石垣島の石碑・説明看板(市街地-1) 更新 2024.06.23
今回は、No.22と23を追加しました。
ここでは石垣島の市街地(登野城・大川)にある石碑・説明看板について紹介します。
No. |
名 称 |
場 所 |
1. |
名蔵ダムの碑・慈雨豊穣の碑 |
登野城 |
3. |
大同拓殖パイン工場跡 |
登野城 |
5. |
石垣ダムの碑・石垣ダム竣工記念碑 |
登野城 |
7. |
まきしの丘 |
登野城 |
9. |
牧志宗得銅像* |
登野城 |
11. |
ゆとり |
登野城 |
13. |
なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑* |
登野城 |
15. |
デンサの歌碑 |
登野城 |
17. |
道路元標 |
登野城 |
19. |
大濱信泉先生生誕之地* |
登野城 |
21. |
天川御嶽 |
登野城 |
23. |
岩崎卓爾像 |
登野城 |
25. |
旧和宇慶家墓 |
大川 |
27. |
旧宮良殿内* |
大川 |
29. |
鷲ぬ鳥節 発祥の地* |
大川 |
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No. |
名 称 |
場 所 |
2. |
臺灣農業者入植顕彰碑 |
登野城 |
4. |
日本パイン産業発祥の地 |
登野城 |
6. |
波多宮之碑 |
登野城 |
8. |
通水記念碑* |
登野城 |
10. |
命の尊さの碑 |
登野城 |
12. |
米為御嶽 |
登野城 |
14. |
仲道の三番アコウ* |
登野城 |
16. |
八重山島蔵元跡 |
登野城 |
18. |
人頭税廃止百年記念の碑* |
登野城 |
20. |
大濱信泉像* |
登野城 |
22. |
「百年観測所」認定碑 |
登野城 |
24. |
欠 |
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26. |
波照間高康頌徳碑* |
大川 |
28. |
大濱信光詩碑* |
大川 |
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地図1
1.名蔵ダムの碑・慈雨豊穣の碑
名蔵ダムの碑
同 拡大
慈雨豊穣の碑
同 拡大
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【名蔵ダムの碑】
名蔵ダム
【慈雨豊穣の碑】
慈雨豊穣
昭和四六年の、連続干天日数一九一日にも及ぶ大干ばつにより石垣島の農業は壊滅的な打撃を受けた。
そこで、農業用水を確保する慈雨の水瓶として、この地にダムを築造した。
ひこの事業を契機としての石垣市の将来の姿について、名蔵小・中学校生徒により考案された絵画を記念サークルとして残すものである。
平成十一年二月
沖縄総合事務所
石垣農業水利事業所
この顕彰碑は名蔵ダム左岸にあります。 |
2.臺灣農業者入植顕彰碑
臺灣農業者入植顕彰碑 【表面中央】
同 【裏面1】
同 【裏面2】
パイナップル産業と水牛導入の功績を称える碑
同 裏面
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【表面】
臺灣農業者入植顕彰碑
【裏面右プレート】
顕彰碑高額寄付者
(以下、省略)
【裏面左プレート】
建立 台湾農業者入植顕彰碑建立期成会
会長 伊波剛
竣工 2012年8月1日(パイナップルの日)
揮毫 豊平峰雲
碑石寄贈 福本秋語
施工 崎山石材
【隣の説明石碑:表面】
パイナップル産業と水牛導入の功績を称える
台湾中部の台中や員林地方の大同パイングループは、一九三五年(昭和一〇年)、パイン生産の新たな活路を求め石垣島の名蔵・嵩田地区に入植しました。林発氏らを中心に大同拓殖株式会社を設立、六〇戸、三三〇人を呼び寄せ、幾多の困難を乗り越えパイン生産に成功し、一九三八年夏、初めて缶詰を本土に出荷しました。しかし戦時体制下でパイン栽培は禁止となり、工場も日本軍の兵舎にとられ、敗戦で廃業しました。
工場を失った林発氏や廖見福氏らは、パイン産業を再興するため秘かに保存していたパイン種苗の普及を図り、家内加工による缶詰生産を再開します。時の琉球政府のパイン奨励、日本政府の輸入関税免除で、栽培は飛躍的に広大、格好の換金作物として、沖縄本島や宮古からの入植者たちの生活も支えました。やがて生産は沖縄本島北部へも広がり、さとうきびと並ぶ二大基幹作物に成長、最盛期には全沖縄で二一工場となり、日本復帰前の沖縄経済を担いました。
水牛は一九三三年に台湾からの移民により農耕用に三〇頭が導入されたのが始まりです。
これが繁殖して普及、八重山の農業生産の向上に大きく貢献しました。
よって私たち市民・県民有志は、パイン産業と水牛を導入した台湾農業者の功績を称え、ここに感謝をこめ顕彰碑を建立します。
二〇一二年一月 台湾農業入植者顕彰碑建立期成会
(以下、同一内容で繁体字で記載=省略)
同【裏面】
撰文 三木健
中国語訳 渡邊ゆきこ 呉俐君
【牛のレプリカ】
寄贈 水牛レプリカ
琉球華僑総会
顕彰碑は台湾で制作されました。この顕彰碑は名蔵ダム左岸・南側駐車場にあります。 |
地図2
3. 大同拓殖パイン工場跡
大同拓殖パイン工場跡の碑
碑 側面
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【石柱表面】
大同拓殖パイン工場跡
日本パイン産業発祥の地
【石柱側面】
2012年九月設置
台湾農業者入植顕甲 彰碑建立期成会
この碑はバンナ岳北東の石垣オーキッドの近くにあります。 |
4.日本パイン産業発祥の地
「日本パイン産業発祥の地」の説明看板
前述石碑と説明看板
説明看板設置場所遠景 (道沿い右手側)
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【説明看板】
日本パイン産業発祥の地
大同拓殖パイン工場跡地
1935年(昭和10年)、台湾中部の員林地方からパイン栽培を目的に
約60世帯330人の農民を募集して入植した大同拓殖グループは
パイン種苗20万本を栽培した。1938年にパイン工場をつくり
初めて缶詰1000箱を製造した。日本でのパイ缶詰生産の始まりで
ある。1940年に5000箱を輸出したが、翌年太平洋戦争が勃発し
戦時体制で空き缶の調達が困難となり、さらに1943年、陸軍大臣令で
パインがぜいたく品とされて栽培が禁止となった。
その後、沖縄戦で工場は消滅した。戦後、沖縄本島から開拓移民として
入植した当銘幸栄氏が同地を買い取り、工場跡地を利用して住居と
作業所を建てたため、当時の土台や、井戸が残された。
2012年8月「台湾農業者入植顕彰碑」を建立したのを機に関連事業
として記念碑を設置した。
2012年9月15日
台湾農業者入植顕彰碑建立期成会
会 長 伊波 剛
この碑は前述の石碑の隣に設置されています。 |
5.石垣ダムの碑・石垣ダム竣工記念碑
6.波多宮之碑
波多宮之碑(正面)
同拡大
説明石碑
波多宮之碑(裏面)
入植者プレート
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【表面】
波多宮之碑
入植五十周年記念
【裏面】
入植者
(省略)
わらび会会員
(省略)
[説明石碑]
バラビドーの地は波照間島(波)多良間島(多)、宮古島(宮)から移り住んで、この地を切り拓いた。
私たちは入植五十周年記念を迎え、後世にその歴史を伝承し、バラビドーの発展を願い、ここに、波多宮之碑を建立する。
二〇〇〇年十一月
バラビドー住民一同
[建立日碑]
二〇〇〇年十一月二十六日建立
※ |
バラビドーの名前の由来 |
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昔、この辺りには、ワラビが沢山生えていたそうで、その中に道を通した事からワラビの道(ドー)と呼ばれ、それが今日では、バラビドーになったそうです。
(因みにワラビを石垣島の方言でバラビと言うそうです。) |
この碑はバラビドー観光農園の近く(北西方向:バンナ公園北口への道沿い)にあります。 |
地図3
7.まきしの丘
まきしの丘の碑
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まきしの丘
※この碑の由来については調査不足で不明ですが、9項の牧志宗得氏に関連したものと思われます。
この碑は石垣浄水場の西側の道路沿いにあります。 |
8.通水記念碑
上水道通水記念碑
同 上部拡大
上水道通水記念碑 裏面
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[上段]
上水道通水記念碑
[下段]
MOMORIAL
FOR
INITIATION OF WATER SERVICE
登野城・北上原(ニシィウイバル)の石垣市浄水場の構内に設置されています。上水道の通水4周年を記念し、1957(昭和32)年6月に建てられました。当初は、市消防隊前広場(現海那銀行八重山支店敷地)に噴水とセツトで建てられていましたが、道路拡張に伴って現在の場所に移設されました。碑文は、英文と和文で刻まれています。当時の除幕式は盛大に行われ、八重山主席民政官ブローナー少佐や琉球政府代表、市関係者など大勢が参列したそうです。
元は裏面にも2カ所プレートがあったようですが、剥離・脱落して何と書かれていたかは不明です。 |
9.牧志宗得銅像
牧志宗得氏之像
同下段プレート拡大
裏面
側面
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[表面]
初代社長
牧志宗得氏之像
[裏面上段]
贈 勲四等瑞宝章叙勲記念
1967年11月3日
八重山電力株式会社
[裏面下段]
牧志宗得社長は、明治十九年九月一九日、那覇市に生まれ、明
治四十三年、東京私立日本医学校を卒業、大正二年、石垣市に牧
志医院を開業、五十有余年の長期に亘って八重山住民の医療保健
に尽くされた。昭和二十三年、戦後第一回の公選において、石垣
市長に当選就任、爾来三期十有余年に亘って市制を担当し、幾多
の功績を残された。特に上水道事業の完成と、電気事業の統合並
びに民間移管は、石垣市の歴史に特筆大書される輝かしい金字塔
であり、更に、昭和三十四年五月、八重山電力株式会社の初代社
長として、住民福祉に貢献された。昭和四十二年秋、多年の地方
自治行政に対する功績によつて勲四等に叙せられ、瑞宝章を授与
された。茲にその栄誉を讃え、胸像を建立して、その功績を永く
後世に伝えるゆえんである。
昭和四十四年二月四日 八重山電力株式会社
[側面]
牧志宗得氏は、昭和三十三年石垣市長に当選され 三期十二年の長期に亘り
石垣市制の発展に尽くされた。 特に水道、電気の二大事業の実現は、石垣市の
歴史に残る大事業であった。胸像は昭和四十二年の秋の叙勲で勲四等に叙せられた
際に八重山電力株式会社が建立した。沖縄の本土復帰とともに電気事業の一元化に
伴って、沖縄電力に移管され、胸像も移転を余儀された。
大濱長照石垣市長は水道事業に関わりのある、牧志宗得元市長の胸像移転を
石垣浄水場に移転することを積極的に進め、平成十四年二月胸像の移転が実現
された。
平成十四年二月二十二日 石垣市長 大濱長照
胸像移転実行委員長 石垣信亨
この銅像は、登野城・北上原(ニシィウイバル)の石垣市浄水場入り口に設置されています。
牧志宗得は石垣市のインフラ整備に尽力し、大きな功績を残すとともに、市発展の基盤を築きました。
雨水や井戸水に頼っていた当時は、子どもたちに皮膚疾患も多かったのですが、上水道の整備により衛生面の飛躍的な向上が図られました。銅像は1969(昭和44)年、勲四等瑞宝章受賞を記念して建てられました。 |
10.命の尊さの碑
命の尊さの碑 [表面]
[裏面]
命の尊さの碑 遠景
|
[表面]
人一人の
いのち
地球より
重い
二〇〇二年四月
石垣市長
大濱長照
[裏面]
「健康都市いしがき21」宣言
青い空 碧い海に恵まれたわたしたちは
健康都市をめざし つぎのことを宣言し
ます
一.健康は希望を生み 生きがいとなり
人生をゆたかにします
一.日常生活を見直し
正しい生活習慣を身につけます
一.一に予防 二に検診を心がけ
健康長寿をめざします
一.誘い合い 励まし合い
運動することを喜びとします
一.人も自然も島もみな元気
健やかな仲間づくりの輪をひろげます
二〇〇二年四月一日
石垣市
この碑は石垣市健康福祉センターの玄関前にあります。 |
地図4
11.ゆとり
ゆとりの碑
プレート
|
ゆとり
石垣市
【プレート】
ゆとり 創造宣言都市
平成7年8月2日指定
沖縄労働基準局
(社)全基連沖縄県支部
揮毫 石垣市長 大濱 長照
この碑は中央運動公園内にあります。 |
12.米為御嶽
米為御嶽の説明板
米為御嶽のイビ門
米為御嶽の遠景
|
石垣市指定文化財/有形民俗文化財
City Designated Cultural Prorerty / Tangible Fork Cultural Property
米為御嶽(いやなすおん)
Iyanasu On
平成3(1991)年11月13日指定
November 13, 1991 designated
米為御嶽は、八重山にはじめて稲作を伝えたとされる兄タルファイ、妹マルファイのうちマルファイの墓とされ、のちの人々が稲作を伝えた神として尊崇し、御嶽として信仰されるようになったといわれる。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、米為御嶽は字登野城の御嶽として信仰されている。また、タルファイの墓も同様に尊崇され、大石垣御嶽(ウシャギオン)として字大川の人々に信仰されている。
伝承によれば、タルファイ・マルファイは安南(現在のベトナム)のアレシンという所から稲種子を持って来島し、登野城の小波本原(クバントゥバル)に住居し、水田を開いて島民に稲作を指導したとされる。登野城の種子取祭や豊年祭などの農耕儀礼は、この御嶽と兄妹の住居跡とされる小波本御嶽を中心に、現在でも古式豊かに執り行なわれている。
なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。
平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
文化財課83-7269
Tai phi and Mal phi are two siblings who were the first to introduce rice
growing to the Yaeyama region. It is said that the Iyanasu On (sacred praying
site) is grave of Mal phi that became worshiped by the future generations.
The grave of the Tal Phi is similarly worshiped by the local people as
the Ushagi On.
米為御嶽は石垣市中央運動公園の西側に位置しています。 |
13.なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑
なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑
同裏面
同側面
三番アコウの木
右手奥に「なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑」が見えます。 |
|
【歌碑・表面】
なかどう道から
ななけーら
かようけ
仲筋かぬしゃま
そうだんぬ
ならぬ
(歌碑の意味)
なかどう道から七回通うけれども、仲筋家の愛しいあの娘は話を聞いてくれない。(縁組が叶わない)
※ 八重山の代表的な郷土芸能の一つでもある「とぅばらーま」の発祥地と言われる、「なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑広場」に、この碑はあります。
「仲道道(ナカドゥミチィ)」とは、昔、登野城村から真栄里村に通じる道の呼名です。現在では仲道給油所あたりから真栄里集落入口の三番アコウの木に至ります。八重山を代表する「とぅばらーま」の歌詞の一節で、美人と評判の仲筋家のカヌシャマを目当てに通い詰め、相手にされなかった四カ字の若者らの嘆きを歌っています。若者らはカヌシャマを呼び出すためにフクギの実を投げ、一晩で仲筋家の庭はそのフクギの実でいっぱいになったというエピソードも伝えられています。
【裏面】 |
【側面】 |
流れる才月
移りゆく人の心
大阿香の下に昔を
偲ぶよすがとして
この碑を建てる
昭和五十五年九月
登野城
平得
真栄里 |
碑文揮毫 佐久本省吾
碑石寄贈 山川朝源
刻 字 崎山寛治 |
この碑は、時代を超えて広く歌い継がれている八重山民謡の代表歌・「とぅばらーま」を後世に伝えようと1980年、真栄里入口にある三番アコウの木のそばに建立されました。しかしアコウの木の根が大きくなり、生育に影響が出たため、碑は2006年に同じ敷地内の東側(現在地)に移設されました。
この広場では1990年から誰でも唄うことのできる石垣市主催の「とぅばらーま大会前夜祭」が催されるようになり、今日では「なかどぅ道のとぅばらーま祭」に発展改称しています。
|
14.仲道の三番アコウ
仲道の三番アコウの碑
三番アコウの木
|
石垣市指定文化財/史跡
City Designated Cultural Property Historical Site
仲道の三番アコウ (なかどうのさんばんアコウ)
The Third Akou Tree of Nakado
平成3(1991)年11月13日
November 13, 1991 designated
この巨樹は、三番アコウと呼ばれ親しまれて推定樹齢200から250年のオオバアコウである。
仲道とは字登野城の小字名で、三番アコウが生えるこの場所は、登野城から平得、真栄里への道路の分岐点にあり、古くから道しるべとして、また、アコウが作る心地よい木陰は、農作業帰りや行商の人々の憩いの場として親しまれてきた。かつては、三番アコウから西100mの道路の分岐点に二番アコウ、さらに西100mの分岐点に一番アコウが生えていたが、現在は三番アコウのみが残っている。
三番アコウの側には、八重山を代表する民謡「トゥバラーマ」の歌碑が建っており、仲道にゆかりのある歌詞が刻まれています。
平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
文化財課 83-7269
A giant tree (Ficus caulocarpa) estimated to be about 200-250 years old,
it is located at the crossroad that leads to the Hirae and Maezato districts
from the Tonoshiro district. Since long ago, this tree has been a landmark
for the local people and a familiar spot for relaxation. There used to
be one tree at the junction on the east end of a road in the Tonoshiro
district and second tree at a junction 100 meters east of the first, but
both trees have withered and died. Next to the Akou tree is a monument
inscribed with a poem "Tubarama", a lyrical song that represents
Yaeyama, and lyrics related to Nakado is carved.
かつての一番・二番アコウの木は枯死しました。現在、この三番アコウは石垣市の指定文化財(史跡)となっています。古くからこの木は、大きな木陰をつくり道行く人や行商人の憩いの場として親しまれてきました。 |
15.デンサ節の歌碑(作詩作曲益茂第五代目宮良里賢生家)
デンサ節 歌碑
デンサ節 歌碑全景
|
歌碑
作詩作曲
益茂姓五世宮良里賢
デンサ節 意味
一.上原ヌ デンサ
昔カラヌ デンサ
島ヌ アルマディヤ
イチィン 変ラヌ デンサ |
上原のデンサ節は
昔から言い伝えらている教訓歌で
島のあるかぎり
いつまでま変わらないものである |
一.デンサ節 作リ
童子ケニ 言ザシ
世間ヌ戒 シミナルスドウ
バンヤ 願ユル デンサ |
デンサー節を作って
子どもたちに詠ませ(歌わせ)
世間の戒めになるのを
願っている |
一.車ヤ三寸ヌ 楔シドウ
千里ヌ道ン 通ユル
人ヤ三寸ヌ 舌シドウ
大体ヤ 食イシティ デンサ
|
車は芯棒にある三寸の楔(くさび)で
千里の道も進む
人は三寸の舌で
大きな体を食べてしまう(身を滅ぼす) |
一.言イザバ 慎シミ
口ヌ外出タスナヨ
出シカラ マタン
含ミヤ ナラヌ デンサ |
ものを言うなら慎め
口の外に出すなよ
出してから二度も
飲むことはできない |
一.親子カイシャ 子カラ
兄弟カイシヤ 弟カラ
家内持チイ カイシヤ
嫁ヌ子カラ デンサ |
親子のよい関係は子供から(話を聞き)
兄弟のよい関係は弟から
家庭でのよい関係は
嫁の方から |
この歌碑は、桟橋通り沿いにある「サータアンダギーのサヨコの店」の角を東側に少し進んだ所にあります。
歌碑の横の角柱には、「デンサ節作詩作曲益茂第五代目宮良里賢生家」と記されています。 |
16.八重山島蔵元跡
八重山島蔵元跡の説明看板
八重山島蔵元跡の外観
|
八重山島蔵元跡
Yaeyamajima kuramoto Historic Site
蔵元とは、首里王府が地方統治のために創設した政庁で、八重山のほかに宮古島と久米島に置かれていた。八重山島蔵元は、1524年、当時の八重山役人の最高職(頭職(カシラショク))を王府から任命された西塘(ニシトウ)が、出身地の竹富島に開庁したのが始まりとされる。しかし、交通の不便さや土地の狭さなどの理由から、のちに石垣島の大川村に移転し、1633年に、八重山キリシタン事件で処刑された本宮良(ムトゥメーラ)頭石垣永将(エイショウ)の屋敷跡である現在地に移転した。
その後、1771年の「明和の大津波」で被害に遭い、大川村の高台の文嶺(ブンニ)に移転し、1775年には元の大川村のフンナに移り、1815年には、港と一体となった政治・経済・交通の中心地であった現在地に再び戻った。1879(明治12)年の廃藩置県後もなお存続し機能していたが、1897(明治30)年に廃止となり、八重山島蔵元としての370年余りの歴史を閉じた。
その後、沖縄県の出先機関である旧八重山支庁など、近年まで行政庁がこの地に置かれていた。現在も、地中には石積み、礎石、柱穴など八重山島蔵元の遺構が残されている。
Kuramoto was a government office established by the Ryukyu Kingdom in order to govern Yaeyama and other areas. Government offices were also established on Miyako-jima and Kume-jima islands. The Yaeyama Islands Kuramoto is said to have its origins in the opening of a government office in 1524 by Nishito, who had been appointed by the kingdom to be the highest-ranking official of Yaeyama. This office was opened on Taketomi, the island of his birth. But because this site was inconvenient for travelling and the grounds were too small, the office was later relocated to Okawa-mura village on Ishigaki Island, and in 1633, was moved to the site of the former residence of Ishigaki Eisho, the head of Mutumera who was executed during the Yaeyama Christian purge. Following this, the structure was damaged by the Great Meiwa Tsunami in 1771, and was relocated to high grounds of Bunni in Okawa village. The office was returned to its former site in Okawa village in 1775,and in 1815,it was again relocated to return to this present site. Integrated with the harbor, this area was the political, economic, and transportation center of Ishigaki. Even after the new administrative policy for establishment of prefectures and abolishment of the domain system was adopted in 1879, this structure remained and continued to function. However, in line with the challenging times, the building was abandoned in 1897, putting an end to its over 370-year history as the Yaeyama islands Kuramoto. Following this, government administration offices such as the former Yeyama branch office of the government of Okinawa Prefecture were located here until just recently. Even now, masonry, corner stones, pillar holes, and other relics of the Yaeyama Islands Kuramoto still remain on the grounds. |
17.道路元標
道路元標の碑
道路元標プレート(レプリカ)
オベリスク型の標柱 (中央)
写真中央部に、道路元標を埋め込んだオベリスク型の標柱が見えます。 |
|
道路元標
Zero Milestone
道路元標とは、道路の起終点等の基準位置を定めた標石である。1920(大正9)年に施行された旧道路法で、各市町村に一つ置くこととされていたが、法改正により、その役割を終え徐々に姿を消していった。
国内に現存する道路元標は、そのほとんどが戦前に設置され、法に基づき高さ60センチほどの四角柱状の石材に文字が彫られているのに対し、この道路元標は、コンクリート化粧仕上げのオベリスク型の標柱に銅製のプレートを組み込んだ形となっている。これは、戦後の米軍統治下に置かれていた八重山諸島政府の創立1周年を記念して設置されたものを復元したもので、その様式にはアメリカなどの影響が見られ、大変珍しく貴重なものとされている。
また、設置当時の銅製のプレートには「1951年11月7日」の日付と「八重山群島政府」の名が刻まれており、戦後の行政機構の変遷を物語るものとなっている。
なお、設置当時のプレートは、石垣市立八重山博物館に保管されている。
A zero milestone is a zero mile marker that indicates the position of the
start or end of roads. The old road law that came into effect in 1920 made
it mandatory for each municipality to have one milestone. But the role
of milestones came to an end with the revision of this law, and one by
one they started to disappear. Almost all of the zero milestones that still
exist throughout Japan today were erected before World War Ⅱ, and based
on the old law, take the form of a rectangular pillar made of stone standing
about 60 centimeters high with letters engraved on the surface. In contrast,
this zero milestone has a bronze plate embedded on an obelisk-shaped foundation
made of decorative concrete. This zero milestone is a duplication of the
milestone erected to commemorate the first anniversary of the Yaeyama Islands
Government, which was established under the U.S. occupation after the war.
Because American influences can be seen in the style of the milestone,
it is said to be very exceptional and of high value. The date "November
7, 1951" and the words "Yaeyama Islands Government," which
were engraved on the bronze plate when the milestone was erected, are testament
to the changes in the administrative structure following the end of the
war. The original bronze plate is now kept at the Ishigaki municipal Yaeyama
Museum.
この道路元標は、八重山島蔵元跡の碑のすぐそばにあります。 |
八重山諸島政府時代の道路元標(オリジナル)
|
八重山諸島政府時代の道路元標
道路元標は道路の起点を示す工作物で、旧道路法では市町村にひとつという位置づけで各所に設けられた。道路法が改正されると、道路元標はその役割を終え、徐々に姿を消していった。
この道路元標は、旧八重山支庁内にあったものである。1951年、八重山群島政府発足から1周年の記念日にモニュメントが建てられ、「道路元標」と記された銅板が埋め込まれた。沖縄本島では、沖縄市(美里)や読谷村(喜名)にも残されているが、石垣のものとは異なり、板状に加工した石に文字が刻まれている。
このプレートは、石垣市立八重山博物館の展示室(入ってすぐ左手)に保管されています。 |
18.人頭税廃止百年記念の碑
人頭税廃止百年記念の碑
同 裏面
石垣市立八重山博物館
|
八重山人頭税廃止百年記念の碑
近世から明治の後期に至るまで両先島(宮古・八重山)には、各個人に頭割りに課した人頭税があり、私たちの先人はその不合理で苛酷な税制のもとで苦境にあえいでいた。
宮古島における先覚者らによる人頭税廃止請願運動の盛り上がりと、沖縄県土地整理事業の完了により明治二六年(1903)一月一日から新税法に移行し、人頭税は廃止となった。それを記念して八重山では群民あげての祝賀会が催された。
人頭税廃止百年に当たり、先人の苦労を後世に伝えると共に、その歴史的意義に鑑み、ここに記念碑を建立する。
2003年(平成15)一月一日
八重山人頭税廃止百年記念碑事業期成会
【碑 裏面】
きゆぬぴぬ さにしや
くがにぴぬ さにしや
うもだくとぅ かなしょうり
にごうだくとぅ しなしょうり
八重山博物館前庭に建つこの記念碑は、2003年、苦難の歴史を後世に残そうと、人頭税廃止100年を記念して建立されたものです。碑は竹富島ンブフル、与那国島なんた浜にもあります。
人頭税廃止百年記念の碑は博物館正面左側にあります。 |
19.大濱信泉先生生誕之地
大濱信泉先生生誕之地の碑
大濱信泉先生の生家
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[右標柱]
大濱信泉先生生誕之地
[左プレート]
この碑は沖縄復帰促進に功績のあった 元早稲田大学総長大濱信泉先生を永遠に称える為寄贈したものである
沖縄協会々長 茅 誠司
先生の生家は登野城26番地、美崎御嶽の近くにあります。 |
20.大濱信泉像
大濱信泉像
[表面下段]
[裏面]
大濱信泉 記念館
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[表面上段]
大濱信泉像
[表面下段]
大濱信泉 訓
人の価値は
生まれた場所によって
決まるものではない
いかに努力し
自分を磨くかによって
決まるものである
末次一郎書
[裏面]
贈
大浜寛詳
第七代早稲田大学総長
大濱信泉 生誕百年
記念事業 期成会
大濱信泉氏は登野城出身の石垣市名誉市民です。早稲田大学総長、沖縄問題等懇談会会長、日本プロ野球コミッショナー、沖縄国際大学設立理事会長など数々の要職を歴任しました。佐藤栄作首相のブレーンとして沖縄の本土復帰、海洋博の実現など沖縄問題の解決に尽力しました。胸像は大浜信泉記念会館のほか、海洋博記念公園、沖縄国際大学に建立され、八重山高校には立像があります。それぞれの台座には同氏の言葉である「
人の価値は生まれた場所によって決まるものではない」と刻んであります。
大濱信泉記念館は登野城の美崎御嶽の南側、国道307号線沿いにあります。 |
21.天川御嶽
天川御嶽 説明板
天川御嶽 説明板
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天川御嶽
Ama-on Sacred Site / 天川御嶽
天川(アーマー)とは、この地一帯の称で、古くは天川原(アーマーバル)と呼ばれていた。また、御嶽(オン)とは、村人の健康や村の繁栄などを祈願する聖地である。
天川御嶽の歴史は古く、「八重山島由来記」(1705年頃)にも記されている。
登野城(トゥヌスク)村の伝承では、新城家(アーマーヤー)の祖先で霊験(セジ)高く篤農家でもあった野佐真(ヌサマ)が天川原の霊石(イビ)を信仰していたことから毎年豊作・豊漁に恵まれ、そのため村人たちにもその霊石を尊信するようになり、豊作・豊漁の神として信仰するようになった、といわれている。
首里王府時代には、沖縄本島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する七嶽(ナナオン)(美崎[ミシャギ]・宮鳥[メートゥル]・長崎[ナースク]・天川[アーマー]・糸数[イトゥカズ]・名蔵[ノーラ]・崎枝[サキダ])の一つとされていた。
現在でも折々の祈願のほか、旧暦六月には豊作への感謝と来る年の豊穣を祈る豊年祭が古式豊かに執り行なわれている。
"Ama" is the name of this region, and in times of old, it wa
called Ama-baru. "On" is a sacred place where prayers are given
for the health of the villagers and the prosperity of the village. The
history of Ama-on goes back many years, and it is mentioned in the Yaeyama
shimayuraiki (Origins of Yaeyama Islands, circa 1705). According to stories
passed down over generations in Tunusuku village, Nusama an ancestor of
the Amaya clan who was a hard-working farmer with spiritual ability to
work miracles, worshipped the stone of Ama-baru, and because of this he
always had abundant crops and big catches of fish. The villagers also came
to believe in this spiritual stone and large fish catchers worshipped this
as the god of plentiful harvests and fishing. During the era of the Ryukyu
Kingdom, it became one of the seven sacred spots to pray for the safety
of officials who boarded ships bearing tributes to the main island of Okinawa.
The other sacred places were Mishagi, Metoru, Nasuku, Itukazu, Nora. and
Sakida. Even today, people come here to pray for various things, and in
June of the old lunar calendar, the ritual Hounensai, or harvest festival,
is held to express thanks for the rich harvest and pray for a plentiful
one in the following year. |
22.「百年観測所」認定碑
「WMO百年観測所」 認定碑
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気象庁 Japan Meteorological Agency
WORLD METEOROLOGICAL ORGANIZATION
石垣島地方気象台
ISHIGAKIJIMA
RECOGNIZED AS A LONG-TERM OBSERVING STATION
BY THE WORLD METEOROLOGICAL ORGANIZATION
IN MAY 2017 FOR MORE THAN 100 YEARS OF
METEOROLOGICAL ORGANIZATIONS
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「WMO百年観測所」 認定説明板
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気象庁 Japan Meteorological Agency
WORLD METEOROLOGICAL ORGANIZATION
WMO百年観測所
(Centennial Observing Stations)
Recognized as a long-term observing station
by the World Meteorological Organization
In May 2017 for more than 100 years of
Meteorological Organizations
百年以上の長きにわたる気象観測の実施に対し
2017年5月に世界気象機関より長期観測所として認定された
世界気象機関(World Meteorological Organization:WMO )は、気候の監視にとって大切な、長期間にわたる質の高い気象観測データの意義と、そのような気象観測を着実に行っている観測所の重要性を世の中に広く知ってもらうため、「百年観測所」の認定を行っています。
石垣島地方気象台は、1896年(明治29)年に、当時の中央気象台附属石垣島測候所として観測を始めて以来、これまで百年以上にわたり、当地で途切れることなく質の高い気象観測を続けていることが評価され、2017年(平成29年)5月に「百年観測所」として認定されました。
石垣島地方気象台
( Ishigakijima Local Meteorological Office )
これらの認定碑ならびに説明板は石垣島地方気象台の敷地内にあります。
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23.岩崎卓爾像
24.欠
地図5
25.旧和宇慶家墓
旧和宇慶家墓の説明看板
旧和宇慶家墓
旧和宇慶家墓遠景
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重要文化財 旧和宇慶家墓 平成12(2000)年5月25日 指定
旧和宇慶家墓は、長田大主を大宗とする長栄姓の流れを引く玻武名家5世信茂の第2子真那を祖とし、18世紀後半に頭職を出した名家の旧墓である。
墓は、基室部、内庭、外庭の3つの空間に分けられる。外庭は最も広く、袖垣によって囲われている。内庭とは高さ約2mの石垣によって仕切られるが、中央に設けたアーチ門を通じて出入りできる。基室は自然の岩陰をさらに掘削して奥行きを広げたもので、中央に組合せ式の石棺が1基安置されている。基室入口と岩陰全体は石積みにより閉ざされるが、正面中央部に小型のアーチ門を設けている。アーチ門には縦格子をもつ板石がはめ込まれており、開閉はできない。墓と石垣には、漆喰が残る箇所がみられることから、かつては全面に漆喰が塗られていたと思われる。
和宇慶家の伝承によれば、玻武名家7世石垣親雲上信明が、1647年に風水神・古波蔵親雲上の意見を取り入れて石城山の麓に旧墓を譲り受けたとされる。
本墓は独特な意匠を有するばかりか、基室入口の構造から一人の被葬者のために築かれたものと想定できる点など、墓制史上きわめて貴重である。
平成26(2014)年3月
石垣市教育委員会 文化課 83-7269
旧和宇慶家墓遠景は、八重山病院の北方約700mの大川・宇志原の小高い丘陵地(林内)にあります。 |
地図6
26.波照間高康頌徳碑
頌徳碑碑文
同 側面
頌徳碑遠景(正面)
同 側面
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頌徳碑
碑文 |
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カタカナ→ひらがな |
波照間高康ハ大史姓第五代目ノ大
偉人デ西唐一六九四年(元禄七年
)西表首里大屋子時代公用デ首里
ヘ出張セラレ公務ヲ終エテ八重山
ヘ帰ル途中台風ニ逢イ清國ノ鎮海
ニ漂着シタガ幸ニ厦門将軍大老命
ト面会シ「黄ハンス芋」ノ貴重ナ
ル食糧作物タルコトヲ始メテ知リ
其ノ種子ヲ頂キ大事ニ持ッテ琉球
本島ニ安着シ直チニ薯種子ヲ垣花
ニ仮植シ琉球本島ヘモ分ケ與エソ
レカラ無事ニ帰郷シテ移植シタノ
ガ八重山ニ於ケル甘藷傳来ノ始メ
デアル爾来八重山ハ凡エル災難ニ
逢ッテモ芋ノ恵ミニヨッテ救世セ
ラレテキタノデアルココニ於テ島
民ハ芋ノ恩恵ニ浴スルト共ニ翁ノ
偉功ノ崇高ナルヲ深ク肝銘シタノ
デアル翁ハ八重山産業ノ大恩人デ
アリ其ノ偉徳ハ永ク後世ノ亀鑑ト
ナル茲ニ全住民ノ喜捨浄財ニヨリ
碑ヲ建テ其ノ功徳ヲ讃仰スル次第
デアル
一九四七年(昭和二十二年)
十月二十二日
(旧九月九日重陽節句)
頌徳碑建立委員会 大濱用立
大史姓一門総台 吉野高善
文喜舎場永珣
現敷地移轉 昭和四十七年十月十五日
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波照間高康は大史姓第五代目の大偉人で西唐1694年(元禄7年)西表首里大屋子時代公用で首里へ出張せられ公務を終えて八重山へ帰る途中台風に逢い清國の鎮海に漂着したが幸に厦門将軍大老命と面会し「黄ハンス芋」の貴重なる食糧作物たることを始めて知り其の種子を頂き大事に持って琉球本島に安着し直ちに薯種子を垣花に仮植し琉球本島へも分け與えそれから無事に帰郷して移植したのが八重山に於ける甘藷傳来の始めである。
爾来八重山は凡える災難に逢っても芋の恵みによって救世せられてきたのである。
ここに於て島民は芋の恩恵に浴すると共に翁の偉功の崇高なるを深く肝銘したのである。
翁は八重山産業の大恩人であり其の偉徳は永く後世の亀鑑となる。
茲に全住民の喜捨浄財により碑を建て其の功徳を讃仰する次第である。
1947年(昭和22年)10月22日
(旧9月9日重陽節句)
頌徳碑建立委員会 大濱用立
大史姓一門総台 吉野高善
文喜舎場永珣
現敷地移轉 昭和47年10月15日 |
この碑は中国厦門から甘藷を持ち帰り、人々を飢えから救った波照間高康の功績を称えるものです。かつて八重山は台風や干ばつで飢饉に見舞われ、多くの人々が餓死していました。(イモの伝来は嘉手納町の野国総管、宮古の砂川親雲上なども有名です。)
波照間高康の持ち帰ったイモが普及し、それにより人々は飢饉の恐怖から解放されました。
「頌徳碑」は石垣島字大川の大石垣御嶽の側にありましたが、現在は八重山農林高等学校の東側の交差点の隣に移設されています。 |
27.宮良殿内
重要文化財指定碑
宮良殿内 主屋
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重要文化財建造物 旧宮良殿内(めーらどうぬず)
名勝 旧宮良殿内庭園
国指定 昭和47年5月15日 文政二年(1819年)松茂(しょうもう)氏八代宮良親雲上当演(ぺーちんとうえん)が宮良間切頭職(まぎりかしらしょく)(八重山最高の役職)に任命されたことを記念に建造されたといわれる。上級武士の格式を備えた構えである。 建物は木造平屋づくり本瓦葺きである。 材料は総イヌマキで雨端(あまはし)柱(方言ハナシバーヤ)は根付丸太を使用している。 屋敷は琉球石灰岩の石垣で囲い、南西の中央に薬医門型式の門を建て、その西端に裏門を築いてある。 表門を入ると築地塀のひんぷんがあって、中門を開ける。 敷地のほぼ中央に主家を配置しその東側には石を組み築山を築いた庭園がある。 南東部に築地塀で囲った便所を設け、表門と裏門の間に井戸を造ってある。 庭園は首里の庭園師城間親雲上(ぐすくまぺーちん)の設計指導によるもので、琉球石灰岩を主材料に五つの築山を築いている。 これは日本庭園の伝統様式を踏襲するもので日本庭園文化の伝播をみる上で貴重であるばかりでなく、わが沖縄の近世における上流階級の屋敷構えの中における庭園として最もよく保存されている。 石垣市教育委員会
昭和61年3月
1972(昭和47)年の本土復帰に伴い、国指定の名勝に指定されました。大川の宮良殿内は観光名所として広く知られています。 |
史跡指定碑
宮良殿内庭園
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史跡 宮良殿内庭園
昭和47年5月15日 国指定
この庭園は文政二年(1819年)ごろ、八重山の頭職の地位にあった松茂氏八世当演のとき、作庭されたと考えられます。珊瑚石灰岩を主材料として五つの築山を、北を高く南に向って次第に低く築いています。この山と三の山との間に枯滝を落とし、三の山と四の山の間に石の反橋を架け、四の山と五の山は岩島風に作られています。また前面に平らな砂池とし、庇下には左手に一群の岩を組み、右手に蹲踞を、特に砂岩を用いて構えてあります。
この庭園の構成の基準となっている地割は、日本庭園の伝統様式を踏襲する沖縄近世における上流階級の屋敷構えの中における庭園として最もよく保存されているものの一つです。
沖縄県教育委員会
昭和52年3月31日 |
28.大濱信光詩碑
上段の碑
下段の碑
碑の外観
碑の前の通り
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[上段]
大濱信光詩碑
石垣
いつの頃からか ふるさと人(びと)は
石垣にかこまれた生活(くらし)を始めたろうか
雨がふれば
苔はふくらみ
陽が照れば
しっぽの青いとかげも匍い出た
ああ 若い母が上布を織ろうと
石垣の穴に竹をさしこみ
糸をのべたはるかな少年の日
[下段]
大濱信光詩碑
大濱信光は一九〇二(明治三十五)年十二月七日、沖縄県石垣市字大川のこの場所で生まれた。信光は早くから文学的才能を発揮し、沖縄県立師範学校時代には作曲家宮良長包とのコンビによる「嘆きの海」や「泊り舟」などを作詞、その後教職の傍ら、文芸同人誌を発行、戦後は八重山において総合雑誌や日刊紙を発刊するなど、地域の文化活動において中心的な役割を果たした。
一九七九年(昭和五十四)年に七十七歳で発刊した処女詩集「先島航路」は、「沖縄近代史の大きな収穫」と高く評価された。
信光は本名のほかに白濱冷夢、浜間晃一郎、深見鮫一郎などのペンネームをもっていたが、特に白濱冷夢の名は遠く九州まで知れわたった。信光の詩は卓抜な比喩と構成とみずみずしい感性にあふれており、「詠嘆の詩人」「海洋詩人」とも呼ばれた。
没後二十六年目の本年三月に発行された「大濱信光全詩集」には、高みを極めた最晩年の詩群と共に、学生時代からの詩歌に加えて俳句・短歌・小説・戯曲・エッセーなども収録され、信光の文学業績のほとんどが網羅されている。信光は戦後の疲弊した郷土・八重山を励ました作品から、「民心に明かりを灯す責任を自覚した詩人」とも評されている。一九八三(昭和五十八)年十一月三十日八十一歳で永眠した。
二〇一〇(平成二十二)年十一月三十日
大濱信光詩碑建立期成会
会長 山田 隆一
揮壱 玉代勢忠雄
宮良長包作曲「嘆きの海」「あかゆらの花」などの作詞で知られる大濱信光の業績を称え、2010年、大川の生家跡(宮良殿内の西側)に建立されました。大濱は、八重山初の本格的文芸同人誌「セブン」の創刊に参加、また戦後は八重山毎日新聞の前進「南琉日日新聞」の創刊にも関わるなど八重山の文化振興に貢献しました。八重山商工高校の校歌の作詞者でもあります。詩碑は「大濱信光全詩集」の発刊を機に建立されました。
この詩碑は大川の大濱信光の生家があった場所に建てられています。 |
29.鷲ぬ鳥節 発祥の地
「鷲ぬ鳥節 発祥の地」の碑
「鷲ぬ鳥節」の歌詞
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鷲ぬ鳥節 発祥の地
歌詞
一.綾羽ば 生らしょぅり ぶいる羽ば 産だしょぅり
一.正月ぬ すいとぅむでぃ 元旦ぬ 朝ぱな
一.東かい 飛つぃけ 太陽ばかめ 舞つぃけ
(意味)
一.綾なす羽の鷲の子を 産みまして
美しく艶やかな羽の鷲の子を 孵しまして
一.正月の 早朝に 元日の 朝まだきに
一.東のほうへ 飛んで行き 太陽を戴いて 舞って行き
※ 正月の太陽に向かって鷲が羽ばたく様子を悠然と歌った「鷲ぬ鳥節」は、お目出度い歌として宴会の座開きや祝いの門出などの場面でよく歌われます。
この碑はユーグレナモール内にあります。ここが八重山民謡「鷲ぬ鳥節(ばすぃぬとぅるぃぶし)」の発祥地とされています。
このモニュメントは2001年に設置されました。「鷲ぬ鳥節」は所代司の仲間サカイが元日にアコウの木から勢いよく飛び立つ若鷲を見て詠んだとされています。モニュメントもアコウの木からカンムリワシが飛び立つデザインとなっていて、ボタンを押すと「鷲ぬ鳥節」が流れる仕組みとなっています。
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