八重山の空港   更新 2013.08.31 

八重山にある空港に関するウンチク・情報について紹介します。

1.新石垣空港建設の概要

2.旧石垣空港の思い出

3.与那国空港における防空識別圏問題について
4.各空港の概要について
空港名 内 容
(1)新石垣空港 @ 空港の概要 A空港の歴史
(2)与那国空港 @ 空港の概要 A空港の歴史
(3)波照間空港 @ 空港の概要 A空港の歴史

1.新石垣空港建設の概要

 八重山の空の玄関口、新石垣空港(「南ぬ島 石垣空港」:ぱいぬしま いしがきくうこう)は、2013年3月7日に開港しました。新石垣空港は、石垣市中心部より北東方向へ約14kmの所に位置しており、八重山の観光ならびに農水産業等、物流の拠点となっています。第3種空港としては一日に70便を超える全国で最も離着陸頻度の高い空港ともなっています。
 旧石垣空港は1,500mの滑走路長を有する空港でしたが、通常、ボーイング737型機 が離着陸するためには、2,000mの長さ(最低でも1800m)が必要なのですが、空港の拡張については、南側は市街地化が進み道路・住宅等に対して大規模な移転補償が伴うこと、北側には国指定の「フルスト原遺跡(*1)」があること、また現空港周辺は、航空機騒音による住環境が悪化していること、等により事実上、南北側いずれの方向にも滑走路延長ができず、1,500mのままで運用されていました。
(*1) フルスト原遺跡は、石垣空港の北側に位置し、標高20mの石灰岩の台地上に築かれた城(グスク)状の遺跡で、オヤケアカハチの居城跡と言い伝えられてきました。南北に900m、東西に200mの広大な敷地に石塁が野面積みで区画別に築かれています。1978年(昭和53年)3月3日に国の史跡に指定されています。
 しかし増加する観光客、貨物を安定的に輸送するためには、現在地での滑走路延長が困難なため、今から30年以上も前の1979年に、新たな場所での新空港建設の話が持ち上がりました。 それは、「新空港を白保地区沖合のサンゴ礁を埋め立てて建設する」、という案(白保埋立案)でしたが、そこには世界最大級のアオサンゴ群落が存在するということもあって、自然保護団体等からの反対運動を受け暗礁に乗り上げてしまいました。
 反対運動側は1988年に国際自然保護連合総会でサンゴ礁の危機を訴え、その後、国際的な自然保護団体の調査が行われるなどの反対圧力が強まっていく中、1989年に白保埋立案は撤回されました。

 結局、移転先については、2000年3月に住民投票によって、内陸のカラ岳陸上案に決まりました。 
 起工式が2006年10月に行われた新石垣空港は、総事業費約420億円、1976年に基本計画策定に向けた調査が実施されてから実に30年以上を経て、ようやく実現に向けて動きだしました。 その後建設工事が進められ、2013年3月7日の開港となりました。

 
 ※ 以下の新空港建設当時の写真は、いずれも滑走路の西側に建てられていた新石垣空港見学台(2012年10月1日に閉鎖され、その後撤去されました。)からの光景です。
 
新空港建設工事の様子。カラ岳方向。2010.11.08 同・南東方向(将来のターミナル方向)2010.11.08
 
新空港建設工事の様子。北東方向。2011.07.08 同・東方向。2011.07.08
 
新空港建設工事の様子。南東方向。2011.07.08 同・南東方向。2011.07.08
 
新空港ターミナルビル外観。2013.04.30 同ビル内。2Fより。2013.05.04

2.旧石垣空港の思い出

 旧石垣空港を離着陸する際には、通常の空港とは違ったスリリングな感触を味わうことができました。
 着陸については、大袈裟な言い方と思われるかもしれませんが、滑走路長が短い故に想像を絶するフルブレーキングと逆噴射によって、体が前のめりとなり、頭を前の座席の背もたれにぶつけそうになるほどのものでした。 また、うかつに本やペットボトルを空いている席に置いておくと、着陸のブレーキングによる「慣性の法則」により一番前の席までよく飛んでいっていたものです。

 また、着陸をすると誘導路がないために滑走路の先端まで行って、片側のエンジンのみを噴射してその場でくるっと180度ターンをしてターミナルスポットに駐機していました。 旧石垣空港はオープンスポットの空港でしたので、ボーディングブリッジは存在せず、タラップ車が、通常、飛行機の前後2ケ所に横付けされ、その階段を使って地上に降りていました。 到着ロビーまではせいぜい50m程度の距離しかないのですが、通常バスで送迎を行っていました。 (たまに、到着ロビーに最も近いスポットに駐機した場合は、そのまま到着ロビーまで歩いて行っていました。)
 次に離陸についてですが、旧石垣空港からは、乗客を乗せ、貨物を積み、規定燃料を搭載して、東京などの遠距離に向けて離陸することはできませんでした。 東京のような遠距離となると多量の燃料積載を必要とするのですが、燃料満載では離陸滑走距離が足りず、離陸できませんでした。 このため、例えば、石垣発東京行きの便は、一旦宮古島または那覇に着陸(寄港)し、ここで必要な燃料を積載し再度離陸して目的地まで飛ぶということをしていました。 宮古や那覇空港の滑走路は2,000m以上の長さがあって離陸時の制限がないため、ここで燃料補給(満載)をして再度飛び立っていたわけです。 (逆は燃料消費して機体重量も軽くなってから着陸するので、支障ありませんでした。) 燃料補給の際、乗客は全員手荷物を持って一旦機外に出なければならず、これが結構面倒でした。
 また、旧石垣空港の離陸は、国内でも唯一の完全なスタンディング・テイクオフが、毎回行われていました。飛行機は、誘導路が無いため着陸の合間を縫ってスポットから滑走路上をタキシングして滑走路端まで行き、そこでくるりと回って向きを変え、滑走路に正対します。
 そして機はすぐには滑走せず、ブレーキを掛けた状態で精一杯踏ん張り、離陸出力になるまでエンジンパワーを上げます。エンジンが唸りを上げMAXパワーになったかと思った瞬間、ブレーキが解除され一気に加速して離陸となります。
 (分かりやすい表現としては、空母からカタパルトを使って戦闘機を発艦するかの如くでした。)(通称、ロレットスタートと呼ばれていました。)


到着ロビー。左側がANA出発ロビー 到着ロビー。右側がJTA・RAC出発ロビー
到着ロビーから出た所 到着ロビー前のタクシー乗場&バス乗場
JTA・RAC側ターミナル 到着ロビー(中央)とANA側ターミナル(右手奥側)
JTA・RAC側ターミナル内、土産店 JTA・RACカウンター
JTA・RAC側待合室。左手側が滑走路 搭乗の様子

Page−TOPへ戻る 


3.与那国空港における防空識別圏問題について

 日本最西端の島、与那国島は言うまでも無く日本の領土であって、石垣島の北側にある尖閣諸島と異なり、何らの領土問題(紛争)は存在していません。しかしながら、与那国島の上空は日本の領空(*1)であるものの、東経123度線が縦断する島の東側1/3は日本、西側2/3は台湾の防空識別圏(ADIZ(*2))となっているのが実情です。 
 これは、アメリカ空軍が沖縄占領時に設定していた防空識別圏を、本土復帰(返還)後もそのまま継承した結果なのですが、これにより、島の西側2/3の上空は、「日本の領空であるものの日本の防空識別圏ではない」という状態になっています。
【参考までに】
飛行情報区(FIR(*3))については、石垣島と西表島の間、小浜島東端付近を通る東経124度線以西は台北FIRに入っていますが、これは、国際民間航空機関 (ICAO) が航空交通業務を提供する各国の分担を決めた空域であり、いわゆる領空とは別のものです。一般に、FIRは国土の面積や経済力に関係なく、むしろ地理的な条件で決められています。
 さて、石垣や那覇空港等から離陸し、与那国空港に着陸する旅客機は、与那国島の北を通って一旦東経123度線の西側に出ます。この段階で、旅客機は台湾の防空識別圏に進入しているわけです。そして、島の西側で進路を180度変え、東向きに更に高度を下げて滑走路へ着陸します。また離陸は、滑走路の西端から東向きに滑走が行われます。つまり、与那国空港における離着陸は、原則として東向きに行われることとなっています。
 このように島の西側2/3が台湾の防空識別圏(ADIZ)である関係から、与那国空港での航空機の離着陸経路は非常に厳しい制限を受けることとなっており、気象条件や航空機自体により異常が発生し、万一航空事故が発生した場合を想定すると、迅速な救難・救助活動を行なうことが困難となる懸念があります。
 また、そうした場合ばかりでなく、たとえば与那国空港へ向かう日本の民間機が、事前にフライトプランを台湾側に提出しておかないと、与那国島に近づいた途端に未確認飛行物体として空軍機にスクランブル発進されかねません。
 (尤もその逆も言えることですが・・・。)
 加えて、海上自衛隊の航空哨戒任務や航空自衛隊の航空機は、通常は与那国島上空より西側へ出ることは無いのですが、島の西側を目視で哨戒する事ができないため、防衛上の懸案ともされています。 
 特に、もしも台湾有事においては防衛上の重要な問題となる可能性が高いと言わざるをえません。
 現在は、日本と台湾との関係は良好であるため、この問題に関しては両国間において一定の調整が行われ、また情報のやりとりもスムーズに行われている、と伝えられていますが、万一予測しがたい事態等の発生を考えると、はたしてその効果のほどは・・・と疑われます。
 その他、与那国空港の特徴としては、管制通信官は配置されておらず、那覇にある沖縄航空交通管制部による遠隔管制に頼っています。 特に、与那国空港の特殊な地理的条件(空港の北側が海で、南側に山が連なっていることから、南風による強い乱気流が発生する)を考慮するならば、最低限、管制通信官の配置は、安全確保の面からは必須の条件かと考えます。

 また、与那国空港には燃料補給の施設はありません。 そのために運航の利便性に制約される恐れがあります。

(*1) 領空(national air space)
国家の領土・領海の上空空域をいう。領空の高度限界については、大気圏内というのが一応の通説となっている。
(*2) 防空識別圏(ADIZ:air defense identification zone)
国の防空上の要求から設定されている空域のこと。航空機が、外国の領空を飛行する場合、その国の許可を得なければならない。防空部隊は担当区域へ侵入する航空機を識別し、無通報の領空侵犯機を強制着陸させるか、領空から退去させなければならない。このため、ADIZ内を飛行するすべての航空機は、飛行計画の提出、位置通報など定められた飛行手順が要求される。民間機の運航についての防空に必要な位置通報などの情報は、管制機関から防空管制センターに送られる。防空識別圏と飛行情報区とは異質のものであり、その包括範囲は合致しないのが普通である。
(*3) 飛行情報区(FIR:flight information regions)
飛行する航空機に対して、安全で効率良い航行を確保するために、各国が責任を持って、航空交通管制業務、飛行援助業務、航務業務を行う空域である。国際民間航空機関(ICAO)により指定されるFIRは、領空と公海上空を含んだ空域で、領空主権よりも円滑な航空交通を考慮して設定されており、その名称には国名を付けず、業務を担当する管制センター、または飛行情報センターの名が付けられている。わが国が管轄しているFIRは、東京飛行情報区と那覇飛行情報区で、航空交通管制部(運輸省)が業務を行っている。
以上は、航空実用事典(JALのHP)より一部引用

Page−TOPへ戻る 


4.各空港の概要について

 (1)新石垣空港

  @新空港の概要



項  目 概        要
種別 地方管理空港(第3種空港)
設置管理者 沖縄県
標高 31.0m
滑走路 RWY 2,000m×45m
滑走路 方向 04/22
エプロン 8バース
運航時間 08:00〜21:00(13時間)
利用航空会社等
(国内)
日本トランスオーシャン航空、全日本空輸、
琉球エアコミューター、ピーチ・アビエイション、ソラシド・エア
第11管区海上保安本部

(海外)
台湾 : マンダリン航空
     【参考】 旧空港の概要


項  目 概        要
種別 地方管理空港(旧第3種空港)
設置管理者 沖縄県
標高 26.2m
滑走路 RWY 1.500m×45m
滑走路 方向 04/22
エプロン 小型ジェット機用 5バース、STOL機用 1バース
運航時間 08:00〜21:00(13時間)
利用航空会社等 日本トランスオーシャン航空、全日本空輸(エアーニッポン)、
琉球エアコミューター、エアードルフィン

第11管区海上保安本部
 

    【参考】 旧空港における本土直行便の寄港地 (旧石垣空港発便)

本土到着地 石垣空港発の寄港地 備 考
東京国際空港 那覇空港、宮古空港何れかを経由
関西国際空港 宮古空港経由
神戸空港 那覇空港経由
中部国際空港 那覇空港経由

  A空港の歴史

昭和18年6月 旧日本軍により海軍飛行場として建設
昭和31年6月 民間航空による運航開始
その後、滑走路、エプロン等を設備
昭和43年6月 YS-11型機が就航
昭和47年5月 日本復帰と同時に、航空法に基づく拡張整備と、石垣市管理から沖縄県の管理に移行
昭和48年 第三種空港に指定
昭和50年5月 滑走路1,500mで供用開始
以降、利用客の増大、機材の大型化に対応するため、滑走路、航空保安施設等を設備
昭和54年5月 暫定ジェット空港として供用開始
平成12年3月 新空港建設・位置選定委員会により、カラ岳東側案、宮良牧中案などの候補地の中からカラ岳陸上案を選定・決定。
平成18年10月 白保の新空港建設地で起工式が行われ、建設工事に着工。
平成25年3月6日 最終便出発後、旧空港閉鎖。その後新空港への引っ越しを実施。
平成25年3月7日 新空港供用開始(開港)。愛称は「南ぬ島石垣空港」(ぱいぬしまいしがきくうこう)。

  

Page−TOPへ戻る 


 (2)与那国空港

  @空港の概要



項  目 概        要
種別 地方管理空港(第3種空港)
設置管理者 沖縄県
標高 15.0m
滑走路 RWY 2,000m×45m
滑走路 方向 08/26
エプロン 小型ジェット機用 2バース
運航時間 08:00〜19:30(11.5時間)
管制 国土交通省那覇航空交通管制部が担当

  A空港の歴史

昭和18年6月 旧日本軍により建設。 滑走路800m
昭和32年8月 民間航空による運航が開始
昭和32年4月 滑走路等が拡張整備
昭和43年9月 滑走路乳剤舗装工事等が完成し、同年12月からYS−11型機が就航
昭和47年 本土復帰に伴い、国の航空法が適用されたことにより、進入表面が同法の規定に抵触することから、滑走路の短縮運用
(日本の航空法を適用すると滑走路近くにある製糖工場の煙突が進入に支障するため、滑走路長は800mとされた(従来は米国法に準拠し、1,232mとされていた)。このためYS-11は発着不能となる。)
昭和50年3月 滑走路800mで供用開始
昭和60年 利用客の増大や機材の大型化に対応するため、YS−11型機対応空港として滑走路1500mで供用開始
平成11年7月

滑走路1500mで舗装構造を強化した暫定ジェット化空港として供用開始

平成13年 利用客の増大やYS−11型機の退役に伴なう機材の大型化に対応するため、滑走路延長事業(1500mから2000m)に着手
平成19年3月15日 2000m滑走路供用開始

Page−TOPへ戻る 


 (3)波照間空港

  @空港の概要



項  目 概        要
種別 地方管理空港(第3種空港)
設置管理者 沖縄県
標高 13.12m
滑走路 RWY 800m×25m
滑走路 方向 02/20
エプロン STOL機用 2バース
運航時間 08:00〜18:00(10時間)
航空管制 波照間REMOTO(那覇空港からのリモート運用)

  A空港の歴史

昭和47年 3月 米国民政府援助資金により緊急着陸用飛行場(主に救急患者の輸送)として建設
昭和47年 9月 民間航空による運航が開始
昭和47年11月 緊急着陸用の飛行場として波照間飛行場を滑走路850mにて供用開始。
昭和49年 4月 昭和49年度から航空法に基づき、新たに場所を移転し整備が進められた。
昭和51年 5月 波照間飛行場の北側に波照間空港を新設。第三種空港として滑走路800mにて供用開始。
波照間飛行場を廃止。

南西航空(現日本トランスオーシャン航空)が石垣空港線をDHC−6で開設。
平成 4年11月 南西航空DHC−6運航路線の移管に伴い、石垣空港線が琉球エアーコミューターによる運航となる。
平成13年10月 DHC−6退役に向けた機材数減のため、運航機材がBN−2Bに変更となる。
平成19年12月 琉球エアーコミューター石垣空港線廃止。
同月28日よりエアードルフィンが石垣空港へ不定期便運航開始。

【現在は運休中】
 

 Page Topへ戻る     八重山豆辞典 に戻る      HOME へ戻る


Copyright (c) 2008.8 yaeyama-zephyr

写真の無断転載・使用を禁じます。利用等をご希望される場合はメールでご連絡下さい。