波照間島の石碑・説明看板  更新 2016.09.17

※今回は、No.26を追加しました。


No. 名 称
1. 学童慰霊碑*
3. 祖平宇根之碑
5. 波照間之碑*
7. 波照間島観光案内図
9. 「長田御嶽」の碑
11. 大東亜戦転進記念碑
13. 波照間島ほ場整備完了之碑
15. 聖寿奉祝の碑
17. 「若夏国体採火の地」の碑*
19. 農林水産省補助事業説明板
21. 「ぶりぶち公園」の標石
23. 長寿の心得の看板
25. 成人記念碑*
No. 名 称
2. 星になった子どもたち 歌詞
4. 「シムスケー」の説明板*
6. 「北回帰線」までの距離プレート
8. 「アカハチ誕生の地」の碑
10. 「高那の景勝」の碑
12. 「コート盛」の碑
14. 日本最南端之碑*
16. 日本最南端平和の碑
18. 波照間土地改良完工記念碑
20. 基本電子基準点標柱
22. 公園敷地寄附者芳名の碑
24. 「ハマシタン群落」の碑
26. 仲本信幸顕彰碑

地図

1.学童慰霊碑


学童慰霊碑


 第2次世界大戦末期の1945年春、波照間全島民は西表島南風見田に強制疎開させられました。
 強制疎開させたのは、島の青年学校教師、実は陸軍中野学校の軍曹(諜報員)、「山下虎雄(本名酒井清:喜代輔)」で、彼は「米軍の上陸近し、西表島に疎開せよ」と命令しました。 人々は西表のマラリアを怖れ疎開を拒みましたが、軍刀を抜いて「天皇陛下の命令を聞かぬ奴は、叩き斬る」と脅し、強制疎開させたのですが、その本当の狙いは、島の牛・豚・山羊・馬を日本軍の食糧にするためだったのです。
 しかし疎開した西表島南風見田は、マラリア猖獗の地だったため、波照間島の人口1,671人の33%に当たる552人がマラリアに罹り死亡しました。うち66人は波照間国民学校の学童でした。
 1953年、西表島の南風見海岸「ヌギリヌパ」の岩に「識名信升」元校長が刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が発見されました。ここはかつて波照間島の学童が疎開中において入学式が行われた場所でした。
 識名校長は、「忘勿石」(わすれないし)に関して生涯殆ど口にすることはなかったそうですが、1982年の調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えたそうです。
 (現在、対岸の西表島・南風見田の浜には「忘勿石の碑」 が建てられています。)


 波照間港近くの祖平花道の途中にある学童慰霊碑には、次の碑文が記されています。

【碑文】
[表面] 
学童慰霊碑
[裏面]
太平洋戦末期一九四五年四月八日 西表島字南風見へ強制疎開させられ全学童三二三名はマラリアの猖獗により全員罹患 中六六名を死に至らしめた
 かつてあった山下軍曹(偽名)の行為は
ゆるしはしようが然し忘れはしない
 本校創立九〇周年を記念し、はるか疎開地に刻まれた「忘勿石」を望む場所に その霊を慰め、あわせて恒久平和をねがい碑を建立する
 一九八四年七月一六日
 波照間小学校創立九〇周年記念事業期成会

波照間をはじめ、八重山では、戦争による攻撃や被害(破壊的なもの)はさほど大きなものはありませんでした。
しかし、西表島・南風見田の浜には、戦争がもたらした悲しい歴史、慣れない地で多くの人が命を落とした事実があります。訪れる人は少ないのですが、この碑の持つ意味には重いものがあります。

2.星になった子どもたち 歌詞

星になった子どもたち 歌詞

(波照間小学校の塀)
星になった子どもたち
作詞
波照間小学校全児童
1.南十字星 波照間恋しいと  星になった みたまたち
  ガタガタふるえた マラリヤで  一人二人と 星になる
  苦しいよ さむいよ お母さん  帰りたい 帰りたい 波照間へ
2.南風見の海岸に きざまれている  忘れな石という 言葉
  戦争がなければ こどもたち  楽しくみんな あそんでた
  さびしいよ いたいよ お父さん  帰りたい 帰りたい 波照間へ
3.みんなでたましいを なぐさめようよ  みんなでなかよく くらそうよ
  六十六名しらない世界へ  いってしまったこと 忘れない
  しずかに やすらかに ねてください  平和な 平和な 波照間に
  しずかに やすらかに ねてください  平和な 平和な 波照間に
1993年(平成5年)小学校全児童で制作された鎮魂歌です。壁画は94年の卒業制作です。

南風見(はえみ)は、西表島東南の海岸部です。

3.祖平宇根之碑

祖平宇根之碑
波照間の民謡「祖平花節」に唄われている、祖平花道を開通させた祖平宇根の功績を記した石碑「祖平宇根之碑」が、2005年10月14日に祖平花道沿いに立てられました。
祖平宇根は人頭税を運ぶ馬艦船の船頭を行っていた人物で、暴風雨の際、中国に漂着し、そこで風水図などを手にして帰島し、その後、その風水図を基に港から現名石集落までの新道路を開通させ、道沿いにコート盛などを建てました。これ以降、航海も安全になったことから、新道路を「祖平花道」と命名したとされています。
現在は拡張整備され、町道・波照間島路線番号1のイナマ線と言います。

【碑文】
祖平宇根之碑
祖平宇根は八重山からの人頭税を運ぶ馬艦船の船頭に選抜されて沖縄航海を続けていた。ある年暴風雨に遭遇し船は中国に漂着した。三年間当地の官憲に優遇され其の間に当地の千里眼の女性と恋仲になっていた。帰国する時彼女は記念に航海図と波照間島の風水図を与えた。航海図に従い無事帰国し村の幹部や古老と相談し島の風水図を基礎に港から名石村までの新道路を開通し道沿いに真泊ビッチルお嶽、祖平地(鏡池)(高登盛)等建立すると航海も安全となり新道路を祖平花道と命名し開通の嬉しさに先の祖平花節を作詞作曲した。

一.祖平花道からよ サーサ
  嘉利吉ぬ道からよ サーサ
  シュラヨイ、シュラヨイ
  キュシイデイル、ダキヨ
二.嘉利吉ぬ道からよ サーサ
  名石村に通ず道からよ サーサ
三.誰の主どぅ案内するよ サーサ
  じりぬ主どお供するよ サーサ
四.我島主どぅ案内すよ サーサ
  村ぬ主どお供するよ サーサ
五.ばん乙女側からよ サーサ
  ゆし女頭や後からよ サーサ

祖平花道は、波照間港から集落に向かって左手側の道で、イノーサヒ・コート盛を通り、集落の中心部までを結ぶ道です。

[読み]
祖平花道(スビラパナミチ)
祖平宇根(スビラウーニ)
嘉利吉(カリユシ)

4.「シムスケー」の説明板

シムスケー


【井戸脇のシムスケー説明板より】

竹富町指定史跡  シムスケー(古井戸)
          昭和47年8月30日指定
 波照間島の北端に位置するこの一帯には、かつてシムス村とよばれる集落があり、このシムスケー(古井戸)もその当時から使われてきた井戸です。
 この井戸は水量豊富、水質良好で、昔の島民にとってかけがえのない貴重な水源でした。
 大旱ばつになって島じゅうの井戸が枯れ果てても、この井戸だけはいつでも水を湛え、島の人々の生活を支え続けてきました。「シムスケーのお世話になる」ということが、大旱ばつの代名詞になっていたほどです。
 この井戸には、つぎのような由来が伝えられています。昔、波照間島が7ケ月にも及ぶ大旱ばつにみまわれ、人々が水不足と飢餓にあえいでいたとき、シムス村のベフタチバー(ベフタチは名、バーはお婆さんの意で、貝敷家の先祖)のアマラ牛(赤牛)が角や前足で石や土をかきわけ、水を掘り当てて飲んでいました。
 それを見たベフタチバーは村人を呼び、みんなで井戸を掘って水不足から救われたのでした。その後人々は、この牛を神の化身だと崇拝し、牛の死後は手厚く葬って、井戸の側に牛の肝に似た石を据えて拝所としたといわれています。
          竹富町教育委員会

港からシムスケーに行くには、一周道路を時計周りに進み、ぶりぶちの公園の看板を越えて更に進んだ所を左折し、少し海側に入り突き当たった所を右方向に行った所にあります。曲がる所には、小さな看板があります。
シムスケーは水量豊富で水質も良好で、村人たちの貴重な水源でした。今では毎年の豊年祭に、供え物を贈り、感謝の意を表しているそうです。
拝所


5.波照間之碑

波照間之碑

「波照間之碑」説明文
【碑文】
波照間之碑
大濱信泉書

【碑入口標柱】
波照間之碑入口

【碑説明文】

 この碑は 沖縄の祖国への復帰に際し 全国の青年が各地の石を持ち寄り ここ はてるま の地に 精魂を注いで建設されました
 この一つ一つの石がわが国の礎となり 沖縄の新たな出発となることを念じて
 昭和四七年五月一五日


波照間之碑は、1972(昭和47)年に高那海岸に建設されました。
波照間島にハブはいませんが、この碑はハブをデザインしたものだそうです。
入口からの道は、沖縄の祖国復帰に際し、全国の青年が各地の石を持ち寄り、二匹の蛇が絡みあっているような形に造られています。先端部は三角の蛇の頭が二つあるように見えます。
持ち寄った石は各都道府県の表示板とともに碑の表面に埋め込まれています。先端部には沖縄の祖国復帰に尽力した大濱信泉書により「波照間之碑」と記された碑が建てられています。
碑入口標柱

碑の入口の様子はこのようになっています。

6.「北回帰線」までの距離プレート

「北回帰線」までのプレート

北回帰線まで六五キロ五三〇メートル

波照間之碑の先端部(蛇の頭に相当する箇所)には「北回帰線」までの距離を記したプレートが取り付けられています。
波照間之碑

距離プレートは「波照間之碑」の横(写真では上部)に埋められています。

7.波照間島観光案内図

「波照間島観光案内図」
看板

波照間島観光案内図
Hateruma iland sight seeing map
 波照間島は、北緯24度2分24秒、東経123度47分12秒、珊瑚礁に囲まれた周囲14.8km、面積12.46m2の小島である。
 ”波照間”とは"果てのウルマ(珊瑚礁)"の意でその名の通り、有人島としては日本最南端の地である。断崖や白砂のビーチが連続する美しい海岸線にふちどられた島内は、フクギの並木や一面のサトウキビ畑の中に昔ながらのたたずまいを残したのどかな風景が広がっている。島の歴史は古く、3500年前の住居跡であるの下田原貝塚が発見されている。

HATERUMA ILAND
This island is sitiuated in 24°2′24″north latitude and 123°47′12″east longitude. It is the southernmost inhabited iland in the japanese territory.
高那崎
島の南東、太平洋に面する断崖絶壁をなす海岸線。荒天の日には太平洋の怒涛がこの絶壁に激突し、海水を中天高く打ち上げ、飛沫を撒き散らす。磯釣りの名所でもあり、イソマグロ、ヒラアジの超大物がねらえる。
ハマシタン群落
樹高3.5メートル、幹の周囲2メートルを越す老大木群20数本の群落。樹齢は数百年に及ぶ。長い年月の風波に鍛えられ、その樹相は見事である。
コート盛
サンゴ石灰岩を積み上げた火番盛。高さ4メートル。頂上には方位を定める方位番、航海安全を祈願した拝所がある。
シムスケー
古い原始的な下り井戸。この井戸は水量豊富、水質良好で常に一定の水位を保っており、昔の島人の重要な水源だった。昔シムス村のアラウシ(紅毛牛)が湧水を探しあて水不足に苦しむ島人を救ったと言う伝説の井戸。
・文化財
指定 種別 名称 指定年月日 場所
史跡 下田原貝塚 昭31.10.19 波照間
長田お嶽 昭47.8.30
アカハチ誕生の地
記念物 シムスケー(古井戸)
浜シタン群落
高那の景勝
コート盛
同遠景

「波照間島観光案内図」は名石共同売店の南側、仲底商店の西側の「公民館前の広場」にあります。

8.「アカハチ誕生の地」の碑

「アカハチ誕生の地」の碑

[右側の碑]
アカハチ誕生の地
八重山の英傑オヤケアカハチの生まれた屋敷跡。


[左側の碑]
記念物 アカハチ誕生の地

この碑は南集落にあります。
同遠景

9.「長田御嶽」の碑

「長田御嶽」の碑

[右側の碑]
長田御嶽
八重山の英雄長田大主の生誕の地でありまた母子訣別の地である。


[左側の碑]
記念物 長田お嶽
竹富町教育委員会

この碑は名石集落にある「星空荘」の南側にあります。
「長田御嶽」の遠景

10.「高那の景勝」の碑

「高那の景勝」の碑

[右側の碑]
記念物 高那の景勝

[左側の碑]
高那の景勝
この島の太平洋に面する広大な岩原
数十米の絶壁と砕ける波のしぶきの雄大さ

この碑は「日本最南端の碑」の近くの東屋の横(西側)にあります。
高那崎

11.大東亜戦転進記念碑

「大東亜戦転進記念碑」
大東亜戦転進記念碑
我がカヌー 怒涛の中に 極まりて 漂う海に 星一つ見ゆ
元海軍少尉 石川茂只書

詳細は不明ですが、旧海軍に所属されておられた方が、大東亜戦(第二次世界大戦)でルソン島に転進された際の、カヌー漂流体験について記された碑と思われます。

12.「コート盛」の碑

「コート盛」の碑
【右】「コート盛」の碑
コート盛
(火番盛)
旧藩時代の火番所 海上の監視や
船の通報のため烽火を揚げた。

【左】記念物指定碑
記念物 コート盛


コート盛は港から集落までの祖平花道沿い(左側)にあります。

13.波照間島ほ場整備完了之碑

ほ場整備完了之碑
【表面】

【裏面】

この碑は前集落西側の貯水池のそばに建てられています。
【表面】
波照間島ほ場整備完了之碑
愛土尊民
幾世まで守り継ごう我らの土

【裏面】
事業概要
 波照間島ほ場整備は岩を除去し基盤造成後表土を戻しジャーガル土壌を客土混合して
保水力のある良好な土壌条件に改良された。
 事業は町営と県営事業によってなされ昭和54年度から平成12年度までの22年の歳月をかけ
地区面積640.7ha受益面積551.9ha事業費7,556,634千円で整備された。
 ここにほ場整備事業の完了を記念し碑を建立する。
  平成13年11月吉日
  波照間土地改良区
  初代理事長 浦仲 浩
  理事長    崎枝 政幸


以下省略

14.日本最南端之碑

「日本最南端之碑」
 同拡大
日本最南端之碑

コンクリート製の碑には左右両側に「日本最南端之碑」と記されています。
この碑は沖縄返還前の1970(昭和45)年、本土復帰祈念に本土から来た大学生・本郷雄次さんが自費(アルバイト費用)で(自分の名前をふせて)建立したものです。
同遠景

15.聖寿奉祝の碑

「聖寿奉祝の碑」裏面

同拡大 碑文
【裏面の碑文より】
聖寿奉祝の碑
 全国の青年神職の集まりである
神道青年全国協議会は、昭和五十
二年五月十二日、沖縄祖国復帰五
周年を記念し、この地に国旗掲揚
塔を建立した。
 しかし、この地の強風による国
旗の破損は如何ともし難く、ここ
に改めて天皇陛下御在位六十年を
奉祝し、社団法人国旗協会の後援
を得てこの塔を建立し、日の丸の
下に我が民族が一体となり敬神愛
国の美しき伝統を守り伝えること
を祈念するものである。
 昭和六十年一月二十七日
 施主 神道青年全国協議会
 後援 社団法人 国旗協会
同遠景

この碑は手前の「日本最南端之碑」の後方、表面に大きな日の丸が描かれています。

16.日本最南端平和の碑

日本最南端平和の碑
【表面】



【表面】
日本最南端平和の碑
竹富町


【裏面】
碑文
 本町波照間島は、日本最南端の有人島で、北緯
二四度〇二分二五秒、東経一二三度四七分一六秒
に位置し、類まれな恵まれた大自然の中にある
 本年、太平洋戦争・沖縄戦終結五十周年を
迎え、去る大戦をふりかえり、新たな誓いのもとに
すべての人びとが永遠の人類平和を願い、且
つ、町民一人ひとりが郷土の平和社会を尊び、そし
て伸びゆく豊かな活力あるある町づくりを目指して、更
に広く後世に伝えるため、この聖地に「日本最南端
平和の碑」を建立する
 平成七年八月十五日 終戦記念日
 竹富町長 友利哲雄


この碑は高那崎に、1995年に戦後50周年記念事業として、竹富町により建立されました。戦争の愚かさと不戦の誓いを込めています。
波照間住民は大戦中、西表島へ疎開を強制され、児童を含む多くの人々がマラリアに感染し亡くなりました。島内にはこうした悲惨な戦争体験をした人が多く、この碑は最南端から反戦を呼びかけています。
裏面 碑文

この碑は「日本最南端之碑」の近くに建てられています。

17.「若夏国体採火の地」の碑

「若夏国体採火の地」の碑

【上段】

【下段 碑文】
【上段】
若夏国体採火の地

【下段】
強く明るく新しく
祈りのことば
波の声も止まれ
風の声も止まれ
くまや琉球三十六島の最南端
波照間の聖地 美底御嶽
もろびとよ
この古式の火に祈りたまえ
はるかむかしの彼方より
神々の手にたずさえられて
いま ここに燃えさかる
聖火に祈りたまえ
人々に平和をもたらすことを
島々に豊穣をもたらすこと
いざ うねりつつ北上する黒潮にのって
南海にうかぶ 日東の島々を
あまねく照す この聖火だ
もろびとよ
心を一にして祈りたまえ
永遠の平和を
無尽の豊穣を
ああ波よ風よ
こぞりて この太古の火をおろかみたまえ
 昭和四十八年四月二十四日


この碑は、美底御嶽の近くにあり、若夏国体採火の地を記念して建てられました。若夏国体(ミニ国民体育大会)は本土復帰を記念し、翌年の1973(昭和48)年5月3日~6日まで開催されました。大会の採火式は4月24日、古式ゆかしく美底御嶽で執り行なわれました。
「若夏」とは、沖縄の初夏の明るく、たくましく、新生の気に満ちた感触をよく表した言葉として用いられました。
同遠景

この碑は、北集落からかん水淡水化施設へ行く道の途中にあります。

18.波照間土地改良完工記念碑

波照間土地改良完工記念碑
[表面]

[同 裏面]
[表面]
育てよう土
われらの力で

波照間土地改良区

[裏面]
完工記念碑
事業目的
本地区の区画は、不整形で道路、排水路施設等も未整備であった。
よって本事業により幹線農道の整備を基幹とし、区画整理並びに農地造成を
あわせ行い農業交通の合理化、農地の集団化と農業機械導入を促進し農業生
産性の向上を目的とする。
事業名:県営畑地帯総合土地改良事業
地区名:波照間地区
事業概要:幹線農道l=3,184m 区画整理A=209ha 農地造成A=80ha
事業工期:昭和55年度~平成3年度 (1980年~1992年)
事業主体:沖縄県(八重山農林土木事務所)
管理主体:波照間土地改良区
  1992年3月吉日建立
[側面より]

遠景

この碑は、島の北東部にあります。

19.農林水産省補助事業説明板

農林水産省補助事業
説明板
農林水産省補助事業
事 業 名  県営畑地帯総合土地改良事業
地 区 名  波照間地区
事業主体 沖縄県(八重山農林土木事務所)
受益面積 289ha
受益戸数 149戸
総事業費 3,264百万円
工   期  昭和55年度~平成3年度
        (1980年~1992年)
管理主体 波照間土地改良区
事業費負担区分  国 75% 県  15%
             町  4% 農家 6%
遠景(東方向)

この説明板は「波照間土地改良完工記念碑」と同じ敷地内に建てられています。

20.基本電子基準点標柱

基本電子基準点標柱
説明書

基本
電子基準点

NO.960751
建設省国土地理院

 電子基準点は、地上2万kmの高さ
を周回するGPS衛星が発信する電波を
受診し、この地点の位置を観測するため
の施設です。受信データは、つくば市に
ある国土地理院に毎日転送しています。
 この受信データは、土地の測量、地図
の作成、地震、火山噴火予知の基礎資料
に利用されます。
  茨城県つくば市北郷1番
  国土地理院
  電話0298(64)1111

この標柱も「波照間土地改良完工記念碑」と同じ敷地内に建てられています。

21.「ぶりぶち公園」の標石

「ぶりぶち公園」の標石
ぶりぶり公園

ぶりぶち公園は、「下田原グスク」と呼ばれる城跡です。
以前は草木が鬱蒼と茂り荒れ放題になっていましたが、2014.07の訪問時にはきれいに整備されていました。
「ぶりぶち」とは「城跡」を指す方言とか、「はじまり」という意味だとか色んな説があるようですが、確かなことは分かりません。
遠景

22.公園敷地寄附者芳名の碑

公園敷地寄附者
芳名の碑

公園敷地 寄附者芳名
 仲底善祥 三四六坪
 鳩間奨起 二六四坪
 勝連時子 二〇二坪
 大嵩嘉一 一〇九坪
 大本善男   六坪
町有地・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 「・・・」は判読不能です。
大泊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  昭和四十七年五月十五日建立
  日本復帰記念公園
  波照間老人クラブ


「ぶりぶち公園」は沖縄の日本復帰直後、島の老人会によりとして整備されたもので、費用は寄付によって賄われたそうです。
遠景

この標は「ぶりぶち公園の標石」の横を少し上った所の左手に建てられています。

23.長寿の心得の看板

長寿の心得の看板
長寿の心得
人生は六十より七十にして
 お迎え来る時は「仕事中」と云え
八十才にしてお迎え来る時は
 「まだまだ早い」と云え
九十才にしてお迎え来る時は
 「左様せかさずとも良い」と云え
百才にしてお迎え来る時は、良い時節を見て
 「こちらからぼつぼつ行く」と云え
百二十三才にしてお迎え来る時は
 「長寿の会と相談してから」と云え
遠景

この看板は北集落の公園内に建てられています。

24.「ハマシタン群落」の碑

「ハマシタン群落」の碑
【右の碑】
記念物 浜シタン群落
指定 昭和四七年八月三十日

【左の碑】
浜シタン群落
毛原崎の海岸にある二十数本の大木群
長年の風波に 錬えられ逞ましく生き抜いてきた


(※ 錬えられ→鍛えられの誤記かも?)
浜シタンとはミソハギ科の常緑低木で、和名を「ミズガンピ」と言います。盆栽の材料として珍重され乱獲されたこともあり数が減少し、今日では天然記念物に指定されています。この石碑は群落の中に埋もれているため、なかなか発見に手こずりました。
ハマシタン群落

この碑は群落内の西側に建てられています。

25.成人記念碑

成人記念碑
波照間中学校
第三期生
成人記念
1983年1月15日


高那海岸の隆起サンゴ礁の表面に設置されている成人記念碑です。1977(昭和52)年3月に波照間中学校を卒業した若者が、6年後の成人式に集い、その再会記念のメモリアルとしたものです。波照間中学校の伝統的なものか、付近にはいくつかの成人記念が点在します。
高那海岸

26.仲本信幸顕彰碑

【表面】


【裏面】

【表面】
仲本信幸顕彰碑
仲本信幸(1897~1979)この地に育つ。波照間尋常小学校
卒業後、登野城尋常高等小学校に進学。卒業後、島で農漁業
に従事。島で初の機関士資格を取得し、鰹漁業に進出。
後に進幸丸鰹工場経営。若い頃から区長、漁業組合長
竹富村村会議員を長年歴任、第二代竹富町長、琉球政府
第三代八重山地方庁長歴任等、地域の行政、産業の発展に
貢献。1969年勲五等瑞宝章を授与される。

【裏面】
波照間仲本家の創始者は沖縄那覇久米村に生を受けた仲本
愛華で中国進貢船の船団長であったが、琉球王府内での恋愛
種瀬圏で遠島。島で妻帯して南村に屋敷を構えた。(屋号はナーテー)
男子4人が誕生し、三男阿良嘉がこの地に分家。本人が念仏の
職にあったので、ヌブチューと呼ばれた。四男は船乗りで石垣。
沖縄へ渡り子孫繁栄。五代目阿良加は本比田家から妻(ヒナ)
を迎え、六代目信幸が誕生。またヒナの甥真那を信幸の義弟と
して養育、後に西の屋敷に分家して本田となった。愛嘉の長男
の本家は子孫が続かず断絶。三男阿良嘉の創設した冨嘉部落
の仲本家は信幸の孫の学で八代目となる。

この顕彰碑は、冨嘉集落仲本家の敷地内に2015年8月に建立されたものです。仲本氏は町長時代、島々を回って意見交換を行い、「わらじ町長」と呼ばれました。また、漢方薬の研究や波照間の民話・伝説の記録などにも尽力されました。
なお、この碑は民家内に設置されたものですので、決して勝手に立ち入ったりせず、必ず家の方(もしくは管理されている方)に許可を受けるようにして下さい。
【仲本家】

  


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