忘勿石之碑 表面 右上段
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忘勿石
ハテルマ
シキナ
※ 忘勿石:ワスレナイシ
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本来の忘勿石
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本来の忘勿石は、「忘勿石之碑」の向かって右手側の岩の上に記されています。 |
同表面・右中段
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忘勿石の碑
この一帯は歴史的な戦争マラリアの悲劇の霊境である 一九四五年四月 波照間の住民が軍命によってこの地に強制疎開させられ多くの人々が熱帯マラリアに罹患して 古里の島影を求めながら亡くなった
その人々の苦悩はまことに筆舌に尽しがたいものがある 学童とともに疎開し その学童たちの死を見守りながら 浜辺の岩に「忘勿石」と刻んだ識名信升先生の心情は察するに余りあり
この碑が歴史を語り継ぎ 病没した人々の霊を慰め 平和創造への礎となることを祈り願う
一九九二年八月
琉球大学名誉教授 高良鉄夫 |
同表面・右下段
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虚ろに煙る 母の島影
呼べど白砂続く恨みの浜
母も逝き露しづくともがら
帰らぬ教え子抱き恩師の声
石叫びやまず 忘勿石
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同表面・左中段
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軍令による強制疎開の為、風土病の悪性マラリアに罹患、戦わずして尊い人命を失った。
犠牲者氏名
波照間島北部落
(以下氏名省略)
名石部落
(以下氏名省略) |
同表面・左下段
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南部落
(以下氏名省略)
前部落
(以下氏名省略)
冨嘉部落
(以下氏名省略)
戦時下のため、役場へ届出不可能、一家全滅等終戦後数年して戸籍簿整理したため調査漏れ、死亡年月日不明並びに不正確も僅少あるものと思料される。
一九九二年八月
波照間公民館
館長 安里 正
新城 保 謹書 |
同裏面の碑文
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忘勿石之碑建立のあらまし
波照間公民館始め 関東、関西、沖縄本島、石垣、西表島の各波照間郷友会、識名信升先生の御家族及び 縁故者、知人、友人、退職教職員、八重山郡内外の各学校、多数の諸社、諸機関の人々の平和を愛する貴い厚意ある御芳志に依って全世界人類の恒久平和を願い、愚かな戦争の為、亡くなった数多くのマラリア犠牲者の精霊供養と遥か波照間島を望む識名先生の遺徳を偲び建立したものである。
忘勿石之碑建立事業期成会
(以下省略) |
忘勿石之碑 表面全景
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「忘勿石の碑」は、西表島南東部の南風見田の浜にあり、波照間島に向かって建てられています。
なお、波照間島には「学童慰霊碑」 が建てられています。
太平洋戦争当時、南風見田の浜はマラリアの有病地としてよく知られていました。このため、住民は疎開に反対したものの、軍の命令には逆らえませんでした。
掘っ立て小屋での避難所生活は医薬品もなく、栄養失調状態となり、結果的に住民1590人の大半の人達がマラリアに感染し、学童(66人)も含めて島民の3割の477人が死亡しました。その悲劇を後世に伝えるため、1992(平成4)年8月15日、この碑が建立されました。 |
忘勿石之碑裏面 全景
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遊歩道入口のモニュメント
現在では遊歩道が整備され、足元の悪い浜や岩場を歩くことなく、忘勿石や忘勿石之碑まで辿り着けるようになりました。これは駐車場から忘勿石のある海岸までの遊歩道の降り口です。 |
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忘勿石之碑案内板
これは左記入口横(駐車場脇)に設置されている忘勿石周辺図です。 |
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