西表島の石碑・説明看板 (西部)  更新 2017.03.25

今回はNo.8・18の内容追記を行いました。


No. 名    称 場 所
1. 船浦のニッパヤシ群落
 
西部・船浦
3. 北岸道路開通記念之碑* 西部・船浦
5. 上原小学校発祥の地* 西部・住吉
7. いのちの泉 西部・住吉
9. 浦内橋の碑 西部・浦内川
11. 萬骨碑* 西部・浦内川
13. 星立天然保護区域* 西部・干立
15. ピサダ道 西部・祖納
17. 節祭 文化財指定記念碑* 西部・祖納
19. 長寿坂の歌* 西部・祖納
21. 記念物 大竹祖納堂儀佐屋敷跡* 西部・祖納
23. 鳥獣魂供養の碑 西部・祖納
25. 西表トンネルのプレート 西部・白浜
27. 竹富町子午線モニュメント* 西部・白浜
29. 東郷平八郎上陸の地 西部・船浮
31. 上の川 西部・船浮
No. 名    称 場 所
2. 船浦のニッパヤシ植物群落保護林の
概要看板
西部・船浦
4. でんさ之碑* 西部・上原
6. 住吉 入植記念碑 西部・住吉
8. 住吉開拓団上陸の地* 西部・月が浜
10. イリオモテヤマネコとの共生のために 西部・浦内川
12. マリュドゥの滝(日本の滝100選) 西部・浦内川
14. 干立の節祭 西部・干立
16. 仲里朝貞頌徳碑 西部・祖納
18. 慶来慶田城翁屋敷跡* 西部・祖納
20. 記念物 タブの老木 西部・祖納
22. 太平井戸* 西部・祖納
24. 西表トンネル工事の石の碑* 西部・白浜
26. No.11237水準点 西部・白浜
28. イリオモテヤマネコ発見捕獲の地* 西部・船浮
30. カマドマの碑* 西部・船浮

地図

1.船浦のニッパヤシ群落の碑

船浦のニッパヤシ
群落の碑



【石柱】
天然記念物 船浦のニッパヤシ群落
昭和四十七年五月十五日指定

【プレート】
天然記念物 船浦のニッパヤシ群落
         昭和47年5月15日指定
ニッパヤシは、インド、マレーシア、ミクロネシアなど熱帯に分布域をもつ種で台湾を通り越して、一足飛びにここ西表島船浦と内離島にだけみられます。
この地域のニッパヤシ群落はヤシミナト川のマングローブ林内にあります。
本種は、無茎のヤシで葉は根生し、長さ10mにも発達しそれが水中から突出ている様子は、周囲のマングローブ林とともに特異な景観をしています。
この植物群落は、世界における分布の北限地となっており、植物生態分布地理学上貴重な群落であります。
なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。

ニッパヤシ群落

ニッパヤシ群落は船浦湾内の奥に30株弱の本数が生えています。

2.船浦のニッパヤシ植物群落保護林の概要看板

船浦のニッパヤシ植物群落
保護林の概要看板


この看板は船浦橋の船浦側の、西側の枝道を少し下った所にあります。前項も同様。

船浦のニッパヤシ植物群落保護林の概要
目的

 国内では、当保護林と西表島内離島の2箇所だけしか生育していないニッパヤシを保護する目的で設置されたのが当保護林です。
 ニッパヤシは、名前の通りヤシ科の植物ですが、研究者によっては150属1,500種とか236属3,400種とか報告されているように分類の難しいヤシ科の中にあって、ニッパヤシ属に分類されているのは本種1種、すなわち1属1種のヤシです。本種は熱帯アジアのフィリピン、ベトナム、インド、マレーシア、インドネシアと内離島以外には生息していないことから、個体数が少ないこと、また、本種の世界分布の北限であることから植物地理学上も貴重な植物群落であります。
 ニッパヤシはヤシ科植物でありますが、茎が泥の中にあるので、幹は地上に出て無く、泥の中から葉が出ているのが特徴的なヤシであります。
 当保護林にはニッパヤシ以外にヤエヤマヒルギ、オヒルギ、シマシラキ等で構成されていますが、当保護林内のニッパヤシは、国指定天然記念物、絶滅危惧U類(VU)に指定されており、その消滅が危惧されることから、学術的に貴重な本種の個体の維持を目的として保護林として指定されています。
所在地
 沖縄県八重山郡竹富町 上原国有林208林班は小班
設定年月日
 平成15年3月31日
面積
 4,38ha
関係森林管理署等
 沖縄森林管理署 TEL(098)868-8829
 祖内森林事務所 TEL(0980)85-6201
保護林の概要
 当植物群落保護林は、西表島船浦の南東部に位置し、マングローブ林の発達したヤシ川河口から約600m上流の左岸林縁にあり、生育面積は約300uである。周辺は満潮時に海水が浸かる泥湿地帯となっており、優先種としてオヒルギがある。また、ヤエヤマヒルギ、シマシラキの混生したマングローブ林が発達しています。

現況
 標高:0m
 樹種:ニッパヤシ周辺の植生
 「オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギ、ミズガンピ、イボタクサギ、アダン、ハテルマギリ、テリハボク、クサトベラ」
 林齢:30年生以上
法指定等
 天然記念物
保護・管理・利用計画
 極相にあるものは原則として自然の水位にゆだね、遷移の途中にあるものは現状の維持に必要な森林施業を行う。また、モニタリング、学術研究その他公益上必要な行為、非常災害のため応急措置として行う行為、軽微な施設の設置、その他法令等の規定に基づく措置を行うこととしています。


3.北岸道路開通記念之碑*

北岸道路開通記念之碑
碑文


[表面文]
北岸道路開通記念之碑
 竹富町長 瀬戸 弘
[裏面文]
西表島北岸道路碑文
 西表島は古来東西を結ぶ道路がなく 同じ
島一つでありながら 互いに陸の孤島同然
東西の用を便するには手漕ぎのクリ舟または石
垣島経由の機帆船を頼り 緊● 荒天に際し
ては汀を伝い 岬を踏み分け 着衣を頭上に
かざして河川を渉るなど 筆舌に尽せぬ危険
と困難を極め 生き抜いてきた
 県内第二の大きな島 眠れる宝庫などと 世
に定伝されながら道なき故に久しく原始 木
闇のままにあった
 西表島の開発なくして竹富町の発展なしと
して その根幹とする北岸道路の開通実現は
地元住民並びに議会と共に 根気強く陳情を
重ねてきた 漸くにして昭和四十四年着工
遂には祖国復帰記念事業として多額の国庫
出金を獲得し 県道二一五号白浜南風見線の
開通を実現した ここに政府県に対し深い
謝意を捧げると共に 将来の西表島の開発と
竹富町の発展を記念して碑を建て永く記念と
する
昭和五十二年四月二十六日
竹富町長 瀬戸 弘


●は判読不明な箇所

県道215号白浜南風見線の最大の難所は、船浦湾の海中道路の建設工事でした。
かつて私が初めて西表島を訪れた昭和40年代後半頃、東部地区から西部地区に行くには、一旦石垣島に戻り船浦行きの貨客船に乗り変えて向ったものです。
北岸道路開通記念之碑

この碑は船浦港前の上り坂右手側に設置されています。碑文は裏面にあります。周囲が木々に覆われたため少し分かりづらくなっています。

4.でんさ之碑*

「デンサ節」の碑 碑文

碑 表面


※ デンサ節は西表島の上原に伝わる教訓歌です。西表島・上原村の与人(役人)が、風俗の乱れを戒める為の歌を「宮良里賢」に依頼し1768年に作られたとされています。
 西表島・上原集落では毎年、秋に「デンサ節大会」が行われています。歌唱の優劣を競う他に、最近では「作詞の部」も評価対象にされ、毎年新しい歌詞が作られています。

[表面上段]
デンサ之碑

[表面下段]
益茂姓第五世
宮良里賢上原興人之時 作詞作曲
デンサ節
一.上原(ウイバラ)ヌ デンサ 昔(ムカシィ)カラヌ デンサ
  島ヌアル マディヤ イチィン 變(カワ)ラヌ
一.デンサ節 作(チィク)リ 童子(ワラビン)ケニ 言(イ)ザシ
  世間(シキン)ヌ戒(イマ)シミナルスドゥ バンヤ願(コガ)ユル
一.車ヤ三寸(ミフシ)ヌ 楔(クサビ)シド 千里(シンリ)ヌ道ン 通(カ)ユル
  人ヤ三寸ヌ舌(シタ)シドゥ 大體(ウフドウ)ヤ 食(ファ)イシティ
一.島持(シマム)チィドゥ 家持(ヤム)チィ 船乗(フニヌ)リィドゥ ユヌムヌ
  勢頭舟子(シドウフナグ) 親子(ウヤフア) 揃(ス)ラネバナラヌ
一.親子(ウヤフア)カイシャ 子(フア)カラ 兄弟(キョウダイ)カイシャ 弟(ウトゥドゥ)カラ
  家内(キナイ)持チィカイシャ 嫁(ユミ)ヌ 子(フア)カラ
                                刻字 石垣里中
(大意)
一. 上原のデンサ節(教訓歌)は昔から言い伝えらている教訓歌である。
  (略)
一. デンサ節を作って青少年達に言い聞かせ、社会の戒めになることを願っている。
一. 車はわずか三寸の長さの楔で千里もの距離を走ることができる。人は三寸の長さの舌で、余計なことを言い人生を台無しにすることもあるので、物を言うときは慎重にしなければならない。
一. 国(村)を治めることも家族の営みも船を操ることと同じである。船頭と船子のように親子の気持ちが揃っていなければならない。
一. 親子のよい関係は、子供から進んで貢献することから築かれる。兄弟のよい関係は弟の出方で築かれる。円満な家庭は嫁の気遣いと調和から築かれる。

[裏面上段]
建立月日 昭和51年2月25日
寄   贈 津田建設 津田徹

[表面下段]

碑文
上原部落は西表島西部に在り、重要な地として宝歴七年(一七五七年)頃人口五百七十余で創立し明治四十三年七月風土病マラリアの暴威に克てず遂に廃村になる。大東亜戦争終結後(昭和四十三年)
一九四十七年自由移民入殖部落●●再建し戸数三十五●●り人口百五十人●●で恵れざる環境の中●ゆる苦難を乗り越えて部落民和恊一致の精神の下現在の発展を見たり遂に上原公園の開設を機に部落創立並び再建当時の先輩の御苦労に感謝する●●者から●●●●れて来た教訓歌として有名なデンサ節を部落の誇りとして常に保持し和気藹々の中に相携えて開発し豊かな郷土建設に邁進せんことを誓う 当時の会長友利実氏の率先垂範献身的努力によって建立された公園の碑は事由あって撤去せざるのやむなきに至り命名をでんさの碑と改め館長崎枝義錦氏副館長銘里長生氏の努力に依って再建するに至った。
 建立月日
 昭和五十一年二月二十五日
        上原公民館


●は判読不明な箇所
でんさ之碑 裏面全景

裏面 上段

裏面下段 碑文

野外ステージ


この碑は上原港(デンサターミナル)の北側、民宿カンピラ荘の裏手にあります。
左手奥に「デンサの碑」の野外ステージがあります。

上原地区は1757年、574人が入植して集落を築いたものの、マラリアや風土病などで、明治42年に廃村になりました。戦後の1948(昭和23)年に自由移民で集落を再興しました。今では西表島西部の玄関口として発展しています。、
この碑は1976(昭和51)年に建立されました。

5.上原小学校発祥の地*

上原小学校発祥の地
の碑

上原小学校発祥の地
創立 昭和24年9月1日
平成11年11月建立


 この碑は、上原小学校創立50周年記念で建立されました。同校は昭和24(1949)年に公立認可された西表小学校浦内分校が、翌年には西表小中学校上原分校として同地に移転しました。その後、船浦小と合併して小学校は同校を使用、中学校は船浦中に移りました。
 昭和57(1982)年には、学校敷地を上原に移転、発祥の地は広場として竹富町民に開放されています。
同 遠景

この碑は星砂の浜の近くにあります。

6.住吉 入植記念碑

住吉 入植記念碑 碑文

碑建立の辞
第二次大戦による郷土の荒廃と食糧難はその極
に達し復員、引揚者の職もなく、混沌たる
世相であった。時の宮古民政府は、宮古郡
島での公共施設、住宅等の建築資材を獲得
するため伐採隊を派遣し、併せて食料補給
隊として当地区、宇奈利崎一九五番地の利用権
を得て、ここに開拓隊を入植せしめた。
その後、琉球政府でも八重山各地に計画移民を
行ったが住吉部落はそのはじまりであった。
マラリヤやジャングルと戦って住吉部落の基
礎を作った開拓隊員の名を印して記念とする。
(・・・以下入植者氏名略・・・)

戦後の八重山移住第1号が西表住吉地区でした。
敗戦で外地引き揚げ者が増えた宮古は山がなく、また松も戦争で切り倒されていたため薪も手に入らず、食糧難に苦しんでいました。このため1947年、西表船浮から材木を切り出し、復興に充てようと要員が送られました。さらに伐採隊の食料補給を目的に翌1948年、下地町から与儀善昇隊長ら開拓隊27人が住吉・宇奈利崎に入植し、ジャングルを切り開いて集落を築きました。
入植記念碑 遠景

この碑は住吉公民館の隣(同一敷地内)にあります。

7.いのちの泉

いのちの泉の碑

碑の左隣が井戸(いのちの泉)です。
入植当時 唯一の井戸
いのちの泉
入植六十周年記念事業
平成二十年十月吉日
住吉神社

いのちの泉は、住吉神社のすぐ隣の下った所にあります。

8.住吉開拓団上陸の地*

碑 全景

碑文

住吉開拓団上陸の地
第二次大戦後、宮古島では、国内外からの引揚者等で混沌たる状況で職もなく食料もない状態であった。
当時の宮古群島政府知事具志堅宗精は、戦後復興に必要な木材確保のため船浮地区で国有林の払い下げを受け伐採隊を昭和二十二年同地区に派遣した。
これに伴い伐採隊への食料補給のため、現住吉地区に移民を計画し、昭和二十三年十月十一日与儀善昇を団長とし、開拓先遣隊が上陸したのが此の地である。
引き続き二次隊(十月二十日)三次隊(十二月二十三日)が到着し、先遣隊が構築した新地を拠点にし一年余りに至る共同生活で、食料生産の為の開墾、家族引揚の為の住宅建設などすべての作業を行い住吉地区の基盤を築いた。
この発祥の地を継承し後世に伝えるべくここに、記念碑を建立する。
                       平成十二年七月吉日
                       住吉公民館
[門柱左側]
住吉入植六十五周年記念事業
平成二十五年九月吉日 竣工
[門柱右側]
住吉公民館
門柱左側

門柱右側


この碑は月が浜の、ホテルニラカナイ西表島(旧:星野リゾート リゾナーレ西表島)近くの海岸林内にあります。

9.浦内橋の碑

浦内橋の碑

浦内橋の碑 遠景


浦内橋の碑
 浦内川は県下最大の長流で古来交通の要衝にありながら橋がなく 一般の通行農耕の往来に支障をきたし 西表島の開発に大きな障壁となっていた
 西部地区ではここに渡場を設け 渡守をおき リク舟をもって往来の便を図ってきたが夜間または悪天候に際してはなお幾多の困難を伴い 人命にかかわる痛ましい事故もあり時には渡守の中絶する時期もしばしばあり言語に尽せぬ多くの苦労を背負ってきたのである 本町では歴代の村 町当局 議会 地元住民と共に 西表開発の一環として 浦内川の架橋陳情を叫び続けてきた
 多額の国費と二年余の歳月をもってこの橋を架け 東西の交通を便じ 島の前途に曙光を見るに至った ここに西表島の開発と竹富町の発展を期して碑を建て もって記念とする
 一九七〇年三月十五日
 竹富町長 瀬戸 弘
浦内橋遠景@

浦内橋遠景A


同 工事概説
工事概説
一.総工費 七拾五萬二阡四百四拾貮ドル
一.工期  自 一九六八年一月一六日
        至 一九七〇年二月二二日
一.工事発注者 琉球政府
一.工事施工者 国場組
一.工事概要
(イ) 橋 長さ  二七二・一米
      巾   七・〇米
(ロ) 取付道路 長さ 三二一七・九米
          巾  七・〇米
(ハ) ガードレール 七七二米
一.橋型 合成桁橋
この工事概説は、浦内橋の碑の裏面に記されています。
これより、浦内橋は本土復帰前に架橋されたものであることがわかります。

10.イリオモテヤマネコとの共生のために

「イリオモテヤマネコとの
共生のために」の説明看書

イリオモテヤマネコとの共生のために
 イリオモテヤマネコは西表島だけに生息する野生ネコで、その数は約100頭と推定され、絶滅が危惧されています。標高の低い、島の周辺部の森林や湿地が重要な生息地になっており、鳥類、ヘビ、カエル、ネズミからコオロギなどの昆虫類まで、非常に多様な小動物を食物にしているのが生態上での特徴です。
 イリオモテヤマネコの生息地は人間の生活圏と重なることも多いので、将来にわたって共生するためには、交通事故の防止やペットなど外来生物の管理、生息環境の保全など様々な努力が必要です。
 国ではイリオモテヤマネコを「種の保存法」に基づく国内野生動植物種に指定し、生息状況のモニタリングや事故防止対策などの「保護増殖事業」を実施しています。
 イリオモテヤマネコに関する問い合わせや生息情報(目撃やフン・足跡等の痕跡など)がありましたら、次の関係機関までご連絡下さい。
 林野庁 沖縄森林管理署
         大原森林事務所(大原)TEL.0980-85-5308
         祖内森林事務所(祖内)TEL.0980-85-6201
 環境省 西表野生生物保護センター(古見)TEL 0980-85-5581
                      (24時間ヤマネコ緊急ダイヤル)

頭:耳の先が丸く、耳の後ろに目立つ白い斑点があります。
背:体に斑紋の模様があります。
尾:尾の先まで太くなっています。
浦内橋を右岸から

この説明書は上原から白浜方面に向かい、浦内川の手前(浦内川観光への入口近く)に立てられています。

11.萬骨碑*

萬骨碑


西表炭坑は一八八六(明治十九)年に開坑 以来元成屋や内離島を中心に九州沖縄台湾から多くの坑夫が採炭に従事 炭坑独特の納屋制度のもと強制労働が行われた 宇多良炭坑は一九三六(昭和十一)年に丸三炭坑が開坑 当時としては近代的設備を備えていた しかし太平洋戦争勃発後増産による過酷な労働とマラリアのため幾多の犠牲者を出した 二〇〇七年宇多良炭坑跡は近代化産業遺産群に認定された ここに坑夫の功を讃え犠牲者の霊を弔う碑を建立する
                  二〇一〇年四月一日
                  萬骨碑建立期成会



この碑は、経済産業省が所管する近代化産業遺産群として、丸三炭鉱宇多良鉱業所の遺構認定を記念し、併せて西表炭鉱で犠牲になった多くの坑夫や関係者の霊を弔うために建立されました。
西表炭鉱は明治の中期に始まり、同炭鉱も1936年に開鉱しました。当時としては近代的設備の炭鉱だったそうですが、苛酷な重労働で多くの犠牲者が出たそうです。
萬骨碑

この碑は旧宇多良炭鉱跡への遊歩道の奥にあります。

12.マリュドゥの滝(日本の滝100選)

「マリュドゥの滝(日本の滝
100選)」の説明書

マリュドゥの滝(日本の滝100選)
 西表島西部を流れる浦内川上流に位置し、豊富な水量が特徴で、カンビレー(マリュドゥの滝より上流に位置する滝)から流れ下る滝の落差は20メートルで2段になっています。水飛沫を千丈に上げて丸い滝壺に流れ落ちる景観や轟音が壮観な自然美を映し出しています。
 
また、滝周辺には亜熱帯特有の木生シダが林立し、直径130メートルの滝壺がたたえる水の色は見る人の心をとらえてやみません。
 
「西表島の民俗」では、マリの言語はマーリ(廻ること)であるとし、滝壺に落ちた水が廻るからと説明されています。(ユドゥとは淀みであろうとおもわれる)これらのことから、マリュドゥとは、「丸い淀み」の意味と言われています。
マリュドゥの滝

この説明看板はマリュドゥの滝の展望台(東屋)のそばにあります。

13.星立天然保護区域*

星立天然保護区域指定碑

説明碑文

これらの碑は星立(干立)集落入口に設置されています。
天然記念物 星立天然保護区域
                            昭和47年5月15日指定
 この保護区域の大部分は、ヤエヤマヒルギ、オヒルギ、メヒルギ、ヒルギモドキ、ヒルギダマシなどの種を中心としたマングローブ林であります。
 このマングローブ林内にはミミモチシダが自生しています。このシダは熱帯の海岸湿地に自生する常緑の大形のシダでフィリッピン諸島から台湾を飛び越して分布しています。
 また、このマングローブ林の後方の星立御拝には、一属一種で西表島と石垣島の固有種であるヤエヤマヤシが自生しています。そして、動物ではオキナワアナジャコが生息し、小川にはシレナシジミ、ガザミ類が多く生息しています。
 このように、本指定地は動・植物生態、分布地理学上貴重な地域であります。
 この地域において、許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                                     文部省
                                     沖縄県


ここは古くからその自然の豊かさが知られ、琉球政府時代には「星立のヒルギ、ミミモチシダ、ノヤシ群落」として天然記念物指定されていました。
ヤエヤマヤシ群落


14.干立の節祭の碑

干立の節祭の碑

国指定
重要無形民俗文化財の碑
干立の節祭
平成三年五月八日指定


※この碑は、干立の中心的な御嶽であるフタデウガンのそばに建っています。
 碑のすぐ前は海(マイヌハマ)となっています。

※ 節
祭は「しち」と呼びます。
フタデウガン

15.ビサダ道

ピサダ道の説明看板

同 遠景

  竹富町指定史跡 ビサダ道 平成19年9月28日指定

 ピサダ道は、16世紀初頭に活躍した西表島の英雄、慶来慶田城用緒が屋敷を構えたと伝えられる町指定史跡「慶来慶田城翁屋敷跡」(昭和48年9月12日指定)と、町指定有形民俗文化財「大平井戸」(平成10年3月31日指定)を結ぶ道で、祖納集落がまだ祖納半島の高台の上、通称「上村」にあった当時に、集落から井戸や水田へ往来するのに利用されていた古道です。
 ピサダ道のピサダとは、大平井戸周辺にあった水田の地名に由来するもので、大平井戸も節行事の時以外の平時はピサダカーと呼称されています。節祭が上村を中心に行われていた大正13年頃までは、アンガマ行列が上村から前泊浜まで降りてくるのに、このピサダ道を通っていました。その際にピサダ道の急坂を、旗頭を立てて降りてきたという武勇伝も語り継がれています。
 去った大戦時、昭和16年に完成した船浮要塞建設に際して祖納半島にも砲台が配置されましたが、大砲を引き上げるために旧日本軍により石段状の道が平らに敷きならされる、という改変も行われました。
 このピサダ道は、祖納集落の長い歴史を物語る歴史の道であり、祖納集落の人々の生活と深いかかわりのある貴重な史跡です。
                                    竹富町教育委員会

 Taketomi Town designated historic site Pisada Street

 Pisada is a steep stretch of street running between one of Taketomi Town's designated historic sites, that of the former residence of Keraikedagusuku Yocho, a heroic figure who took an active part in the history of Iriomote Island during the early 16th century, and one of the town's tangible folk cultural properties, Uhiraka Well. The street was commonly used by the people of Sonal Village, when the village was located atop a hill on the peninsula, in the present-day Uemura district, to travel to the Well or to their rice paddies.
 Pisada is the name that villagers used to call the area around Uhiraka Well where their rice paddies were located. Until 1924 the annual Shichi Festival was held mainly in Uemura, when the Angama Procession led by a banner bearer passed through Pisada Street down to Maedomarihama Beach.
 Pisada Street used to have stone steps that were rebuilt into a cobblestone street by the imperial Japanese Army during the construction of Funauki Fort, which was completed in 1941.
 The street reflects the history of Sonal Village, and it has always been a part of its.

ピサダ道


この説明看板は祖納集落の北側、「慶来慶田城翁屋敷跡の碑」への道の途中にあります。

16.仲里朝貞頌徳碑

仲里朝貞頌徳碑

仲里朝貞頌徳碑
碑文

仲里先生は首里のご出身で一九二七年
(昭和二年)当地にご赴任以来、実に四十年
余にわたりマラリア撲滅事業の完遂と
へき地医療にご尽力なさいました。
一九三九年(昭和十四年)先生の献身的な
ご努力により県費助成金をもととして
祖納に簡易水道が実現いたしました。
これは本部落における水道のはじめで
あります。
一九五四年(昭和二十九年)マラリア無病地区
として琉球政府比嘉秀平行政主席から
表彰を受けました。
一九六九年(昭和四十四年)十一月勲五等旭日
双光章の叙勲の栄誉を受けられました。
その他先生は部落発展に常日頃ご指導
いただきそのご功績は枚挙にいとまなく西
表西部住民から慈父の如く敬愛されて
おります。 ここに仲里先生の御徳を
頌えみ霊を永久に安かれと祈り頌徳碑を
建立いたします。
  一九七五年(昭和五十年)建立
  二〇〇〇年(平成十二年)復元
  建立者 祖納公民館
祖納公民館

この碑は祖納公民館の敷地内に建てられています。

17.節祭 文化財指定記念碑*

節祭 文化財指定の碑

【表面・下段拡大】

【表面・上段】

文化財指定記念碑

【表面・下段】
第二九六号
重要無形民俗文化財指定証書
西表島の節祭
西表民俗芸能保存会
文化財保護法第五十六条の十の
規定により重要無形民俗文化財
として平成三年二月二十一日文部大臣に
より指定されました
平成三年五月八日
文化庁長官 川村恒明


【裏面】
平成三年十一月建立
祖納公民館

節祭は豊作への感謝と来年の豊穣、住民の安全を祈願する行事で、西表島では祖納と干立地区に伝承されています。毎年旧暦10月前後の己亥の日に行われます。初日には魔よけ、2日目は前泊の浜で舟漕ぎ競争や、節アンガマなど種々の芸能が繰り広げられます。また干立地区では「オホホ」という独特の人物が登場する芸能があります。
遠景

【裏面拡大】

この碑は祖納集落をぬけた「まるまぼんさん」を望む前泊の浜に建てられています。

18.慶来慶田城翁屋敷跡の碑*

慶来慶田城翁屋敷跡の碑
(高柱)


慶来慶田城翁屋敷跡の碑
(低柱)

【高柱】
記念物 慶来慶田城翁屋敷跡
指定 昭和四十七年八月三十日
建設 昭和四十八年二月二十八日
●財調査委員会


【低柱】
慶来慶田城翁屋敷跡
慶来慶田城用緒西表首里大屋子は 平
久保加那按司を征伐また孫の用尊(同役)は
漂着したオランダ船を救援した


慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようしょ)は、平家の末裔と言われ、1500年前後に祖納の上村に移り住み、くり舟に乗って石垣島の平久保に向かい平久保加那按司(ひらくぼかなあじ)を征伐したと言われています。首里王府に反旗をひるがえしたオヤケアカハチの戦い(1500年)でも活躍し、歴史の人物となった西表島の英雄です。
王府から「西表首里大屋子」に任命され、西部地区を勢力下に置いて近世集落の基礎を築いたとされています。

祖納地区は日本を目指す南蛮船が往来し、1640年の南蛮船幼女連れ去り事件を契機に薩摩在番が置かれ、撃退用の大砲も設置されたそうです。
設置状況

この碑は屋敷入口の道路のそばに建てられています。

慶来慶田城翁屋敷跡

19.長寿坂の歌*

長寿坂の歌

長寿坂の石碑

【上段】
長寿坂の歌

     作詞書 木原 実
     作曲   那根 格
歴史は照らす 長寿坂
眺めあきない 祖納岳
美酒に酔うのも 無理はない
組めよ躍れよ  サァ
シマおこし シマおこし
  昭和六十一年五月五日
【下段】
長寿記念
花城マナシ(九十七歳)
贈 照美組

【長寿坂の石碑】
長寿坂

この碑は祖納集落の花城マナシさんのカジマヤー祝って1986年に照美組が建てたものです。敬老精神、地域の絆の強さを見せる歌碑です。作詞者の木原さんは「西表島郵便局の歌」、「郵便貯金の歌(ゆうゆうローン)」「簡易保険(簡保の歌)」なども作っておられるそうです。
長寿坂

この碑は祖納集落の西側に建てられています。

20.記念物 タブの老木

「タブの老木」の碑

【高柱】
記念物 タブの老木
指定 昭和四十七年八月三十日
建設 昭和四八年二月二八日
竹富町教育委員会

【低柱:解説板】
タブの老木
高台にありながら長年強風に耐え
横綱の風格を思わしめる巨木である
周囲四米三〇、高さ一〇米、樹令二百年

 西表島の祖納の歴史を見つめてきたタブの老木で、大竹御嶽の境内にあるご神木です。長年に渡る風雨に耐え、老樹の風格を漂わせています。あたり一帯は、クバの群生になっていますが、その中に一本だけこのタブの老木が立っています。
 推定樹齢は240年、幹は二股に分れていて周囲は4.3mと0.9m、高さは9mに達しています。

遠景

この老木は祖納集落の中心から、旧道を上った山の手(旧集落内)にあります。

21.記念物 大竹祖納堂儀佐屋敷跡*

大竹祖納堂儀佐屋敷跡

碑柱

【高柱】
記念物 大竹祖納堂儀佐屋敷跡
指定 昭和四十七年八月三十日
建設 昭和四八年二月二八日
竹富町教育委員会

【低柱:解説板】
大竹祖納堂儀佐屋敷跡
与那国島を発見した人、祖納部落の
豊年祭は彼を祀った大竹御嶽を
中心に催されている

 ここは、中国大陸から鉄を持ち込み、鍛冶を始めた大竹祖納堂儀佐(おおたけそのどうぎさ)の屋敷跡です。祖納集落の中心から、旧道を上った山の手(旧集落内)に位置しています。(少し分かりづらい場所です。)

 大竹は1500年代の西表島の英雄で、伝説では怪力の大男とされています。そして屋敷内の石積みの遠見台で景色を眺めていた時に与那国を発見したそうです。
屋敷跡遠景

同反対方向

22.太平井戸*

太平井戸

説明碑文

【コンクリート柱】
竹富町指定 有形民俗文化財 太平井戸
平成10年3月31日指定 竹富町教育委員会

【解説板】
 竹富町指定有形民俗文化財
 太平井戸(ウーヒラカー)
 この井戸は、伝承によると今から約500年前、まだ祖納
の集落が祖納半島の高台「上村」にあった当時、高台で水に
不自由していたところ、慶来慶田城用緒がこれを解消するた
めに掘ったものといわれています。 その後、飲料水用の井戸
として祖納の人々の生活を支え続けてきたことから水恩に感
謝する儀式が行われるようになり、今日では、節祭の3日目
に水恩感謝の儀式と奉納芸能がこの大平井戸で行われます。
   指定年月日 平成10年3月31日
   竹富町教育委員会

遠景

井戸外観

この井戸は東祖納(新盛家住宅の近く)にあります。

23.鳥獣魂供養の碑

鳥獣魂供養の碑

鳥獣魂供養の碑

猟友会八重山支部
西表島西部会
平成十三年二月建

裏面

この碑は「祖納の森」への道の途中にあります。

24.西表トンネル工事の石の碑*

西表トンネル工事の石の碑

 この石は、西表トンネル工事に伴い、坑内から
ズリとして搬出された砂岩と頁岩である。
 今から約2000万年前、新生代第三紀の
中新世に堆積形成された岩石で八重山層郡
西表層に属する。
         1992年6月

1977年に白浜まで県道215号線が開通し、狭くて勾配の急な旧山越えの道(通称:白浜林道)の改善策として西表トンネルが建設され、1993年1月に開通しました。これにより白浜・船浮住民は豪雨時の土砂崩れなどで孤立することもなくなり、距離・時間も短縮されました。トンネルは全長675m、工事費は21億円かかったそうです。
同碑設置状況

この碑はトンネル白浜側出口の、西側すぐの所に建てられています。

25.西表トンネルのプレート

西表トンネルのプレート
西表トンネル
1992年6月
沖縄県
延長675m 幅9.25m
高さ4.5m
施工 (株)國場組  ・(株)大城組
    南洋土建(株)・(株)唐真組   建設工事共同企業体
プレート取付状況

このプレートは白浜側出口に取り付けられています。

26.水準点

水準点(No.11237)の
説明書き

水準点
 この標石は、高さの基準を表す水準点です。
 この水準点(No.11237)は、西表島験潮原点から水
準測量を行い高さを決定しています。
 水準点は、主要国道等に沿って約2kmごとに設置され、全
国で約2万点、沖縄県には約400点が設置されています。
 水準点は、各種測量等の高さの基準となるほか、定期的に測
量を繰り返すことによって、地盤沈下や地殻変動等の監視にも
役立っています。
  国土地理院 沖縄支所
水準点(No.11237)

この水準点は、白浜の竹富町子午線モニュメントの横にあります。

27.竹富町子午線モニュメント*

竹富町子午線モニュメント
説明書き


【左側のプレート】
竹富町子午線
モニュメント
1997年、竹富町西表島に123°45′6.789″の子
午線が通っていることが、国土地理院沖縄支所によ
り発見されました。この子午線はここ白浜と向かい
の祖納の地を通っています。123°45′6.789″の
時間を西表の大地に刻む日時計のモニュメントの意
味を、祖納の「竹富町子午線ふれあい館」でもお確
かめください。


【右側のプレート】
この竹富町子午線モニュメントは
宝くじ普及宣伝事業として整備されたものです。
平成10年3月
寄贈 財団法人 日本宝くじ協会


子午線は北極点と南極点を結ぶ仮想上の大円です。日本では子(ね)の方角(北)から午(うま)の方角(南)に伸びる線として「子午線」と呼ばれています。
なお、祖内地区には「子午線ふれあい館」と「モニュメント」が建てられています。
竹富町子午線モニュメント
(東側より)

(同西側より)

このモニュメントは、白浜小中学校正門前の広場に建てられています。

28.イリオモテヤマネコ発見捕獲の地*

「イリオモテヤマネコ
発見捕獲の地」の碑

イリオモテヤマネコ発見捕獲の地
国の天然記念物イリオモテヤマネコは一九七四年(昭和五〇)三月十七日午前三時頃、この地で鶏を襲って小屋に入ったところを池田稔によって、発見・捕獲された。
この碑がある場所は、船浮集落の資料館「西表館」所有者の池田さん宅の裏庭です。

※ 1974年は昭和49年のはずですが・・・?! また、発見・捕獲されたのが、この地で「初めて」とは書かれていません。 
 実は、1965年に動物作家の戸川幸夫氏が頭骨と毛皮の標本を入手し、1967年に研究のために2頭が仲間川中流域と仲間山で生け捕られ、新属新種のイリオモテヤマネコとして学会に発表されました。
 島の人達には古くから知られていて、「ヤママヤー」「ヤマピカリャー」「ピンギーマヤー」などと呼ばれ、時には食用にもされていたそうです。(マヤとはネコの意味です。)

 イリオモテヤマネコは西表島に約100頭ほど生息しているとされていますが、交通事故が絶えず、その対策が最大の課題となっています。

29.東郷平八郎上陸の地

「東郷平八郎上陸の地」の
説明書
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)上陸の地
明治三八年五月、ロシアのバルチック艦隊を全滅させるという責任を負うた東郷大将は、駆逐艦で台湾・八重山・宮古・大島・九州などの要港に立ちより船浮港にひそかに立ち寄った大将は、民家にも立ちより次呂久のばあちゃんの差し出したラッキョウとお茶を召しあがり、後に御礼の葉書きをよせられました。大将の作戦は成功し明治三八年五月二十七日、バルチック艦隊は全滅した。日露戦争秘史(次呂久校長談より)
この立札は、船浮集落の資料館「西表館」近くにあります。

30.カマドマの碑*

「カマドマの碑」


民謡「殿様節」の歌詞
【上段】
かまどま之碑

【中段】

うきゆになとたるこいの
氏神すないのとのさま
ばんどやゆる
カマドマぬことば思いど
ふなきにいくよば

ふなうき村千寿万才
クバデサぬしちやにうりて
しにぬやむけん
●ぶしぬやむけん
たちまちぶだんよば

あまぬにたさ てるてだん
やみなすだぎよば
としきぬしんさん クバデサば
かいだぎぶんよば

●は判読不明
【歌詞現代訳】

浮世に名を取った
恋の氏神祖納の殿様は
私である

カマドマの事を思って
船浮に行くよ

船浮村は千秋万歳
クバデサの下にいて
脛の痛むまで
膝の痛むまで
立って待っていたよ

あまりの妬ましさに照る太陽も
闇になすほどだ
たいそうのつらさにクバデサを
かき抱いている

この碑は、船浮集落内のカマドマ広場にあります。
【下段】
殿様節由緒
カマドマは船浮村の生ま
れで絶世の美女として当時
の役人から望まれた女
性である。
殿様は祖納村の石垣
高端である。 生れつき
美男子で大和の殿様
とあだ名をされた程であ
った。 この二人の恋い物
語を歌ったのがこのう
たである
高端は明和六年五月四
日で生れで文化元年船
浮役人を命ぜられカマ
ドマに心酔したが文化二
年正月一日紙漉所役人
になられた
これを石垣用典氏が
作詞したものである
文化のころであるから
今から百五十年前
である

 この碑は昭和42(1957)年9月、区長池田稔氏、公民館長井上文吉氏等々により建立されました。

 碑の下段には祖納村の殿様と船浮村のカマドマの相思相愛を物語る八重山民謡の「殿様節」の由来が刻まれています。
 上段には同民謡の歌詞が記されていますが、この歌詞には当時としては珍しい「大和言葉」が随所に使用されています。

 なお、カマドマが殿様を待ちあぐねた名木のクバデサは、現在2代目の巨木だそうです。
 「カマドマ之碑」の下段(基礎部)には、船浮村の絶世の美女カマドマと、祖納から通う殿様の恋愛模様が記されています。
 カマドマはこの碑の横に立つクバデサ(モモタマナ)の古木の木陰で、膝が痛むまで殿様を待ち続けたといわれています。

31.上の川

「上の川」の説明看板

上の川(ウイヌカー)
上の川は古くから船浮村の水瓶として人々の生命を守り農業(稲作)を育んできた。
炭坑時代(明治)には上の川の水は良質で療養に効果があるといって訪れる人が多かった。
丸い水留めは永い間、洗濯のすすぎ場として使用されてきた。
上ぬ川(カー)ぬ水(ミジ)
しじ水どぅやりば
御万人
(ウマンチュ)ぬまぎり
(ア)みてぃ しでぃら
(訳)上の川の水は湧き水でおいしいよ 皆さんそろって水あびをし若かえろうよ
管理 船浮公民館
上の川

船浮集落からイダの浜への道の途中にあります。
 

 Page Topへ戻る   八重山の石碑・説明看板 に戻る   八重山豆辞典 に戻る    HOME へ戻る


Copyright (c) 2008.8 yaeyama-zephyr

写真の無断転載・使用を禁じます。利用等をご希望される場合はメールでご連絡下さい。