石垣島・フルスト原遺跡  作成 2019.02.23 

1.概要

 フルスト原遺跡(ふるすとばるいせき)は、石垣市大浜にある遺跡で、1978年(昭和53年)3月3日に国の史跡に指定されました。
 石垣島の南部の標高25m前後の石灰岩台地に位置し、12.3haの指定面積内には、15基の「グスク」状の石塁遺構(石積み)が確認されています。石垣市教育委員会が復元作業と発掘調査を年次的に進めています。
 フルスト原遺跡の石塁遺構は、1500年に琉球王朝に対し「反乱」を起こして討伐された石垣島・大浜の英雄オヤケアカハチの居城跡であると言い伝えられてきましたが、確認には至っていません。これまでの発掘調査では生活用品や装飾品、イノシシの骨、貝殻などが出土し、武器は出土していないことから、単なる集落であった可能性が高いようです。ただ、出土遺物の年代は14世紀から15世紀末まで(オヤケアカハチの乱の前の約100年間)となっていることから、オヤケアカハチの乱の頃を境に遺棄されたようです。遺棄された以降は、墓として利用されていたようです。


 フルスト原遺跡は、崖上に連なる石積み障壁、四囲に石積みをめぐらした郭状の区画、北東部に開く門跡のほか墓および御獄等を有し、他のグスク(あるいはスク)と多くの点で共通する反面、郭状遺跡の配置等に独自性がみられると同時に、規模・構造などの点でも優れているのが評価され、八重山の歴史を理解する上でとても重要とされ、国指定を受けました。


2.地図



3.行き方と注意

 国道370号線側からではなく、遺跡北側の市道「タナドー線」の道路沿いから進入するのがベターです。
 車で遺跡内に入ることはできますが、進入路は舗装されていません。
  (車1台が通れる未舗装道です。途中でのすれ違いはできませんので、出会ったらどちらかがバックすることになります。)
 石塁のある所は広場になっていますので、駐車に困ることはありません。

 ※ 遺跡の南側、国道370号線側の市道からの進入は、畑の間を抜けることになりますが、酷いダート道で雨天後は所々ぬかるみもできますので、特に車高の低い車には不向きです。 カーナビではこちらからの進入を案内する場合がありますが、このルートの利用はお勧めしません。特にレンタカー利用の場合は避けた方がベターです。


4.史跡 国指定石柱&碑文

「史跡 フルスト原遺跡」の東側の崖下(元の史跡への入口:現在は藪に覆われてここから史跡に登るのは困難)にある文化財指定の石柱です。こちらの面には、
史跡 フルスト原遺跡
となりの面には、
昭和五十三年三月三十一日 建立
と記されています。
こちらの面には、
昭和五十三年三月三日 国指定
となりの面には、
文部省
沖縄県

と記されています。
 
前述の石柱の後ろ側には、文化財指定時に建てられた碑文があります。風化によりかなり読みづらくなっています。 [碑文]には次のように記されています。
史跡 フルスト原遺跡
  昭和52年 国指定
 この遺跡は、崖上に連なる石積み障壁、四囲に石積みを繞らした郭状の区画、北東部に築かれた城門跡のほか墓および御嶽を内容とします。
 グスク時代の石垣島は、沖縄本島の勢力に対して独立性を保ちながら内部は複数の有力者が分割的に地域支配を行なっていたものと思われ、その有力者たちの拠点となったところが遺跡として残っていますが、15世紀の遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の居城といわれるフルスト原遺跡はその内でも規模・構造ともに秀れています。
 フルスト原遺跡は、沖縄本島等にある城(ぐすく)跡と多くの点で共通する半面、郭状遺構の配置等に独自の性格を見出し得るものであり、沖縄県の歴史を理解する上できわめて貴重な遺跡です。
 沖縄県教育委員会
 昭和53年3月31日
石柱と碑文はこのように建っています。 側面からですが、碑文の後ろには洞窟のような空洞があるのが分かるかと思います。 
 
拡大するとこの様になっています。これは第二次世界大戦中に造られた海軍飛行場の格納庫として使われていたそうです。    
 

5.遺跡説明看板

 看板1    
  フルスト原遺跡の概要
フルスト原遺跡は、石垣島の南側、字大浜に所在し、1978(昭和53)年3月3日に国指定の史跡となりました。遺跡は、標高20〜25m前後の丘陵上に築かれた14世紀前半から16世紀にかけての集落遺跡です。指定面積は、約12.3ha、その中に広がる石塁](石積の囲い)遺構が、連結しているのが特徴で、一見、沖縄本島を中心にみられる「グスク」と類似しています。しかし、現在の研究では、いわゆる城郭としての機能よりも集落としての要素が強いと考えられています。その理由のひとつに、海岸付近の低地にある石塁のない集落遺跡と同じような生活用品(土器や中国産陶磁器など)が数多く出土すること、武器にあたるものが見られないことが挙げられます。
現在、15基確認されている石塁の内、7基(第1,2,3,4,5,10,15)が復元されています。石積は、一部に自然の岩盤を上手く取り入れ野面積により囲っています。高さは発掘調査により確認された根石を基礎とし、古老の記憶にある6尺〜7尺の高さで復元が進められています。
 看板2    
  フルスト原遺跡内に残る戦争の痕
遺跡に近接する旧石垣空港は、昭和18(1943)年に海軍飛行場として建設されました。戦時中は滑走路などが幾度も攻撃を受け、そのたびに爆撃痕を埋めるため遺跡から石灰岩塊を運んで施設を補修したと言われています。15基確認されている石塁遺構は、戦前までは今よりも多く残っていたと考えられています。遺跡内には現在でも無蓋掩体壕、崖下には格納庫を確認することができます。また、遺跡を南北に通る現在の進入路は、戦時中は軍用飛行機を移動するするための通路として利用されていたものです。

自然散策のとしての場「フルスト原遺跡」
フルスト原遺跡には、多くの自然が残されており、亜熱帯気候が育んできた動植物を観察することができます。
植物には、カジノキ、ヤンバルアカメガシワ、シマグワ、オオハギ、オオバイヌビワなどが多く、珍しいものだと、リュウキュウチシャノキ、また、沖縄を代表するデイゴやガジュマル、オオハマボウ(ユウナ)も見られます。中には触るとかぶれてかゆくなるハゼノキなどもあります。
また、動物では国指定天然記念物に念仏のカンムリワシやセマルハコガメ、オカヤドカリなとども時折観察することができます。
まだ整備中で足場の悪い箇所もあり、奥に立ち入ると危険ですので注意して散策下さい。

国指定 天然記念物 カンムリワシ
生息地
 八重山諸島・中国南部・東南アジア
県内に生息する猛禽類のなかでは最大。頭部の長い羽毛が冠のようであることから名付けられました。電柱や高い木の枝に止まってじっと獲物を探す姿が観察されます。

国指定 天然記念物 セマルハコガメ
生息地
 石垣島・西表島・台湾・中国南部
手足や頭を引っ込めた様が箱に納めたように見えることから名付けられました。雑食性で、ミミズやカタツムリ、木の実などを食べます。


国指定 天然記念物 オカヤドカリ
生息地
 石垣島・西表島・台湾・中国南部
石垣島には6種類のオカヤドカリがいますが、すべて天然記念物に指定されています。海岸付近に多く生息し、魚介類の死骸やアダンの実などを食べます。
 看板3  
  フルスト原遺跡とオヤケアカハチ
記録や伝承によれば、15世紀後半に英雄オヤケアカハチは、大浜村に居を構え、活躍したとされ、フルスト原遺跡が英雄オヤケアカハチの居城との考えもあります。発掘調査では、それよりも100年ほど前から遺跡が存在したことが分かってきました。いずれにしても、遺跡は大浜の人々にとって重要な意味を持つ場所と言えるでしょう。

フルスト原遺跡内の古墳
集落のはじまりは、出土品より少なくとも14世紀後半に遡ると考えられ、15世紀に最盛期を迎え、16世紀初頭には廃棄されたようです。集落が終焉して以降は、墓としての利用が確認されています。指定範囲内には岩陰墓や、方形石積墓が点在して確認されています。岩陰墓とは岩陰を利用し、前面に石積を設け墓室とした墓で、方形石積墓とは、方形に野面積で石積し、珊瑚石や一枚石で蓋をし、中央に墓室を設けた墓です。これまでの調査より、集団墓と考えられ、沖縄産の焼き物、中国産磁器、本土産陶磁器(肥前)や簪[カンザシ]、煙管[キセル]などが見つかっています。時代は18世紀以降と考えられます。
 
6.石塁

石塁位置図 (遺跡の案内図より引用) [方角は左が北、右が南です。]
 
1号石塁(復元)   2号石塁(復元)
 
3号石塁(復元)   4号石塁(復元)
10号石塁(復元) 15号石塁(復元)

7.周辺の景色

見晴らし台(1号石塁の南東側)より眺めた宮良湾方向の景色。 手前の畑の向かいの森は潤水御嶽(ミズオン)です。
 
遺跡の北側(石塁10号東側)から南方向を見た景色です。
 


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