格好の換金作物として、沖縄本島や宮古からの入植者たちの生活も支えました。やがて生産は沖縄本島北部へも広がり、さとうきびと並ぶ二大基幹作物に成長、最盛期には全沖縄で二一工場となり、日本復帰前の沖縄経済を担いました。
 水牛は一九三三年に台湾からの移民により農耕用に三〇頭が導入されたのが始まりです。
これが繁殖して普及、八重山の農業生産の向上に大きく貢献しました。
 よって私たち市民・県民有志は、パイン産業と水牛を導入した台湾農業者の功績を称え、ここに感謝をこめ顕彰碑を建立します。
 二〇一二年一月 台湾農業入植者顕彰碑建立期成会

(以下、同一内容で繁体字で記載=省略) 

同【裏面】
撰文 三木健
中国語訳 渡邊ゆきこ 呉俐君



【牛のレプリカ】
寄贈 水牛レプリカ
琉球華僑総会
パイナップル産業と
水牛導入の功績を称える碑


同裏面


顕彰碑は台湾で制作されました。この顕彰碑は名蔵ダム左岸・南側駐車場にあります。

30.名蔵ダムの碑・慈雨豊穣の碑

名蔵ダムの碑

同拡大
【名蔵ダムの碑】
名蔵ダム

【慈雨豊穣の碑】
慈雨豊穣
 昭和四六年の、連続干天日数一九一日にも及ぶ大干ばつにより石垣島の農業は壊滅的な打撃を受けた。
 そこで、農業用水を確保する慈雨の水瓶として、この地にダムを築造した。
ひこの事業を契機としての石垣市の将来の姿について、名蔵小・中学校生徒により考案された絵画を記念サークルとして残すものである。
  平成十一年二月
  沖縄総合事務所
  石垣農業水利事業所
慈雨豊穣の碑

同拡大


この顕彰碑は名蔵ダム左岸にあります。

31.ゆとり

ゆとりの碑
ゆとり
石垣市

【プレート】
ゆとり 創造宣言都市
平成7年8月2日指定
沖縄労働基準局
(社)全基連沖縄県支部
揮毫 石垣市長 大濱 長照
プレート

この碑は中央運動公園内にあります。

32.まきしの丘

まきしの丘の碑
まきしの丘

※この碑の由来については調査不足で不明です。

この碑は石垣浄水場の西側の道路沿いにあります。

33.波照間高康頌徳碑

頌徳碑碑文

同側面

頌徳碑
碑文 カタカナ→ひらがな
波照間高康ハ大史姓第五代目ノ大
偉人デ西唐一六九四年(元禄七年
)西表首里大屋子時代公用デ首里
ヘ出張セラレ公務ヲ終エテ八重山
ヘ帰ル途中台風ニ逢イ清國ノ鎮海
ニ漂着シタガ幸ニ厦門将軍大老命
ト面会シ「黄ハンス芋」ノ貴重ナ
ル食糧作物タルコトヲ始メテ知リ
其ノ種子ヲ頂キ大事ニ持ッテ琉球
本島ニ安着シ直チニ薯種子ヲ垣花
ニ仮植シ琉球本島ヘモ分ケ與エソ
レカラ無事ニ帰郷シテ移植シタノ
ガ八重山ニ於ケル甘藷傳来ノ始メ
デアル爾来八重山ハ凡エル災難ニ
逢ッテモ芋ノ恵ミニヨッテ救世セ
ラレテキタノデアルココニ於テ島
民ハ芋ノ恩恵ニ浴スルト共ニ翁ノ
偉功ノ崇高ナルヲ深ク肝銘シタノ
デアル翁ハ八重山産業ノ大恩人デ
アリ其ノ偉徳ハ永ク後世ノ亀鑑ト
ナル茲ニ全住民ノ喜捨浄財ニヨリ
碑ヲ建テ其ノ功徳ヲ讃仰スル次第
デアル

一九四七年(昭和二十二年)
 十月二十二日
(旧九月九日重陽節句)
頌徳碑建立委員会 大濱用立
大史姓一門総台  吉野高善
文喜舎場永珣
現敷地移轉 昭和四十七年十月十五日
 波照間高康は大史姓第五代目の大偉人で西唐1694年(元禄7年)西表首里大屋子時代公用で首里へ出張せられ公務を終えて八重山へ帰る途中台風に逢い清國の鎮海に漂着したが幸に厦門将軍大老命と面会し「黄ハンス芋」の貴重なる食糧作物たることを始めて知り其の種子を頂き大事に持って琉球本島に安着し直ちに薯種子を垣花に仮植し琉球本島へも分け與えそれから無事に帰郷して移植したのが八重山に於ける甘藷傳来の始めである。
 爾来八重山は凡える災難に逢っても芋の恵みによって救世せられてきたのである。
 ここに於て島民は芋の恩恵に浴すると共に翁の偉功の崇高なるを深く肝銘したのである。
 翁は八重山産業の大恩人であり其の偉徳は永く後世の亀鑑となる。
 茲に全住民の喜捨浄財により碑を建て其の功徳を讃仰する次第である。


1947年(昭和22年)10月22日
(旧9月9日重陽節句)
頌徳碑建立委員会 大濱用立
大史姓一門総台  吉野高善
文喜舎場永珣
現敷地移轉 昭和47年10月15日

この碑は中国厦門から甘藷を持ち帰り、人々を飢えから救った波照間高康の功績を称えるものです。かつて八重山は台風や干ばつで飢饉に見舞われ、多くの人々が餓死していました。(イモの伝来は嘉手納町の野国総管、宮古の砂川親雲上なども有名です。) 波照間高康の持ち帰ったイモが普及し、それにより人々は飢饉の恐怖から解放されました。
頌徳碑遠景(正面)

同側面

「頌徳碑」は石垣島字大川の大石垣御嶽の側にありましたが、現在は八重山農林高等学校の東側の交差点の隣に移設されています。

34.鷲ぬ鳥節 発祥の地

「鷲ぬ鳥節
発祥の地」の碑


鷲ぬ鳥節 発祥の地

歌詞
一.綾羽ば 生らしょぅり ぶいる羽ば 産だしょぅり
一.正月ぬ すいとぅむでぃ 元旦ぬ 朝ぱな
一.東かい 飛つぃけ 太陽ばかめ 舞つぃけ


(意味)
一.綾なす羽の鷲の子を 産みまして
  美しく艶やかな羽の鷲の子を 孵しまして
一.正月の 早朝に 元日の 朝まだきに
一.東のほうへ 飛んで行き 太陽を戴いて 舞って行き

※ 正月の太陽に向かって鷲が羽ばたく様子を悠然と歌った「鷲ぬ鳥節」は、お目出度い歌として宴会の座開きや祝いの門出などの場面でよく歌われます。

このモニュメントは2001年に設置されました。「鷲ぬ鳥節」は所代司の仲間サカイが元日にアコウの木から勢いよく飛び立つ若鷲を見て詠んだとされています。モニュメントもアコウの木からカンムリワシが飛び立つデザインとなっていて、ボタンを押すと「鷲ぬ鳥節」が流れる仕組みとなっています。
「鷲ぬ鳥節」の歌詞

この碑はユーグレナモール内にあります。ここが八重山民謡「鷲ぬ鳥節(ばすぃぬとぅるぃぶし)」の発祥地とされています。

35.宮良殿内

重要文化財指定碑
重要文化財建造物 旧宮良殿内(めーらどうぬず)
         名勝 旧宮良殿内庭園
                     国指定 昭和47年5月15日
 文政二年(1819年)松茂(しょうもう)氏八代宮良親雲上当演(ぺーちんとうえん)が宮良間切頭職(まぎりかしらしょく)(八重山最高の役職)に任命されたことを記念に建造されたといわれる。上級武士の格式を備えた構えである。 建物は木造平屋づくり本瓦葺きである。 材料は総イヌマキで雨端(あまはし)柱(方言ハナシバーヤ)は根付丸太を使用している。 屋敷は琉球石灰岩の石垣で囲い、南西の中央に薬医門型式の門を建て、その西端に裏門を築いてある。 表門を入ると築地塀のひんぷんがあって、中門を開ける。 敷地のほぼ中央に主家を配置しその東側には石を組み築山を築いた庭園がある。 南東部に築地塀で囲った便所を設け、表門と裏門の間に井戸を造ってある。
 庭園は首里の庭園師城間親雲上(ぐすくまぺーちん)の設計指導によるもので、琉球石灰岩を主材料に五つの築山を築いている。 これは日本庭園の伝統様式を踏襲するもので日本庭園文化の伝播をみる上で貴重であるばかりでなく、わが沖縄の近世における上流階級の屋敷構えの中における庭園として最もよく保存されている。
                   石垣市教育委員会
                        昭和61年3月
宮良殿内 主屋
1972(昭和47)年の本土復帰に伴い、国指定の名勝に指定されました。大川の宮良殿内は観光名所として広く知られています。
史跡指定碑
史跡 宮良殿内庭園
                   昭和47年5月15日 国指定
 この庭園は文政二年(1819年)ごろ、八重山の頭職の地位にあった松茂氏八世当演のとき、作庭されたと考えられます。珊瑚石灰岩を主材料として五つの築山を、北を高く南に向って次第に低く築いています。この山と三の山との間に枯滝を落とし、三の山と四の山の間に石の反橋を架け、四の山と五の山は岩島風に作られています。また前面に平らな砂池とし、庇下には左手に一群の岩を組み、右手に蹲踞を、特に砂岩を用いて構えてあります。
 この庭園の構成の基準となっている地割は、日本庭園の伝統様式を踏襲する沖縄近世における上流階級の屋敷構えの中における庭園として最もよく保存されているものの一つです。
                   沖縄県教育委員会
                        昭和52年3月31日
宮良殿内庭園

36.大濱信光詩碑

上段の碑


下段の碑

[上段]
大濱信光詩碑
石垣

いつの頃からか ふるさと人(びと)は
石垣にかこまれた生活(くらし)を始めたろうか

雨がふれば
苔はふくらみ
陽が照れば
しっぽの青いとかげも匍い出た

ああ 若い母が上布を織ろうと
石垣の穴に竹をさしこみ
糸をのべたはるかな少年の日

[下段]
 大濱信光詩碑
 大濱信光は一九〇二(明治三十五)年十二月七日、沖縄県石垣市字大川のこの場所で生まれた。信光は早くから文学的才能を発揮し、沖縄県立師範学校時代には作曲家宮良長包とのコンビによる「嘆きの海」や「泊り舟」などを作詞、その後教職の傍ら、文芸同人誌を発行、戦後は八重山において総合雑誌や日刊紙を発刊するなど、地域の文化活動において中心的な役割を果たした。
 一九七九年(昭和五十四)年に七十七歳で発刊した処女詩集「先島航路」は、「沖縄近代史の大きな収穫」と高く評価された。
 信光は本名のほかに白濱冷夢、浜間晃一郎、深見鮫一郎などのペンネームをもっていたが、特に白濱冷夢の名は遠く九州まで知れわたった。信光の詩は卓抜な比喩と構成とみずみずしい感性にあふれており、「詠嘆の詩人」「海洋詩人」とも呼ばれた。
 没後二十六年目の本年三月に発行された「大濱信光全詩集」には、高みを極めた最晩年の詩群と共に、学生時代からの詩歌に加えて俳句・短歌・小説・戯曲・エッセーなども収録され、信光の文学業績のほとんどが網羅されている。信光は戦後の疲弊した郷土・八重山を励ました作品から、「民心に明かりを灯す責任を自覚した詩人」とも評されている。一九八三(昭和五十八)年十一月三十日八十一歳で永眠した。
    二〇一〇(平成二十二)年十一月三十日
    大濱信光詩碑建立期成会
    会長 山田 隆一
    揮壱 玉代勢忠雄


宮良長包作曲「嘆きの海」「あかゆらの花」などの作詞で知られる大濱信光の業績を称え、2010年、大川の生家跡(宮良殿内の西側)に建立されました。大濱は、八重山初の本格的文芸同人誌「セブン」の創刊に参加、また戦後は八重山毎日新聞の前進「南琉日日新聞」の創刊にも関わるなど八重山の文化振興に貢献しました。八重山商工高校の校歌の作詞者でもあります。詩碑は「大濱信光全詩集」の発刊を機に建立されました。
碑の外観


碑の前の通り

この詩碑は大川の大濱信光の生家があった場所に建てられています。

37.旧和宇慶家墓

旧和宇慶家墓の
説明看板


旧和宇慶家墓
   重要文化財 旧和宇慶家墓        平成12(2000)年5月25日 指定

 旧和宇慶家墓は、長田大主を大宗とする長栄姓の流れを引く玻武名家5世信茂の第2子
真那を祖とし、18世紀後半に頭職を出した名家の旧墓である。
 墓は、基室部、内庭、外庭の3つの空間に分けられる。外庭は最も広く、袖垣によって
囲われている。内庭とは高さ約2mの石垣によって仕切られるが、中央に設けたアーチ門
を通じて出入りできる。基室は自然の岩陰をさらに掘削して奥行きを広げたもので、中央に
組合せ式の石棺が1基安置されている。基室入口と岩陰全体は石積みにより閉ざされるが、
正面中央部に小型のアーチ門を設けている。アーチ門には縦格子をもつ板石がはめ込まれて
おり、開閉はできない。墓と石垣には、漆喰が残る箇所がみられることから、かつては全面
に漆喰が塗られていたと思われる。
 和宇慶家の伝承によれば、玻武名家7世石垣親雲上信明が、1647年に風水神・古波蔵
親雲上の意見を取り入れて石城山の麓に旧墓を譲り受けたとされる。
 本墓は独特な意匠を有するばかりか、基室入口の構造から一人の被葬者のために築かれた
ものと想定できる点など、墓制史上きわめて貴重である。
                         平成26(2014)年3月
                           石垣市教育委員会 文化課 83-7269
旧和宇慶家墓遠景

旧和宇慶家墓遠景は、八重山病院の北方約700mの大川・宇志原の小高い丘陵地()林内にあります。

38.八重山キリシタン事件 殉教の地

「八重山キリシタン事件
 殉教の地」の碑


赤い琉球瓦の祠

左右に霊石があります。
八重山キリシタン事件 殉教の地
 一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ嘉善姓一門を中心にひろまったが国禁であるキリスト教を信仰したとして「八重山キリシタン事件」と呼ばれるキリシタン弾圧事件がおこった。
 一六二四年、宮良親雲上永将は首謀者として当地(オンナー)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、宮古島に流された。ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
 一六二九年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟宮良頭の永弘や大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行された。永弘は渡名喜島へ流刑となり、一六三五年に焚刑に処せられるが、安師は慶良間島へ流刑となった後に赦されて帰島する(一六四二年)。
 さらに、一六三八年には宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとして永将同様当地(オンナー)で焚刑に処せられた。
 この一連の事件は薩摩侵入(一六〇九年)後の琉球唯一のキリシタン弾圧による殉教事件である。
 本宮良の主と呼ばれた永将翁が処刑されるときに歌ったとされるのが「大野ダキアヨウ」である。
 祠の中の霊石は、焚刑に処せられた本宮良の主永将翁と宮良与人永定翁のものと伝えられる。永将翁の紋所「四つ巴」は心の字数を表しているといわれる。
 二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)
                      嘉善姓一門会
よく整備された庭

この碑は桃林寺の西方(79線沿い(新川54番地)にあります。

この事件をきっかけに、スペイン・ポルトガル船の来航を排除する海防体制が強化されました。また、薩摩藩・徳川幕府による琉藩支配が一段と厳しくなり、琉球王国が被支配者であることがより明確となっていきました。

39.牛馬之碑

牛馬之碑

正面

左側

右側
【上段】
牛馬之碑

 字新川

【下段】
牛馬之碑 港内整備
字会長 照屋玄
副会長    
(以下3名略)
部長     
(以下4名略)
工事施工者 
(以下2名略)
平成十二年(二〇〇〇年)九月二十八日竣工

【右側】 【左側】 【裏側】
この景勝地
 フツクニムルは
南に真喜良
 北に阿香花
ここに新川字
 の永遠の
発展と畜産
 振興の根源
たる牛馬の
 魂を祭り
永遠に畜産
 の守護神
として見守り
 給えと祈る
昭和四六年六月
    若夏
嵩本正宜
真喜良が丘
 別名フツクニムル
牛馬之碑建立
 坪数 一六〇坪
 竣工昭和四六年
  六月十五日
土地寄贈(道路の分)
 屋嘉部長悦
協力者
 (以下氏名略)
工事施工者
 大底清起
 石垣市
 新川字民一同
新川字会長
 石垣利男
副会長
 屋嘉部長悦
 平良恵清
祭事係
 譜久盛信正
(一~五)町内会長・副会長
 (以下氏名略)
外役員一同
老人クラブ会長
 西川方助
副会長
 石川正松

 この碑の前で、新川字会が毎年「牛馬祭」を行い、牛馬の安全祈願をしています。
 伝承によれば、疫病で新川の牛馬が次々と死んでいったのに対し、大嵩屋(フータキヤー)の牛馬は健康でした。そのわけを村人が尋ねると、大嵩屋は「牛馬の安全と繁盛を祈願しているから」と答えました。それから村人も祈願するようになったそうです。当初は、ジィーダカと呼ばれていた地でシィサシィスクムリィから運んできた石を神体としていたようです。
裏側



フツクニムルの坂道から

牛馬之碑は「あやぱにボウル」の西側の丘上にあります。

フツクニムルからの眺望

40.ナータジーカーの頌徳碑

ナータジーカーの頌徳碑

 
[上段]
頌徳碑

[下段]
この井戸は古来凡そ貮百年前
に大工家の祖先が住民のため飲
料水用として掘り出された由緒ある
井戸(ナータッカー又はインヌカー)と
呼ばれ石垣市上水道の出来るまで
使用されてきた井戸であります
そこで祖先の偉業を永遠に讃えここに
頌徳碑を建立す
昭和五拾参年六月
井戸主 大工安五郎
発起人 大江高英
外親族一同
ナータジーカー

ナータジーカーは市街地から川平に向う79号線沿い(新川地区)にあります。

41.新生井戸之碑

新生井戸之碑


碑文


裏面

[上段]
新生井戸之碑


[下段]
往時 長崎家の祖が漁猟のためこの杜の辺りを往還するたび樹々の間に怪しい火の明滅をみたので杜にわけ入り光の発するところを尋ねたところそこには夫婦石があつた。 思うにこの石は神のよりましの霊石にちがいないと考え爾来この霊之日参し礼拝信仰した。
ある年八重山は農作物の不作で収穫のほとんどない凶作であったが不思議なことには独り長崎家の農作物ばかりは豊かに稔ったので日頃篤く崇う杜の神のあらたかな霊験だとし初穂神酒を供えその恵みの感謝を捧げた。
この話を伝え聞いた村人はこぞって聖なる杜に額づくようになりひとしく神の霊徳に浴したので一社を建立益々信仰を深めるに至った。 ここがすなわち八重山御嶽七山の一つとして崇められる長崎御嶽である。 さるほどにこの杜への神降臨があったのち霊石の鎮まり給う西方に突然美しい霊泉の涌出があった。 人々はまさに神のみわざだと喜びこれを掘り下げ井戸を築き神に手向ける浄水を汲む井とし新生井戸(アラマリナー)と称した。
宝暦七年(一七五七)石垣村から新川村が分村したときこの新しく生れた井戸の名前を村名にして新川村と命名したと伝承されている。
 昭和五十四年(西暦一九七九)六月廿三日建立
 新川字会長 冨田孫秀謹書


[裏面]
碑建立実施者
神司 長崎初
仝 崎枝キヨ
仝 我謝 初
仝 黒島 薫
聖域寄贈 宮良長和
新川出身
工事提供 上原長義
協賛   新川字会
新生井戸


新生井戸外観

新生井戸は長崎御嶽の西方の少し離れた場所にあります。周囲は緑の木々に囲まれています。

42.石垣氏庭園

石垣氏庭園の碑

石垣氏邸門

同上(逆方向)
石垣氏庭園
                        国指定名勝 昭和58年10月27日指定
 この庭園は、わが国の日本庭園のうち最南西の位置にある庭園で沖縄の名園のひ
とつです。
 1800年頃八重山の大浜間切頭職の地位にあった石垣家の祖先である大浜親雲
上のときにつくられたと伝えられています。庭園は琉球石灰岩を主な材料とし、五
つの集団石組を北から南へと順に低く築いてあります。これらを石段や石橋をつな
ぎ、所によって枯れ滝を落し、岩島を配しています。
 のき下の左手には一群の石組み、右手には砂岩の手水鉢が置かれています。庭園
の背後にはフクギ、築山にはソテツを植え込むなど、日本庭園の伝統様式を踏まえ
ながらも、地方色豊かな枯山水庭園として独特の趣をみせています。
 この庭園は、八重山における近世上層階級の屋敷構えと庭園を知る上でも貴重で
あるばかりでなく、日本庭園の伝播をみる上でも価値のあるものです。
 平成2年3月   文部省
            沖縄県教育委員会

石垣氏庭園は石垣市字新川にあり、1983年に国より名勝に指定されました。
かつて、琉球の邸宅及び庭園等はその家柄の位階等によって格式が規定されていました。この庭園は石垣家の祖先大浜親雲上(おおはまペーちん)長演が大浜間切の頭職(八重山の最高の役職)当時、首里の庭園師城間親雲上(ぐすくまぺーちん)の構図・設計監督により日本石山の法式をもって創建したものとされています。庭園師城間親雲上は宮良殿内の設計を行ったことで知られています。
地元の琉球石灰岩を使用し、フクギやソテツなども利用した庭園は、宮良殿内とともに八重山の二大名園で、枯山水の日本庭園の様式を取り入れつつも、八重山独自の様式の庭園を知る上で貴重なものとなっています。
石垣氏庭園



石垣氏庭園は桃林寺の北150mの所にあります。

43.ハンナーカーラ

ハンナカーラの説明板
ハンナカーラ
 ここはハンナカーラとよばれ、清冽な湧泉による小川で、戦前までは通行人の水のみ場であり、いこいの場所であった。
 一帯は田原またはハンナー原とよばれ、附近には稲作や雨乞い神事の祭場、集団苗代、牧場ゆかりの牛の御嶽、川平への一黒塚などがあり、新川村の重要な農牧地であった。
また明和大津波(一七七一)後の八重山の復興に力をつくされた与那覇在番の宿舎も、すぐ東の安高原にあった。
 ハンナーという地名は、一七世紀に連続四代も石垣頭職を排出した名門ハンナー家ゆかりの命名のようで、石垣四ケ村から川平への県道は、この水のみ場の前を西北方に向かっていた。
  昭和六三年二月三日建立
  創価学会

ハンナカーラ

ハンナカーラは県道79号線沿いの、八重山文化会館の近くにあります。

44.宮良長包生誕地の碑

宮良長包生誕地の碑
[正面]
宮良長包生誕地

[側面]
石垣市教育委員会
二〇〇三年六月建立
碑 遠景

この碑は新川の食事処「森の賢者」の隣(北側)にあります。

45.尖閣列島戦時遭難死没者 慰霊之碑

尖閣列島戦時遭難死没者
 慰霊之碑


同 説明碑
【上段】
尖閣列島戦時遭難死没者
 慰霊之碑
【下段】
 死没者名 略 (80名)

【説明碑】
尖閣列島戦時遭難死没者
 慰霊之碑
 太平洋戦争末期の1944年7月、日本軍は台湾航路の制海空権が米英車に掌握されていたにもかかわらず、石垣町民に台湾疎開を命じた。1945年6月30日、最後の疎開船、第一千早丸と第五千早丸は老人・婦女子180名余を乗せて午後9時過ぎ石垣港を出港し、西表船浮港を経由して台湾へ向けた。7月3日午後2時頃、尖閣列島近海を航行中に米軍機に発見されて機銃掃射を浴びた。船上は阿鼻叫喚のるつぼと化し、銃撃死、溺死と多数の死者が出た。第五千早丸は炎上沈没、第一千早丸は機関故障で航行不能となったが乗組員の必死の修理で魚釣島に漂着することができ、九死に一生を得た。
 約1か月近くの集団生活で食糧も底をつき、餓死者も出るなど極限状態となった。頼みの千早丸も流失して連絡手段を失った人々は小舟をつくり、決死隊を編成し8月12日午後5時過ぎ石垣島へ向けて出発し、同14日午後7時頃、川平の底地湾に到着した。この救助要請によって生存者が救助され、同19日石垣港へ到着した。
 魚釣島は無人島で遠隔地であることから、現地での慰霊を行うのは困難な為、この地に慰霊牌を建立し、御霊を慰め、併せてこの悲惨な戦時遭難事件を後世へ伝え、人類の恒久平和を祈念する。
                       2002年7月3日
                 尖閣列島戦時遭難死没者
                 慰霊之碑建立期成会
碑 遠景1

碑 遠景2

この碑は、新川の「舟蔵の里」の東側の海岸沿いにあります。

46.宮良長包顕彰碑

音楽家宮良長包
顕彰碑


同碑文



[表面]
音楽家宮良長包
顕彰碑

[裏面・上段]
宮良長包は 明治十六年三月現在の石垣市字新川に生まれる 明治三十五年三月八重山島高等小学校卒業 明治四十年三月沖縄県師範学校卒業 同年四月現在の登野城小学校訓導に任命され 大正四年四月沖縄県師範学校附属小学校へ転任 その後 沖西 小禄両小学校長を歴任して 大正十年四月沖縄県師範学校音楽教師に迎えられる 以来十七年間音楽教育に専念する傍 作曲活動に精進し幾多の名曲を発表する 昭和十四年六月那覇市で病死 享年五十六歳 長包は生来感受性強く音楽的天分に恵まれ 沖縄の教育音楽の基礎づくりと発展のために生涯を捧げ 多くの優れた人材を育成するとともに 当時郷土文化に対する蔑視と差別的風潮の中にあっていち早く伝統的郷土音楽の優秀性を確認してその神髄を極め 郷土の情緒と旋律を基調とした格調高い 個性豊かな宮良音楽を生みだした 彼の創作した幾多の名曲は広く大衆の中に普及浸透し 郷土への限りない愛着を人びとの魂に深く刻み込んだ
 暖かい愛情と感性豊かな教育者
 沖縄の教育音楽の先覚的指導者
 沖縄の心を発掘昇華した愛郷の芸術家
ここにその輝かしい偉業を讃え 生誕百周年を記念して顕彰碑を建てる

[裏面・下段]
建立
1983年3月18日
宮良長包生誕百周年記念事業期成会
社団法人 八重山青年会議所

「えんどうの花」など数多くの名曲を作曲し、沖縄を代表する音楽家・宮良長包の顕彰碑は、1983(昭和58)年、生誕百周年を記念して新川の舟蔵公園(旧児童公園)に建てられました。長包は1883(明治16)年、石垣市新川生まれ。師範学校卒業後、教鞭をとりながら郷土色豊かな作曲活動を行いました。郷里の後輩の面倒をよくみて、教え子は長包を親のように慕ったそうです。碑は偉業を後世に伝えようと、八重山青年会議所が中心となり、野外ステージとともに建設されました。
舟蔵公園

この碑は、舟蔵公園、通称、児童公園内にあります。公園の向かいには竹富島がよく見えます。


宮良長包生誕地にはこのような標柱が建てられています。

47.米軍飛行士慰霊碑

米軍飛行士慰霊碑


邦文


英文

この碑は「平和祈願之碑」の隣にあります。
碑文
 太平洋戦争末期の昭和20年4月15日の朝、石垣島に来襲した米空母マカースレイトの雷撃機グラマンTBFアヴェンジャー編隊の1機が、日本海軍警備隊の地上砲火で撃墜された。 パラシュートで大浜沖合に落下した3名の飛行士は海軍兵士に逮捕され、捕虜となり、警備隊本部のあるバンナ岳麓で瀕死の暴行を受け、同日夜処刑された。 捕虜の虐待は「捕虜の待遇に関する条約」(通称「ジュネーブ条約」昭和4年)で禁止されていた。 ティボ中尉とタグル兵曹は軍刀で斬首、ロイド兵曹は多数の兵士達の銃剣による刺突で無残にも殺害された。 これは戦争がもたらした非常に悲しい事件であった。
 バーノン・ローレンス・ティボ中尉(機長,イリノイ州出身,28歳)
 ウォーレン・エイチ・ロイド兵曹(通信手,カンザス州出身,24歳)
 ロバート・タグル・ジュニア兵曹(砲手,テキサス州出身,20歳)
 人道上から日米が協力して、無念のを死遂げた米兵士の御霊を慰めるため、ここ石垣島に慰霊碑を建立する。
 碑が日米の平和、友好の発展に寄与し、かつ人間として持つべき平和を希求する心と、決して戦争があってはならないという固い誓いを後世に正しく伝え、世界の恒久平和の実現に寄与することを祈る。   平成13年8月15日
 米軍飛行士慰霊碑建立期成会

On the morning of April 15,1945,in the closing days of World War Ⅱ,a Grumman.TBF Avenger,assigned to the carrier USS Makassar Strait,was shot down off the coast of Ishigaki Island by the Imperal Japanese Navy. The three aviators parachuted in to the water near Ohama and swam to a coral reef,where they were captured by Japanese sailors. After being interrogated and tortured,they were executed during the night at the foot of Mount Banna,at the Imperial Navy Headquarters. The torture of prisoners of war was a violation of the Geneva Convention,the rules of war signed by the international community in 1923. Vernon L.Tebo and Robert Tuggle,Jr.were beheaded. Warren H,Loyd was beaten and stabbed with bayonets by numerous of sailors and soldiers.
This incident was a tragedy which took place during war.
 Lt,Verson L.Tebo, 28,a Navy pirot,of Illinois
 Aviation Radioman 1st Class Warren H.Loyd, 24.of Kansas
 Aviation Ordnanceman 1st Class Robert Tuggle,Jr., 20, of Texas
To console the spirits of the three fallen American servicemembers and honor their deaths,we jointly dedicate this monument in the hope that this memorial stone will contribute to the everlasting peace and friendship between Japan and the United States,and that this monument will serve as a cornerstone to convey to future generations our keep desire for eternalpeace in the world and our determination to renounce war.
August 15,2001
The Joint Committee of Japanese and American Citizens to Honor the Three Fallen American servicemembers During World War Ⅱ

48.唐人墓

唐人墓の碑文


唐人墓近景
石垣市唐人墓
この唐人墓には中国福建省出身者一二八人の霊が祀られている  中国人労働者(苦力)は、一六世紀以降世界各地に多数送り出されていた  一八五二年二月 厦門(モイ)で集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次 辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起 船長等七人を打殺した  船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁 三八〇人が下船した  八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した  しかし米英の兵船が三回にわたり来島 砲撃を加え 武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った  中国人等は山中に逃亡したが銃撃 逮捕され あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった  琉球王朝と蔵元は人道的に対応 中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し 島民も深く同情 密かに食糧などを運び給した  しかし疫癘による病死者も続出した  死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた  この間 関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌一八五三年九月 琉球の護送船二隻で生存者一七二人を福州に送還して終結した  中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた  ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が 戦後まで数多く点在していた   一九七〇年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため 唐人墓建立委員会を結成 当市よりの補助 とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援 および琉球住民 在琉華僑諸賢のご芳志をもって一九七一年これを完成した
茲 に唐人墓の来歴を記すに当り 関係各面のご協力に対し 謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である
  一九九二年三月三十一日  石垣市長   半 嶺 當 泰


(以下、中国語文:省略)
唐人墓遠景

唐人墓は新川・冨崎にあります。

中国人労働者を殺戮するために石垣島に来島した米軍艦サラトガ号は、2年後に他の3隻の軍艦と共に、浦賀の沖合いに来航しました。

49.平和祈願之碑

平和祈願之碑 碑文

人類の歴史上 いまほど世界平和が叫ばれ そしてそれが現実のものとなりつつある時代はないでしょう  それは東西の政治的な接近がもたらしたものですが 根源には交通手段 経済活動 情報網の地球的な広がりがあるのは周知のとおりであります  そして我々地球市民がこの次に乗り越えなければならない壁は異なる文化をもつ民族間の真の融和であり それには国家を越えた民間交流が重要な役割を果たすのです
今十周年を迎えた八重山青年会議所と蘇澳国際青年商会との姉妹締結は正にその第一歩であることは間違いありません
願わくはこの交流を通して両国のそして世界の恒久平和を希求し ここに平和祈願の碑を建立致します
   一九九一年八月一日
     八重山青年会議所
        理事長 宮城 隆
     蘇澳国際青年商会
        会長 陳 信光
平和祈願之碑遠景

この碑は「唐人墓」の隣(南東側)にあります。

50.平和祈念碑

平和記念碑文

人間が人間を差別し 
憎悪と殺戮がくりかえされることのない
人類社会の平和を希い
この地に眠る異国の
人々の霊に敬虔な祈りを捧げる
一九七一年九月二十八日
琉球政府
行政主席 屋良朝苗
平和記念碑遠景

この碑は唐人墓のすぐ隣にあります。

51.喜舎場永珣 顕彰碑

喜舎場永珣 顕彰碑全景


八重山研究の父
喜舎場永珣 顕彰碑

[顕彰碑 碑文]
 八重山研究の父
 喜舎場永珣
 顕彰碑

[同説明碑文]
 喜舎場永珣は明治十八年(一八八五)石垣市登野城で生まれ 昭和四十七年(一九七二)八十八歳の天寿を全うした
 明治三十八年沖縄県師範学校簡易科を卒業 教職に在ること二十七年 その間伊波普猷 柳田國男との出会いがあり郷土研究への強い影響をうけた
 昭和七年四十八歳で教職を退いた後は郷土の歴史 民俗 文化等の調査研究 資料収集 記録等に専心努力し幾多の著述を世に送り その中の「八重山古謡」は日本民俗学研究者最高の栄誉とされる柳田賞に輝いた
 かくてその先駆的業績は戦後沖縄学の形成に寄与 広く南島研究面に先導的役割を果たし また後進の研究や郷土史の教育 さらに八重山の伝統文化芸能の育成発展に測り難い影響を与えた
 彼は豪放磊落 記憶力抜群で 是非曲直にきびしい性格であった
 また郷土八重山の自然や文化をこよなく愛し「汝のたつ所を深く掘れ甘き泉あり」を座右の銘として「甘泉」と号し郷土の発展を期すために郷土研究の必要性を唱導
 自らその実践開拓に生涯を捧げ「八重山研究の父」と仰がれた
 ここに生誕百年に当たり 限りないその郷土愛と 偉大な研究業績を讃えるため 有志の浄財をもってこの碑を建立した
   建立 昭和六十年(一九八五)十一月三十日
   喜舎場永珣生誕百年記念事業期成会


「八重山学の父」とも呼ばれる喜捨場永珣の顕彰碑です。喜捨場は明治18年生まれで、八重山郡内各小学校で教鞭をとりましたが、沖縄学の父・伊波普猷から「教育者はまず郷土の歴史を知り、郷土に即して教えるのが真の教育者」と言われ、終生研究に没頭します。岩崎卓爾の紹介で日本民俗学の創始者・柳田国男などと親交があり、柳田の勧めで「八重山島民謡誌」を出版、また郡の歴史を体系化しました。この碑は生誕百年記念で建立されたものです。
説明碑文

同拡大

この碑は唐人墓に隣接して建てられています。
ちなみに、日本コロムビアの要請を受けて宮良長包らに八重山の名歌を推薦したり 「安里屋ユンタ」 を全国に知らしめるきっかけを作った事でも有名。

翁は、石垣市名誉市民です。

52.冨崎観音堂

冨崎観音堂 説明板

同遠景

        石垣市史跡
        昭和62年3月26日指定

 冨崎観音堂は、乾隆(1742)年、順天氏第4世西表直香が冨崎原に堂宇を造営して観音像3体を奉安し、庶民の航海安全祈願所としたことに由来する。
 表直香が無役のころ、宰領役に隋って上国したその途次、中国福州へ漂着した際に、かって八重山で介護したことのある中国人某に出会い、観音像2体を守護仏として贈られる奇縁に恵まれた。一方、夫の無事を案じていた妻真鶴が美崎御嶽や権現堂に日参しているのを知った桃林寺住持は、観音像1体を真鶴に与えた。まもなく表直は無事帰島し、観音像3体を自宅に安置し篤く信仰した。
 その後、大浜村「かやんに」に小堂を建て観音像を移したが、のち託宣があったとして新川村「ふっこんに」へ、さらに経塚のある冨崎原へと移転した。乾隆46(1784)年、6世直達らが、瓦葺きに改築し道光17(1837)年には在番知念親雲上政行が本堂を造営した。その後、明治から昭和にかけて改築や再建がくり返されているが、周辺の植生とあわせ名所となった観音堂は、海上交通安全と無病息災の祈願所として庶民の信仰は極めて篤い。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。

  昭和62年10月
  石垣市教育委員会
冨崎観音堂 石碑

お正月には島の人々が参拝に訪れます。

53.御誕生記念造林の碑

御誕生記念造林の碑

奉祝 今上天皇陛下第一子
    照宮成子内親王殿下 御誕生記念造林
       帝國在郷軍人会八重山郡聯合分会

この碑は昭和4(1929)年ごろ、帝国在郷軍人会八重山郡聯合分会が建立したものです。
裏面には「皇室の御慶事を記念して在郷軍人会八重山郡聯合分会は此の霊地観音堂境内に三カ年継続事業として松造林を計画し昭和二年一月三日第一回植樹、昭和四年一月之を完成す」と記し、聯合会長や石垣町・大浜村の分会長の名前が記されています。
このことから、観音堂の巨木・琉球松群の樹齢は90年近くになるものと思われます。
冨崎観音堂の参詣石階段

この碑は新川・冨崎観音堂の石灯ろうが林立する参詣石階段の西側にあります。

54.石垣永将頌徳碑*

石垣永将頌徳碑

同遠景

この碑は、市街地から観音堂に向かって進み、石垣リゾートグランヴィリオホテルの先にある八重山厚生園に向かう坂道の途中・左手にあります。
【上段】
石垣永将翁
頌徳碑

【下段】
風化が進み、説明文は判読不明

喜善姓第5世石垣永将は新川村の生まれで、役人の最高官である親雲上の役職につき、南蛮貿易や八重山の政治経済に貢献しました。しかし1624年にスペイン船が石垣島に漂着、その船に乗っていたルエダ神父を石垣永将が牛数十頭を贈るなどして歓待したところ、それが首里王府の知るところとなり、永将は首里に連行され、取り調べを受けました。その結果、1613年に全国的に禁止の命令が出されていた国禁のキリスト教を信仰しているとの疑いをかけられ有罪となり、渡名喜島に流罪の処分をうけたとされています。
一方、ルエダ神父も粟国島に遠島となりましたが、後に別の島へ移されることになり、その途中、海上で殺害されたとされています。
その後、その事件は、薩摩の知るところともなり、1634年(崇禎7)に改めて薩摩からの処分があり、永将は翌1635年に渡名喜島で火刑になったとされています。(伝承では、永将は、字新川にあるオンナーといわれている場所で処刑されたとされ、嘉善姓一門の墓のある場所は、永将が洗礼を受けた地とされています。
なお、この碑は喜善姓一門が1968年にその遺徳を称えて建立したものです。
嘉善姓門中墓遠景

同敷地内

頌徳碑のすぐ隣にある嘉善姓門中墓は総坪数186坪もある古墳です。墓の門は拱門式唐破風石造り、頂には火焔宝珠があります。

 


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