石垣島の石碑・説明看板(郊外-2)  更新 2017.04.15

今回は、No.6の追加をしました。

ここでは石垣島の郊外(島の西部と北部)にある石碑・説明看板について紹介します。
石垣島の市街地(石垣・登野城・大川・新川・新栄町・真栄里・八島町)にある石碑・説明看板については、別のページを参照してください。

No. 名 称 場 所
1. ラムサール条約湿地 名蔵アンパル 名蔵
3. 名蔵入植50周年記念碑 名蔵
5. 大田原遺跡 名蔵
7. 水難之碑* 崎枝
9. 南無観世音菩薩像 崎枝
11. 石垣-蘇澳 姉妹締結記念碑 崎枝
13. 温故知新の碑* 崎枝
15. 電信屋 崎枝
17. 川平村の歴史 川平
19. 黒蝶真珠養殖発祥の地 川平
21. 川平観音堂 川平
23. 史跡 川平貝塚 川平
25. 平和之塔 川平
27. 開拓之碑 吉原
29. 開拓之碑 米原
31. 荒川のカンヒザクラ自生地 桴海
33. 肥田埜勝美 句碑* 桴海
35. 入植之碑 兼城
37. 久松五勇士上陸之地* 伊原間
39. 明石開拓之碑 明石
41. 開拓之碑 久宇良
43. アイナマ石* 平久保・久宇良
45. 平久保のヤエヤマシタンの碑 平久保
No. 名 称 場 所
2. 国指定名蔵アンパル鳥獣保護区 名蔵
4. 仲間満慶山終焉之地の碑* 名蔵
6. 石柱のバス停 名蔵
8. 入植三十周年記念碑 崎枝
10. 八重山丸沈没事故の慰霊碑 崎枝
12. 八重山丸遭難 詩碑 崎枝
14. 姉妹締結15周年記念碑 崎枝
16. 石垣御願崎灯台 崎枝
18. 川平湾の人魚物語 川平
20. 仲間満慶山英極生誕之地* 川平
22. 伊波南哲詩碑* 川平
24. 底地海水浴場の説明看板 川平
26. 感謝記念碑* 川平
28. 仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林 吉原
30. 米原のヤエヤマヤシ群落* 桴海
32. 平和友好の碑 桴海
34. 入植之碑 野底・下地
36. 開拓の碑
38. 玉取崎園地の説明看板 伊原間
40. 地の利は人の和に如かず 明石
42. 入植記念碑 久宇良
44. 平久保地区農地開発事業完了之碑 平久保
46. 開拓之碑 平野

地図

1.ラムサール条約湿地 名蔵アンパル

ラムサール条約湿地


 名蔵アンパルの
マングローブ林


ラムサール条約湿地 名蔵アンパル
 国を越えて旅をする多くの水鳥が、休憩したり、安全に子育てをしたり、冬を越したりする場所として、世界各地にある自然豊かな湿地を利用しています。水鳥だけでなく、私たち人間も古くから湿地を利用し、豊かな”恵み”を享受してきました。
 そこで、多くの国々が協力して湿地の賢明な利用と保全をはかるため、1971年イランのカスピ海湖畔の町ラムサールで「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」が定められました。
 名蔵アンパルは、平成17年11月8日にラムサール条約湿地に登録されました。将来の世代にもこの”恵み”を引き継いでいくため、私たちの生活とバランスのとれた湿地の保護と利用を進めていきます。

名蔵アンパル
 バンナ岳、前勢岳(まんせだけ)、沖縄県の最高峰於茂登岳(おもとだけ)から流れる名蔵川などの豊かな水系がそそぎこむ、東西1.5km、南北2kmほどの湿地が名蔵アンパルです。
 名蔵アンパルは、マングローブ林や海岸林、砂浜に囲まれ、湖が引くと広大な干潟が現れます。ひとまとまりになった多様な自然環境には、カニやエビ、魚貝類、鳥類など、多くの種類の生物がくらしています。
 この豊富な餌と安全な環境を求めて毎年たくさんの水鳥が名蔵アンパルに渡ってきます。ここは、やってきた水鳥たちの大切な休憩場所や越冬地になっているのです。

民謡 「あんぱるぬみだがーまゆんた」
 名蔵アンパルは、古くから島の人々に親しまれ生活に利用されてきました。そのような人と自然とのかかわりの中で生まれ、歌い継がれてきた民謡が「あんぱるぬみだがーまゆんた」です。
 この民謡には、名蔵アンパルでくらす多くのカニが登場し、それぞれの姿形や行動に合った役で宴会をしている様子がユーモラスに歌われています。
 実際のカニたちはどのような姿や動きをしているのでしようか?
 「あんぱるぬみだがーまゆんた」
 (以下省略)
この説明看板は名蔵大橋横の駐車場横に設置されています。

2.国指定名蔵アンパル鳥獣保護区

国指定 名蔵アンパル
鳥獣保護区


名蔵アンパル

国指定名蔵アンパル鳥獣保護区
平成15年度指定
 名蔵川河口域のマングローブ林、干潟、海浜、原野、海岸林に名蔵湾の一部を加えた一帯は、国指定名蔵アンパル鳥獣保護区(面積:1145ha)に指定されています。
 亜熱帯のさまざまな自然環境がまとまって分布しているため、多くの種類の鳥類を観察できることがこの鳥類保護区の特徴です。この地域をシギ・チドリ・サギ類の水鳥は渡りの中継地又は越冬地として、また、猛禽類、森林性鳥類等は生息の場として利用しているため、水鳥類ではクロツラヘラサギ、セイタカシギ、アカアシシギ等、猛禽類ではカンムリワシ、リュウキュウツミ、チュウヒ等、森林性鳥類ではキンバト、オオクイナ等の希少な鳥類が観察できます。
 鳥類保護区のマングローブ林、干潟、海岸林等の一部は鳥類の生息環境として特に重要であるため、特別保護地区に指定されています。鳥類保護区内では、鳥類の捕獲が禁止されており、さらに、特別保護地区内においては、①建築物や工作物を新・改・増築する、②水面を埋め立てる又は干拓する、③木竹を伐栽する場合には環境大臣の許可が必要となります。
 名蔵アンパル鳥獣保護区の自然が将来にわたって野鳥をはじめとした野生動物たちの住みかであり続けるようこの環境を守っていくことが大切です。

 環境省那覇自然環境事務所
自然のゆりかご
名蔵アンパル


こちらの看板には、名蔵アンパルで見ることのできるマングローブ、カニ類、ハゼ類、貝類、鳥類が描かれています。
これらの看板は名蔵大橋横の駐車場横に設置されています。

3.名蔵入植50周年記念碑

名蔵入植50周年記念碑

同 下段

同 裏面
【表面 上段】
名蔵入植50周年記念碑

【表面 下段】

名蔵入植50周年記念事業(延床面積八〇坪、敷地九〇〇坪)
記念事業費総額      (六七、三七一、〇〇〇円)
一.施設建設費助成金   五八、〇七一、〇〇〇円
  (造成費と合括)
二.施設建設費負担金     三、〇〇〇、〇〇〇円
三.備品費            二、〇〇〇、〇〇〇円
四.環境整備費         二、三七一、〇〇〇円
五.落成式典祝賀会費       六〇〇、〇〇〇円
六.記念誌作成費        一、五〇〇、〇〇〇円
七.運営費               二〇〇、〇〇〇円

名蔵入植50周年記念事業期成会 
         会長    (以下氏名は略)
         副会長
         書記会計
名蔵公民館 館長
         副館長
         書記
         会計
落成式典事業代表
記念誌発刊代表
募金部
         壮年代表
         婦人代表
         青年代表
監事
運営顧問


【裏面】
設計
 名蔵中学校三期卒業 東浜永松
製作会社
 有限会社 沖縄国際海運
同 裏面

この碑は崎枝公民館の前庭にあります。

4.仲間満慶山終焉之地

仲間満慶山終焉之地の碑
[表面]


[裏面]
[表面]
仲間満慶山終焉之地

[裏面]
十五世紀の末葉この地で英傑満慶
はオヤケ赤蜂の謀略の刃に殪れた
一九六一年十月憲章姓一門会建立


伝承によれば、1500年の「オヤケアカハチの乱」以前に大浜村を拠点に活躍していたオヤケアカハチは、登野城の仲須目原(ナカシィメーバル)で、川平村の仲間満慶山(ナカマミツケーマ)と会見し、首里王府(国王:尚真王)に対抗し共に戦おうと申し出をしました。しかし、仲間満慶山はこの協力を断ります。その後、仲間満慶山は川平村に帰る途中、オヤケアカハチの手下の仕掛けた落とし穴に落ち、名蔵湾沿いの岬で無念の死を遂げました。享年32・33歳ごろと言われています。
この「仲間満慶山終焉之地」の碑は、昭和36年(1961年)10月に、彼の子孫にあたる憲章(ケンショウ)姓一門の関係者によって建立されました。
この碑は、石垣と川平の間の県道沿いのケーラ崎(石垣焼窯元の正面・海側)にあります。

5.大田原遺跡

大田原遺跡の説明看板


      大田原遺跡(おおたばるいせき)
                                石垣市指定文化財 史跡
                                平成8年11月12日
 この遺跡は、県土絵石垣浅田線の拡幅工事に伴い昭和55年(1980)沖縄県教育委員会による発掘調査が行われた。出土した遺物は多量の土器片と石斧で、前者は波照間島下田原貝塚出土土器を標識とする下田原式土器で、後者は刃の部分を中心に研磨する局部磨製石斧である。これらと同じ深さから出土したシャコガイ貝殻の放射性炭素年代測定によって紀元前1800年頃という石垣島では最も古いグループに属する遺跡であることが知られている。
 遺跡は名蔵川沿いの小台地上に広がっていて、戦後になって、主にパイン畑やサトウキビ畑などに利用されてきた。昭和57年(1982)、個人農家の土地改良工事に伴う発掘調査が石垣市教育委員会によって行われ、この頃をさかいに一帯の地形は急変した。現在では、道路脇の擁壁に面する箇所にのみ遺跡の一部が残されている。
 出土した石斧は全般的に小型で全体の形も変化に富む。刃の部分が片刃的特徴をしめすものが主体を成すことはこの時期の八重山の石斧の大きな特徴にあげられている。出土土器は、下田原敷く土器と呼ばれる赤色を帯びた分厚いもので胎土に粗い石英粒を含んでいるのが特徴的で文様の無いものが主体であるが、まれに沈線などを浅く施すものなども知られている。この登席の源流については、南方系であることのほかはよく分かっていない。
 なお、昭和55年の前記発掘調査は隣接する八重山編年上、無土器時代に位置付けられている神田貝塚も同時に行われ、両遺跡の層序関係が多いに注目された。この貝塚はかつて神田橋の手前から名蔵集落方向へ150mの範囲に広がっていたが、発掘調査後道路工事によってほとんど消失した。
 この指定地一帯において無断で現状変更することは、石垣市文化財保護条例により禁止されています。
                                石垣市教育委員会
                                平成22年3月

ここに記されているように、大田原遺跡は、約3800年前の下田原期の遺跡ですが、八重山では土器のある時代 から、土器のない時代(有土器→無土器)に移行するという、日本国内でも他例がない不思議な先史時代があり、それがこの大田原遺跡とすぐそばにある神田貝塚の調査から分かりました。
このことから、大田原遺跡は八重山の考古学上(学問上)、大変重要な遺跡と位置づけられています。
この説明看板は、名蔵集落側から向うと名蔵神田橋の手前(右手側)の道路沿い、木々に覆われた台地上にあります。

6.石柱のバス停

石柱のバス停
バスのりば

かなり古いものと思われますが、詳細については調査不足で不明です。
フーネのバス停

この石柱は名蔵湾沿いのフーネのバス停の近くにあります。

7.水難之碑

水難之碑
水難之碑

建立の記
平成十年九月十七日午後二時三十分 高波にさらわれし朋友を救わんとした乙女は荒海にひとり毅然と立ち向うも力尽き此所オオハマガマの海に帰らぬひととなる
嗚呼・・・
吾は知る ときに人の危うきを見て命(メイ)を授く仁人(ヒト)有るをそれが海外での奉仕活動を念い続けていた乙女の生き方の規範であり優しさであったと
ここに
今は亡き乙女の御霊の永遠に安からんことを祈り この碑を建て 再びこのような悲しき水難事故の起こらんことを切に願う


この碑は1999年に建立されました。前年の1998年9月、近くで遊泳中に沖合に流された友人の救助に向い死亡した女性観光客の関係者が、供養と悲しい水難事故の防止を願って建立したものです。当時、付近の海域はサンゴ礁が発達、地元住民を中心に口コミで遊泳地として人気がありました。しかし、ここは米原海岸同様に潮の満ち引きにより離岸流が発達しているため、特に注意が必要な浜です。
碑文

この碑は崎枝から御神埼灯台に行く途中の右手(海側)にあります。

8.入植三十周年記念碑

記念碑 全景表面


同 裏面

[上段表面]
入植三十周年記念碑
崎枝部落会

[上段裏面]
昭和五十四年九月吉日之建

[下段裏面]
繁昌節
だんじゅ豊まりる崎枝ぬしきや
黄金岡くさで 田ぶく前なし
うやき繁昌 勝る繁昌
且つまた 弥増し

崎枝部落入植三十周年記念事業
一.入植記念誌の編纂
二.崎枝お嶽の改築
三.入植記念碑の建立
記念事業期成会役職員
  会長   石垣蒲戸
  副会長  石垣博正
  書記会計 喜舎場 功
記念誌編纂委員 
  委員長  渡慶次賢康
  会計   石垣岩男
記念碑建立工事施工者
       崎枝青年会
昭和五十四年(一九七九年)九月一日
記念碑 下段

この碑は市街地から川平方面に向かって行き、崎枝集落への分岐路の手前に建てられています。

9.南無観世音菩薩

南無観世音菩薩

南無観世音菩薩
この菩薩像は八重山丸遭難
者遺族の会が海難で犠牲と
なった人々の御霊に対し白
浄の信心を発して無上の菩
提を祈求精進し よって御霊
の平安と船舶の航行安全を
願って建立した
昭和五一年一二月八日

八重山丸の遭難は、北からの激しい季節風が吹き荒れ大時化となった中、不幸にも操舵用のチェーンが千切れ、航行の自由を失った同船は横波を受けて横転沈没したそうです。
碑文拡大

この碑は御神埼灯台下の広場にあります。

10.八重山丸沈没事故の慰霊碑

慰霊碑
[上段]
八重山丸遭難者氏名(35名)

(以下氏名は略)

[下段]
八重山丸(40.39トン)は昭和二七年十二月八日那覇からの帰途おがん崎南西二千六百米の地点で遭難沈没し死亡行方不明者三五人を出した。ここに故人の二五回忌を迎えるにあたり遺族会がこの碑を建立する。
昭和五一年十二月八日
八重山丸遭難者遺族の会
慰霊碑と海

この碑は御神埼灯台下の広場にあります。

11.石垣-蘇澳 姉妹締結記念碑

姉妹都市締結記念碑

[左]
石垣市-蘇澳鎮 姉妹都市締結十五周年記念
第十八代 石垣市長  中山 義隆
第十六代 蘇澳鎮長   林 騰煌


[右]
(社)八重山青年会議所
蘇澳
港國際青年商會
姉妹締結三十周年記念
 以下省略
姉妹締結記念碑

この碑は御神埼灯台前の広場にあります。

12.八重山丸遭難 詩碑

詩碑
(表面) (裏面)
うがん崎
盆の供物の
漂える
 信甫
平成五年 晩秋建立
西表信甫
句碑建立期成会

八重山丸の遭難に心を痛めた作者は、この句を詠み石に刻み慰霊としました。前記の観音菩薩像と同一の製作者だそうです。

この碑は御神埼灯台下の広場にあります。

13.温故知新の碑

温故知新の碑 (表面)


[上段]
 (社)八重山青年会議所創立50周年記念
 温故知新
 社団法人 八重山青年会議所 第50代理事長 黒島 栄作
     50周年記念事業実行委員会 運営総括 平得脩一郎
                       2011年8月1日建立

[下段 主文]
社団法人 八重山青年会議所
創立五十周年記念石碑 主文

 現在私達がこの地域で幸せに暮らすことができるのは、先人たちの知と汗と涙の結晶であり、私達の生活はその上に成り立っている事を知らなければなりません。世界の恒久平和が究極の目的である日本最南端の青年会議所として、時代の変化へ即応すべく組織づくり、まちづくりを常に提言し行動に移すことが、私達の使命だと考えます。
 今年、八重山青年会議所は創立五十周年を迎えます。守るべきものは守り変えるべきものは変え、新しい価値を創造しながら未来へ繋げていく為に、温故知新の精神を以って此処に記念碑を建立しこれからの活動の礎と致します。
             二〇一一年八月一日
             社団法人 八重山青年会議所
             第五十代理事長 黒島 栄作


除幕式や記念式典は姉妹青年会議所の台湾・蘇澳港國際青年商會メンバーも出席して行われました。
同 (裏面)

この碑は御神埼灯台前の広場にあります。

14.姉妹締結15周年記念碑・絆

記念碑 全景

下段碑文
姉妹締結15周年記念事業

1996年7月31日建立

中華民國蘇澳港青年商會
第20代會長 劉慶祥
(社)八重山青年会議所
第35代理事長 福島英洋


その他 略
同 裏面

この碑は御神埼灯台前の広場にあります。

15.電信屋

電信屋碑文

碑文
 1895年(明治28)の日清戦争終結後、日本はその領有となった台湾との間に通信回線を敷設することにし、1896年(明治29)先ず鹿児島~沖縄本島との間に、次いで翌1897年(明治30)沖縄本島~石垣島~台湾間・石垣島~西表島間に海底電信線を敷設した。
これにより、本土~沖縄本島~石垣島~台湾間の通信回線網が完成した。
 当初、通信回線は陸軍省が管轄していたが、後に逓信省に移管され1897年(明治30)7月1日八重山郡大川村12番地に八重山通信所を設置し一般公衆電報の取扱を開始した。
以来この海底電信線は明治・大正・昭和の三代にわたって政治・経済・文化その他各分野の先駆けとしての重要な使命を、担っていたが太平洋戦争の戦災を受け昭和20年に破壊された。
 21世紀高度情報化社会の到来とIT新時代を迎え、電気通信システムも著しく変貌しつつあるが、この海底電信線の敷設された歴史的経過を永く残すため、海底電信線の陸揚げ地であるこの地に記念碑を建立する。
2001年12月吉日
電信屋記念碑建立期成会

電信屋記念碑

元海底電線陸揚室の
説明看板

元海底電線陸揚室
石垣市史跡
昭和61年9月25日指定

 俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
 1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって本土-沖縄本島-石垣島-台湾間の通信施設が完成したのである。なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
 開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも使用された。明治30年のことである。この年、石垣島では大川2番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月
石垣市教育委員会
電信屋

電信屋は屋良部半島の大崎にあります。電信屋についての詳細は、電信屋記念碑のページを参照ください。

16.石垣御願崎灯台


この説明看板は御神埼灯への登り口にあります。

説明看板

この説明看板は御神埼灯台登り口にあります。
石垣御願崎(いしがきおがんさき)灯台
~夕日とテッポウユリ、そして白亜の灯台~


この灯台は、昭和58年(1983年)3月に景勝地である御願崎に建設され、春には野生のテッポウユリが咲き、南海の壮観な眺めに一層の彩を添えています。この岬の沖合いでは、昭和27年(1952年)12月8日、那覇から貨客を満載して石垣へ帰る途中の八重山丸(40トン)が、折からの季節風のため遭難し、死者行方不明者35人を数える大惨事となりました。この海難事故から25年後の昭和51年(1978年)12月8日、遭難の碑が建設され、灯台と共に沖に向かって航行の安全を見守っています。

位 置      北緯 24度27分09秒
          東経124度04分43秒
光り方      単閃白光 毎10秒に1閃光
光の強さ    31万カンデラ
光の届く距離 21.0海里(約39キロメートル)
高さ       地上から灯台頂部 約17メートル
          水面から灯台   約62メートル
管理事務所   石垣海上保安部
          電話 0980-82-4842
海上保安庁  燈光会  日本財団

※ 地図は省略
石垣御願崎灯台

一般には単に御神埼灯台と呼ばれています。

17.川平村の歴史

「川平村の歴史」の
説明看板


同拡大

川平村の歴史
 川平(カビィラ)集落は、1500年頃に仲間満慶山(英極)が活躍した村で、
伝承によれば、1185年(寿永4年)当時からあった歴史の古い村です。
 集落発祥の地は、ナカマムリ(仲間盛)一帯にあった仲間村で、その北に
大口、東に仲栄・多田・古場川(久場川)・西・慶田城・玉得・大津原(内
原)の小村があったといわれています。その後、フンシミー(風水見)の外間
親雲上の見立てによって、1686年(康熈25年)頃に川平湾近くへ次第に
移動合流し、古場川村(上の村)、大津原村(下の村)の二村で村を形成
するようになり、ほぼ現在の集落の形になったようです。
 カビィラの語源について宮良當壯説によれば、「蝶の古語”かわひらこ”の
転である。沖縄国頭地方の方言では蝶-ハベル-の事を”カベル”といって
いる」と述べられています。字川平の全区域を地図に描いて全体の形を眺
めてみると不思議に羽を広げた蝶の形によく似ていることが分かります。

川平村の古地図

この説明看板は川平駐在所の北側の公園内にあります。

18.川平湾の人魚物語

「川平湾の人魚物語」の
説明看板


川平湾の人魚物語
 その昔、村の若者が漁をしていると人魚がとれました。そのころ人魚は不老長寿の薬とされていたので、捕まえるのが常でしたが、大変美しい娘(人魚)であったので若者は村人の止めるのも聞かずに、人魚を海に返してしまいました。 若者は村から追われ、行き場を失ったので娘(人魚)が哀れに思い、自分の国へと連れて帰りました。 人魚の国の長老は「娘を助けてくれたので、かの地で二人で暮らせ」と言って見事に光輝く黒蝶真珠を取り出し若者と娘(人魚)に与えました。 二人はこの地へ移り住み子沢山に恵まれ幸せな一生を送りました。それゆえに真珠を身につけ人魚にふれると願い事がかなえられると言い伝えられています。

人魚の像

この説明看板は川平地区の、高嶺酒造所のある交差点を海側に下りた所にあります。

19.黒蝶真珠養殖発祥の地

黒蝶真珠養殖発祥の地
の説明看板


世界初黒蝶真珠養殖発祥の地・川平湾
 天然の黒蝶真珠は40万個に1個の割合でしか発見されません。
その希少性ゆえに”幻の真珠”と言われております。
1953年(昭和28年)日本最南端、ここ川平湾で「世界初黒蝶真珠」が誕生しました。
その9年後、1962年にタヒチは黒蝶真珠養殖に成功し、1975年前後から本格的な養殖が行われました。
ここ川平湾で浜揚げされた「黒蝶真珠」が、1968年・世界的に有名な「ミキモト」のニューヨーク支店で販売され話題を呼びました。 当時の黒蝶真珠といえば着色したものしかなく、それが世界の真珠市場で定着していました。
ところが突然、当社の養殖黒蝶真珠が登場したので、ニセモノか本物かで世界の宝石市場で論議となり、科学的に立証され、ようやく世界で認められました。同年代に生産された黒蝶真珠が現在アメリカのスミソニアン国立博物館の沖縄民族コレクションに展示されています。 この「世界初黒蝶真珠」の生みの親、渡嘉敷 進(当社会長)は、半世紀を黒蝶真珠養殖に精魂を傾け、今尚、より美しい黒蝶真珠を求め研究開発に取り組んでいます。
この川平湾で産まれた黒蝶真珠は、美しい沖縄のサンゴの海が生んだ世紀の傑作といえるでしょう。
 現在この黒蝶真珠は国際的に高い評価を得ています。
この説明看板は、川平地区にある琉球真珠本店の横(人魚の像の隣)にあります。

20.仲間満慶山英極生誕之地

碑の表面

同 裏面

[表面]
間満慶山英極生誕之地

[裏面]
ばしゆんた

うふ山ぬうちなんが なあ山ぬ すばなんが
うふあこうぬむようり なりあこうぬさしような

英傑満慶山は紀元一四六五年川平に生れた 父は元の王 母は仲間村つかさ仲間サカイ ばしゆんたは母サカイが詠んだと伝えられている

※ この石碑は、1961年に憲章姓一門会によって川平公園内に建立されたものです。

「ばし」とは「鷲」の意味で、八重山に生息するカンムリワシを示しています。
「ゆんた」とは八重山古民謡にある農民の労働歌で、男女で交互にうたわれた唱でした。

「ばしゆんた」はこの川平発祥説のほかに、大川(石垣市内)発祥説もあります。

21.川平観音堂

川平観音堂の碑文

川平観音堂
 川平村は八重山でも歴史は古く、川平湾は昔、首里王府への貢納物を集積する三大港の一つで、石垣島から沖縄本島等へむかう船の風待つ港でもあった。
 川平湾を見下ろす小高い丘の川平公園に立つ川平観音堂は、十七世紀中葉に創建されたと伝えられている。
 伝承によると、「川平湾にマーラン船が順風を待って停泊していた。その船から小僧が順風になるまでと川平村へ上陸した。しばらくして戻ってみるとマーラン船はすでに出帆し、遥か沖を帆走していた。小僧は驚き嘆きながら、船が川平湾へ戻るように神仏に一心に祈った。小僧の熱願は天に通じ、北風が吹き船は戻って来て乗船することができ、無事要件をはたした。数年後、小僧は和尚となって帰島し、自分の祈願した地に観音堂を建て祀った」と伝えられている。
 爾来、この川平観音堂には全国津々浦々から、多くの人々が訪れ安全祈願、大願成就祈願、無病息災や縁結びの祈願のために参拝している。
 なお、風光明媚なこの川平湾は日本百景の一つに選ばれ、石垣市文化財の名勝にも指定されている。
 平成四年十月一日
        川平公民館
 奉納  高嶺英正
川平観音堂遠景

川平観音堂は、川平公園の駐車場東側、川平湾への降り口の横にあります。

22.伊波南哲詩碑

ふるさと 詩碑


(裏面)


ふるさと
 伊波南哲
ふるさとは
わがこころのともしび
のぞみもえ
いのちのいずみわきいで
こころほのぼのと
とめるふるさと

(裏面)
伊波南哲さんは明治35年この島で生れ 昭和のはじめから亡くなられる昭和51年まで 一貫して沖縄をうたい続けた愛郷の詩人でした 代表作の長編叙情詩「オヤケアカハチ」をはじめ「沖縄の民謡」「伊波南哲詩集」など生涯に27冊もの著作を残しました その作品は南国の太陽のように明るくおおらかで台風のような情熱に貫かれた郷土文学です それに沖縄の民族的エネルギーを発揚したものとして 私達沖縄の誇りであります こうした半世紀に及ぶ文学活動を記念するため南哲さん没後の一周忌を機に この詩碑を建立するものであります
昭和52年12月28日
伊波南哲 詩碑建立期成会

数多くの名作を世に送り出した伊波南哲ですが、このほかにも八重農をはじめ郡内各小中学校の校歌を作成したことでもよく知られています。
伊波南哲詩碑

この碑は底地ビーチの駐車場脇にあります。伊波南哲氏は石垣島出身の詩人で童話作家、また多くの民話も残されています。

23.史跡 川平貝塚

川平貝塚の碑文

碑と標柱
【説明板】
史跡 川平貝塚

 昭和47年5月15日 国指定
この貝塚は、比高約30メートルの仲間森と獅子森を含む一帯の原野や畑地に形成されています。1904年(明治37)に考古学者鳥居龍蔵博士によって中央の学会に紹介され、先史時代の南島文化研究の草創の地となったところです。
貝塚から出土する遺物としては、いわゆる外耳土器を含む土器類、中国製品を含む陶磁器類、石器、貝器等があります。先島諸島の遺跡は、大別すると陶磁器類を伴出する遺跡と、それを伴わぬより古い時期のものと考えられる遺跡および石器のみを出土し土器を伴わぬ遺跡に分類できます。陶磁器類を伴出する遺跡の年代は、宋銭の出土をみるものがあることから、ほぼ推定可能です。
川平貝塚は、先島諸島の遺跡の一類型を代表するものであり、学史的にも重要な位置をしめます。
  沖縄県教育委員会
    昭和53年3月31日


【標柱】
史跡 川平貝塚
昭和五十一年三月三十一日建立
昭和四十七年五月十五日指定

川平貝塚は沖縄で初めて考古学調査された遺跡です。遺跡は1904(明治37)年に人類学調査で訪れた東京帝国大学の鳥居龍蔵教授によって、仲間森(盛)と獅子森という2つある丘のうちの、獅子森が調査されました。そして調査結果は「八重山の石器時代の住民に就て」という論文で報告されました。
川平貝塚は15~16世紀の年代のものとされ、川平村の伝承では、村の中心だった仲間村があった場所とのことです。
川平貝塚の碑

貝塚周辺の光景

川平貝塚は川平集落から底地(スクジ)ビーチに行く道の途中、右手の坂道を上がった所にあります。

24.底地海水浴場の説明看板

底地海水浴場の説明看板




西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago, Iriomote-Ishigaki National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands, Sekisei Lagoon (the coral sea between the two main islands), and several smaller islands. Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests, provides ideal habitats for various rare wild animals including the endangered Iriomote wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages can be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and Kuro. Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It features clusters of subtropical forests, which cover its highest peak, Omotodake, at the center of the island. The shores of Ishigaki, including Shiraho Beach, which has one of the largest blue coral colonies in the northern hemisphere, offer breathtaking views to divers. 

底地園地 Sukuji area
底地海水浴場 Sukuji Beach
白いサンゴ砂の美しいビーチが弧状に続き、遠方の岬(川平石崎)と眼前のエメラルドブルーの海のコントラストが優れた自然景観を形成しています。また、ここ底地海水浴場は日本一早い夏を宣言する海水浴場として、観光客はもちろん、住民のレクレーションの場としても利用されています。
A magnificent natural landscape is formed by the striking contrast between the long arc of a beatiful, white coral sand beach with a cape in the distance (Kabira Ishizaki) and the emerald blue of the ocean before you. This bathing beach, Sukuji Beach, is the first in Japan to officially open for the swimming season each year and is a favorite recreational spot for not only tourists, but the locals as well.

屋戸引き屋(ヤドゥピキヤ)
1500年頃に活躍した豪族、仲間満慶山英極がまつられています。

川平貝塚
川平貝塚は底地海岸近くの小高い丘陵にあり、1904年に、鳥居竜蔵博士により調査が行われ、主に15~16世紀と推定される土器や石器、中国の青磁片などが発掘されました。その中から外耳土器と命名された、八重山地方の先史時代を解く鍵となる、学術的にも重要な土器が発見されています。国指定史跡。
底地海水浴場

底地海水浴場は、モクマオウの防風林に沿って白い砂浜が続く、遠浅の波の穏やかな海水浴場です。夕暮れも大変美しい浜です。

 

25.平和の塔

平和之塔

同 裏面

裏面 上部拡大
平和之塔

【裏面 上段】
塔建立の趣意
太平洋戦争の末期
昭和十九年 二十年
海軍第十九震洋特攻隊
大河原部隊は石垣島
防衛の為川平に駐屯した
際当部落より多大の
御援助を頂きまた御迷惑
をおかけしました
若き青春時代に苦労を
共にした思い出深いこの地に
永遠の平和を祈念し茲に
平和の塔を建立する
 昭和六十年五月五日
 聖桜会々長
  
【裏面 下段】
海軍第十九震洋特別攻撃隊 寄付者御芳名
(以下氏名略)

【側面】
昭和六十年五月五日建立


「震洋」は艇首に250kgの爆薬を積み、自動車エンジンを搭載した木造合板製の海軍の高速奇襲特攻艇です。大河原部隊は、米英軍上陸時に体当たり攻撃をするため配備されました。特攻艇の格納壕は川平高屋、吉原仲筋側海岸に掘られましたが、出動することはありませんでした。
平和之塔
斜め側面からの光景


平和之塔は川平集落からClub Med Kabiraに行く途中の道路沿い左手にあります。

26.感謝記念碑

感謝記念碑
感謝記念碑

これは昭和30年(1955年)12月に建てられた「オグデン感謝記念碑」です。
かつて川平と富野間を結ぶ道は山道で、ジャングルの中を人馬がかろうじて通れる程度のものでした。その山道に対し、当時の琉球米国民政府副長官・オグデン少将が資金援助(B円:100万円)を行い、ブルドーザーやグレーダーなどの機械力を導入し、昭和28年(1953年)に車が通れる程度に整備されました。このことから、竣工した川平~富野間(6.7km)の道路は「オグデン道路」とも呼ばれるようになりました。


※設置場所が道路下で、かつ雑草が生い茂っていたため、碑の下段の碑文は記載内容不明です。機を改め確認したいと思っています。


この記念碑は川平集落南方の三叉路付近(旧道との分岐点:道下)に建てられています。

27.開拓之碑(吉原)

開拓之碑 表面
【表面】
開拓之碑

 アララガマ魂

【裏面】
開拓団員名簿
団長 下地豊吉
教師 池間昌二
 他47名(氏名省略
公民館役員
 氏名省略:6名
協力者
 氏名省略:4名
協力会社
 会社名省略:2社
平成二十五年六月吉日建立


記載された名前から分かるように、移民団の出身地は宮古島の方々でした。地区名は、団長の名前から「吉」の字をもらい、当時の地名であった「山原(ヤマバレー)」の「原」の字と合わせ「吉原」と名づけたそうです。
入植当時の周囲は密林で、道路は山道一つしかなく、開拓には大変な苦労を伴ったそうで、作物は土壌の殆どが砂であった為にうまく育たず、台風の被害にも翻弄されたそうです。このため下地団長は「畜産」で村を維持することを決意し、以降、畜産農業を行い村を興してきたとのことです。
同裏面

移民団は当初、228名だったそうです。
この碑は吉原公民館の隣にあります。

28.仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林

【説明板】

【コントリート柱】
【説明板】
県指定天然記念物
仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林
            昭和47年5月12日
 仲筋村ネバル御嶽は、廃村になった仲筋村の拝所です。
 この御嶽林は、海岸の砂丘地に発達した海岸林です。これまで信仰
によって保護されてきたため、うっそうとした森林となっています。
 高木層は、高さ10m前後のクワノハエノキ、クサミズキ、ハスノ
ハギリ、クロヨナ、タブノキ、オオバイヌビワなどからなり、林内に
はアコウネッタイラン、ヤエヤマクマガイソウ、キイレツチトリモチ
などが見られます。この林は樹種も多く、亜熱帯の海岸林の特徴をよ
く示し、各術上貴重な存在てす。
 なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で
禁じられています。
   所在地 石垣市川平ヒゥッタ1195番地
   面積  41184㎡
        平成7年3月
     沖縄県教育委員会
     石垣市教育委員会

【コントリート柱】
県指定天然記念物
仲筋村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林
碑の遠景

亜熱帯海岸林内

亜熱帯海岸林外縁

29.開拓之碑(米原)

開拓之碑

同拡大
【左手石碑】
開拓之碑

【右手石碑】
入植者
1952年8月入植
(以下、入植者名省略)

※この碑は米原公民館横の広場の隅にあります。
入植者名の碑

同上部拡大

30.米原のヤエヤマヤシ群落

「米原のヤエヤマヤシ群落」
説明看板

天然記念物 米原のヤエヤマヤシ群落
  昭和47年5月15日指定
ヤエヤマヤシ Satakentia liukiuensis (Hatusima) H.E.Mooreは世界中で石垣島、西表島だけに自生する1属1種のヤシです。かつては小笠原諸島のノヤシと同属と考えられていましたが、1964年に初島住彦氏によってノヤシ属の新種として記載されました。その後、H.E.Moore氏がヤエヤマヤシ属を新設し、この属に移しました。属名Satakentiaはヤシの研究家であった佐竹利彦氏の名前を記念しています。本種の近縁種は中国や、フィリピンには分布せず、地理的に遠いニューギニア周辺に分布しています。
 本種最大の自生地であるこの群落には多数のヤエヤマヤシが生育しており、中には樹高15~20m、胸高直径30cmに達する見事なものもあります。また、この群落内にはヤエヤマヤシの他に、ハマイイヌビワ、コニシイヌビワ、ホソバムクイヌビワ、ショウベンノキ、リュウキュウガキ、アカテツ、フクギ、ハブカズラ、コミノクロツグ、クワズイモ、ミカワリシダ、オオクサボク、トウツルモドキなどの植物が見られます。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
 文部科学省
  沖縄県


ヤエヤマヤシは、かつては「ビンロー」・「ノヤシ」と呼ばれていました。1959年に琉球政府の天然記念物に指定され、本土復帰後に国指定の天然記念物になりました。ここ米原のヤエヤマヤシは400~500本自生していると言われ、自生地としては国内最大規模です。
天然記念物指定石柱
(右)


説明看板
西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago, Iriomote-Ishigaki National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands, Sekisei Lagoon (the coral sea between the two main islands), and several smaller islands. Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests, provides ideal habitats for various rare wild animals including the endangered Iriomote wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages can be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and Kuro. Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It features clusters of subtropical forests, which cover its highest peak, Omotodake, at the center of the island. The shores of Ishigaki, including Shiraho Beach, which has one of the largest blue coral colonies in the northern hemisphere, offer breathtaking views to divers. 

米原園地 Yonehara area
米原ヤエヤマヤシ群落・イシガキニイニイ生息地保護 Yonehara Yaeyama Palm Tree Green / Platypleura albivannata M. Hayashi Cicada Natural Habitat Conservation Area
沖縄県最高峰の於茂登岳(526m)の麓にあり、発達した亜熱帯極相林が広がります。八重山諸島固有種のヤエヤマヤシ群落が分布し、絶滅危惧種であるイシガキニイニイの生息地でもあり、学術的にも非常に貴重な場所となっています。振り返ると、二重になった珍しいサンゴ礁の眺望が楽しめます。
A lush subtropical climax forest spreads around the foot of Mt. Omotodake, the highest peak in Okinawa Prefecture, rising 526 meters above sea level with groves of Yaeyama palm trees endemic to the Yaeyama islands and also as the habitat of the Platypleura albivannata M. Hayashi cicadas, an endangered species, this area is extremely valuable from a scientific standpoint as well. Look behind you to enjoy the view of a rare double reef,

ヤエヤマヤシ
八重山諸島固有のヤシで、自生地はこの米原と西表島2カ所の計3カ所にしかなく、いずれも国の天然記念物となつています。世界でも珍しい1属1種のヤシで、高くなると根元のまわりに赤みを帯びた不定根とよばれるものをたくさん出して、木を支えるようになります。

米原ダブルリーフ
名前のとおり、リーフが二重で、沖のリーフはとても珍しく丸い形をしています。ダイビングポイントとしても、利用頻度が高く、その海中景観は多種多様な魚類が生息し、枝状ミドリイシやユビエダハマサンゴの群落が観察できるサンゴ礁が素晴らしい海中景観として楽しめます。

崎枝鬼(サキダウン)
正体が鬼である姉を持った弟の話。浦底湾にある岩穴は、弟を追う鬼の姉が引っ掛かって動けなくなった場所で鬼家(ウンヌヤー)と呼ばれています。

禁止事項
絶滅危惧種イシガキニイニイの重要な生息地・生育環境を保全するため、生息地保護区では開発行為や木の伐採等が禁止されています。さらに、立入制限区においては、通年人の立ち入りも禁止されています。
ヤシ林を見上げた光景

31.荒川のカンヒザクラ自生地 天然記念物指定碑

荒川のカンヒザクラ自生地の
説明看板

天然記念物 荒川のカンヒザクラ自生地
     昭和47年5月15日指定
 カンヒザクラは台湾、中国、石垣島に自生する落葉の高木であります。カンヒザクラは荒川の上流地帯、川に沿った所に点々とあって稚樹がほとんどなく老木が多い。
 この地域のカンヒザクラの花は2月頃咲き色は沖縄島のものより幾分淡いようです。
 周辺の植物は、ハマイヌビワ、クズノハガシワ、フクギ、ハクサンボク、エゴノキ、カキバカンコノキ、リュウキュウモクセイ、フカノキ、ヒカゲヘゴ、クロツグ、リュウビンタイ、ツルアダン、などがあります。
 この一帯は、基盤が花崗岩で桜の生育には適地であり、また琉球列島における桜の自生地がほとんど失われた今日、この地域のカンヒザクラの自生地は貴重であります。
 なお、この地域において許可を得ることなく、現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                                             文部省
                                             沖縄県


※カンヒザクラは、日本で最も早く開花する桜のひとつで、沖縄では1~2月に開花します。
沖縄や奄美諸島で桜と言えばこの種ですが、開花は北から始まり南へ進むという特徴があります。
 普通の桜の花に比べて赤色が濃く、釣鐘状の形をしています。
 名前は寒い時期に咲く緋色の桜という意味です。ヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ばれることもありますが、ヒガンザクラ(彼岸桜)と聞き間違いやすいので、カンヒザクラの呼び方が標準になっています。
天然記念物指定碑

この碑は荒川橋の傍(北側)にあります。

32.平和友好の碑

平和友好の碑
平和友好の碑
日本と台湾は現在国交のない不幸な状態に置かれてい
るが 曽ては 明治以降の五十年間同胞としての歴史と
運命を共有していた 緊密な間柄であった。
特に我が八重山と台湾は 最も近い隣人として格別な
親交関係で結ばれていた。
然し 両国間の一衣帯水の海上には 領土の証としての
国境線が厳然と存在することは否定できない歴史的現実
である。 我我にはこの両国間の親近と冷厳の特殊な
歴史的関係を確かめるとともに 相互の立場を尊重する
責務がある。  そこから信頼が生れ友好が実現する。
思えば 八重山青年会議所が台湾 蘇澳港青年商会と
姉妹締結をして六年 その間様様の民間交流を通じて多
くの成果を積み重ねてきた。 また、四十二年前 敗戦の
混沌た激動の中を八重山出身の多くの引揚者がスオウ
港から帰還した際 数数の温かい援助を受け無事帰国し
た 忘れ得ない恩恵である。
この温情に報いるために双方の地を訪れ 両地域の人々
が戦争の無益と恒久の平和を語り、祈願する。 この歴史
的会合を記念して 「平和の木」を植えて末長く伝える。
青年会議所の目的とする 人間の開発と社会の開発の二
つの理念に基づいて 青年会議所の姉妹締結のきずなを
益々堅め新たな未来への指標として この平和友好の
記念碑を建てる。
一九八七年(昭和六二年)八月二日
     蘇澳港 国際青年商会会長 廖 大慶
      国際委員長          簡 弘遠
 (社) 八重山青年会議所理事長  山森 康二
           対外交流委員長  井上信吉
於茂登トンネル


この碑は於茂登トンネルの北側出口の西側の公園内にあります。石板を横に置いた状態で設置されていますので少々分かりづらいです。

33.肥田埜勝美 句碑

肥田埜勝美 句碑
青葉木菟
遠し
二羽とも
谺とも
   勝美
青葉木菟(アオバズク):フクロウ目フクロウ科アオバズク属に分類される鳥です。一般には冬季になると東南アジアへ渡り越冬する夏鳥とされていますが、南西諸島では留鳥です。
谺:こだま

この碑は、於茂登トンネル北側出口すぐの西側(小公園内)にあります。
俳誌主宰・肥田埜(ひだの)勝美氏の句です。全国に会員を有する俳誌「阿吽」の5周年を記念し、文芸文化の啓発と俳句への関心を高めようと1994年に建立されました。
八重山郡内では地元以外の文学碑は珍しく、この句碑建立には同会員の故・具志堅紘氏が尽力されました。
俳人、肥田埜勝美(ヒダノ カツミ)は、大正12年に埼玉県に生まれています。

34.入植之碑(野底・下地)

入植之碑
【上段】
入植之碑


【下段】
先遣隊入植者
一九五四年(昭和二十九年)六月五日
(以下、入植者名省略)


※この碑は野底集落内にあります。
入植者名プレート

35.入植之碑(兼城)

入植之碑

同裏面
[表面]
入植之碑


[裏面]
兼城開拓団入植者名
一九五四年(昭和二九年)六月二十一日 入植
(以下、入植者出身地・氏名省略)
建立 二〇〇四年(平成十六年)六月二〇日
揮壱 志喜屋 清
入植者名プレート

36.開拓の碑(栄)

開拓の碑
【上段】
開拓
【下段】
一九五四年六月二十一日 先遣隊入植者
(以下、入植者名省略)

※この碑は栄公民館前の広場にあります。
入植者名プレート

37.久松五勇士上陸之地

久松五勇士上陸之地の碑


同裏面(東側)より

久松五勇士
 上陸之地

元陸軍大将荒木貞夫書
 五勇士名
 垣花 善
 垣花 清
 與那覇 蒲
 與那覇 松
 與那覇 蒲

(裏面)
明治三十八年五月日露戦争の時ロシヤのバルチック艦隊宮古島沖通過の事を一刻も早く大本営に通報すべく時の宮古島島司橋口軍六の命により久松出身の五人の青年漁師は刳船に乗り九〇浬の荒波を力漕に力漕をつづけ石垣島にたどりつき「敵艦見ゆ」の打電をなし大任を果した この五人の青年の愛国心勇猛心責任感をたたえ永く記念するために此の碑を建てた
 一九六六年九月
 久松五勇士顕彰碑建立期成会
この碑は伊原間の牛そばで有名な「新垣食堂」の北側すぐの交差点を東側こ曲がり海岸方向に行くとあります。

※ 日露戦争時の明治38年5月25日、宮古島東方を北上しているロシアのバルチック艦隊を発見したという情報が宮古島司(地方行政官)に入り、大本営と連合艦隊に報告することとなりました。しかしながら当時、電信局は石垣島にしかなかったため、その報告を届けるよう依頼された宮古島・久松の漁師5人は、石垣島まで約170kmの荒波の中を刳舟(サバニ)で15時間こぎ続け、ここ伊原間の浜に到着しました。その後、陸上を5時間かけて石垣島電信局まで走り電報を発信しました。
しかし、電報が連合艦隊に達したのは、信濃丸の「敵艦見ゆ」の報告よりも1時間遅れとなり、当時はあまり評価されることもありませんでした。
なお、宮古島の久松にもこの五勇士を讃える顕彰碑が建てられています。

碑文は漁師(青年)らの功績を称えていますが、当時市内北部に入植し苦難の日々を送っていた宮古島出身開拓者を勇気づけ、結束を願う意味合いを持つものだそうです。期成会が組織され、建立の資金を調達したそうです。

38.玉取崎園地の説明看板

玉取崎園地の説明看板



西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago, Iriomote-Ishigaki National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands, Sekisei Lagoon (the coral sea between the two main islands), and several smaller islands. Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests, provides ideal habitats for various rare wild animals including the endangered Iriomote wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages can be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and Kuro. Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It features clusters of subtropical forests, which cover its highest peak, Omotodake, at the center of the island. The shores of Ishigaki, including Shiraho Beach, which has one of the largest blue coral colonies in the northern hemisphere, offer breathtaking views to divers. 

玉取崎園地 Tamatorizaki area
平久保半島・野底・玉取崎 Tamatorizaki, Nosoko, hirakubo Peninsula
玉取崎は平久保半島の基部、金武山の東方に位置する岬です。南方には民謡「月夜浜節」に謡われた「岸の浦(キシヌーラ)」または「南の浦(ハイノーラ)」と呼ばれる場所があります。展望台からは、山並みや牧野、自然海岸とエメラルドのリーフの雄大な連なりが一望できます。平久保半島の付け根、約200mのくびれた箇所は「船越(フナクヤー)」と言われ、かつては、海から海へと舟を担いで渡していたと言われています。
Tamatorizaki is a promontory to the east of Kimbudake, a mountain located at the base of the Hirakubo Peninsula. To the south of the promontry is a renowed beach referred to as Kishinura or Hainora in the traditional folksong Tsukiyohamabishi ( song of the moonlit beach ). The Tamatorizaki observation deck commands a panoramic view of mountains, meadows, natural beaches and emerald coral reefs. The peninsula to only about 200 meters across near its base, and the local fishermen used to carry their boats across this narrow strip ( called Funakuya, or boat passage ), rather than row all the way around the peninsula.

野底マーペー
西方に望む、とがった形が特徴の野底岳は、この山にまつわる、悲恋の物語のヒロインの名前をとって「野底マーペー」とも呼ばれます。過去の移住政策によって、恋仲をさかれたマーペーという娘が、黒島の恋人を思って野底岳に登ったが、於茂登岳にさえぎられて島の姿さえ見えず、絶望のあまり石になってしまったと言います。

船越(フナクヤー)
伝統の舟かつぎ船越(フナクヤー)は、旧暦5月4日に航海安全と豊漁を祈願する伝統行事「フナクヤー海神祭(ハーリー)」で再現されます。

月夜浜節
1 月夜濱だぎに
  岸ぬ浦ぬ木綿
  木綿花作てぃ
  木綿かしかきら
2 くりかえし 返えし
  指はぢき 見上ぎりば
  筋むつぃぬ 美らさ
  ゆみ美らさあむぬ
  吹かば飛ぶ手巾
玉取崎園地周辺は昔、綿花の畑が一帯に広がっていました。この歌は、畑に真っ白に咲き誇る木綿の花はまるで月夜の浜辺のようだ。真っ白な綿花を摘み、糸を紡ぎ、愛しいひとのために、極上の手巾を織りさしあげましょう、という内容です。
東屋


玉取崎展望台からの眺望
(北東側光景)

(南東側光景)

玉取崎の名前の由来は、その昔、この岬の沖で海難事故が多く、「魂を取られる」ことが多かったことから、「玉取」の名がついたそうです。

39.明石開拓之碑

開拓之碑


(同裏面)

(開拓之碑裏面)
明石開拓団
昭和30年4月12日入植
入植30周年記念む事業として
昭和60年11月吉日建立

[以下]入植者の記載あり

開拓の詩(うた)
一.みどりの資源 海の幸
  未開の沃土 地下の富
  琉球の宝庫 八重山
二.産声高く 明石に
  集う我等は 開拓移民
  世紀の波に 今乗らん
三.未開の歴史 返り見て
  開ける道を 示さんと
  故郷を離れてはるばると
四.逢えば 一つの水心
  宝庫を開く 無限の力
  欲を忘れて一手一つ
五.若い血潮は みなぎりて
  共にひらかん ねむれる資源
  真実つくす時ぞ 今
六.スクラムくんで 開発に
  地の利を生かす その時に
  永遠の楽土は築かれん

 明石集落は戦後、主に沖縄本島の大宜味村や読谷村などから政府計画移民として入植された方々によって形成された集落です。集落名は入植当時、「赤石」でしたが、入植団によって「赤」を「明」に変え命名されたそうです。
開拓の詩の碑


開拓の像

この像は入植20周年を記念して制作されたものです。
 いずれも公民館脇の庭に設置されています。

40.地の利は人の和に如かず

地の利は人の和に如かず
の碑
地の利は人の和に如かず

 この碑は、明石集落への入口(公民館&共同売店前)にあります。
 言葉は、「孟子・公孫丑下」からのもので、意味は、『いかに土地の形勢が有利であっても、一致団結している人々の力には及ばない。』ということですが、逆説的に「 どのように土地の形勢が不利であっても、堅固な人心の和合団結によって乗り越えられる。」という、開拓の困難に立ち向かう入植者精神を表したものと思われます。
碑の遠景

41.開拓之碑(久宇良)

開拓之碑 表面

同 裏面
【表面】
開拓之碑

【裏面】
久宇良開拓団
入植四十周年記念事業
「昭和三十一年十月二十七日入植」
開拓者氏名
大宜味村
(以下入植者氏名略)
名護市
読谷村
勝連町
那覇市
北谷町
宜野湾市
浦添市
那覇市
大里村
知念村
玉城村
石垣市
平成八年十月吉日建立
碑 遠景

同 裏面より

この碑は久宇良公民館の広場内にあります。

42.入植記念碑(久宇良)

入植記念碑 表面

同 裏面
入植記念碑
【表面】

入植記念碑

【裏面】
十周年記念建立
一九五六年三月廿七日

寄附者名碑板
【表面】
入植十周年記念事業於
寄附者氏名
(寄附金額 略)
大宜味村字塩屋部落会
大宜味村有志一同
大宜味村議会議員一同
北谷村役所
玉城村役所
宮原食品株式会社
八重山食品株式会社
沖縄缶詰株式會社

【裏面】
石垣島製糖株式會社
八重山製糖株式会社
山城興常
沖縄食糧商事株式会社
第一化学工業株式会社
漢那酒造所
徳村商店
具志堅商会
寄附者名碑板 表面
同 裏面

この碑は久宇良公民館の広場内にあります。

43.アイナマ石

アイナマ石の説明看板


アイナマ石

アイナマ石
アイナマとは可愛い花嫁のことです。
昔、川平村の美しい娘が平久保村に嫁に行くことになりました。
平久保村と川平村は遠く離れており、行き来するにはジャングルのけもの道や干潮時に海浜沿いに歩かねばならず、二日がかりでした。
親の勤めで、仕方なく承諾したものの、娘にとっては気の進まぬ結婚でした。
嫁入りのため平久保村に向かう途中、花嫁は用足しにといって茂みのなかへ姿をかくしました。
なかなか戻らないので、お供の者があたりを探しましたが、花嫁の姿はなく、昼なお暗い山奥には花嫁に似た冷たい石がひっそりと立っているばかりでした。
いつしか人びとは、この石のことをアイナマ石と呼ぶようになりました。
娘が悲嘆のあまり石化した伝説は他にもあり、石になった花嫁と呼ばれるアイナマ石の伝説も人頭税制度下で苦しんだ農民や女性たちのやりばのない悲しみと怒りが石を通して伝わってきます。


※ アイナマ石は久宇良・新垣牧場東側の県道沿い(北上する時は右手側)に入り口があります。道路が上り坂になる辺りに小さな案内板がありますので、ここを右折して山道を少し上ります。すると右上の写真の道標がありますので、ここに車を止め少し(150m程度)山道を歩くと辿り着きます。
アイナマ石への道標


アイナマ石の遠景

44.平久保地区農地開発事業完了之碑

平久保地区
農地開発事業完了之碑


同裏面
[表面]
平久保地区
農地開発事業完了之碑


[裏面]
平久保土地改良区
理事長 大松 久吉  東風平正金
 副   川田 文夫  平良 玄栄
     平良 辰男   島尻 昇  
監事  大松 正昭   伊波 清孝
事業期間 昭和62年3月 ~
            平成10年3月
施工者   西里建設株式会社
碑の遠景

この碑は平久保集落を北方向に過ぎた右手側にあります。

45.平久保のヤエヤマシタンの碑

平久保のヤエヤマシタンの碑
[表面]
天然記念物 平久保のヤエヤマシタン

[表面]
昭和四十七年五月十五日 国指定

平久保集落東北方の山裾に、幹周2.3mと1.9m、推定樹齢が170年~200年とみられている2本のヤエヤマシタン(八重山紫檀)が生えています。ヤエヤマシタンは、マメ科の植物で、中国南部、インドから東南アジアまで広く分布していますが、国内では石垣島のみに自生しててい、1972(昭和47)年5月15日の本土復帰と同時に国の天然記念物に指定されました。かつて、ヤエヤマシタンは、島の各地に多く生育していましたが、木肌が美しく、光沢があることなどから家具材として、また建築用材として使われていました。そのため乱伐されて、その数が急激に少なくなり、絶滅が心配されています。

※ 今回は指定を受けた実際の樹木までは辿りつけませんでした。
  いずれ機会をみて訪れてみたいと思っています。
碑の遠景

この碑は、平久保集落の東北側、山間部への入口にあります。

46.開拓之碑(平野)



[表面]
開拓之碑

[裏面 上段]

平野開拓団
昭和三十二年七月一日入植
入植三十周年記念事業
昭和六十二年八月吉日建立
先遣隊団長 大嶺徳太郎
先遣隊氏名
(以下入植者氏名略)
多良間村
上野村
下地町
平良市
伊江村
石川市
勝連村
北谷村
北中城村
具志川村
胡差市
玉城村
知念村
豊見城村
那覇市


[裏面 下段]
碑   書 天久朝源
碑石寄贈 根間重機リース
制作刻字 石垣島石材
碑 遠景

この碑は平野公民館の広場にあります。
 

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