波照間島 観光スポット  更新 2022.03.20

青字が今回追記した個所です。

波照間島の地図

名前 内容
あだ あだん
波照間港船客ターミナル内にある売店。向かって左側のお土産屋さんが「あだん」です。運がよければここでも「泡波」を手に入れることができますが、島の集落の売店よりは高くなります。その他、Tシャツや小物類も販売していますが、とりわけ波照間島産の「黒糖」はお勧めです。
また、ここでは竹富町発行の「日本最南端の証」(1部500円)も販売しています。
あや あやふふぁみ
「モンパの木」や「みんぴか」の東側にある食堂。かつては「パナヌファ」と言う店名でしたが、2008年春の全面改装後に店名が変わりました。 沖縄料理やアジアン料理などが食べられまが、波照間・西表島産の食材を使ったカレーやスーチカなどがお勧めです。
「あやふふぁみ」とは波照間島の古い言葉で「夕陽が沈んだ後の明るさと暗さが共存する時間」という意味だそうです。

【営業時間】11:00〜19:00(夜は予約があれば営業) 、【定休日】水曜(不定休?)

【電話】0980-85-8187
いの 海畑(イノー)
波照間島船客ターミナル内にある、向かって右側のカウンターのみの食堂です。冷えた生ビールやフレッシュジュースの他、グラスで泡波(1杯400円)が飲めます。また、ここのそば(並700円)はお勧めです。他にもオリオンビール(600円)やカレーライス(700円)などもあります。
営業時間は船の発着する時間前後となっています。定休日は月曜日(夏場は無休)。


※ 2019.7現在、廃業されました。
いの イノーサヒ
 
波照間港から左手側の道路(祖平花道)に沿って行くとすぐに見えてくる復元された茅葺きの建物です。入口が3カ所あります。
イノーサヒは人頭税時代の貢納物(年貢)を保管する集積所でした。 当時、イノーサヒに保管された貢納物は、米俵、粟俵、御用布(グイフ)だったそうです。
琉球王府のころの波照間島の船着場はイナマ崎で、その岬にイノーサヒがありましたが、戦後規模を小さくして現在地に再建されました。
ここを少し上った左手側に、航海安全を祈願したビッチュル御嶽(ワー)があります。
なお、イノーサヒはイナサイとも呼ばれます。
おき 沖縄電力波照間発電所
電気は集落のやや西側にある沖縄電力のこの小さな火力発電所で発電されています。そして島の全ての電気をまかなっています。
かつて敷地内に風力発電用の大きな風車が建てられていましたが、大型台風で修復不可能まで破損したため撤去されました。しかし、2009年12月に島の北側に再設置されました。
おや オヤケアカハチ誕生の地
島のほぼ中央部の集落内(据石原という村跡:南集落の南売店の横)に、アカハチ屋敷と呼ばれる屋敷跡が残っています(碑も立っています)。ここは15世紀に琉球王府の重税に反対し、農民の代表として反乱を起こしたオヤケアカハチが生まれた屋敷跡です。アカハチは15〜16世紀における八重山の有力者の一人で、後に石垣島に渡って各地の豪族を従えて大浜村を治める勢力を持ちます。アカハチは体が大きく力持ちで、髪は赤茶色だったので「クマンバチ」のような風格から、「赤蜂」と呼ばれるようになったと言われています。
1500年に王府側と対戦(オヤケアカハチの乱)し敗れ去りましたが、歴史上は逆賊として王府側の記録に残っているものの、実際は、王府の支配下で苦しめられていた住民を助ける救世主として、八重山では英雄視されています。このため、今でも八重山が生んだ英雄として関係する碑が各地に残されています。
なお、アカハチの宿敵となった長田大王の屋敷跡が隣にあり、2人は子どもの頃、共に遊んだ竹馬の友でした。体が大きく怪力だったアカハチと長田大王は、島の南の浜でよく相撲をとったそうです。アカハチの出生は定かではありませんが、父親はポルトガル人だったという説もあります。
かい 海水淡水化施設

波照間島簡易水道事業海水淡水化施設の能力は240t/日、逆浸透法一段脱塩法という方法で淡水化しています。
元々は1989(H元)年にかん水淡水化施設として完成しましたが、その後干ばつ時に塩分が高濃度となり、生産水量が極端に落ちるようなトラブルが生じたため、かん水淡水化施設を海水淡水化施設に変更・整備が行なわれ、現在に至っています。
がく 学童慰霊碑
 
波照間港から名石集落へ向かう道路の左側にあります。西表島に強制疎開させられて、マラリアにかかって死んで行った児童を慰めるために建てられた碑です。因みに、西表島の南風見田の浜には、その事実を忘れないように「忘勿石 ハテルマシキナ」と石に刻まれた言葉が残されています。

そして、この慰霊碑には次の言葉が刻まれています。
「太平洋戦末期1945年4月8日、西表島字南風見へ強制疎開させられ全学童323名はマラリアの猖獗により全員罹患、中66名を死に至らしめた。かつてあった山下軍曹(偽名)の行為はゆるしはしようが然し忘れはしない・・・」
きゅ 給油所
集落のほぼ中央部にある、日本最南端の給油所は、ENEOSのスタンドです。
こー コート盛
波照間港から集落中心部に行く道の途中左側にある、珊瑚石を積み上げた見張り台(遠見台)がコート盛です。コート盛は高さ3.9m、直径9.9mほどの2層の渦巻き状になっています。こうした見張り台は、17世紀半ばに八重山の島々全域に作られましたが、設置の目的は、異国船や進貢船などの監視をするためのものでした。そして、異変が起きると烽火によって各島々を経由し石垣島の蔵元に通報されていました。コート盛の上には方位の十二支を刻んだアザミサンゴがあり、明治以後に測量が開始されたときには測量の基準点となっています。
伝承では、波照間島に生まれた「祖平宇根」という船頭がいて、暴風によって漂着した中国大陸より風水図を波照間島に持ち帰り、その風水図によって港から集落までの道を開き、そしてその道の側にコート盛を築いたと伝えられています。
2007(平成19)年3月23日に国の史跡に指定されました。
しし シシ岩
コート盛の道路を隔てた反対側(南東側:祖平花道沿い)にあります。島の魔除け石の1つです。
土地改良により現在地に移転されたそうです。
先人の言い伝えによると、西表島・崎山の南海岸線に波照間島を向いて座るワニのような巨岩・パテローファイ石(波照間を食う石)に対抗するため(食われないようにするため)、シシ岩を設置して波照間島を守っているそうです。
このため、シシ岩は西表島を向いています。
なお、この岩の中央上部には窪みがあり、そこに水がたまると鳩がよってくることから「パトゥン石」とも呼ばれています。
しむ シムスケー

 
 
シムスケーは北海岸に近いシムス村跡にある古い井戸です。島の北端にあり、港から行くには、一周道路を時計周りに進み、ぶりぶちの公園の看板を越えて更に進んだ所を左折し、少し海側に入り突き当たった所を右方向に行った所にあります。曲がる所には、小さな看板があります。
シムスケーはウリカー(降り井戸)で、水量豊富で水質も良好で、村人たちの貴重な水源でした。

井戸の脇の説明板には、次のような由来が記されています。

「昔、波照間島が7ヶ月にも及ぶ大旱ばつにみまわれ、人々が水不足と飢饉にあえいでいたとき、シムス村のベフタチバー(ベフタチは名、バーはお婆さんの意で、貝敷家の先祖)のアマラ牛(赤牛)が角や前足で石や土をかきわけ、水を掘り当てて飲んでいました。 それを見たベフタチバーは村人を呼び、みんなで井戸を掘って水不足から救われたのでした。その後人々は、この牛を神の化身だと崇拝し、牛の死後は手厚く葬って、井戸の側に牛の肝に似た石を据えて拝所としたといわれています。」

なお、今では毎年の豊年祭に、供え物を贈り、感謝の意を表しているそうです。
1972(昭和47)年に竹富町の史跡に指定されました。

しも 下田原(しもたばる)貝塚
下田原貝塚は、ぶりぶち公園前の道を更に北(海岸)のほうに行った左手にあります。約3700年前、紀元前1800年の遺跡で「下田原式土器」という独特の土器や、石器、石斧、骨製品、貝製品等が数多く出土しています。
貝塚の東側の大泊浜は船の接岸に便利な地形で、かつては港であったと云われています。そして、この一体は湧水が得られる数少ない場所でもあり、こうした恵まれた立地条件により波照間に辿り着いた人々は、まずはここで暮し始めたと思われます。
せい 製糖工場 事務所
新工場
1961年に設立された「波照間製糖株式会社」で、島で最大規模の製造業と言えるでしょう。サトウキビの収穫は例年12月中旬頃から3月下旬頃までで、島が一番忙しくなる時期です。
この時期、製糖工場は24時間のフル操業体制となります。波照間の黒糖は八重山随一の品質といわれるほどおいしく、また島の経済を支えています。
2014年1月に新工場が建設されました。新工場の1日当たりの原料処理量はこれまでの100tから130tに増えました。
そこ 底名溜池(ソコナタメイケ)展望台
別名:ニューコート盛
最南端の碑と浜シタン群落の間にある比較的新しい展望台です。文字通り溜池の横にあります。港の近くにあるコート盛に似ていますが、それより大きいものの、場所が分かりづらくて行きにくいかと思います。まずは周回道路からの入口をしっかり探すことがポイントです。この展望台からは海が目の前に広がっていますので晴れた日は気持ちがよいです。以前、郵政公社のコマーシャルの撮影された場所です。
たか 高那海岸
 
島の南東部(最南端の碑から東側)にある、荒々しい断崖が1kmに亘り続く断崖絶壁の海岸です。海がわりと穏やかな時でも、荒波が海岸に打ち寄せています。
ここは琉球石灰岩が侵食されてできた地形で、トゲトゲした岩場で歩き難いところですが、この上を慎重に歩き先端まで行くと、岩礁に荒波が押し寄せ波飛沫が舞い上がる豪快な景色が見られます。危険なのであまり海岸の端にまで行かないことをお勧めします。
高那崎は、この海岸の東(星空観測タワー東)の端です。
たけ 竹富町役場波照間出張所
島の行政の中心的機関です。
ここでは竹富町発行の「日本最南端の証」(1部500円)を販売しています。
ちき 地球環境モニタリング
ステーション
地球環境モニタリングステーションは、波照間空港の東側、島の東端に設けられています。
このステーションの目的は、北西太平洋の大気中の二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガスの長期変動の観測です。
ちゅ 駐在所
日本最南端の駐在所。ちゃんとパトカーも1台あります。
でかい日本地図が印象的で、波照間島は赤く塗られています。
なか 仲御神島
波照間島の西方、西表崎山地区にある無人島。地元では沖ノ神島などとも呼びます。国土地理院は仲御神島(なかのうがんじま)と表記しています。
西表石垣国立公園区域にあり、セグロアジサシやカツオドリなど、熱帯系の大型海鳥の集団繁殖地となっています。島の面積は18ha、1972年に「仲の神島海鳥繁殖地」として国の天然記念物に指定され、上陸は禁止されています。島の周辺海域は、ダイバーや釣り人に人気のあるスポットとなっています
なが 長田御嶽
波照間島は、15世紀後半、オヤケアカハチらと共に一大勢力を築いた石垣島の酋長「長田大主(ナータウフシュ)」の生誕の地で、それを祀った御嶽です。オヤケアカハチとは竹馬の友で、8歳のころに石垣島に渡って石垣村の英雄となり高い地位を築きました。
長田大主は当時オヤケアカハチと覇を競い合っていて、琉球王府に従属的だった長田大主は、仲宗根豊見親と結束して八重山を統一しようとします。そこにオヤケアカハチは「アカハチの乱」を起こしました。

長田大主はアカハチに追われ西表島の古見村に身を隠しますが、のちに戻って仲宗根豊見親と共に戦い、勝ちました。
なび カビカキマス
波照間島の西南部にあり、島の方言では「ナビハキャー」と言います。
地名の言い伝えは、ヤグ村人が人頭税に耐えかねて島抜けをする際、遅れて取り残された女性が鍋をかきながら大声で泣いた場所とされています。
女性は島を脱出する前、鍋を忘れて家に戻りました。当時、鍋は必需品かつ貴重品でした。村人たちはこの女性の帰りを待ちましたが、長時間たっても戻らず、夜が明け始めたため、船は彼女を待ちきれずに出帆してしまいます。その女性は船に戻る途中、田圃の近くに差し掛かったとき、船が出て行くのを見たと伝えられています。
ナビカキマスと伝わる場所は、かつて水田だったと言われていますが、周辺一帯は土地改良が進み、今では往時の面影を全く留めず一面のサトウキビ畑となっています。
なり なりさ浜
浜シタン群落入口から少し南に下った小道から辿り着ける浜です。
別名として、「珊瑚の浜」、「毛崎の浜」などとも呼ばれています。ナリサ浜は岩場の入り江の小さなビーチですが、浜は砂ではなくほとんどが「サンゴの殻」で埋め尽くされています。恐らく潮の流れによりこの場所に堆積したものと思われますが、ここ以外でサンゴの殻が堆積したビーチはなかなか見当たりません。。
にし 北(ニシ)浜 現在

〃  旧

 島唯一と言ってよい海水浴場で、島の北西部、港の西隣りに位置しています。通常は港前の道を登り一周道路に入り、製糖工場を過ぎたところで右折して行きますが、漁港の堤防を上って反対側の岩場に降りて浜に行くこともできます。
しかし、お勧めは一旦レンタサイクルを借りることです。何と言ってもこの浜への道を、自転車で風を受けながら下っていくのが最高だからです。通称、波照間ブルーと呼ばれる目の覚めるようなエメラルドグリーンに輝く海と、白砂のコントラストの美しさは、誰しも言葉を失うほどに感動し、忘れることのできないインパクトを受けるはずです。海水浴、シュノーケリングなどにも適していますが、浜の上に建つ東屋でただ海を眺めているだけでも心の底からリラックスできます。また、白い砂浜の上を裸足で歩くのも実に気持ちいいものがあります。干潮時になるとかなり浅くなりますのでリーフの端まで歩いて行くことができ、天気の良い日には遠くに西表島を見渡すことができます。浜は相当沖の方まで浅い状態のため、泳ぐ場合はその日の干潮・満潮の時刻を確認してから行くのが良いでしょう。
浜の入口の東屋の脇には、トイレとシャワー室が整備されています。
なお八重山の言葉では、東(あり)、西(いり)、南(ぺー)、北(にし)と云い、ニシの浜は北の浜と書きます。
にほ 日本最南端之碑
日本最南端之碑は、日本の有人島では最も南に位置し、高那の景勝地に建てられています。この碑は沖縄返還前の1970(昭和45)年、本土復帰祈念に本土から来た大学生・本郷雄次さんが自費(アルバイト費用)で(自分の名前をふせて)建立しました。その後、一帯には豪華な石碑が建ちました。
最南端之碑には、そこが東経123度47分12秒、北緯24度02分24秒の地点にあることが示されています。
なお、最南端の証明書はここでは手に入れることはできず、波照間島の集落(星空荘)、または石垣島の離島桟橋(ターミナル)で発行してもらってください。
にほ 日本最南端平和の碑
日本最南端之碑のそばにあります。戦後50周年記念として竹富町により設置された碑です。
はて 波照間空港
 
2008年からはRACに替わりエアードルフィンがアイランダーという9人乗りで運行していました。石垣島からの所要時間は20〜25分でした。空港は、集落からも港からも非常に離れているためかなり不便ですが、島に宿泊するのであれば宿が送迎してくれていました。飛行機の発着時間には小さな売店や軽食コーナーも開かれていました。

[2008.12以降、運行休止中です。]
はて 波照間港(浮桟橋)
 
石垣港離島桟橋から高速船で約1時間で波照間港に到着します。浮桟橋も整備され、随分と便利になりました。
はて 波照間港岩壁


 
 左上の写真には「ようこそ最南端の波照間島へ」、左下の写真には「南十字星が輝く!ぺぇ〜ぬ島」、右の写真には「歓迎・んぎしたおーりょー」と記されています。
はて 波照間公民館(新)
波照間公民館(旧)
島のほぼ中心部(ムシャーマ公園の北側)に位置し、会合などに使用されています。
以前の公民館は築36年ほど経っていたため、2009年10月に取り壊され、2010年5月に建て直されました。「はてるまふれあいセンター」と名付けられています。
新しい公民館は、総務省の2009年度頑張る地方応援プログラムを活用して整備され、総事業費は5128万円(国負担約3000万円)。鉄筋コンクリート建て平屋で、延べ床面積164u、野外ステージは28.35uとなっています。
はて 波照間酒造所


昭和28年に島民の共同事業として創業を開始した波照間酒造所は、現在波照間島でただ一つの酒造所で、幻の泡盛「泡波」を作っています。少量生産で、しかも流通は基本的に島の人のみということが、幻の泡盛と云われる所以かと思われます。
飲んでみたいという方は、フェリーターミナルの喫茶コーナーのイノー(海畑)で提供されています。また、かなり運がいいと共同売店で購入できる場合があります。

なお、この酒造所に行っても「泡波」は手には入りません。
とても小さな酒造所のため、よく気をつけて歩かないと気づかずにそのまま通り過ぎてしまうかもしれません。
はて 波照間小中学校
星になったこどもたち
波照間島の中央部に位置する学校です。集落の中心にあるので、集落を歩くと元気な子供達とよく出会うことができます。
小学校の外壁には全児童で作った「星になったこどもたち」という歌の歌詞が書かれています。
以前は小中別々の学校でしたが、平成23年からは小中併設校となりました。
はて 波照間船客ターミナル
 
石垣港離島桟橋から高速船で約1時間で波照間港に到着します。浮桟橋も整備され、随分と便利になりました。
はて 波照間灯台
波照間島の灯台は、島の内陸・中央部にあります。集落から最南端の碑、もしくは波照間空港方面へ行く道の途中に位置します。のどかなサトウキビ畑の中にぽつんとある光景は印象的です。
はて 波照間之碑


北回帰線までの
距離プレート
波照間之碑は、1972(昭和47)年に高那海岸に建設されました。
波照間島にハブはいませんが、この碑はハブをデザインしたものだそうです。
入口からの道は、沖縄の祖国復帰に際し、全国の青年が各地の石を持ち寄り、二匹の蛇が絡みあっているような形に造られています。先端部は三角の蛇の頭が二つあるように見えます。
持ち寄った石は各都道府県の表示板とともに碑の表面に埋め込まれています。先端部には沖縄の祖国復帰に尽力した大濱信泉書により「波照間之碑」と記された碑が建てられています。
また、碑のすぐ側には、「北回帰線まで65キロ530メートル」と記されたプレートも設置されています。
はて 波照間郵便局
日本最南端の郵便局で、ATMも設置されているのでお金の引出しにも困りません。できればモンパの木などで売っている波照間島の絵はがきを買い、郵便局へ持ち込み、最南端の消印をもらって出すのもよいでしょう。
はて はてるま幼稚園
小学校の東側にある、島唯一の小さな幼稚園です。
隣地は波照間保育所です。
はま 浜シタン群落
 
浜シタンは、和名・ミズガンピ(ミソハギ科)と言う常緑低木です。ニシ浜から続くペー浜のさらに南側の海岸に面した琉球石灰岩の上に浜シタン群落が根を張っています。サトウキビ畑を浜に下っていった所にありますが、少し分かりづらいです。(看板はあります。) 竹富町の天然記念物で、樹齢数百年、2mを超える立派な浜シタンが群落をなし(30本程度か)、岩場を覆うように広がっています。但し、周辺はうっそうとしているのでどれが樹齢数百年の浜シタンか区別つきにくいかと思います。石碑もありますが、これも周囲の植物に埋もれ、分かりづらいかと思います。1972(昭和47)年に竹富町の天然記念物に指定されました。
ふう 風力発電用風車
 
この沖縄電力の風力発電用風車は、フランスのベルニエ(Vergnet)社のGEV-MPというモデルで、ブレード(羽根)は2枚、出力は2基で計490kw(245kw×2)です。
回転部分の中心までの高さは38m、ローター(羽を含む回転部分)の直径は32m。
この風車の最大の特徴は、台風など強風時にはその被害を避けるため、約40分かけて風車を90度近くまで倒すことができることで、可倒式風力発電機は国内で初めての導入です。総工費は5億円です。
電力供給能力としては、波照間島の消費電力を、通常時で約5割、最大で約8割を賄うことができるそうです。不足分は、ディーゼル発電で供給されます。
ふた 「ふたり野を行く」の像
ムシャーマ公園の北側にある、花を抱えた女性とその肩を抱く男性が、お互いにほほを寄せ合っている、僅か50cmたらずの石像です。
石彫家の鈴木政夫氏の作品です。
ふり フリブチ公園
 
各種のガイドブック・地図等には載っていますが、昭和47年に本土復帰祝いとして老人会により整備されて以来、誰も利用した事がないと言われている「日本一利用者の少ない公園」です。島の北側に位置し、下田原城跡の西側斜面にあります。地元の人も訪ねることはまずありません。公園に入る道もなく、亜熱帯の植物が生い茂った小山の中にうす汚いコンクリート製のベンチがあるだけです。
公園の前方に崖があり、左手には崖の上に続く崩れかけた石段があり、この崖の上には人工的な石組(城壁の一部)みがあるのが分かります。
ぶど ブドゥマリ浜
フリブチ公園の道を北側に進むと、たどり着くことができます。かつては船着場で、今でもそれらしさを感じることができます。ニシ浜ほどの美しさはありませんが、訪れる人も少ないため、のんびりと過ごすことができます。なお、この浜は遊泳禁止です。
ぺー ペー浜への入口
ペー浜
ニシ浜をそのまま歩いていくとたどり着けるビーチです。日陰もなく、ビーチとしての施設もない分、人も来ないので、広大なビーチを独り占めできます。
ぺむ ペムチ浜
 
島の南側、日本最南端の碑の西側に位置する浜。砂浜というよりも砂利浜と言ってもよいかもしれません。訪れる人は少ないです。
この浜は遊泳禁止になっています。潮の流れが速く、またすぐに深くなっているため、決して泳がないでください。
ほけ 保健センター
島の保健所というべき所で、検診などが行われます。
同じ建物に「波照間出張所」があります。
ほし 星空観測タワー
日本最南端の碑からやや東側にある、近代的な建物の星空観測タワーは、国のコミュニティーアイランド事業を導入して1994年4月に設立されました。波照間島は有人島としては日本最南端にあるので、国内のどこよりも広範囲に宇宙を捉えることができます。北の北極星から、南は南十字星などの数々の星を見ることができます。また、波照間島周辺は、人工の明かりが少なく、ジェット気流の影響をほとんど受けないため、地球上でも特に大気の揺らぎが安定している所で、天体観測をするには最も良い環境の場所といわれています。
星空を見る為に夜も開いており、各民宿からは観測タワーまで送迎(有料)してもらえます。館内では、プラネタリウムで星座の説明を聞き、200mmの屈折式望遠鏡で実際に星を見せてもらうことができます。なお、南十字星は年末から翌6月くらいまでの間、南十字星の4つ星とも揃って見ることが出来ます。
開館時間:9:00〜17:00 (月曜・祝日休み) TEL: 0980-85-8112
(夜間:4〜10月:19:00〜22:00、11〜3月:18:00〜21:00)
入館料金:大人300円、小人150円
ほし 星見石?
 
星見石は、種蒔きなどの農作業の時期を知るため、群星=昴(スバル)の位置により時節を把握していたものです。
八重山のいくつかの島では星見石を見ることができますが、恐らくこの立石も星見石と思われます。農村集落センター横(東南側)にあります。
みん ミンピカ前の道

黒みつスペシャル
メニュー看板
「もんぱの木」の裏手(集落側)にあるパーラー。各種のカキ氷やジュース・ビール・泡波が楽しめるお店です。看板だけでなくお店の雰囲気も手作り感があり、疲れた時に休むにはいいところです。お勧めは、何と言っても黒みつスペシャル(写真)です。
もん モンパの木
船客ターミナルを除けば、島唯一と言ってもよいお土産物屋さんで、いかにも日本最南端の波照間島らしい南国風のお店です。アダンの葉で出来たぞうりやカラフルなオリジナルポストカードなど、個性あふれる小物が色々ありますが、中でも人気なのはオリジナルTシャツで、結構いいデザインです。
なお、店の名前のモンパの木とは、八重山の海岸に自生している植物で、近くのニシ浜で多く見ることができます。
電話:0980-85-8354
時間:8:30〜日没
不定休
りん 燐鉱跡地
同遠景
戦前の一時期、波照間島では八重山で初めて燐の採掘が行なわれました。島で燐鉱石が発見されたのは1921(大正10)年頃です。燐は化学肥料の原料となることから、朝日化学肥料が1933年から西表炭坑採掘に従事した坑夫らを雇って採掘を始めました。月産3000tの設備が設けられ、島は活気づきました。これにより島の人口はピーク時には1422人(1939年)を記録しますが、太平洋戦争で輸送が困難となり、廃業しました。
場所はフリブチ公園手前の貯水池横で、坑道入口が外からも分かります。
 

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