西表島の石碑・説明看板 (東部)  更新 2024.10.06

今回は、No.2に写真の追加、ならびにNo.3・4の追記を行いました。


No. 名    称 場 所
1. 「ヤマネコ発見の地」の碑 南風見田
3. 疎開小屋跡の碑 南風見田
5. 開拓之碑 豊原
7. 豊原地区完了記念碑 豊原
9. 佐久田地区土地改良事業完了之碑 南風見
11. 大舛久雄氏之像* 大原
13. 獣魂之碑 大原
15. 山中貞則先生之像* 大原
17. 耕そうゆがふ地* 大富
19. 仲間第一貝塚之碑* 大富
21. マザカイ之碑 大富
23. 大富開拓記念碑 大富
25. 世持之宮* 大富
27. 先島スオウの木 古見
29. 古見の浦節の碑* 古見
31. 「旧前良橋・後良橋」のモニュメント 古見
33. 古見ぬ浦節 古見
35. イリオモテヤマネコとの共生のために 古見
No. 名    称 場 所
2. 忘勿石之碑* 南風見田
4. ミルク面の碑 南風見田
6. 豊原入植50周年記念碑 豊原
8. 竹富町制施行50周年記念タイムカプセル* 豊原
10. 拝所の沿革 大原
12. 頌徳碑 大原
14. 大原創立55周年記念碑 大原
16. 西表島の概要(仲間橋) 仲間橋
18. 大富林道入口の看板 大富
20. 仲間川天然保護区域の説明看板 大富
22. 交通安全之塔 大富
24. 入植40周年記念碑 大富
26.
28. 古見のサキシマスオウノキ群落説明看板 古見
30. 感謝記念碑* 古見
32.  
34. 矼ゆば節 古見
36. ESSAYONS L.Z.*
(米軍503空挺部隊工兵隊道路改修記念碑)
高那

地図1.(南風見田・豊原)

1.「ヤマネコ発見の地」の碑

「ヤマネコ発見の地」の碑 表面・上段

同表面・下段

碑文拡大

裏面
【表面・上段】
1965
ヤマネコ発見の地


【表面・下段】(碑文と写真)
『生徒たちが発見したイリオモテヤマネコ』
1965年5月5日大原中学校の生徒(17期、18期、19期)
は「南風見田の浜」へ遠足で行った際、大きなネコを生け捕りにしました。
しかし、怪我をして衰弱していたため、すぐに死んでしまいました。
動物作家の戸川幸夫氏が「西表島で新種のヤマネコを発見した」と報道されてからすぐのことでした。島袋憲一、山城隆男両教諭は「貴重な標本になるに違いない」と、毛皮は剥いで保存し、残りは骨を取るため木箱に入れて埋めました。1ケ月後の6月、その話を聞いた戸川氏が再び島を訪れ、生徒たちと一緒に骨を掘り出しました。これが初めての全身骨格であり、イリオモテヤマネコを新種として登録する際のきわめて貴重な標本(パラタイプ標本)となりました。今でも貴重なタイプ標本(発見の証拠になる標本)として東京の国立科学博物館に保存されています。
このように、イリオモテヤマネコは大原中学校の生徒たちの協力によって「世紀の大発見」に至ったのです。
(写真1)
大原中学校の生徒たちにより生け捕りにされたイリオモテヤマネコ(のちのタイプ標本)

(写真2)
骨を取り出す様子

【裏面】
イリオモテヤマネコ発見50年記念事業期成会
役員
会長  新盛 基代
副会長 山盛 力
副会長 竹盛 洋一
建設委員長 金盛 浩二
募金委員長 上原 栄仁
事務局長 玉盛 雅治
会計 玉盛 志乃
平成三〇年四月十五日



この碑は南風見田の浜の手前にある駐車場内に建てられています。この碑は、「当時の子どもたちから次世代の子どもたちへ」をテーマに、発見時と同じくヤマネコが岩場に隠れる様子を表現しているそうです。

西表島のみに生息するイリオモテヤマネコは国の特別天然記念物で、絶滅危惧種TAに分類され、現在の推定生息数は100頭ほどとされています。
(写真1)

(写真2)

2.忘勿石之碑

忘勿石之碑 表面 右上段
忘勿石
 ハテルマ
  シキナ



※ 忘勿石:ワスレナイシ
本来の忘勿石
本来の忘勿石は、「忘勿石之碑」の向かって右手側の岩の上に記されています。
同表面・右中段
忘勿石の碑
 この一帯は歴史的な戦争マラリアの悲劇の霊境である 一九四五年四月 波照間の住民が軍命によってこの地に強制疎開させられ多くの人々が熱帯マラリアに罹患して 古里の島影を求めながら亡くなった
 その人々の苦悩はまことに筆舌に尽しがたいものがある 学童とともに疎開し その学童たちの死を見守りながら 浜辺の岩に「忘勿石」と刻んだ識名信升先生の心情は察するに余りあり
 この碑が歴史を語り継ぎ 病没した人々の霊を慰め 平和創造への礎となることを祈り願う
 一九九二年八月
 琉球大学名誉教授  高良鉄夫
同表面・右下段
虚ろに煙る 母の島影
呼べど白砂続く恨みの浜
母も逝き露しづくともがら
帰らぬ教え子抱き恩師の声
石叫びやまず 忘勿石

同表面・左中段
軍令による強制疎開の為、風土病の悪性マラリアに罹患、戦わずして尊い人命を失った。

犠牲者氏名

波照間島北部落
(以下氏名省略)
名石部落
(以下氏名省略)
同表面・左下段
南部落
(以下氏名省略)
前部落
(以下氏名省略)
冨嘉部落
(以下氏名省略)

戦時下のため、役場へ届出不可能、一家全滅等終戦後数年して戸籍簿整理したため調査漏れ、死亡年月日不明並びに不正確も僅少あるものと思料される。

一九九二年八月
波照間公民館
館長 安里 正
新城 保 謹書
同裏面の碑文
忘勿石之碑建立のあらまし
波照間公民館始め 関東、関西、沖縄本島、石垣、西表島の各波照間郷友会、識名信升先生の御家族及び 縁故者、知人、友人、退職教職員、八重山郡内外の各学校、多数の諸社、諸機関の人々の平和を愛する貴い厚意ある御芳志に依って全世界人類の恒久平和を願い、愚かな戦争の為、亡くなった数多くのマラリア犠牲者の精霊供養と遥か波照間島を望む識名先生の遺徳を偲び建立したものである。
忘勿石之碑建立事業期成会
(以下省略)
忘勿石之碑 表面全景
「忘勿石の碑」は、西表島南東部の南風見田の浜にあり、波照間島に向かって建てられています。
なお、波照間島には「学童慰霊碑」 が建てられています。

太平洋戦争当時、南風見田の浜はマラリアの有病地としてよく知られていました。このため、住民は疎開に反対したものの、軍の命令には逆らえませんでした。
掘っ立て小屋での避難所生活は医薬品もなく、栄養失調状態となり、結果的に住民1590人の大半の人達がマラリアに感染し、学童(66人)も含めて島民の3割の477人が死亡しました。その悲劇を後世に伝えるため、1992(平成4)年8月15日、この碑が建立されました。
忘勿石之碑裏面 全景
遊歩道入口のモニュメント

現在では遊歩道が整備され、足元の悪い浜や岩場を歩くことなく、忘勿石や忘勿石之碑まで辿り着けるようになりました。これは駐車場から忘勿石のある海岸までの遊歩道の降り口です。
忘勿石之碑案内板

これは左記入口横(駐車場脇)に設置されている忘勿石周辺図です。

3.疎開小屋跡の碑

疎開小屋跡の碑
疎開小屋跡

 昭和二十(一九四五)年軍命名により
波照間島の五集落全住民一九五〇余名
が西表島に強制疎開となった。ここ南
風見田海岸一帯には一集落四〜五班か
らなる各班当り数戸約五十名編成の共
同生活が行われた。 四〜八月上旬
までの疎開生活は、きびしい食糧難と
マラリアに苦しみながら茅葺きの疎開
小屋での共同生活を強いられた。
  令和四(二〇二二)年八月 建立

疎開小屋のあった周辺と碑の遠景 小屋跡前の風見田海岸(西方向)

4.ミルク面の碑

ミルク面の碑
ミルク面
(洞穴の中)

 昭和二十年(一九四五)年戦争による
強制疎開中 大嵩伊佐(当時七五歳)は、
波照間島のムシャーマ(旧盆行事)を想い
ミルク面を彫りながら帰島を願ったが
マラリアに罹患し、ここ南風見田海岸
の疎開地てせ亡くなりました。
  令和四(二〇二二)年八月 建立
ミルク面の碑の遠景
ミルク面は、碑の後方の洞穴の中にあります。

5.開拓之碑

開拓之碑 表面

同側面
【表面・上段】
開拓之碑


【表面・下段】
記念碑建立者名
(以下省略)

【側面】
豊原開拓団
入植30周年記念
昭和58年6月9日
豊原公民館と碑
この碑は豊原公民館の隣に建てられています。

6.豊原入植50周年記念碑

豊原入植50周年記念碑

裏面
【表面】
豊原入植五十周年記念
拓心盛里
心を拓き 里盛える


【裏面】
昭和28年(西暦1953年)6月9日琉球政府計画移民として、豊原開拓団はこの地に入植した。
当初、開拓は困難を極め筆舌に尽くし難い労苦を不撓不屈の精神で乗り越え、昭和58年10月9日入植30年をめでたく迎え地域住民一同大きな喜びで盛大に式典を挙行した。
我々はそれ以降も先達の開拓精神を忘れる事なく継承し、地区の整備発展に邁進し現在の輝かしい豊原を形成するに至った。
本日入植から半世紀の節目にあたり、更なる躍進を誓いこの記念碑を建立するものである。
  平成15年(西暦2003年)11月吉日
「開拓の里」遠景
この碑は豊原公民館向いの「開拓の里」の前に建立されています。

7.豊原地区完了記念碑

豊原地区完了記念碑

事業説明板
【豊原地区完了記念碑】
担う豊郷の地
豊原地区完了記念碑

【事業説明板】
農林水産省補助事業 経営体育成基盤整備事業 豊原地区
事業主体:沖縄県八重山支庁
       農業水源整備課
事業工期:平成2年度〜平成15年度
事業費 :1,151,000,000円
工事概要:聖地30ha、農道5.6km、
     排水路8.2km



経営体育成基盤整備事業とは、新規就農者、意欲ある経営体、集落営農組織など意欲ある多様な経営体が経営規模の拡大や経営の多角化を図っていくために必要な農業用機械の整備等の経費を国が直接支援するものです。
基盤整備箇所の光景
この碑や看板は豊原地区の畑地内に建てられています。

8.竹富町制施行50周年記念タイムカプセル

タイムカプセル
【下部プレート】
【上部側面
竹富町制施行50周年記念タイムカプセル
西暦1998年発〜西暦2023年行き

【下部プレート】

竹富町制施行50周年を記念して、現在から未来への
夢の架け橋となるタイムカプセルを設置します。
子供達をはじめ全町民からの熱いメッセージなどが、
納められています。
このタイムカプセルの扉は、町制施行75周年となる
西暦2023年7月2日に開封され、あなたのお手元に
メッセージは確かにお届けします。
 1998年7月2日
          竹富町長 西島本 進
同 遠景
このタイムカプセルは、竹富町立・交流センター内に設置されています。

【追記】
竹富町の町制50年を記念して製作されたこのタイムカプセルは、2023年7月2日に竹富町制75周年の式典で前泊町長らによって開封されました。
中に入っていたのは、町民が未来の自分や家族に宛てた手紙およそ800通でした。

9.佐久田地区土地改良事業完了之碑

佐久田地区土地改良事業完了之碑
【表面
佐久田地区
土地改良事業完了之碑

農地を守り育てよう
同側面(裏面)

【裏面 碑文】
【裏面上段】
事業概要
事業目的
本地区は農地が分散し原野と錯綜しており排水施設が未整備であった
本事業で農用地を集団化し排水路の整備をする事で機械化農業による生産性向上を図り、農家経営の規模拡大と安定化を目的とする
事業名
  県営畑地帯総合土地改良事業
地区名
  佐久田地区
事業概要
  幹線排水路L=631m 区画整理A=54ha
  農地開発A=18ha
事業工期
  昭和58年度〜平成3年度
事業費
  1,080,808 千円
事業主体
  沖縄県
管理主体

 
 佐久田土地改良区

【裏面下段】
佐久田土地改良区
 前理事長 黒島武夫
 理事長  横目栄三
   1998年11月吉日建立


この碑は西表糖業(株)の道向かい東側に建てられています。

地図2.(大原)

10.拝所の沿革

拝所の沿革の碑
【表面
拝所の沿革
昭和十六年沖縄県は十五ケ年振興計画自作農創設法に基きこの地に新城
両島民を主体に入植事業を進め公共施設の一つに拝所をハテル山の麓に
建て新城両島の神々を合神し昭和二〇年五月鎮座祭を行ふとしたが敵の
空爆にはばまれその実現空しく終戦となった。
戦後人々は地域再建の中で拝所の位置は遠すぎるとしてこの所を聖地と
定め昭和二十二年新城上地島から分神して神社を建てた。月日は流れて
五〇年ここに沿革の碑を謹立
御神体 = 光熱 酸素 水素 = 自然

【側面】
平成八年吉日 西大舛 高壱
この碑は大原地区の大原神社内に建てられています。

11.大舛久雄氏之像

大舛久雄氏之像 【表面】
【表面上段】
大舛久雄氏之像

【表面下段】
大原創立 草分けの父
ありし日の
影を慕いて
像を建て
氏の功績を
永遠に伝えむ
【裏面 上段】

【裏面 下段】

【像 裏面】
【裏面上段】
昭和十七年九月八日
敍勲六等授瑞宝章
     賞勲局
昭和二十年六月十五日
敍正七位
     宮内省

【裏面下段】
氏の生立ち及び業績
は右頌徳碑々文に
準ずる

氏は昭和二十年五月
八重山支庁長官舎
に於いて敵の空爆
により当年四十七歳
の若さで惜しくも
殉死された
 歳月過ぎて五十年

ここに像を建立する
平成九年吉日
大原創立五十五周年 記念事業期成会



※ 右頌徳碑とは、No.9の頌徳碑を意味します。

大舛久雄氏は、新城島生まれで警察官を経て昭和19年4月に八重山支庁長に着任、移住後特に南風見開墾に尽力されました。昭和20年5月に激しい空爆により支庁長官舎の壕で爆死。47歳でした。特に大原への移住を推し進め、亡くなるまでに勲六等や叙正七位などを授章されています。

12.頌徳碑

頌徳碑 表面

碑 側面

碑 裏面
【表面】
頌徳碑

【側面】
昭和三十二年(一九五七年)十一月建設 大原部落会
竹富島より移住五十周年記念として再建
平成八年(一九九六年)十一月
 寄贈 玉盛 淳亮
     親盛 長明

【裏面】
 大舛久雄氏は明治三十一年五月新城島に誕生された。この島は珊瑚礁の孤島で自然の恵みに乏しくために島民の生活を補うには対岸の肥沃な穀倉西表島に依存しなければならなかった。しかし西表島は風土病がしょうけつを極めここに耕作する者は常にその病に悩みつづけていた。大舛氏は身をもってこれを体験し将来を期して西表島移住の決意は早くからかもされていたことであろう。さて氏は大正七年軍隊に入営されシベリア派遣軍に勤務し大陸の沃野を蹴歩し除隊後は青雲の志にもえ、大正十二年警察官を志望された。幼少からの向学心は刻苦勉励の人となり、天才的な英
知とあいまって、氏は昇進に昇進を重ね、昭和十一年警部に昇進され、同十三年八重山警察署長を拝命された。翌十四年には刑事課長となり敏腕を大いに振われたがその間にも宿命の新城島民救済の願いもだし難く孤軍奮闘南風見移住問題を提げて主管農林省に訴える一方、島民への啓蒙運動に腐心され終始一貫本問題の実現に邁進されたのである。
 この問題は新部落建設の大事業だけに幾多の難題が積み重なり日本政府の大英断と島民の将来を見通す一大勇猛心がなくては解決は望めなかった。無心な説得にもかかわらず対岸の有病地に移住することに反対し、たてつく人が多く開拓魂にもえて大舛氏に賛同するものは一部の人のみであった。しかしながら大舛氏の真剣な推進は遂に功を奏し昭和十六年沖縄県営自作農創設南風見開墾事業認可になり予算額六十三万円が獲得され南風見移住計画はここにいよいよ実現される運びとなった。氏は昭和十七年更に警視に栄進され那覇警察署長を拝命、翌年五月行政官に抜擢されて宮古支庁長を歴任、次いでに十九年八重山支長を拝命された。時に太平洋戦争はようやく熾烈を極め、惨禍を償いながら移住事業は強力に推進しなければならなかった。思うに戦争のあおりを食って事業中止の段階に追い詰められた住民の苦難もさることながら大舛氏の苦哀はいかばかりであっただろうか。しかるに、天、氏に時を貸さず昭和二十年五月三日、遠大の理想郷建設の業半ばにして弾雨をあび官舎で名誉の戦死をとげられたのである。憶し大舛久雄氏の人生こそ絢爛を誇る桜花が一陣の突風に散華する一期であった。ここにわれわれは、氏への報恩事業として頌穂碑を建立し、大舛久雄氏の生前の御功績を讃え、大原開発草分けの親としての先見の明と終始一貫敢闘された御偉穂を顕彰して、これを永遠に伝えようとするものであります。
          一九九五年(平成七年) 八月吉日
頌徳碑 遠景
この頌徳碑は、「大舛久雄氏之像」の隣に建立されています。

13.獣魂之碑

獣魂之碑 表面

同 裏面
【表面】
獣魂之碑


【裏面】
平成7年11月吉日建立
(1995年)
西表東部猟友会
獣魂之碑 遠景
この碑は、大原創立五十五周年記念碑の隣(北側:小高い丘の奥)にあります。

14.大原創立55周年記念碑

碑 表面

碑 裏面
【表面】
大原創立五十五周年 記念碑

【裏面】
 昭和十六年(西暦一九四一年)三月十一日沖縄県は国の自作農創設法に基き新城島両島民を主体にこの地に入殖開墾事業を進め起工式を行った。ところが同年太平洋戦争勃発四年に亘る工事の実績は空爆の的となり事業計画は半にして終戦となった。
 まもなくしてアメリカの宣撫工作と政府の戦災復興施策は両翼に大富・豊原の入植と社会資本の整備に伴い各地からの自由入殖によって大原地域は現状を見るに至った。
西表島開発の試金石と呼ばれて五十五年ここに記念碑を建立する。

【側面】
平成八年(西暦一九九六年)
大原創立五十五周年記念事業期成会
碑 側面
この碑は、竹富町離島振興総合セセンターの向かいの丘上(東側)にあります。

15.山中貞則先生之像

山中貞則先生之像 表面

裏面・建立趣旨
【表面
竹富町 名誉町民
山中貞則先生之像

【裏面】
(建立趣旨)
 竹富町名誉町民(昭和50年2月23日推挙)
 故山中貞則先生は、大正10年7月9日鹿児島県曽於郡末吉町でお生まれになり昭和58年衆議院議員に初当選以来82歳で他界されるまで国政の場で国務大臣・通商産業大臣をはじめ主要なポストを歴任され、我が国の平和と繁栄に大きな貢献をなされました。
 特に沖縄県については、昭和45年、昭和46年総理府総務長官として、沖縄の本土復帰の円滑な実現に尽くされ、また初代沖縄開発庁長官として、卓越した政治手腕と指導力をもって本土復帰に伴う難題解決、沖縄振興開発に関する諸法令制定の推進等まさに歴史に残る数々の偉業を成し遂げられました。
 我が竹富町に於いては、海上交通の機能拡充と旱魃時の飲料水の確保が離島住民長年の重要課題でしたが、格別な御厚情をもって復帰と同時にホバークラフトが就航し、海上交通に一大革命をもたらしました。昭和50年2月、西表島から「命の水」が海底送水により黒島・新城島に給水が実現、その後竹富島・小浜島・鳩間島と次々に整備されました。昭和63年に波照間島かん水淡水化施設、更に鳩間島・西表島船浮・新城島の海底送電の実現をはじめ、各島々の経済基盤や産業振興等諸公共施設の整備に多大な御尽力を賜りました。
 よって竹富町民は、地域発展の大恩人故山中貞則先生に報恩の誠を捧げ末永く後世にその功績を顕彰するため、ここに先生の胸像を建立したものであります。
   平成18年2月吉日
      山中貞則顕彰記念事業期成会会長
      竹富町長 大盛 武
山中貞則先生之像遠景
この碑は大原地区の離島振興センター入口に建てられています。

山中先生は石垣市の国営宮良川、名蔵川農業水利事業や畜産基地整備、サトウキビ価格など数多くの事業に尽力されました。

地図3.(仲間川・大富)

16.西表島の概要(仲間橋)

「西表島の概要」のプレート

仲間川
【表面】
西表島の概要
 西表島は、沖縄本島に次ぐ大きな島で28,444haの広大な面積を有し、その9割は国有地で、国指定特別天然記念物のイリオモテヤマネコを始め陸棲動物、植物、昆虫、鳥類など学術的に貴重な野生動植物等が生息している島として国立公園に指定されている。
 地形は、大半が山岳的様相を示し、標高450m前後の連山も開析して、大小無数の渓流をなしている。
中でも東部の仲間川、西部の浦内川の二大渓流は、東洋のアマゾンといわれ、その河川流域には、大規模なマングローブ林が広がり、ほとんどが原生の姿をとどめている。

このプレートは仲間橋のほぼ中央部(上流側)に設置されています。

17.耕そう ゆがふ地

耕そう ゆがふ地の碑
【上段】
耕そう ゆがふ地
県営農地開発事業大富地区完了記念碑

【下段】

竹富町土地改良区



大富地区の土地改良は1987(昭和62)年度からスタートし、2003(平成15)年度に終了しました。ヨコイダ地区の受益面積は57.7haです。碑の隣に建つ水タンクの壁面には、大原中学校55期卒業生のアートが描かれています。
同 遠景
この碑は大富地区の農地にある給水塔のそばに建てられています。

18.大富林道入口の看板

西表自然休養林仲間川地区大富遊歩道利用案内
西表自然休養林仲間川地区 大富遊歩道利用案内

大富遊歩道を含む仲間川流域は、自然を保護しながら国民に健康・休養の場を提供する目的で、昭和53年度に西表自然休養林仲間川地区に指定されました。
周辺には、自然とふれ合いながら散策できる場として、亜熱帯樹木展示林、仲間川展望台、ヤエヤマヤシ展望所などを設置し自然学習や教育の場としても利用されています。
大富遊歩道の利用については、安全に利用していただくため以下の制限を設けているほか全線歩行者が優先ですのでご協力をお願いします。
第一ゲート 遊歩道入口
 ↑↓ 一般車両
第二ゲート 亜熱帯樹木展示林
 ↑↓ 許可車のみ
第三ゲート 仲間川展望台
 ↑↓ 緊急車両のみ
横断道登山口
林野庁 九州森林管理局 沖縄森林管理署

西表島森林生態系保護地域案内図
西表島森林生態系保護地域案内図

国有林に入山される方へ
西表島の内陸部は国有林です。
島の中央部は、西表島の貴重な森林と動植物を守るため、西表島森林生態系保護地域として保護している区域です。
自然休養林の区域を越えて国有林に入林される方は、あらかじめ大原又は祖内の森林事務所で入林許可証の交付を受け、入林の際は下記の事項を守って下さい。
  記
1.タバコの吸殻等火気に注意し、ゴミは持ち帰ること
2.国有林野において木材の伐採、植物・土石の採取を行なわないこと
3.森林生態系保護地域においては動植物の保護、自然環境の保持に特に留意すること
4.特に、森林生態系保護地域の保存地区においては、学術研究等のため特に許可をした場合を除き狩猟、釣魚、動植物の採取、キャンプ及び既設の歩道以外の場所への立入等森林の生態系に影響を及ぼすおそれのある行為を行わないこと
沖縄森林管理署 大原森林事務所

西表島国有林森林環境教育プログラム
西表島国有林森林環境教育プログラム

この大富地区西工区では農業後継者を支援するために農地開発事業を計画しましたが、この地区に貴重な動植物が生活・分布していることがわかり、事業計画を中止して現状のまま保存することになりました。
●この地区の歴史(大富地区西工区)
 昭和62年度:県営のうち開発事業計画を策定
 平成8年度 :環境影響調査を実施(貴重な動植物が生活・分布していることが判明)
 平成13年3月 工事を中止
●この地域の生き物
 ほ乳類:イリオモテヤマネコ、リュウキュウイノシシなど
 鳥類:カンムリワシ、リュウキュウキンバトなど
 は虫類:セマルハコガメ、キシノウエトカゲなど
 ※この地域の「大正池」には希少な生き物が生息している事から「日本の重要な湖沼500」(環境省)に指定されています
●注意地域に
 この生息・生育する動植物などを観察することを通して、西表島の森林生態系の大切さ、豊かさを理解していただくため観察ガイドの案内でご利用下さい
 林野庁 九州森林管理局 沖縄森林管理署
 西表森林環境保全ふれあいセンター
大富林道 第一ゲート
これらの説明看板は第一ゲート入口前に設置されています。

地図4.(大富)

19.仲間第一貝塚之碑

仲間第一貝塚 県指定碑
県指定史跡 仲間第一貝塚
            指定年月日 昭和31年10月19日
            所 在 地  竹富町字南風見仲
 仲間川河口に形成された本貝塚は、今から約1000〜1200年前の貝塚で、土器がまったくみられず、石器が多いのが特徴です。
この遺跡から出土した遺物には、石器、貝製品、角釘、開元通宝、青磁片、貝殻類、獣魚骨、焼石などがあります。石器の種類には、石斧・敲石・凹石・磨石・石鏃などがあります。陸・海・川産の貝殻類、猪・ジュゴンの骨、焼石などが出土していることから、近くの山・川・海で狩猟や採集によって得られた食料を焼石を用いて調理したと考えられます。
 さらに、鉄製の釘、開元通宝、青磁片も見つかっていることから、他の地域との交流があったことが推察されます。
 この遺跡は、全国的にもまれな新石器時代の無土器遺跡として知られており、八重山地域の歴史を解明するうえで重要な遺跡です。
 なお、この地域で許可を得ることなく現状を変更すること、又は、保存に影響を及す行為をすることは条例で禁じられています。
                     平成8年3月
                     沖縄県教育委員会
                     竹富町教育委員会
仲間第一貝塚 説明碑
仲間川河口の北岸砂丘地に広がる、八重山諸島でもよく知られた貝塚の一つです。1955(昭和30)年に琉球政府文化財保護委員会(現兼教育庁文化課)が、また1959(昭和34)年には早稲田大学八重山調査団が試掘調査を行いました。その結果、新石器時代の無土器貝塚と判明し、一躍脚光をあびました。

この碑は大原側から仲間橋を渡ってすぐの右手側にあります。

20.仲間川天然保護区域の説明看板

仲間川天然保護区域説明看板

同拡大
【説明看板】
天然記念物 仲間川天然保護区域
  昭和47年5月15日指定

 仲間川は長さ12.3kmあり、西の浦内川とともに西表島を代表する川であります。
満潮時には上流で6km近くまで舟の遡行が可能で、河口から5km近くまで発達している両岸のマングローブの景観は、実に壮大で我国最大の規模であり、西表島の自然の多様さと豊かさを示しています。
 マングローブ林を構成する主な種は、ヤエヤマヒルギ、オヒルギ、メヒルギ、マヤプシギ、ヒルギダマシ、ヒルギモドキなどであります。これらのうち前記二種が広い面積にわたって生育しています。マングローブ林と山地斜面との境界域には、我国最大の規模のサガリバナ群落がみられます。また、冬期にはカンムリワシが飛来するほか、マングローブ林内に生息する動物も豊富で、我国で最大の典型的亜熱帯マングローブ林として貴重なものです。
 この地域において、許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                      文部省
                      沖縄県 

【標柱】
[表面]
天然記念物 仲間川天然保護区域

[側面]
昭和四十七年五月十五日指定

[裏面]
文部省・沖縄県
仲間川天然保護区域 説明看板と標柱 表面
同 裏面

21.マザカイ之碑

マザカイ之碑【表面】

同【裏面】

【表面】
マザカイ之碑
いきゃぬ
 ゆやんど
なぐぬ
 ちにゃんど
なかま
 くいおった
しるぐみぬ
むちぐみぬ
 くり
ふしやんど


【裏面】
西表島開拓移民先駆者マザカイ
竹富島に生まれたマザカイは(崇禎)一〇年
(一六三七)過酷な人頭税の施行により
マラリアの蔓延と交通のない万難の
中で仲間地区を開拓した
表の文はマザカイの勇徳を讃える代表的
一節である
我々はこの歌に支えられて今日を築いた
地域社会に勇気と克己心を教え西表島の
秘境開拓に挑んだ偉大なる先駆者の治績
を讃え遺徳を顕彰するため縁の地にこ
の碑を建立する
 平成八年七月三十日
竹富島出身マザカイの碑建立期成会
(以下省略)


「マザカイ」とは竹富島の歴史上の人物である「真栄」で、8世紀初頭に竹富島玻座間村で生まれました。19歳で分家し、小山家の祖となり、その後、西表島仲間村に移住し、山野や荒地を開拓し田畑にしたと伝えられています。
 「マザカイ節」は、竹富島に生まれた「真栄」と、その恋人が寄人政策によって竹富と西表に引き裂かれた悲劇を詠った民謡として知られています。
 この碑は、戦後大富に入植した竹富出身者が「同郷の先人の偉大なる徳望と苛酷な辛苦を恐れず、敢然と挑んだ気迫を竹富人の華として永久に伝えたたえる」として建立したものです。
マザカイ之碑遠景
同裏面 遠景

この碑は、大原側から仲間橋を渡ってすぐの左手側にあります。1996(平成8)年に建立されました。

22.交通安全之塔

交通安全之塔 表面
【表面・上段】
交通安全之塔
【表面・下段】
竹富町
八重山警察署
八重山地区交通安全協会
平成14年9月29日


【裏面】
八重山地区交通安全協会
創立50周年記念事業
(以下関係者名省略)
交通安全之塔 裏面
この碑は大富地区の大富売店横に建てられています。

23.大富開拓記念碑

大富開拓記念碑 全景

同 上段

同 下段
【表面上段】
大富開拓記念碑

【表面下段】
入植記念碑登載者
一九五六年八月第一次移民入植
(大宜味村出身)
(久米島出身者)
(竹富町出身者)
 ;
 : (氏名省略)

建立昭和五十二年十月二十日
執行会長 椛原方美
執行会計 長井成夫

碑の裏面全景

同 碑文
【裏面】
昭和五十二年十月二十日建立
大富開拓二十五周年記念
事業推進委員会
 (以下氏名省略)


この碑は大富公民館の敷地内にあります。

24.入植40周年記念碑

入植40周年記念碑 表面遠景

裏面中央


裏面右手側
【表面中央】
拓く
和と力
永遠に


【表面左側】
入植四十周年記念

【裏面中央】
平成四年十一月建立
入植四十周年記念事業期成会
会  長 波照間 寛
公民館長 高嶺方次
(以下省略)

【裏面右側】

日文謹書 椛原方美
碑石寄贈 宮良長啓
施工者  金盛浩二
同 裏面遠景
この碑も 大富公民館の敷地内にあります。

25.世持之宮

世持之宮の碑 表面

同 裏面
【表面】
世持之宮
昭和三十六年彼の辛丑之建立

※辛丑:かのとうし

【裏面】
千年万年
世代に
栄ありかし
仲間の里



戦後の琉球政府計画の開拓移住地である大富集落の東側に、御嶽の旧跡が発見されました。旧跡は「あたか御嶽」と判明し、その後、地主が集落内に祠を建立して奉遷、「世持之宮」と称しました。最近は信仰も絶えたようです。
世持之宮の祠

世持之宮の碑 遠景
この石碑は、大富公民館近く、北西方向にあります。

26.欠

地図5.(古見)

27.先島スオウの木

「先島スオウの木」の碑
先島スオウの木(マメ科)

根本からいくつもの厚い板の
根っこが地上に突出している。昔は
船の舵にしたと伝えられている
三離御嶽
「先島スオウの木」の碑は、古見の三離御嶽の拝殿裏側の林の中にあります。かつては門扉はありませんでしたが最近はこのように立ち入りできないようになっています。
漢字でスオウは「蘇芳」と書くそうです。
「先島スオウの木」

28.古見のサキシマスオウノキ群落の説明看板

天然記念物指定碑

説明碑文
天然記念物 古見のサキシマスオウノキ群落
                             昭和53年3月22日指定

サキシマスオウノキはこの三離御嶽の拝殿の、後方にあり、ヒルギ林と斜面のビロウ群落の間に発達しています。
サキシマスオウノキはアオギリ科に属し、板根がよく発達する常緑の高木で熱帯地域から甘み大島まで分布していますが、この三離御嶽の群落が我国ではその規模において一番大きい。
 本群落のサキシマスオウノキは樹高13m、棟高直径75〜85cmの木が主でそのすべてに板根が見られます。板根は文字通り板状でそれが分枝、湾曲し、大きなものでは高さ3m長さ6mに達するものもあります。
 本群落は熱帯を思わせる景観であり植物生態、形態学的に貴重なものであります。
 なお、この地域で許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                            文部省
                            沖縄県



古見のサキシマスオウノキ群落は、国の天然記念物に指定されているほか、新日本の名木100選にも選定されています。
古見のサキシマスオウノキ群落遊歩道 説明看板
古見のサキシマスオウノキ群落周辺とそこに至るコース周辺の貴重な生態系の保護を図るため、ならびに三離御嶽に踏み入らないことを目的として遊歩道(木道)が2010年春に設置されています。

29.古見の浦節の碑

古見の浦節の碑
古見の浦の八重岳
八重かさひ みゆしく
いつん見ぶしゃばかい
桜花ぶなれま
梅の花 みやらび
いつん花ゆさかい
袖ふらば里之子
沈伽羅ぬ匂いしようる
いつん すまる匂い



この碑は、1968(昭和43)年に古見老友クラブが建立したもので、古見集落の発展を願って末広がりの型にされています。古見は西表島に古くからある集落で、歴史的にも文化的にも高く評価された集落です。碑のすぐそば(手前)にはバギナー(湧き水)があり、ひと昔までは村人の大切な生活用水を確保する場でした。
碑の前の浜
この碑は古見小学校向かいの道を海岸側に下った、バギナ公園のほぼ中央にあります。

30.感謝記念碑

感謝記念碑

表面下部 碑文

裏面下部 碑文
【表面・上段】
感謝記念碑

【表面・下段】
一九五三年六月
琉球民政副長官
オグデン少将御
来島の際八重山
開発援助のため
仲間野原道路工
事費として百万
円賜った御厚意
に對し此の碑を
建てて感謝の意
を表します。
一九五四年二月
 八重山地方庁長
 高嶺世太
 西表島民一同


【裏面・下段】
               MARCH 1954
THIS MONUMENT IS DEDIOATED TO
MAJOR GENERAL DAVID AD OGDEN DE
-FUTS GOVERNOR OF THE RYUKYU IS
-LANDS AS A TOKEN OF OUR GRATIT
-UDE FOR HIS KINDNESS IN GIVING
A GRANT-IN-ATD OF ONE MILLION Y
-EN FOR THE CONSTRUCTION OF THE
NAKAMA-NOBARU ROAD WHEN HE VISI
THE YAEYAMA IN JUNE 1953.

SEITA TAKAMINE
CHIEF OF YAEYAMA DISTRICT OFFI-
CE GRI PEOPLE OF IRIOMOTE ISLAND



 当時の琉球政府の財政は大変乏しかったため、米国民政府に要請して資金援助を受け道路建設を行った歴史があります。そのことから今でも当時の民政府関係者の名前をつけた道路がいくつかあります。オグデン道路は、西表島の古見一帯と、石垣島の米原地域(川平〜桴海間)で名が残っています。

この碑は古見集落の最北部(旧道沿い:ゆうわむらの東側)に建てられています。
現在はこの背後に新しい県道215号線が付け替えられています。

31.旧前良橋・後良橋のモニュメント

旧前良橋・後良橋のモニュメント
【北側】
後良橋

【南側】
前良橋


このモニュメントは以前の橋の欄干に設置されていたものだそうで、今は、後良橋の南側、前項「感謝記念碑」の近く(裏側)の道路沿いにあります。
前良橋は「カンムリワシ」、後良橋は「人魚姫」の像が表わされています。

32.欠

地図6.(古見)

33.古見ぬ浦節

「古見ぬ浦節」の碑

「古見ぬ浦節」の碑は、東部の後良川展望台そばに立てられています。
古見(くん)ぬ浦節(うらぶし) [上段]

古見(くん)ぬ浦(うら)ぬ八重嵩(やいだき)
八重重(やいかさ)び美与底(みゆしく)
何時(いつ)ん見欲(みよ)しゃばかい

桜花(さくらはな)ぶなれしま
梅(んみ)ぬ花女童(ばなみやらび)
何時(いつ)ん花(はな)ゆさかい

袖振(すでい)らば里之子(さとぅぬし)
沈伽羅(じんきゃら)ぬ匂(にう)いしゅしる
何時(いつ)ん染(す)まる匂(にう)い

女童(みやらび)ぬ想(うし)いぬ
愛(かな)しゃーまぬ情(なさ)きぬ
何時(いつい)んおーり語(かた)ら

(訳) [下段]

古見の浦にそびえ立つ八重岳(やえだけ)
七重八重に重なっている美与底(みゆすく)
いつまでも眺めていたい

桜花の如く美しいぶなれしまよ
梅の花の如くかぐわしい乙女よ
いつも花の盛りのように美しい

あの人の袖からこぼれる匂いは
伽羅(きゃら)・沈香(ちんこう)のようにかんばしく
永久に私に染まっていくようだ

乙女の想いは
愛しい乙女の心情は
いつまでも二人だけで語っていたい

34.矼ゆば節

「矼ゆば節」の碑



「矼ゆば節」の碑は、東部の後良川展望台そばに立てられています。
南側(手前)が「古見ぬ浦節」の碑、北側(奥側)が「矼ゆば節」の碑です。
矼(はし)ゆば節 [上段]

二十村(はたはら)ぬ夫(ぶし)ば乞(く)い
四十村(ゆすはら)ぬ夫(ぶし)ば寄(ゆ)せ

古見(くん)ぬ浦(うら)に渡(わた)りょーり
美与底(みゆしく)に移(うつ)りょーり

女子(みどぅなー)や石持(いしも)ち
男子(びふなー)や積(つ)ん添(す)い

基強(もとづう)さ積(つぃ)んばし
幹強(みきづう)さ並(な)みばし

積美(ついんぢゅ)らさ積(つぃ)んばし
並美(なみぢゅ)らさ並(な)みはし

(訳) [下段]

二十村の人夫を請い集め
四十村の人夫を寄せ集め

全人夫は古見浦に渡り
全賦役者(ぜんふえきしゃ)は美与底(みゆすく)に移り

女たちは石の運搬役を
男たちは石工役を担い

土台を強固に石積みあげ
基礎を堅固に築きあげ

石工巧(たく)みに積み上げた
技巧(ぎこう)見事に並べ立てた

35.イリオモテヤマネコとの共生のために

「イリオモテヤマネコとの
共生のために」の説明看板
イリオモテヤマネコとの共生のために
 イリオモテヤマネコは西表島だけに生息する野生ネコで、その数は約100頭と推定され、絶滅が危惧されています。標高の低い、島の周辺部の森林や湿地が重要な生息地になっており、鳥類、ヘビ、カエル、ネズミからコオロギなどの昆虫類まで、非常に多様な小動物を食物にしているのが生態上での特徴です。
 イリオモテヤマネコの生息地は人間の生活圏と重なることも多いので、将来にわたって共生するためには、交通事故の防止やペットなど外来生物の管理、生息環境の保全など様々な努力が必要です。
 国ではイリオモテヤマネコを「種の保存法」に基づく国内野生動植物種に指定し、生息状況のモニタリングや事故防止対策などの「保護増殖事業」を実施しています。
 イリオモテヤマネコに関する問い合わせや生息情報(目撃やフン・足跡等の痕跡など)がありましたら、次の関係機関までご連絡下さい。
 林野庁 沖縄森林管理署
     大原森林事務所(大原)TEL.0980-85-5308
     祖内森林事務所(祖内)TEL.0980-85-6201
     環境省 西表野生生物保護センター(古見)
                    TEL 0980-85-5581
               (24時間ヤマネコ緊急ダイヤル)

頭:耳の先が丸く、耳の後ろに目立つ白い斑点があります。
背:体に斑紋の模様があります。
尾:尾の先まで太くなっています。

イリオモテヤマネコは飼い猫とほぼ同じ大きさです。
(体重3〜5kg、全長70〜90cm、メスはオスよりやや小さめ)
同遠景 (左手)
この看板は西表野生生物保護センターへの入口(分岐点)にあります。

地図7.(高那)

36.ESSAYONS L.Z (米軍503空挺部隊工兵隊道路改修記念碑)

ESSAYONS L.Zの碑
ESSAYONS L.Z
CONSTRUCTED by
ENGINEER DETACHMENT
2°ABC INF.C.T
20 APRIL 1962


 この碑は、復帰前、米軍が野原地区でパラシュート降下、ジャングル演習を行っていましたが、1962年に503米軍空挺部隊(部隊長・ブリンデル少佐)が、演習の一環として延長16kmのオクデン道路(仲間〜野原間)を改修したのを記念し建てられたものだそうです。
 当時米軍は、道路改修の他に古見小学校の運動場拡張工事も行い、米琉親善陸上競技大会も開かれたそうです。

 野原崎には米軍の着陸地があったと言われ、碑のL.Zは、landing zone(滑走路)の略かと思われます。
碑 遠景
この碑は小浜島を眺める野原崎の展望台横に建てられています。縦約50cm、横約80cmの大きさの碑です。
向かいは小浜島です。




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