八重山諸島は、内地(鹿児島)から約1019km、沖縄本島からでも411km 離れた南西諸島最南端に位置していることもあり、暦が伝わるのは遅く、元禄11
年(1698年)といわれています。 それまでの時節を知る方法としては、草木の成長、星や月の位置が、重要な役割を果たしていました。
時節を把握することは漁業や農業にとって大変重要で、特に農業については穀物の生産性を高めるため、播種期や収穫期などの農作業の時期をより正確に把握する必要がありました。
1647(正保4)年、宮良親雲上長重(みやらぺーちんちょうじゅう)は、 琉球王から頭職を拝命し、その後1670年代から1690年代にかけて立石状の「星見石」を八重山の各地域に建て、
星を観測することにより作物の種子を蒔く時期を決めるようになりました。 この「星見石」は、今でもいくつかの島に残されています。
具体的な星の観測にはいくつかの方法がありますが、観測の対象とした星が特定の時間に特定の位置に来ることを季節の指標とするもので、その観測に欠かせなかった石が「星見石」です。 石垣島や竹富島では 主におうし座のプレアデス星団(俗名「ムリカ星」:昴=スバル)を観測対象としていました。 石垣島の星見石の観測については、人がこの石と「ムリカ星」を結ぶ線を確認する方法が一般的な利用法だとされています。 また、竹富島の星見石は側面に穴があいていて、この穴から「ムリカ星」を観測していたと伝えられています。
そして観測により、麦、粟、米の種子を蒔く時期を決めていたようです。 なお、「ムリカ星」は天の真中を通る星座として特に農民から親しまれ、 民謡や伝説にも取り上げられているように、重視されていました。
この「星見」は明治の初期頃まで行われていたとされています。 なかでも波照間島は、当時、「星見」が最も発達していたと言われています。 現在では、星見石を実際に使ったという人が既に存在せず、星見石自体もほとんど見られなくなったため、「星見」の様子は人々の言い伝えや古文書、古謡の中にのみ残るものとなってしまいました。
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